白猫と時渡りの杖

深山恐竜

プロローグ


 ヴァールハイト国グレン暦八二〇年九月一日 夕刻


 学校の面会室だった。


「私と結婚してくれ」


 簡素なその部屋で、英雄ジーク・シュヴェルトはそう言った。彼の翡翠の瞳はキルクトーヤに向けられている。キルクトーヤは口をぱくぱくさせた。


 ――初対面だよね⁉


 その叫びは声にはならなかった。

 キルクトーヤはシュタイナー学校に通う魔術師見習いだ。見習いになって三年目になる。

 彼は真面目な性格だが、成績はよくも悪くもない。貧乏で学費の工面に苦労していることと、夜な夜な悪夢にうなされていること以外に特筆すべきところのないふつうの見習いである。

 対して、ジークは東の国境グレンツェ地域に出現した魔族・牢獄のシュヴァルツを打ち倒し、王都エクメーネに凱旋したばかりの英雄だ。新聞は連日のように彼の冒険譚を書き立てている。

 そんな英雄が、キルクトーヤを訪ねてやってきて、開口一番に結婚を求めてきたのだ。

 キルクトーヤはすっかり動揺していた。


「ど、どういう……?」


 数拍の後、キルクトーヤがどうにかこうにか言葉を絞り出すと、英雄が言葉を続けた。


「十年前、君は私に結婚を申し込んでくれただろう? ようやく返事が出来た……」


 彼はうっとりと目を閉じる。その瞼のうらにその日のできごとを鮮明に映しているかのようだ。


「十年前? 結婚を申し込んだ?」


 キルクトーヤは困惑するばかりだ。


「……人違いじゃないですか?」


 どれほど首を捻っても、その話に覚えがなかった。

 しかし、英雄は「間違いない」と言って譲らない。

 キルクトーヤはちらと面会室の奥に視線を向けた。そこにはキルクトーヤの師であるレーアムト老師がいる。

 言外に老師に助けをもとめたキルクトーヤであったが、老師は白いものが混ざった黒い髭を撫でつけながら、やにやとこちらを見ているだけである。


 ――他人事だと思って……!


 キルクトーヤは頭を抱えた。

 なぜこんなことになったのか。キルクトーヤにはさっぱりわからなかった。


 しかし、「でたらめなことを言うな」とジークを一喝して追い払うことができないのは、キルクトーヤの目の前に二本の杖があるからである。

 その杖の一本はキルクトーヤが持っていたもので、もう一本はジークが持ってきたものである。

 二本の杖はそっくり――まったくいっしょと言ってもいいだろう。

 

 ジークはこう言った。「キルクトーヤが落としていった杖を拾ったんだ」と。


 キルクトーヤはその杖を睨みつけた。

 杖はキルクトーヤのために作られたこの世に二本とないはずのものである。

 それが、どういうわけか、この場に二本ある。


 キルクトーヤは混乱するばかりであった。

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