第35話

 キルクトーヤが手紙を出すと、その日のうちにジークは病院に駆け付けた。


「キルクトーヤ、無事か⁉」

 病室に飛び込んで来た彼は血相を変えていた。その慌てように、思わずキルクトーヤも目を丸くした。

「て、手紙にも書きましたけど、平気なんですよ。ただ、血が足りなくて頭が痛くて、寮では生活が大変だろうってことで入院になっただけで……」


 キルクトーヤが説明するが、その言葉はジークの耳には届かなかった。彼はじっとキルクトーヤを見ていた。


 彼がつぶやく。

「……試練で、怪我をしたのか?」

 キルクトーヤは唾を飲み込んだ。そして意を決し言った。

「試練で、また過去に行きました。……そこで六か月前のあなたに会いました」

 それを聞いて、ジークは泣き出しそうな顔になる。

「……守ってやれなくて、すまなかった。それどころか囮に使って……」

「いいんですよ。最善の方法です」


 沈黙が落ちる。二人の間に起こった不思議なできごと。それを二人はそれぞれ頭のなかで反芻している。


 ジークからすれば、六月に会った魔術師見習いに九月に会いに行ったら、記憶にないと拒絶されたことになる。

 知らなかったこととはいえ、申し訳ない気持ちだった。


 ふと、ジークが持っている箱が目に入った。その箱に見覚えがあった。

「それ……」

 「ああ」とジークは言う。彼は箱を差し出す。

「もしかしたらと思って、持ってきたんだ」


 箱の中には杖が入っている。その杖にはキルクトーヤの名が刻まれている。


 キルクトーヤはその杖を手に取った。杖はよく手に馴染んだ。

「杖、僕のだったんですね……あのとき落として、そのまま……」


 グランドルの牢獄の中で落とした杖。それをジークは拾って持っていてくれたのだ。キルクトーヤはその杖を撫でた。国境の赤褐色の大地と満天の星空が瞼の裏に浮かび上がる。


「あれから、どうなったんですか?」

「……君が忽然と消えて、驚いた。そのあとは君も知っている通りさ。私は君の杖を拾って、凱旋して、君に会いに来た」


 ジークは言葉を選びながら慎重に答えた。キルクトーヤは鼻の頭を掻いた。


「すみません。会いに来てくれたのに、その、僕そのときは……」

「構わないよ。何かあるんだろうと思っていたからね」

 ジークの言葉に揺らぎはない。彼のまっすぐな信頼がくすぐったい。

「僕、その、役に立てましたか……?」

「もちろんだよ。グランドルを倒せたのは君のおかげだ」


 彼はそう言ってくれるが、キルクトーヤはそうは思えなかった。

 ジークは罠をはっていた。ちりばめられた罠に、グランドルがひっかかるのは時間の問題であったように思える。キルクトーヤはただ簡単に殺せる獲物としてグランドルに選ばれただけだ。


 ジークは言う。

「何かほしいものはないか? 私のせいで怪我をさせてしまったから、償いたい。なにかさせてくれ」

 キルクトーヤはぎゅっと唇を噛んだ。

「この怪我は、僕が牢獄の中で、我を失ってしまって……魔術が暴走したんです。僕が自分で勝手に怪我をしたんですよ」


 暗闇を思い出す。大きく息を吐く。そして打ち明ける。それはずっと向き合うのが怖かった自分の心の中の傷。


「暗くて狭いところが怖いんですよ」

 一回目の試練のときもそうだった。洞窟で我を失い泣きじゃくった。試練が終わってからも、そのことにキルクトーヤは触れられなかった。しかし今なら言えそうだった。


 キルクトーヤはゆっくりと続ける。

「あの男……ナハトはよく僕を地下室に閉じ込めていました。それで……」

 手が無意識に震えだす。奥歯がかちかちと音を鳴らす。目をぎゅっと閉じる。


 ジークが震えるキルクトーヤの背に手を伸ばす。

「キルクトーヤ……。無理に話さなくていい」

 首を振る。自分が情けなかった。

「ごめんなさい。あなたに助けてもらったのに、僕はまだナハトに捕らわれているんです」

「……キルクトーヤ。君はもう自由だ。時間はたっぷりある。ゆっくりと楽しいことで君の心をいっぱいにしていけばいい」

「僕、僕は……」

「君のためなら、私はなんでもできる。……頼ってくれ、私を」

 ジークの声は慈愛に満ちている。

 キルクトーヤはジークを見る。いつでもキルクトーヤを闇から救ってくれた黄金の英雄。


「ありがとう」

 キルクトーヤの頬を涙が一筋流れた。ジークは包み込むようにキルクトーヤを抱きしめた。



    *



 ジークの胸で泣いたあと、キルクトーヤは不思議とすっきりした気持ちになった。そうして冷静になったキルクトーヤの胸に去来したのは羞恥心だった。


 キルクトーヤはおずおずとジークの胸を腕で押した。あたたかいジークの体がゆっくりと離れていく。

 気恥ずかしさで、顔があげられなかった。ジークは何度かキルクトーヤの頭を撫でていた。


 沈黙を破ったのはジークだった。

「それで、試練の結果はどうだったんだい?」

「……駄目でした」

 ため息交じりに答えたあと「僕、悲鳴を上げていただけなので、当たり前ですけど」と付け加える。


 ジークは明るく励ます。

「そう、じゃあ……もう一度試練を受けるんだね」


 ――もう一度。


 キルクトーヤは顔をあげた。

「今までの流れからいって、たぶん次の試練では十年前に連れていかれると思うんですよね」

「……そうかもしれないな」

「十年前のこと、もう一回ちゃんと教えてくれませんか?」

 ジークは首を横に振った。

「すまないが。それはできないよ」


 キルクトーヤは「えっ」と驚く。

「どうしてですか?」

 ジークは視線を泳がせる。その視線に応えるように、カーテンの向こうから白猫が入ってきた。ジークは白猫を見る。白猫は頷いて彼に合図を送る。それで、ジークがおずおずと説明した。


「君が一度目の試練を受けたあと、シュネーが私のところに来たんだ」

「シュネーが?」

 そういえば、そのときしばらく白猫は姿を消していた。

 ジークは言う。

「彼に口止めをされたよ。試練として君を過去に戻すから、決して過去に起きたことを君に伝えるな、と」

「……なるほど」

 キルクトーヤは合点がいった。つまりジークは知っていたのだ。


 キルクトーヤは確認する。

「僕のこと、十年前に知っていたんですね」

「ああ……だが、六カ月前に会ったときに君が十年前の魔術師だとは思わなかった。君が星の話をしてくれたから、気が付けたんだ」

「十年前、僕はちゃんとあなたの命を救えましたか」


 ジークは目を伏せた。

「……ああ。命だけじゃない」

 彼は手を伸ばしキルクトーヤの頬に触れる。

「私の心も救ってくれたよ」

 美しい彼の目がキルクトーヤを見つめる。ジークは笑った。

「いまでも君は私の光だ」

 彼の目を、キルクトーヤは正面から受け止めた。彼の手のぬくもりがじんわりと伝わる。その手を握りたかった。しかし、それはまだ早い。

 キルクトーヤは顔をあげた。精霊シュネーが魔術師見習いキルクトーヤに課した試練。その本質が、わかった気がした。

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