第14話


 ナハトが豹変したきっかけは、ほんのささいな出来事だった。


 キルクトーヤがナハトの屋敷に引き取られてから二か月が過ぎた頃、キルクトーヤは郷里の友人たちから手紙が届かないことを不審に思いはじめていた。キルクトーヤは何度も手紙を書いたが、誰に書いても、何を書いても返事がない。

 キルクトーヤは使用人をつかまえて尋ねた。


「あの……僕に手紙は来ていませんか」

 使用人は答える。

「さあ。見ていませんね」

「……僕の手紙、出しておいてくれましたか」

 使用人は大袈裟に仰け反る。疑われることは心外だ、とでもいいたげに。

「ええ。出しましたよ、ちゃんと。ご友人たちは忙しいのかもしれませんね」

 使用人は神経質そうにずれた眼鏡をなおした。彼は黒髪黒目で細身であった。彼はその顔に似合わない大きな眼鏡をかけていた。


 ナハトの屋敷には年老いた執事と料理人、そして目の前の使用人しかいない。ナハトは大商人であったが、人を傍におきたがらなかった。それで仕方なく、キルクトーヤはまたその使用人に手紙を託した。

「はいはい。ちゃんと出しておきますからね」

 そう言って使用人は手紙を受け取った。


 しかし、キルクトーヤは見てしまった。

 その日、キルクトーヤは使用人の後ろをつけた。使用人はキルクトーヤから手紙を受け取ったその足で厨に入っていった。彼が去ったあと、厨のごみ箱を見ると、キルクトーヤの手紙が入っていた。


 キルクトーヤは手紙を見つけるとすぐにそのことをナハトに訴えたが、ナハトは「見間違いだろう」と言ってとりあわなかった。

 このとき、はじめてキルクトーヤはナハトに不審感を持った。


 翌日、キルクトーヤは自分で手紙を出しに行くことにした。朝食の席でそうナハトに頼んだが、ナハトは首を横に振った。

「手紙は必ず使用人に渡しなさい」

「なぜですか?」

 キルクトーヤは尋ねたが、ナハトはそれには答えない。彼は話題を変える。

「お肉、おいしいかい?」

「え? あ、はい」

 キルクトーヤはちょうど肉を切り分けたところだった。そのまま口の中に肉を運ぶ。

 その瞬間、ナハトが食卓を叩いた。

「だめだ‼ だめだ‼ だめだ‼」

 叫びながら、彼は何度も拳を叩きつける。陶器がぶつかる鈍い音が響く。

「いいか⁉ 私の天使はね‼ 肉は食べないんだよ‼」

 キルクトーヤはあっけにとられながらも頷く。

「……はい……」


 キルクトーヤはフォークを置く。ナハトは爛々とした目でキルクトーヤを睨みつけ続ける。

 ――肉も駄目なのか……。

 キルクトーヤは小さく息を吐いた。

 ――昨日まではよかったのに。


 ナハトの屋敷の中で、キルクトーヤにはさまざまな決まりごとを課せられた。着る服も食べるものもすべてナハトが決めた。彼の中の理想の「天使」にキルクトーヤを近づけようとしているのだ。

 最初、キルクトーヤはナハトの「天使」になれるように努力をした。しかし、ナハトが掲げる「天使」像は日によって変わった。


 ――まるで、存在しないものを追いかけているみたいだ。


 キルクトーヤは「天使」になるのを早々に諦めていた。

 キルクトーヤが黙ってからも、ナハトは怒鳴り続けている。彼は一度こうなるとしばらく怒りが収まらないのだ。そして一日が過ぎると「謝罪をさせてくれ」とキルクトーヤの足元に跪くのが常であった。


 キルクトーヤはもうナハトの激昂に慣れてしまっていた。ナハトの怒声を聞きながら、頭ではどうやって手紙を出すか、そればかりを考えていた。

 ナハトの屋敷にやってきてから、キルクトーヤは毎日学校に通わせてもらっていた。学校はエクメーネの市街地にあり、屋敷からは馬車を使っていた。

 御者をつとめるのはあの眼鏡の使用人だ。目を盗んで手紙を出すにはどうすればいいか――。

 

 長い思考の末、キルクトーヤの頭にひとつの案が思い浮かんだ。

 ――うん。この方法なら手紙が出せるぞ。


 キルクトーヤはひとり頷いた。

 それに気が付かず、ナハトはわめきながら皿を投げつけた。熱いスープがキルクトーヤにの腕にかかった。

 スープは熱く、キルクトーヤは顔をしかめた。

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