第12話
キルクトーヤは馬車に乗った。なぜ乗ってしまったのか、自分でもわからない。
ただナハトに「乗れ」と言われると、その通りに体が動いてしまったのだ。
馬車は街の中心地を抜けて東へと進んだ。王都エクメーネは三重城壁に囲まれた要塞都市である。国中から人が集まり、二階建ての建物がひしめきあっている。しかし、城門を抜けて郊外に出ると長閑な田園風景が広がっていた。多くの画家がその緑を描き、多くの作詞家がその頬を撫でる風を歌にした。馬車の窓はその麗しい景色を切り取る。
しかし、いまキルクトーヤがその景色を見ることはできない。彼は手足を縛られて、馬車の床に転がされていた。
カフェで声をかけてきた男――ナハトは座席に腰かけ、うつ伏せのキルクトーヤの背中に足を置いていた。
彼は窓の外の景色を眺めながら言った。
「あと少しで屋敷に着く。三年ぶりの帰省だな?」
「……」
「父さんにただいまの挨拶くらいしたらどうだ?」
キルクトーヤは答えない。どうしたら逃げられるのか、そればかりを考えている。しかし、体は強張り、思考は真っ白だった。
キルクトーヤが返事をしなくても、ナハトは上機嫌のままであった。
彼は歌うように言った。
「まあいい。かわいい息子の帰宅を私は歓迎するよ」
「どうして、そんなに僕にこだわるんだ……」
やっと言葉を出せた。それは弱弱しく、独り言のようっであった。しかし、それはずっと抱いていた疑問だった。――なぜ、僕なのか。
ナハトは金持ちだ。貿易のための船を何隻も所有している。ひとたび彼が養子を望んだなら、手を挙げる孤児は数えきれないほどいるだろう。それだというのに、ナハトはキルクトーヤを養子に望み、そして逃げだしたキルクトーヤを探し出し、学校まで押しかけた。それから三年経ったというのに、まだキルクトーヤを探していたという。この異常なまでの執着。キルクトーヤは、その理由がわからなかった。
ナハトは不憫な子どもを見るような目をした。
「お前が、天使だからだ」
「天使……」
「占い師に言われたんだ。美しい金髪の子を生贄に捧げたら、私の天使に会えると」
ナハトは恍惚の表情で話し続ける。
「生贄を捧げたとき、お前が現れた。つまりそういうことだろう? 私はこの腐りきった世界で天使を与えられたのだ。だから私は正しいし、お前は私のものなのだ」
ナハトは力強くキルクトーヤの背中を踏みつける。
「ぐ……」とキルクトーヤはうめく。
「信じなくていい。でも、私は確かに見たんだよ。十年前のあの日にね」
「十年前……?」
「そう。十年前、私たちは出会ったんだ。儀式の紋の中で。あれからお前を探しまわって、あの片田舎で見つけたときは興奮したよ。なるほどやはり私は神に愛されていたのだと。あの日のことをお前が覚えていないことだけは無念だ。だが私はお前の奇跡をちゃんと覚えている。魂に刻んでいる」
「……」
気おされて、キルクトーヤは黙った。ナハトはその後もぶつぶつと何事か話し続けている。しかしもうキルクトーヤの耳には届かなかった。
――あの日のことをお前が覚えていないことだけは無念だ。
似た言葉を、ジークにも言われた。
――どうして君が覚えていないのか、それは僕にもわからないけれども。
図書室で言われたジークの言葉が脳内にこだまする。
キルクトーヤは硬く目をつむった。
――わからない。わからないことばかりだ。
ただ、この馬車がキルクトーヤを乗せて地獄に向かっていることだけは確かな事実だ。
馬車は美しい風景の中を迷いなく進んでいく。
ナハトの言葉が馬車の中に落ちる。
「この世は馬鹿ばかりだ。その果てに終局を迎えるのだ。この堕落した世界で私とお前だけが特別なのだ」
ナハトはどこか遠くを見続けていた。
キルクトーヤはもう言葉を発せなかった。
キルクトーヤは目を閉じた。
彼はナハトに出会うことになったきっかけ――その日に思いをはせる。
――あの日……。
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