Episode.04  RATS RUN IN THE RAIN.

 1.


 どうやら2日夜通しで歩き回ったというのは本当の話だったらしい。その証拠は、今日1日並んで歩いていた少女が今だに元気にパタパタと歩みを進めている姿に他ならない。

 「疲れてないのか?」「うーん・・・。」「疲れてないんだな。全く、ロボットってのは羨ましい限りだぜ。俺はこんな見た目になっても膝は一丁前にガタが来てるっていうのによ・・・。」

 「ジャックは疲れてるの?」「こんだけ歩けばな。」

 「じゃあ、私も疲れてる。」「・・・どういう事だ。」

 「私も1日歩くと何だか膝の出力が安定しない感じがしてきて、躓いたりするのが嫌だから少し大袈裟目に足を動かしてるの。」「・・・そう言う事だったのか。」

 「これが疲労なの?」「まぁ、恐らくな。お前の感覚が一体どれだけ人間に近いかは分からないが、少なくとも人間はそういう時に疲れたって言う。」「そうなんだ。」「俺の生まれた所では、そういう時にピッタリの言い回しがあった。」「どんな言い方?」

 「『足が棒になったみたいだ。』ってな。今のアリスみたいに。」

 「・・・そうなんだ!」

 パッと明るい笑みを浮かべた少女は、今度はさらにわざとらしく手と足をパタパタと動かして前に歩み出てみせた。まるでブリキの玩具の兵隊の人形みたいだ。もっとも、自分の世代ではもう馴染みの薄い物だったが。

 「お前と会ってから今が一番ロボットらしい。」「もう!・・・ふふ!」

 駆け寄って来た少女が手を掴んだ。やはりロボットらしくない肌の温さが秋の涼しさに失った手指の先を温めてくれる。

 「帰ろー。」「お前の家になったのか?」「久し振りにゆっくり休めた気がして、ずっと続いてた胸のざわめきが落ち着いた気がしたの。それは確かよ。」「・・・そうか。それは良かった。」



 2.


 「・・・ジャックどうしたの?」

 「・・・今から俺の傍を離れるな。」

 「手は繋いでてもいい・・・?」

 「あぁ、しっかり繋いでろ。指のギアが軋むくらい。」

 「どうかしたの・・・?」

 「・・・扉が開いたままなんだ。」

 地下駐車場の無人の管理人室。そのコンクリートの壁に嵌め込まれた翡翠色の鉄扉。それがわずかに開きっ放しである事の違和感に気付けない地下生活者はいない。

 ここでの生活はあらゆる要素が手掛かりであり、合図であり、暗示になる。この都市の真下でまるで大きなドブネズミのように平穏を守っている俺たちは、口裏を合わせるでもなく、ただひたすらに顔から伸ばした意識の髭の先を狭い洞穴の壁に擦りながら暗闇の中に漂う呼吸を感じている。だからこんな風に扉を閉め忘れるような不用心と仕舞の悪い行いを行う人間がいるのだとしたら、考えられる可能性は一瞬で数択に絞られる。

 「じいさんが心配だ。」「おじいさんが危険なの?」「・・・いいや。あいつはあいつで上手くやる奴だ。・・・行くぞ。」

 管理扉を静かに開けた先の地下世界は一見すれば普段と何ら変わらない薄暗闇。いつも通り出口の少ない空間で煮詰まった空気が、所々に開いた通気口目掛けて深呼吸をするみたいに流れの筋を作って身体を撫でる。なんらいつもと変わらない。匂いも、いつも通りの薄い下水の臭いしか無い。

 アリスは利口に口をつぐんだまま自分の脇を着いてきてくれた。得体の知れない物に物怖じしない性格は彼女の彼女らしさなのか、それともロボットとしての無機質さなのか。この子を見ていると分からなくなる。

 分からなくなっているんじゃない。分かっていないまま放置していた事が、いい加減あちら側から答えを迫ってきている。それが、俺にとってのこの少女型ロボットなんじゃないか。散々逃げ回って来た敗残兵が、とうとう戦争の余韻すらも忘れてきたというのに、今度はこんな可愛いなりをして来やがった。可愛さに見合わないフラッシュバックの予兆に怯えそうになる。ただ、そう縮こまる訳にもいかないこの状況は自分を奮い立たせる為の良い薬にもなるんじゃないか。

 物思いに耽るのは終わりだ。

 「・・・どうしたのジャック。」ホワイトノイズが鼓膜をくすぐる。

 「電気が消えてるんだ。多分じいさんはもういない。」

 「良かった。」

 「・・・良くはないかも、しれない。」「なんで?」「洞穴の中に忘れ物はないか?」

 30m程の整備用トンネルの先、老人の住む洞穴から明かりは漏れていないが、目隠し兼玄関としてかかっていたカーテンが地面に引きずり下ろされている。それだけでこの空間に佇む違和感を説明するのには充分に思えた。

 こういう時の二択。このまま振り返ってただただ逃げる。概ねの最善択。難しい事は何もない。しかも今は自分ひとりじゃない、すぐそばに当面の安全を守らなければいけない存在がいる。

 ・・・取り敢えず知れる情報を探る。

 当座の安全が後々の保身に繋がるには、社会や環境そのものが安全であって、宛ても無く走っていればいつの間にか安全圏に辿り着けてしまえる事が必要になる。しかし今の自分たちにはそういう当たり前の安心が無い。ここを出てしばらく帰って来ない事を誓ったところで行き当たりばったりな浮浪生活になる。それにアリスはそんな生活を既に二日も続けて疲労していたのだ。今彼女の苦労を不意に増やす事に甘んじる訳にはいかない。

 なら今の自分たちは最低限知るべき事がある。それは、『今アリスの事を追っているのが誰なのか』。少し先の事まで予想してみる。もう既にそこそこの深さまで来てしまった地下から今すぐ逃げようと引き返した所で、恐らくうっかり出した物音や気配から相手に気付かれる。実際に気付かれたとする。そうした時に我武者羅に逃げ切ったとしてもその状況は、ただただ相手に自分達の姿と情報を晒して自分達は相手の情報を殆ど知る事すらできなかった、という事にはならないか。

 「荷物は鞄の中に全部しまってあるわ。」「よし、偉いぞ。」

 「・・・私も誰だか気になる。」「口に出てたか?」「ううん。順番に考えただけ。ジャックもきっとそう考えたんじゃないかって。」「初めて高性能だと思えた。」「えへへ。」

 「もう喋るなよ。」「・・・。」

 気にするべき音は三つ。一つ目は靴音。コンクリートの地面に皮と硬質ゴムのぶつかる音は良く響く。特に自分は体重も重い。準備が万全なら靴に厚めの布を巻き付けるが、今は手持ちがない。慎重にいくしかない。二つ目は服の衣擦れ音。ジーンズ生地は柔らかい布ヤスリだ。何も考えずに静かな空間を歩けばザリザリと股の部分で生地が擦れてしまう。幸い、上着のボアジャケットは柔らかい生地で助かった。そして三つ目は、地面の飛散物。ガラス片は最悪で、小石も蹴った途端防犯ブザーに早変わりだ。全神経を集中させて、しかし遅くなり過ぎないように、トンネルを進む。

 呼吸を止めるのは慣れてしまった。

 人影は2人。爺さんの作業机を物色しているようだ。物陰から隠れて感じられる情報には限りがある。まだ直接姿を見れている訳ではない。顔を出す訳にはいかない。

 ・・・久しぶりにしてみるか。

 この頭は普通の人間のそれに比べて何かと融通が利くようにできている。違う所は色々ある。目の役割を持つカメラは1本の視覚神経に3種類のカメラが接続されている。耳はそこそこ精度の良いマイクになっているし、外からは見えないが中身では無理矢理ねじ込んだジャイロセンサーが海馬に端子で繋がれている、らしい。勿論慣れればそこそこに不便の無い生活ができるどころか、部分的には超人的な知覚も獲得した。

 ただ、この頭の”一番”はそこじゃない。この頭の本当の融通、それは。

 「(アリス、少し集中する。)」まっすぐ伸ばした人差し指を少女の前で回し、これから自分の死角になる方角を満遍なく伝える。

 「(代わりに見ててくれ。)」小さく頷いた少女がゆっくり休みなく、まるで監視塔のサーチライトのように首を回し始めた。

 「(よし。)」

 ステンレス曲面の顔面の丁度人間の目の辺り、そこに片方3つずつ横倒しの二等辺三角形の位置関係で並んだレンズのうち、脇の縦2つ並びの下側のレンズ。頭に固定する為の指輪のような特殊ナットを緩めて、レンズを引き抜いた。レンズの根元から露わになったヘッドホン端子のような黒い樹脂製ケーブルをゆっくりと伸ばし、ペンライトの要領でトンネルの角から数mmだけ洞穴の中に覗き込ませる。

 この延長暗視カメラは従軍時代ライフルに付けた特注のマウントに固定して第3の目としてよく使用した。そしてもしケーブルが切断しても在庫がある限りつけ直せる。この「代えの効かない資源」だった筈の兵士の命と機能を細分化し、モジュールごとにリプレイス可能にしたことこそが自分の身体に縫い合わせられた「融通」の正体だ。

 (やっぱりな・・・。)

 人影の正体は確かに2つで間違いなかった。しかし、2人ではない。1人は人間の治安維持職員。それも恐らく刑事職のような上級職に従事している人間だろう、通常の制服ではなく戦闘服のようなツナギに明るい色のモールを付けている。そしてもう一人は、アンドロイドだ。

 (ステラートの子機か・・・。厄介だな。)

 実物をこの距離で見るのは初めてだ。まして実際に調査対象になるのも。もっと合理的な形もあるんじゃないかと思うのは、実際に機械に身を包みながらも人の形に縛られてもいる人間だからこそ思い着く事なのかもしれない。まるでドイツ製の包丁のロゴみたいなわざとらしい五体のシルエットの頂上には、街中の監視カメラをそのまま取って付けたような円柱のカメラヘッドがサーボモーターで肩の根元から直接接続されている。きっと360度回転する。やはり厄介だ。

 何を探っている。爺さんの取って来た物の中に何かマズイ物でもあったのか?それとも単純に行政の都合で地下生活者の摘発?いや、ならもっと分かり易い奴らも掴まって騒ぎになってる筈じゃないか?電気を盗んでいる事か?それは案外それらしい理由にも感じる。

 何言ってるんだ。理由なら明白だろう。

 屈んで丸めている背中に軽く当たっている小さな膝の感触をずっと感覚の隅で確認し続けている。

 あのステラートの子機たちがアリスを追っている張本人なのか。

 もう今取れる情報は充分掴めた。爺さんもきっとどこかでよろしくやってるだろう。信じるしかない。そうと決まれば今はとにかく自分達の身の安全を。

 「・・・んん?」

 背中を小さな膝が軽く小突いた。

 幸い現役時代からあまり感覚の鈍っていなかった警戒神経は、背後の少女に静寂を破った事を注意したい気持ちよりも早く、指先で摘まんだ暗視カメラを自分たちのいるトンネルの奥の暗闇に向けて視線を投げた。

 きっと通常の人間の視力と対して違わないだろう少女型ロボットの目には、暗闇に浮かぶただの赤くて小さい光にしか見えなかったのだろう。だからつい訝しみの吐息を漏らしてしまったのだ。

 我々から距離にして20m程の奥。暗闇の中にわざとらしいピクトグラムの人影が、真っ赤な暗視モードの赤外線照射口をこちらに向けて立っていた。

 「アリス、」今度はこちらが背中で小さな膝を軽く押す。

 「逃げるぞ。」「え・・・?」

 咄嗟な判断だった。

 振り向き様に勢いよく少女の身体を抱え上げながら低姿勢のクラウチングに入り、後ろで追跡を開始したサーボモーターと地面を蹴る音を後頭部に受けながら全速力で走り出す。手放したコードが頭の中のリールに巻かれてシャリシャリとむず痒い音をコンマ5秒流して収まった。

 しゃがんだ姿勢からいきなり重量物を持って走り出したせいでこちらの膝のギアも一瞬ギチリと軋む音を立てた。寒さで油も硬いのかもしれない。服の汚れを気にして注す量をケチったのも良くなかったかもしれない。

 そんな心のぼやきを全部フレアみたいに背後に撒いて置いてけぼりにしながら、この一瞬のうちに3つにまで増えた追跡者の気配を振り切る為の鬼ごっこが始まってしまった。



 3.


 「ジャック!」「しがみ付いてろ!その方が走り易い!」

 幸い出力自体は安定している。地面もこのトンネルの中に限っては綺麗に舗装されたコンクリート。躓く心配も少なく思い切って走り抜けられる。もっと何でもない時ならきっと気持ちのいい運動にもなるんだろう。ただ今はそう悠長なことを言ってられるタイミングではない。

 「クソ!速ェ!」

 3人のうち1人、恐らく生身の人間だった捜査官は早々に追跡を諦めたようだった。しかしそれは決して捜査の終了を意味してはいない。残りの2人で充分だからだ。

 偶に人間離れした角度で関節が曲がったり、その所為で躓いたように体勢を崩したのを無理矢理前へ前へと推し進めてくる。そしてそんな最中も彼らのカメラヘッドは全くブレる事なく視線をこちらに突き刺してくる。

 「ハハッ!気味ワリーぜ!」「何が面白いの!?」「こういう時は笑うんだぜアリス!」「なんで!?」「リラックスできる・・・!」

 腕がしがみ付いてぶら下がっている首が程よい脱力で1cm下がる。1cm分ほどけた緊張は、別の身体の、本当に緊張させるべき部位に力を注ぐ為の余力にもなる。

 「ッッ!」ギュッと踏み込んだつま先がブーツの中のソールを凹ませてから、それがまるで小さなバネにでも化けたように全身を一度強く前方に跳躍させた。

 やはり純粋な走りという分野においてはまだまだ本物の人間に分がある。プログラム以前に純粋な直感と欲求としての肉体操作はあらゆる行動の詳細を柔軟に最適化し、光速の信号伝達によって直接世界にアプローチする。彼らアンドロイドが学習データをカーネルに伝達する事で初めて駆動系を出力しているとするならば、我々人間にとってはこの行動そのものが既に人体におけるカーネルたりえるのだ。

 つまり、自分たちは単純な運動の部分ではまだまだステラートよりも一歩先を行ける。まずはこのスプリントでなるべく距離を取らなければいけない。なぜなら、

 「アリス後ろどうなってる!」「2体走ってる!」「それで!」「あっ、1体止まった!」

 来る!

 ステラートの子機は危険人物の逮捕や入り組んだ地形での捜索活動などの為に使用される端末で、あのスリムな体の中に色々な装備を隠し持っている。

 「なにか銃みたいなのを出したわ!」「銃じゃない!」

 ステラートにはいくつか行動の制約が存在する。これはとても有名な話だ。この国がとうとう治安維持という重大な責務を人の責任意識から機械に代替する時に、御伽話のような「シンギュラリティ」を恐れた学者たちによってせめてもの対策として人間に対する扱いを定義したのだ。それがかの有名なアイザックアシモフにより提唱されたロボット3原則。詰まる所人間に危害を加えてはいけないと定義され、しかし時には人間を逮捕しなければならないという理不尽を突き付けられた機械の治安維持官たちは、解釈の拡大という手法である方法を手に入れた。

 「捕まってろ!」「うん!あ、キャッ!」トンネルの側面に空いた別のトンネルに肩から飛び込む為の最後の2ステップでそれが来て身体が突然熱くなり大きくよろける感覚に襲われた。ステラートの照射した秘殺傷低周波照射器の波が直撃したのだ。

 自分が初めてそれを見た時はもっと大きな装置だった。装甲車の天井にM2の代わりに取り付けられ、作戦予定地にまだ住んでいる原住民たちを追い払う為に使っていた。今ではそれが片手に持てるサイズに化けたのだ。流石に出力まで同程度にはならなかったのはせめてもの救いだ。喰らった瞬間の一歩はよろけたものの、既に身体が横穴に飛び込むには十分な位置までギリギリ辿り着いていた。

 よろけ様にわざわざ踏み出す必要はない。前足が地面に着いた感覚に集中し体重を前足に真っ直ぐ落とす要領で膝を曲げながらブレーキをかける。重心が落ちて眩暈の振れ幅が小さくなるのと同時に次の動きの為のバネを溜めていく。追いついた後ろ足が前足と横一列に並んだ瞬間顎を引き、上半身に抱えた肢体を抱き寄せて質量を固め、グッと止めた息を吐き出すのと同時に思い切り左に跳躍する。一瞬のうちに達成される真左への直角に近い方向転換はどれだけ優秀なセンサーカメラが追えたとしても制御系の駆動では反応しきれないような突発性を発揮する。

 左肩から背中にかけてヘッドスライディングに近い着地。嫌な位ゴミも石ころも落ちていないトンネルのおかげで土埃が付いた程度のジャケットへの心配も余所に前方に続く細いトンネルの奥を見据える。

 「うぅ・・・。」「どこも打ってないか?」「うん。」「まだ走るぞ!捕まってろ!」「うん・・・。」

 ロボットとはいえ堪えるものはあるだろう。腹の脇に力を入れながら上半身を無理矢理起こしその勢いで左脚を膝立ちまで持って行く、無理矢理立ち上がる、力任せに踏み込む、ドシドシと加速する、映画で見たティラノサウルスみたいだ。ノシノシと加速していく。汗を吸って柔らかくエイジングされたカーゴパンツの内太腿の生地が擦れる音が聞こえる。平行棒を意識して踏み出す足が直線を結ぶようにする。横に広がるベクトルすら無理矢理前方に絞って加速に繋げる。

 行先を考えよう。自分もこの地下空間の地理には堪能ではない。下手をすれば向こうの方が詳しく把握しているかもしれない。

 こんな時に考えられる事は2つある。1つは知っている最も簡単な方法を全速力で実行する事。もう1つは頭を振り絞って相手の思考を掻い潜る事。

 今まで、自分よりもよっぽど賢い奴や身体能力の高い奴、そういうあらゆる部分で自分なんかよりも優秀だった人間が自分よりも先に”退場”していったのをこの目で見て来た。そんな彼らが自ら身を滅ぼした理由が1つあるとするならば、それはこの大いなる2択で必ずと言っていい程後者を選んでいたからだ。

 難しい事が難しい事の所以は必ずしも成功確率の低さではない。失敗すると取り返しが付かない、これがほんの少しの綻びから全てを終わらせる最悪の結果に繋がる。そんな事態に陥ってしまえば最早どれだけの力も知力も宛にはならない。

 なら、俺に取っての最悪はどうだ。力を振り絞ればギリギリ届くかもしれないゴールへ向かって走るのと、一度迷ってしまえば二度と出る事はできない迷路に足を踏み入れる事。最悪のうちの最悪はどっちだ。

 「一番近いメトロの線路まで全速力だ!」「線路!?」「点検口に掘られた穴がある!そこが一番近い!」

 方法は簡単に、迷いを捨てる。

 「わかったわ。」「よし。捕まってろ。」

 『止マリナサイ。大人シク投降シテ下サイ。』

 背後から不気味な位落ち着いた声色の音声がトンネルに反響して背中とイヤーマイクに飛び込んでくる。

 「足を止めるな、動かし続けろ。」

 自分に言った。気持ちでパフォーマンスが上がるのは人間の特権だ。切羽を詰めて脹脛の油圧を上げろ。

 『止マリナサイ。大人シク投降シテ下サイ。』

 再び少しずつ近づいて来たモーターの作動音を押し消すように地面をブーツで蹴込んだ。



 4.


 イヤーマイクにザッザと地面とゴム底のぶつかる衝撃が作り出したノイズが0.5秒ごとに押し寄せてくる。この耳の奥がむず痒くなるような微かな痛みのディストーションが嫌いだ。ステンレスの顔面が向かい風を受け止める重さが脳幹の上に被せられたサポートスプリングを少しずつ収縮させていく。久しぶりに酷使された生身の部分が噴き出した汗が早速非効率なエアロダイナミクスによって冷たい雫となり身体の後方へと追いやられていく。普通の人間なら上がり切って息切れを起こすようになっても、自分の胸の真ん中で予定調和の如く血液流量と圧縮率を緩やかに調節してくれやがるペースメーカーが自分を正に馬車馬の如く駆り立てる。

 「死ねるぜ・・・!」「私も一緒に走るわ!」「まだだ!俺の方が速い・・・!」

 一度試してみたいと密かに思い続けていた。恐らく人類有史上最も過酷な世界の中を生き延びる程に過激にチューンナップされ、放置され、持て余していたこの性能が、平穏な社会の治安を維持できていれば良い程度の要件の為に稼働する高性能機とどの程度渡り合えるのか。密かな好奇心がずっと、街頭のブレイキングニュースを眺めるうちに浮かんでいた。

 その証明が少なからず叶ってしまった。ただ、自分がブレイキングニュースにはなりたくない。

 埃をかぶった黄色と黒の鉄骨製柵をハードルの要領で飛び越える。地面から離れた瞬間の後ろ脚の伸びた膝がジリリと具合の悪い音を響かせる。着地した地面は一変して小石の転がる正真正銘の洞窟風景。整備用トンネルを出てメトロの掘削工事の時に掘られた廃洞窟に侵入したのだ。この都市の地下にはこういう工事の資材置き場だったのだろう取り敢えずの空洞が線路を中心に至る所に存在する。この地下世界が築き上げられた理由の1つでもある。最早工事重機類は概ね取り払われ、持て余した廃材や鉄骨組の構造物が赤さびを帯びながら寂しく散在し鎮座している。その間を抜けるように、記憶に残る光の抜け穴に向かって再び加速させる。

 咄嗟に暗視カメラをメイン視野にモニタリングしたのが仇になった。背後から数瞬遅れで洞窟に雪崩れ込んで来た2体の人型がかなりの光量のサーチライトを頭部から放出したのが視界を掠めて軽いホワイトアウト状態になった。

 慣れない事はするもんじゃない。普段の自分が日頃口癖のようにボヤいてる事だ。案の定、視界を奪われた瞬間のつま先が捉え損ねた地面の窪みを掠めて不意に全身が落下するような浮遊感を得た。

 「ヴんっ・・・」

 たった30cmほどの高さの空中で足が大きく2周振り子を描いた。

 慌てるな。足を着けるとこから。

 つま先が地面を噛んだ。続いて全体重を乗せた踵が圧し固められた地面に衝突して骨格を伝播した衝撃が顎をゴンと殴って来た。

 「ん゛んっ!」「大丈夫か!?」

 顎の下で鳴いた濁音交じりの声は呻きを噛み殺してくれている。

 「もう少しだ。」

 実際はまだ少し距離がある。

 『止マリナサイ。大人シク投降シテ下サイ。』

  『止マリナサイ。大人シク投降シテ下サイ。』

 今の一瞬で数mは距離を縮められた。恐らく地形が開けたせいで追っている2機も横並びで加速している。とうとう形勢が変わって来てしまったのを肌がジリジリと感じ取って頬が突っ張っていく。ただ洞窟の寒さにあてられただけかもしれない。ここは寒い。

 『止マリナサイ。』

 躓いた勢いを取り戻すのに一生懸命になりすぎたのが悪かった。考えてみれば当たり前の事のように、再び例の激しい眩暈が後頭部から直撃した。

 「2度も効くか!」

 眩暈を覚える。あまりにも無理矢理な方法だが、実際に何度もそれでこと無きを得て来た。今回も無理矢理・・・

 また後頭部に伝播してきた波が既に頭を揺らしている波に合わさって倍の眩暈をぶつけて来た。

 最早すぐにでも嘔吐したくなるような、それどころかどちらが地面かも定かでなくなってくる。頭の中で謎の幾何学的波形が上下左右から交わって意味の分からない文様を蠢かせている。

 立っていられない。

 「ヴぉうぇえ・・・」「ジャック!ジャック!」

 膝から落とした身体から滑って抜け出した少女が肩を思い切り揺すってくるのが3つ目の揺れになりかけている。

 「・・・行ける。」「早く!!」

 今度は自分が手を引かれてヨロヨロと走り出した。自分の半分程度しかない背丈の後ろ姿が嫌に逞しく見える。少しずつ地面を蹴る振動を感じながら自分の走りに実感を取り戻して再び加速を始める。

 スピードは少女の走る速度が基準になっている今、明らかに子機たちの距離が縮まってきているのが分かる。

 「何か、何かないか・・・。」

 ここは工事現場跡地。廃材やら倒壊した足場やらが所により散在している。何か手ごろな物があれば、

 「あった。」「なにがあったの!?」「アリスそのまま走れ!!」

 自分の左脇に落ちている赤錆びと泥まみれの道具類の中から1m程ある掘削用スコップとスレッジハンマーを2本掴んで思い切り引き抜いた。

 「うぉぉおおぉりゃぁあぁあああ!!」

 持ち手を掴み直し、土埃が舞うのも気にせずにフルスイングで背後の2機に向かって投擲した。

 ブンブンと鈍い風切り音を上げながら回転して飛んで行った2本の鈍器の放物線の先で、先行していた1機は上手く着弾地点を予測し走る機体を横方向に跳躍させてみせた。しかしその所為で突然開けた視界に飛来物の脅威を捉えたのだろう2機目は、ヘッドカメラこそスコップを見つめて回避モーションを取ろうとしたものの、その直後から被さるように飛来したハンマーには対応しきれなかった。

 ガシャンと、まるで荷物満載のショッピングカートが壁に激突した時のような複雑な音が洞窟の中に響き渡った。スコップ以上にキツイ遠心力のかかったスレッジハンマーのヘッド部分が丁度頭部の辺りに直撃して大きく凹ませたスチール製のピクトグラムが、死にかけのバッタみたいにひっくり返って痙攣しているのを視界の隅に捉えた時には既に踵を返して少女に追いつく為の加速を掛けていた。

 あとは残りの1体をどうにか巻くだけ、いや別に倒す必要もない。とにかく逃げ切る事、それが叶えば一先ずはいい。後のことはそれから考えればいい。とにかく今は少女の背中に追いつく事だけを考える。それが叶ったら、次は少女を抱えて、低周波照射器の射線に被らないように走るだけ。

 簡単な事を全速力で実行しろ。

 自分の全速力は慣れない運動でパタパタと走っている少女に追いつく事など造作もない。長くて5秒もあれば追いついて見せる。

 考える間にもう2秒分は距離を詰めた。

 さっきの追跡の速度から考えても再びアリスを抱えて加速すればギリギリ記憶にある出口まで滑り込める。

 あと2m、次の2歩で指先が少女に届く。

 手を伸ばす。気休めかもしれないが走りながら抱え上げる体勢を取る為の事前準備だ。

 『止マリナサイ。』

 まだ動けている残りの1機が音声を飛ばしてきた。

 その時だった。


 ―――。


 いきなりイヤーマイクが何の音も拾わずに静寂を脳味噌に届けた瞬間、身体が後ろから車に轢かれたみたいにボンと押し飛ばされた。

 恐らく衝撃に伴って一瞬発生したらしい真っ白な閃光もやはり自分の視覚素子に横ズレのノイズを発生させたが、それ以上にあまりの衝撃に頭部外装と生身の首の境界が鞭打ちのような痛みを走らせた。

 この感覚には覚えがある。

 丁度自分の後ろ辺り、足元に着弾した何かが爆発したのだ。




 5.


 気付いた時には勢いのままに地面に転がっていた。幸い視界にノイズが走ったのも一瞬で、きっと意識も失ってはいない。このまますぐに起き上がってアリスを回収すればまだ間に合う。

 ふと気が付いた視界の先には恐らく今の爆発が原因で動作を停止したステラートの残りの1機が倒れている。このまま起き上がってすぐに逃げれば寧ろ状況は好転するかもしれない。

 「アリス大丈夫か!?」

 返事がない。

 「アリス!」

 全身がズキズキ痛むが起き上がる事はできた。

 「アリス、大丈夫か!」

 グラつく視界を振り回しながら発した声への返答は再び出口の方を見た視界にすぐに飛び込んで来た。

 「アリス!」

 自分から5m程の距離の先に、少女が蹲って震えている姿があった。

 「おい大丈夫か!」「うぅ・・・!」

 「今の爆発か!」

 「痛い。」

 「わかってる、怪我を見せてくれ!」

 「うぅん!!痛い!!」

 「なに言ってんだ。ロボットだろ!」

 「痛いぃ!!」

 「・・・は?」

 「ゔぅ・・・痛いぃ・・・。」

 「・・・おい。・・・お前、痛い、ってなんだよ・・・。だってお前、」

 「ゔわぁぁああん!!痛いぃいぃ!!あぁぁぁー!!」

 「ロボット・・・なんだろ・・・。」


 爆発で動転した意識を奮い立たせる為に我武者羅だった心からスゥっと熱が引き、全身を得体の知れない寒気が包んでいた事にやっと気付いた。この寒気の正体はなんなんだ。何なんだ。分からない。分からない。

 分からない。

 ・・・ただ、自分をそうさせている原因だけは、なんなのか、嫌な位よく分かった。

 恐らく爆発で吹き飛ばされたのだろう少女が膝から荒い地面に着いてできた傷。爆発で吹き飛ばされた少女型の”ロボット”が地面に擦れてできたのだろう外傷。

 蹲りながら細い両腕で押さえている曲げた膝からは、ダラダラと真っ赤な血液が痛々しく流れ出ている。その事にパニックになり最早泣く事しかできない少女の姿は・・・正に少女でしかないじゃないか・・・。

 「あぁもう!」

 ボアジャケットの下に来ていたタンクトップの端を無理矢理引っ張り出して力任せに引きちぎり、少女の赤くなった膝に巻き付けてからキツく固く結び締めた。

 「もう少しだ!俺にガッシリ掴まってればいい!」

 「・・・うぅ。・・・うん。」

 「よし。行くぞ。」

 泣き止んでからの素直さはやはり今まで通りのどこか無機質なロボットらしさにも、はたまたこれ位の年頃の少女相応の様子にも見えた。

 一瞬また混乱しかけた思考を振り払って置いてきぼりにするように、ブーツのつま先にグッと体重を乗せて、再び出口に走り出した。




 6.


 「チッ、逃がしたか。」

 地面に広がる黒い星型の爆発痕の真ん中にはスイカ程の大きさの窪みができている。偶々珍しい全身擬態化済みのサイボーグだった事もあり試しの気持ちも兼ねて車両制圧用のランチャー弾を発砲してみたが、この威力で直撃していれば流石のサイボーグも木端微塵になっていただろう。

 「ふぅ、当たらなくて良かったぁ。」

 職務規律に違反してしまうと懲戒の可能性もある。

 「俺をクビにしないでくれてありがとよ。オンボロ野郎。」

 しかしすぐに目先に残った赤黒い血痕にも気付いた。

 「これって・・・どっちのだ?ま、見てみりゃわかるか。」

 今回の発砲で一番検討外れだったのは弾が直撃したかどうか以上に、今背後で静かになっている不気味なピクトグラムがこの程度の衝撃にも耐えられなかった事だった。こいつが動けていれば間違いなくターゲットは拘束できたのに。

 「おーい、起きてるかぁ?おいってば、このポンコツ野郎。」

 返事がない。ただの屍のようだ。

 「あー、これなんかあれだな、地下空間なのもあって通信切れたとかそういう系かもな。戻ってフィードバックしないとなぁ・・・メンドイ。」

 単独で追跡をしようかと考えもしたが、すぐ先までは泥にくっきりと残されている足跡のスタンプもその先のコンクリートの地面になってからすぐに視認できないレベルで薄くなってしまっている。

 「まぁ今日はここの調査が目的だった訳だし、寧ろ成果はプラスの方が大きい、って事でいいだろ。」

 そうポツポツと呟いた独り言は肌寒い地下空間に吸い込まれて行った。

 「・・・雨の音か。寒くなるぞ・・・。」

 男は再び地面の血痕をつまらなそうに見下ろしてから、ポケットの通信端末を開いて元来たトンネルの方に歩いて行った。

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CANNED MEAT 九三郎(ここのつさぶろう) @saburokokonotsu

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