右目の暗闇に浮かぶ海

左内

右目の暗闇に浮かぶ海

 巨大な炉の外壁に沿って伸びる通路を歩いていた時のことだった。

 ムロイは思わぬところに転がっていた資材につまづきかけて足を止めた。


「ううむ……」


 資材をまたいでまた歩き出すが、胸に生じたいらだちは正直否定できない。


(やはり不便だな)


 右目の眼帯を撫でながらそっとつぶやく。その指の触れる先には何もない。彼の右の眼窩はからっぽだった。そのため右側が死角なのだ。


 魔力炉の防衛に携わるこの仕事は確かにいつ大怪我を負ってもおかしくはない危険と隣り合わせの職業ではある。事情を知らない部下の中にはなにかしらの事件があったと勝手に思っている者もいる。だが、彼はその右目を職務の危険とは別のところで自分から手放した。


(まあ、だから仕方ないことではあるか)


 かつて右目にあったところには光はない。それはある少女が海行きのお供に持って行った。

 先ほどのように不便を感じたり、その見た目に意味もなく恐れることは事実わずらわしい。それでも後悔はしていない。それはきっと、かつての右目の暗闇に見えるもののおかげだろう。


 半年ほど前のことだ。魔力炉衛視隊隊長ムロイは、いつも通りその日の最終報告を受けていた。


 それが最後までいつも通りだったなら長くはかからず終わったはずだった。そうならなかったのは第三エリアの中隊長の一言のせいだった。


「ええと、その、なんといいますか、子供がですね……」

「子供?」


 口の重い彼の言葉をまとめるとこういうことらしい。

 施設の一角に子供が忍び込んでいた。格好からするとストリートチルドレンの類。大した抵抗もなく捕縛できたが、どこから忍び込んだかは不明。事情を聞こうにも言っていることが要領を得ない。


「言うまでもなくこの施設の重要度は高く厳重に守られています。なのでこういったことは通常考えられません……」

「だが実際起きたわけだ」

「そ、それは……! ですがだから妙なことだと私は言っているわけで……」


 途端にうろたえだす蒼白の顔を冷淡に見返して問う。


「で、その子供は留置房だな?」

「ええ、そうですが……」


 ならばもう必要な会話は済んだ、とムロイは踵を返して歩き出した。

 後ろから中隊長の声が追いかけてきた。


「待ってください! あの子供、術者の可能性も――」


 自らの管轄エリアに唐突に表れた子供のせいで責任を問われるであろう彼のことは、一応不憫には思った。

 それでも、だ。あの中隊長は無駄に話が長い。いちいち弁解に耳を貸していたら日が暮れる。






 その少女は狭い牢の中に膝を抱えて座り込み、ぼんやりと虚空を見上げていた。


 歳の頃は十三、四だろうか。汚れたシャツと作業用とおぼしき厚手のズボンを身につけている。格子窓からの月明かりがちょうどその顔を照らしているが、彼女はおそらく気づいていない。もしかしたら眠っているのかもしれない。目を閉じていたのでそう思ったのだが、ムロイが監房の前に立つと少女はこちらへと顔を向けた。


「誰?」


(……?)


 奇妙に思った。

 というのも少女は目を閉じたままだったからだ。


「見えるのか?」

「見えないよ」

「では足音でも聞こえたか」

「おじさんの足音、ない」

「それでもおじさんということは分かるんだな」

「分かる」


 迷いもなくうなずく少女を見ながらムロイはあごに手を当てた。


「ということは術者か」


 それは原理の解明されていない不思議な力を使う者の総称だ。正式な名称は別にあるが長いため単に術者と呼ぶ者は多い。


 都市に術者の居場所はない。見つかれば保護の名目で取り押さえられ、最悪の場合治安維持の名目で殺害されてきた。そういった管理をしなければ都市の安全を確保できなかったのだ。ただもちろん上手く隠れているはぐれ術者もそれなりにはいる。

 この少女もそういった者たちのうちの一人だろう。


「どういった力なんだ? お前が持っているのは」


 もっと詳しく厳密な取り調べはこれから引き渡す先の機関が行うだろうが、興味があったので聞いてみた。


「ムロ、イ……?」

「うん?」

「ムロイっていうの?」


 少なからず驚いた。名前を言い当てるような術者の話は聞いたことがなかった。


「それもお前の力か?」

「さあ。よくわかんない」


 少女は小首を傾げた。


「そういうのよく聞かれるんだけどさ、自分にできて他人にできないことなんて、いちいち考えたりしないよ」

「そういうものか」


 少女は座ったままこちらが正面に来るように体の向きを変えた。


「わたしはハル。よろしくね、ムロイ」

「……」


 ムロイは答えないまま部屋の隅にあった椅子を引き寄せて座った。少女の白い顔を眺めながら訊ねる。


「もう少し訊きたいんだが、お前はここにどうやって忍び込んだ? 目的はなんだ?」

「お前じゃないよ、ハルだってば」

「いいから答えろ」


 ハルはむっと口を尖らせながらも問いに答えた。


「海に行くんだよ」

「?」


 虚をつかれた。何のことやらさっぱりだった。


「……ここは海じゃないの?」


 ここはエネルギー施設であって海ではない。当たり前だが。

 どことなく不安げな表情のハルにそう告げると、彼女は大きくため息をついて顔を膝にうずめた。


「なんだーまだまだ全然遠いじゃん……」

「なんで海に行こうと思ってここに着くんだ。そもそもなんで海に行くんだ」

「ここについたのがなんでかは分かんないよ。行こうと思って歩けば大抵どこへでも行けるんだけど」

「どこへでも行ける力を使って意味もなく海へ行くのか」

「意味はあるよ! だって海だよ!?」


 彼女は顔を上げて腕を広げた。


「こーんな広い海と空があるのに行かないなんて変だよ」

「ただ広いだけで見に行こうと思う方が変だと思うが」

「変じゃない!」

「都市の外の荒野じゃ駄目なのか?」

「風も吹いてるんだよ!?」

「荒野にも風は吹く。あれ以上の強風を望むなら……やはり変人だ」

「だーかーらー」


 ハル曰く、海には遠く広がる海原と底抜けに青い空があるらしい。強烈で陽気な日差しが降り注ぎカラッとした風が汗ばんだ肌を撫でる。波打ち際には打ち寄せる白い波と流れ着いたヤシの実。夕方になればハンモックに寝そべりながら見る夕日がきれいなのだという。


「っていう感じの予定! わかった!?」

「あまり」

「分からず屋!」


 ハルはぷいとこちらに背を向けた。


 自分は何かおかしいことを言っただろうか、とムロイは首を傾げた。思い返すが心あたりは全くない。ただ、気づいたことがあって口を開いた。


「見えるのか?」


 ハルが肩越しに振り返る。


「海にたどり着けたとして、そのきれいな光景とやらはお前の目で見ることができるのか?」

「……できない。目、見えないもん」


 ハルの身体が一回り小さくなった。そんな気がした。心の力を失うと人は縮む。


「なんでそんな酷いこと訊くのさ」

「酷いか?」

「酷いよ。気づかなければ行く前からがっかりしないで済んだのに」

「それは悪かった」

「今さら遅いよ」

「詫びでもいるか?」

「ふんだ」

「俺の目をやるよ」


 ハルはいらない、の「いらな」までは口に出した。

 それから驚いた顔でくるりとこちらを向いた。


「え?」


 よくわかんない、どういうこと? とその表情が語っていた。


「先ほどから聞いていた海の良さ、俺には全くわからない。だが、見てもいないのにそれを否定するのはフェアではないとも思う。だから俺も海を見る」

「つ、つまり?」

「お前に俺の目をやれば俺もお前も海を見ることができる」


 しばらく少女は呆然としていた。だがそれからふふっと吹き出し、くすくすと笑いだした。


「何それ。変なの」


 彼女は笑い終わって目元をぬぐった。月の光にそれは小さく光った。


「本当にいいの?」

「それほど見たがる海だろう。俺も見る価値があると思った」

「本当、変なの」

「片目だけだぞ」

「十分だよ」


 彼女はもう一度笑って立ち上がり、鉄格子の前にやってきた。

 ムロイも椅子から立ち上がって彼女の前に立った。


「じゃあ、もらっていくよ? 今さらやめたとか、お試しだから取り消してとかできないからね?」

「早くもってけ」


 ハルはムロイの顔に手を伸ばした。

 ムロイは彼女の背でも届くようにかがんで高さを合わせてやった。

 手のひらがそっと顔に触れる。


「任せたぞ」

「うん、ありがとね」


 こうしてムロイは右目を失った。


 もちろん不便は尽きない。死角にあったバケツに足を取られて完全にぶっ倒れながらそれを思う。捕虜を取り逃がしたということでその後処分も下った。減俸で済んで何よりだったのは間違いないが、あまり関心はなかった。


 後悔はないのだ。別れた妻が連れて行った娘が、ちょうどあのぐらいの歳になっているだろうことも無関係ではないだろう。


 だがそれよりも、かつて右目があった暗闇に浮かぶ月夜の海の光景が、彼の心を穏やかにする――それがすべてなのかもしれない。


 床から起き上がった彼は問う。


「こちらムロイ、海はどうだ。楽しいか」


 それからじっと返事を待つ。だが答えが返ってくるのはずっと遅くなるに違いない。彼女はきっと、海を堪能するのに忙しいだろうからだ。


 それでいい。彼は笑って、歩き出した。

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