第43話 リーナの過去①
陽とリーナが黒い光に包まれ、姿を消していった後、二人は地面に倒れ込んでいた。
しばらくすると、冷たい感覚がリーナの意識を引き戻した。石のように硬い何かの上に横たわっている感触が体を覆う。微かに鼻を刺す湿った空気と、遠くから聞こえる水滴の音。それが彼女の目を覚ますきっかけとなった。
「ここは……?」リーナはぼんやりと呟きながら、ゆっくりと体を起こす。
同じく冷たい石の上に横たわる陽が、うっすらと目を開けた。
「リーナさん…?あれ…俺たち…迷宮にいたはず…」
二人は辺りを見回した。そこは薄暗く、天井も壁もすべて黒い岩でできた空間だった。淡い光が遠くから漏れているだけで、全体は闇に包まれている。冷気が骨の髄にまで染み渡るようで、息を吐くたびに白い霧が浮かんだ。
「転移魔法で飛ばされたみたいね…。」
リーナは立ち上がり、慎重に周囲を警戒する。
陽も起き上がり、辺りを見渡した。
「何だか嫌な感じがする…。ここ、迷宮の一部なのか?」
二人が目を凝らして闇の奥を見つめていると、不意に暗闇の中で黒い光が揺らめいた。その光が徐々に近づき、黒いローブをまとった女性が現れた。
彼女の長い髪は光を吸い込むような深い黒で、瞳は鮮烈な紅い輝きを放っていた。その存在感は圧倒的で、二人の体に自然と緊張が走る。
「誰だ…!」
陽が構え、リーナもすぐに身構えた。
しかし、その女性は何も言わず、ただ静かに二人を見つめた。何も話さないその態度がかえって不気味だったが、やがて彼女はゆっくりと右手を上げ、人差し指を陽たちに向けた。
「リーナさん、危ない!」
陽が警戒の声を上げたが、その直後、女性の指先から眩い白い光が放たれた。光はあっという間に二人を包み込み、視界は真っ白になった。
「くっ…!」
リーナは顔を覆い、耐えようとしたが、その光は全てを呑み込み、意識すら奪っていく。
陽が再び目を開けた時、そこには見慣れない風景が広がっていた。薄暗い空間から一転、明るい昼下がりのような温かな光が差し込む街の風景だった。人々が行き交い、どこか懐かしい雰囲気の街並みが広がっている。だが、ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、陽には分からなかった。
「…リーナさん?」
陽は隣を振り向いた。そこには、同じく光景を見つめるリーナの姿があった。しかし、彼女の表情は驚きと戸惑いが入り混じり、何かを深く思い出そうとしているようだった。
「ここ…この街…」リーナの声が震えている。
「知ってる場所なんですか?」陽が尋ねるが、リーナは言葉を返さなかった。ただ、目の前の景色に釘付けになっている。
次の瞬間、陽の視界の端を一人の青年が勢いよく横切っていった。短めの黒髪にスポーツバッグを肩にかけていた。
「うわっ、危ぶねっ!!」陽が思わず声を上げる。
その青年の姿を目にした瞬間、リーナの表情が一変した。驚愕と、深い悲しみに彩られた瞳が彼を捉える。
「ラケル…」
彼女の声は微かに震え、胸の奥底から絞り出すようだった。
「ラケル?」陽が聞き返したが、リーナは彼を無視するように足を踏み出した。
「待って…ラケル…!」
リーナはその青年の背中を追いかけるように走り出した。
「リーナさん!待って!」
陽も慌てて彼女の後を追う。
リーナは青年の背中を追いかけるように走り出した。その姿に陽も戸惑いながら後を追うが、リーナの速度は普段の冷静な彼女からは想像もつかないほど速かった。
「リーナさん!待ってってば!!」陽が必死に声を上げるが、リーナは振り返ることなく、ただ「ラケル!」と呼び続けた。
やっと、青年に追いついたリーナは、震える手を彼の肩に伸ばした。「ラケル…私よ!」必死な声でそう呼びかけながら、彼の肩に触れようとする。
しかし、その手はすり抜け、まるで空気に触れたように何も感じなかった。
「…どういうこと…?」
リーナは呆然と立ち尽くす。目の前に確かにいるはずの彼に触れることができない事実が、彼女を大きく揺るがせた。
陽が追いつき、肩を上下させながら息を整えた。
「リーナさん、どうなってるんですか?何が…」
リーナは答えることができなかった。ただ目の前の青年を見つめる。その視線の先で、彼は走り続けた。
「待って!!」リーナは再び足を動かし、青年を追いかける。陽も何かを言おうとしたが、結局黙って彼女についていくことにした。
青年が辿り着いたのは、静かな住宅街の一角だった。手入れの行き届いた庭と白い塀に囲まれた一軒家。その景色に、リーナの足が止まった。
「ここは…?」陽が尋ねる。
リーナは震える声で答えた。
「私の…元いた世界の家よ。」
陽は驚いて周囲を見渡す。どこか懐かしい雰囲気を持つその家は、明らかにリーナにとって特別な場所のようだった。
だが、現実感のない状況に、陽も何かが引っかかるような感覚を覚えた。
青年はそのまま家の玄関に向かい、鍵を取り出して勢いよくドアを開けた。中から温かな光が漏れ出し、その光景にリーナの瞳が潤む。
「そんな…」リーナが小さく呟いた。
「姉さん!ただいまっ!!」
青年が家の中に入ると、リビングにはリーナが立っていた。警察官の制服を身にまとい、出勤前の準備をしている様子だった。鏡の前で髪を整えながら、リーナは穏やかな笑顔を浮かべている。
「リーナ…さん。まさか…これって」陽が驚きに満ちた声を漏らした。
リーナは目を伏せ、そして小さな声で答えた。「私の過去を見せられているみたいね。」
陽とリーナは家の中で展開される情景をじっと見つめていた。
二人が静かに見守る中、過去のリーナと青年――ラケルとのやり取りが始まった。
「おかえり、ラケル。練習早く終わったのね。」リーナが笑顔で玄関に立ち、弟を迎え入れる。
「ああ!今日は姉さんの誕生日だからね!まっすぐ帰ってきたんだ!」
「そんな、私のことなんていいのに。試合近いんでしょ?」
「だからだよ!姉さんに喜んでもらえるなら俺、練習も試合も頑張れるしさ!」ラケルの明るい声が家中に響いた。
「本当にラケルは優しいね。姉さんは、こんな弟を持てて幸せものだぁーっ!」と冗談めかして肩を軽く叩く。
ラケルは少し照れくさそうに笑いながら言った。
「それより、姉さん!今日は早く帰ってきてな!誕生日ケーキ一緒に取りに行こうぜ!」
リーナは彼の言葉に頷き、少しだけ笑みを浮かべた。
「わかった。早めに仕事片付けてくるね。それじゃ、行ってきます。」
ラケルは玄関で手を振りながら、「いってらっしゃい!!気をつけて!」と元気に声をかけた。
その笑顔は温かく、家族への愛情が溢れているようだった。
やがて、陽とリーナは家を出た。陽は隣にいるリーナの方を見て口を開く。
「ラケルはリーナさんの弟さんだったんですね。」
リーナは少しうつむきながら答えた。
「そう。ラケルは4つ下の私の弟。」
「リーナさんが元の世界では警察官だったなんて、驚きましたけど納得です。」
陽は微笑みを浮かべた。
「私が高校一年生のとき、両親が事故で亡くなったの。遺産は残してくれたけれど、ラケルの大学費用やこれからの生活を考えると、そう簡単に遺産を使う訳にはいかなかったし…。早く働けて、給料が安定している仕事を考えたら、警察官が一番現実的だっただけ。」
リーナは視線を落としたまま静かに答えた。その声にはどこか冷ややかさが滲んでいた。
ーーーーーーー
そして、陽とリーナの視界が再び白く染まる。霧のような光が周囲を覆い、二人はその中でふわりと漂っているようだった。陽がぼんやりと周りを見回すと、徐々に光が薄れ、新しい景色が浮かび上がってきた。
次に現れたのは、広々とした執務室のような場所だった。デスクが整然と並び、書類やファイルが積まれている。数人の制服を着た人々が忙しく行き来している。
「ここは…?」陽がリーナに問いかけた。
「私の職場…。」
周囲を見渡すと、一人の女性――過去のリーナがデスクに座り、真剣な表情で何か書き物をしていた。その横には電話が置かれている。時計を見ると、針は夕方を指していた。
すると突然、上司らしき人物が過去のリーナに近づき、何かを告げた。
「リーナ、最近この辺りで不審者が目撃されている。夕方のパトロールを頼めるかい。」
「分かりました。」リーナはすぐに立ち上がり、手早く身支度を整えた。その動作には迷いがなく、職務への真摯な姿勢が現れていた。
だが、彼女がふと時計に目をやると、眉がわずかに寄った。「こんな日に限って…」リーナは小さく呟き、携帯電話を取り出した。
リーナが電話をかけると、すぐに弟の声が聞こえてきた。
「もしもし姉さん、もう帰ってくる?」
「ごめん、ラケル。2時間くらい帰りが遅くなりそうなの。」リーナの声には申し訳なさがにじんでいた。
「そんなあー。」
電話越しにラケルが残念そうに声を上げる。
「まあ、仕方ないか…。分かったよ、そしたら俺ケーキ先に取りに行っちゃうね。姉さん気をつけて帰ってきてね。」
「ごめんね、すぐ帰るから。」
リーナはそう言い、通話を切った。
場面が変わり、リーナは先輩と思われる男性警官と共にパトロールをしていた。街並みは夕暮れに染まり、オレンジ色の光がビルや道路を照らしている。
「リーナ、今日誕生日なんだって?」
先輩がふと声をかけてきた。
リーナは少し驚いた表情を見せたが、すぐに答えた。「ええ、そうです。なんでそれを?」
「さっき電話してる時に、ケーキがなんとかって聞こえてな。例の弟さんか?」先輩は優しい笑みを浮かべた。
リーナは軽く頷いた。
「はい。それで今日は弟が張り切っているみたいで…」
「そうか、それならこの先は俺が回るからお前は先に帰りなさい。」
リーナは思わず足を止めた。
「そんな、私情を仕事に持ち込むなんてできません。」
「たまには弟さんとの時間も大事にしてやれよ。たった一人の家族なんだろ?」先輩は軽い口調ながらも、どこか温かい眼差しを向けた。
リーナは一瞬だけ躊躇したが、やがて静かに頭を下げた。
「……。ありがとうございます。」
「大丈夫。俺に任せろって。」
先輩が自信満々に笑うと、リーナも小さく笑みを返した。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます…」
そうしてリーナはパトロールを途中で切り上げ、急いで家へと向かった。
一方、その頃ラケルは街のケーキ屋に足を運んでいた。店先には色とりどりのケーキが並び、その中でも目を引くのはラケルの目当ての品だった。
「ここの苺のショートケーキは絶品だからな。」ラケルはショーケースの中のケーキを見つめながら、嬉しそうに独り言をつぶやいた。
「姉さん、絶対喜ぶだろうなぁ。」
その顔には、少しの照れくささと姉への思いやりが溢れていた。
店員に頼んでケーキを包んでもらうと、ラケルは満足そうにそれを受け取った。風に吹かれながら家路を急ぐ途中、彼は何度も箱を覗き込み、苺が崩れていないかを確認しては、笑みを浮かべた。
彼は軽くケーキの箱を持ち直し、足早に家へと向かった。
家に着くと、ラケルはすぐにエプロンを身に着け、キッチンに立った。冷蔵庫から食材を取り出し、手際よく夕食の準備を進め、時折鼻歌を口ずさみながら、鍋をかき混ぜていた。
「姉さんの好きなビーフシチュー完成!我ながら完璧な味だ!」シチューの鍋から漂う香りが、家全体に広がる。
ラケルは時計を見上げると、「ちょうどいい時間だ!さすが俺!」と満足げにうなずいた。
その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「姉さん、おかえり!遅かったね!」ラケルは明るい声で迎えに行きながら、エプロンの端を軽く拭いた。
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