第17話

 目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。地下室は暗く、伸ばした手さえ見えない。いまが朝なのかどうかさえ判然としない。ろうそくは燃え尽きていた。この地下室に入れられてから、長い時間が経ったようだった。


 キルクトーヤは膝を抱えた。喉は枯れ、目も腫れている。彼は疲れ切っていた。

 昨夜は悪夢を見なかった。むしろ、両親といっしょに暮していた子ども時代の夢を見ることができた。もう覚めたくないと願うほどに幸せな夢だった。人間、絶望的な状況では現実から目を背けるほかにないらしい。キルクトーヤは自らを嘲るように笑った。この三年、どんなに願っても両親は夢に出てくることはなかったというのに――。

 キルクトーヤはまた目をつむった。幸せな夢にまだ浸かっていたかった。目を閉じると、瞼の裏にあたたかな食卓と、それを囲む三人の幸せな家族が浮かび上がった。



 夢と現実のはざまでうつらうつらとしていると、遠くで喧噪が聞こえた。キルクトーヤは努めて夢の世界に行こうとするのだが、どうしても騒ぎが耳に入ってきて現実に引き戻されてしまう。観念してキルクトーヤが目を開けたとき、突如として地下室のドアが開かれた。

 差し込んで来たまぶしい光にキルクトーヤは目を細める。


「キルクトーヤ……!」


 名を呼ばれる。光を背にその人物は立っていた。巨大な体の男。ナハトだ。いま彼は杖をついておらず、肩で息をしていた。黒い髪が肩に落ちている。

 キルクトーヤは身をすくませ、壁にへばりついてナハトとの距離を取る。


「なぜ、なぜこの世はままならないことばかりなのだ……」

 ナハトは嘆く。

「お前は私の天使だ。そうだろう? 私だ。お前を呼び出す儀式を行ったのは、私だ。誰にも渡さない」


 ナハトは一歩、一歩と近づいてくる。光から離れ、闇に浮かび上がった彼の顔色は蒼白であった。彼はキルクトーヤに手を伸ばす。


「何を……」

「私と、いっしょにこのくだらない世界から旅立とう、キルクトーヤ」

 ナハトの右手にはナイフが握られていた。

 キルクトーヤは悲鳴をあげて叫んだ。

「来るな!」


 足に力を入れようとするが、やはりどうしても動かない。そうしている間もナハトはどんどん近づいてくる。ナイフが妖しく光を反射する。その光が、キルクトーヤの目に焼き付く。キルクトーヤの背筋に冷たいものが流れた。

 ナハトは正気ではない。ナイフはキルクトーヤの喉元に向けられ、目は爛々としてキルクトーヤを捉えて逃がさない。


 彼はうわごとのように繰り返す。

「お前は私の天使だ」

「いやだ……」


 キルクトーヤはつぶやいた。しかし、彼の体は彼の意思とは関係なく、人形のようにその場に立ち尽くす。ナハトに支配されることに慣れた体は、もうナハトに抵抗する力が残っていなかった。

 キルクトーヤは目をつむった。涙がこぼれた。無力な自分が悔しかった。


 その瞬間、階段を駆け下りて来る音が響いた。

「動くな‼」

 キルクトーヤは目を開けた。光を背にして立つその男が目に映る。

「あ……」


 そこにいたのは、すらりとした長身の男だ。はちみつを溶かしたような黄金の髪を三つ編にしている。この色の髪の持ち主をキルクトーヤは知っている。


「……ジーク」


 かすれる声でキルクトーヤはその人物の名を呼んだ。自分は夢を見ているのではないか。助けを求めるあまり、自分の都合のいい幻をつくりだしてしまったのではないだろうか。


 キルクトーヤはうわごとのように言った。

「どうして、ここに」

 ジークは力強く言った。

「君が教えてくれたんだよ」

「え……」

「君に助けてくれと頼まれたんだ」


 ジークはそう言って、腰に佩いた剣を抜いた。切っ先は、もちろんナハトに向けられている。

 彼の肩の向こうに、青灰色の鎧を着た男たちの姿が見えた。憲兵隊である。憲兵隊がジークの屋敷に踏み込んでいた。

 キルクトーヤは彼らの足音を夢の中の出来事ように聞いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る