第26話
試練の翌朝、いつもベッドの真ん中を占領している白猫はどこかに姿を消していた。
キルクトーヤはそれを不思議に思いながらも、厨での仕事を終えると走って修練場へ向かった。今日は修行日である。老師から魔術を直接指導してもらえる日だ。キルクトーヤが修練場に足を踏み入れると、もうそこにはレーアムト老師が来ていた。キルクトーヤは彼に走り寄った。
「レーアムト先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
学校の敷地の南に位置するこの広大な修練場は山と川と湖を有している。見習いたちは老師の監督のもと、ここで存分に魔術の腕を磨く。ここでなら火も水も風も出し放題である。
しかし、キルクトーヤの頭はいま修練どころではない。彼は昨夜自分に降りかかった出来事を話した。
「昨日、精霊の試練を受けました」
老師は動じなかった。師はたっぷりと蓄えた髭を撫でた。
「ほう。それで?」
「……駄目でした」
「どんな試練の内容だった」
キルクトーヤは見たままを説明した。夕刻に精霊が試練を開始すると言ったこと、気が付くと昼の森だったこと、そこでジークに会ったこと……。
「でも、ジークと少し話がかみ合わないところもあって、たぶん幻なんだと思うんですよね」
「むふ。それで? 試練はそれだけか?」
「いえ、そこから二人が乗った馬車が崖から落ちて、洞窟に入って……魔物に襲われました。魔物に殺されると思った瞬間、試練が終わったんです」
キルクトーヤは魔物に襲われたときの詳細は言わなかかった。暗くて狭い場所に怯えて泣き叫んだことはまだ自分でも受け止めきれていないのだ。
老師は老獪にうなずいた。
「そうか……」
二人とも黙った。
キルクトーヤは誰かに励ましてほしい気分だった。
しかし、老師はそんな若い感傷には我関しない。
老師は手を打った。
「さて、試練の意図を読み解かねばならぬな。試練中に魔術は使ったか?」
キルクトーヤは記憶をたどる。
「はい。一度だけ。飛行魔術を……失敗しましたけど」
老師は手を打った。
「飛行魔術はお主が苦手とするところだ。精霊がそれを試したのやもしれぬ」
「飛行魔術……」
「今日から猛特訓だの」
老師は明るくそう言ったが、キルクトーヤの表情はさえない。
老師は苦笑した。
「一度目で合格する見習いはそうそうおらぬ」
「そうかもしれないですけど……悔しくて」
夢を見たのだ。自分は人より優秀かもしれないという夢だ。それはキルクトーヤくらいの年齢の少年ならば誰しも一度は見る夢だ。
それを打ち砕かれて、キルクトーヤは落胆していた。他の誰でもない、自分自身に。
「これ!」
「痛い!」
唐突に老師がキルクトーヤの頭を杖で叩いた。キルクトーヤがきっ、と顔を上げると、老師は老獪な笑みを浮かべていた。
「な、なにを……」
「何を深刻な顔をしているのだ」
「だって……」
「落ち込んでいる暇などないぞ。次に試練がいつ始まるかわからないのだからな」
「……はい」
「試練合格の条件は何度受けても変わらない。繰り返し頭の中でどうすればよかったのか考えなさい」
老師はキルクトーヤの肩を叩いた。
「そして、合格すれば一人前の魔術師だ。初任給が出たら儂に酒を買うのだぞ。いまからいい酒を調べておくことをすすめる」
キルクトーヤは噴き出した。
*
午前中にみっちり飛行魔術の修練をしたあと、キルクトーヤは汗を拭いながら食堂に向かっていた。
「ふ~……」
秋の風が汗をかいた体をあっという間に冷やしていく。キルクトーヤは身震いをひとつした。
そのとき、元気な声で名前を呼ばれた。
「キルクトーヤ!」
声がした方を向くと、ネルケが両手を振りながら走り寄ってきていた。
「ネルケ」
彼はキルクトーヤに追いつくと、息を弾ませながら言った。
「今からお昼? いっしょに行こうよ」
「うん」
食堂に続く道には、同じように午前中の修練を終えた見習いたちが列をなしはじめていた。疲労した顔、満足げな顔、陰鬱な顔。見習いたちの足取りもそれぞれだ。
ネルケは頭一つ分高いところにあるキルクトーヤの顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 元気ないね」
少しためらったあと、キルクトーヤは口を開いた。
「実は昨日精霊の試練を受けたんだ」
ネルケは片眉を跳ね上げた。
「ええ⁉ そ、それでどうだったの?」
「駄目だったよ」
「そっかぁ~……残念だったね」
ネルケは励ましの言葉もそこそこに質問をはじめた。彼のもとにはまだ精霊が来ていない。聞きたいことが山ほどあった。
「精霊の試練ってどんなのだった? やっぱり難しい?」
「レーアムト老師が言うには……飛行魔術を試されたんじゃないかって」
ネルケは顎に手を置いた。
「飛行魔術? ……そんなに苦手なの?」
「苦手、かなぁ……」
キルクトーヤの顔は暗い。しかし、ネルケは明るくキルクトーヤの肩を叩いた。
「でも、わかってよかったじゃない。あとは修行あるのみだよ」
キルクトーヤはネルケがもう飛行魔術を自在に操っていたことを思い出した。それで「コツを教えて」と頼んだ。
ネルケは首を捻った。
「コツ……うーん……操作魔術、他のは使えたよね?」
「まあまあかな」
「それと同じだよ。自分の体だと思わず、物を動かしているのと同じ。体を動かす頭と、魔術を使う頭が別にある感覚」
「……僕、不器用だから」
キルクトーヤはため息をついた。まだまだ飛行魔術の習得には時間がかかりそうだ。
ネルケは頷きながら言った。
「やっぱり、精霊の試練って本当に苦手なものを試してくるんだね」
「そうみたい」
「じゃあ僕はきっと治癒魔術だ。嫌だなあ」
ネルケは苦虫をかみつぶしたような顔をする。彼は操作魔術を得意としていたが、反対に治癒魔術は苦手だった。
今度はキルクトーヤがネルケの肩を叩く番だった。
「治癒魔術だったら、僕が教えてあげるよ」
「頼りにしてるよ~!」
二人で励まし合いながら歩いた。そして食堂の前まで来たとき、ふとネルケが尋ねた。
「そういえば白猫の精霊はどこにいるの? ふつう、見習いの傍にいるものじゃないの?」
キルクトーヤは首を傾げた。
「朝から姿が見えないんだよなぁ……まあ、精霊は気まぐれらしいから、そういう日もあるのかも?」
そう言いつつ、キルクトーヤの目は白い毛玉を探した。校舎の屋根、ベンチの下、木陰……。
キルクトーヤのもとに現れてからというもの、白猫はなんだかんだキルクトーヤの傍にいた。それが、いまはまったく姿が見えない。
いったい白猫はどこに行ってしまったのか。キルクトーヤはまた首を傾げた。
*
その夜、白猫は部屋に戻って来なかった。キルクトーヤは白猫のことが心配で寝付けなかった。翌朝になっても、白猫は行方をくらませたままだった。白猫は精霊である。探そうにもどこを探せばいいのか見当もつかない。
精霊は見習い魔術師のもとに現れると平均して三年ほどは試練を与え続けると言われている。その間に見習いが試練に合格すれば正式に契約を交わし、時間が経っても合格しない場合は見限って姿を消す。
白猫がキルクトーヤのもとに現れてからはまだひと月しか経っていない。見限るには早すぎる。
しかし、それから数日経っても白猫は戻らず、キルクトーヤの脳裏によもや、という不安がよぎった。
そんなキルクトーヤの心中を知ってか知らずか、白猫は何事もなかったかのようにひょっこりと戻って来た。――意外な人物とともに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます