砕かれし願いの鏡

〈喜びなき願いの鏡〉はセリヴェルド七大呪宝の一つである。


 作成者は歴代魔王の誰かとも、〈万魔殿パンデモニウム〉を統べる十大魔公の誰かだとも、いやいや闇の神メーヴェルド本人だともされる。要するに、誰であれろくな奴ではなかろうということだ。


 鏡面はぬらぬらした紫色の光沢を帯び、漆黒の枠はからみ合う蛇をかたどり、背面には悲鳴を上げる醜女しこめの顔が刻まれているという──最早、呪物であることを隠そうともしていない意匠デザインが、他の七大呪宝に比べて良心的と言えば良心的か。


 否、呪物と解っていても使わざるを得ない人々に対する、作成者の嘲笑が込められているのかもしれないが。


 身をがす程に渇望かつぼうしながら、自力では叶わぬ願いを抱いている──そんな人間の前に、鏡は自ら姿を現す。そして、その鏡面上に映し出すのだ。叶わぬはずの願いが叶った幻像を。


『これが現実だったら!』


 身悶みもだえする人間に対し、すかさず鏡は念話テレパシーでささやく。その願いを叶えてやろう。ただし、なんじの喜びを代償としてささげよ、と。


 応じた人間の末路については、いくつもの逸話エピソードが伝えている。例えば──。


 ある仲睦なかむつまじい夫婦がいた。貧しくとも幸せな日々過ごしていたが、妻が黒血病に倒れてしまう。現代でも不治と恐れられる病である。黒い血を吐き、日に日にやせおとろえていく妻。悲しみと看病疲れで、夫まで倒れそうだった。


 ある日、夫が泥のような眠りから覚めると、壁に架けられている見覚えのない鏡に気付いた。気味悪がりつつのぞき込むと、鏡面に映る自分の姿がぐにゃぐにゃと歪み──妻の姿を映し出した。奇跡的に回復し、自分と抱き合って喜ぶ姿を。


 驚く夫に、鏡はすかさず取引を持ち掛けた。元より妻さえ助かるなら、己の命さえ差し出すつもりでいた夫である。おののきつつ同意した。鏡面に何者かの歪んだ笑みが浮かび──彼が我に返ると、鏡は何処どこにもなかった。妙な夢を見たとため息を吐き、妻の様子を見に行くと──。


 寝台から立ち上がり、困惑している妻に出迎えられた。もう一ヶ月近く寝たきりだったのに。


 奇跡が起きた! 夫は光の女神セリアーザに感謝を叫び、回復した妻を抱きしめた。そう、あの鏡が映した光景通りに。だが──。


 その直後、妻は絶叫して夫を突き放した。彼女は体中に浮き出た黒斑こくはんを見て、半狂乱になっていた。そう、黒血病の症状である。彼女以外に生存者がいないため、回復後も残るとは誰も知らなかったのだ。


 夫は必死に『自分は気にしない』『命が助かっただけで十分だ』となだめたが、妻は聞き入れなかった。『死んだ方がましだった』と絶望し、人目を恐れて部屋に閉じこもった。挙句の果てには、『なぜ死なせてくれなかった』と夫をなじり、『あんたとなんか結婚するんじゃなかった』と口走るようになり──。


 ──気が付くと、夫は妻を絞殺していた。己の命と引き替えてでも、助けたかったはずの彼女を。


 妻の亡骸なきがらを呆然と見下ろしながら、夫はようやくあの取引が意味するものを理解していた。鏡は約束通り妻の黒血病を治してくれた。だが、それによって夫婦が得るはずの喜びを、全て奪っていったのだ──こちらも約束通りに。


 逸話は他にもある。


 不妊に悩む女性が、鏡と取引して子供を授かった。だが、子供は生まれつき邪悪な精神の持ち主だった。幼い頃から小獣類どうぶつを殺す悪癖で母親を悩ませ、成長後は殺人鬼と化して国中を震撼しんかんさせた。ついに捕らえられ、処刑前に言い残した言葉は『よくも俺を生み出したな』だったという。


 貧しい商人が、鏡と取引して大金持ちになった。だが、商人は手に入れた富を盗まれるのではないかと、疑心暗鬼におちいった。自宅を城壁で囲み、泥棒よけの罠を満載し、ついには宝物庫で寝泊りするようになる。結局、それが商人の死因になった。地震で金貨の山が崩れ、下敷きになったのである。


 ──と、ここまで語っておいて何だが、鏡が実在するのか否かは、研究者の間でも意見が分かれている。他の七大呪宝についても言えることだが、逸話ばかりが多く直接の目撃者は皆無なのである。


 実在派は逸話の多さを根拠に挙げるが、否定派は全て作り話だと反論する。もし鏡が自分の前に現れたら、果たして誘惑に勝てるだろうか──そんな人々の不安が、教訓として生み出したに過ぎないと。


 一方、騎士や聖職者のような高潔な人物が鏡を砕く、という類型タイプの逸話も多い。こちらは鏡の誘惑に勝てる自信がないから、いっそ破壊してくれという人々の願望の現れであろうか。この類型で特に有名なのは、聖典にも登場する聖ガラハムを主人公にした逸話であろう。


 聖ガラハム──乙女に憑依ひょういした悪魔をはらう、パンの雨を降らせ酒の泉を湧かせる、都を襲う災厄を予言するなど、若い頃から数々の奇跡を起こしながらも、神殿の快適な役職を辞退し、各地を放浪して人々を救い続けたことから、旅や交通の守護聖者としても知られる。


 そんな聖ガラハムにも、当然ながら防げぬ悲劇はあった。崖から落ちた子供はすでに死んでいたし、チスイシビトの犠牲者は退治するしかなかった。エベール川の氾濫はんらんにはす術がなかった。


 己の無力さを悔いる聖ガラハムの前に、大胆にも鏡が現れる。かの聖者すら誘惑する自信があったのだろうか。だが、それは甘かった。何せ、その邪悪さを一目で見抜いた聖ガラハムは、鏡に取引を持ち掛けるいとますら与えなかったのだから。


 果たして、聖ガラハムの祈りに応え、降った天罰の雷が鏡を砕き──。


 *


 寂しげな風が、村外れの墓地を吹き抜けていく。


 葬列の人々も去り、残っているのはガラハムのみだ。真新しい墓石の前にひざまずいて、死者の為に祈っている──ようによそおっているが。


拙僧せっそうはまた救えなかった)


 ガラハムは虚しさを飲み込めずにいた。


 犠牲者はゴブリンの毒矢に倒れた兵士だった。駆け付けたガラハムの祈りで解毒には成功したものの、回復に必要な生命力は既に尽きており、夜明けと同時にその魂は〈至天の塔ジッグラト〉へ飛び立った。それでも兵士の遺族や同僚は、彼に感謝してくれたが。


(慈悲深きセリアーザよ、何故なにゆえセリヴェルドは死と苦しみに満ちているのですか──貴方あなたは本当に慈悲深いのですか)


 ガラハムを聖者と崇める人々には、想像も出来ないだろう。彼が内心では、いつもセリアーザを疑っているなど。


(むしろ──)


 何故、自分のような不信心者に、セリアーザは奇跡の力をお授けになったのだろう。ガラハムが神殿の要職を拒み続けるのも、自分にそんな資格があるとは思えないからだ。放浪の聖者という尊称も、彼にとっては皮肉でしかない。


 いっそ、放浪の旅すら止めて、無人の荒野にでも引きこもってしまおうか。ガラハムが絶望の安寧あんねいに身をゆだねかけた、その時。


「お久しぶりです、ガラハム様」


 聞き覚えのある声に振り返ると、墓場には不似合いな人物が立っていた。色とりどりの衣に、銀色の弦楽器リュート。風獣ヒスイクジャクの羽をあしらった帽子の下では、男とも女とも付かない美貌が微笑ほほえんでいる。


「おお、何時いつぞやの──」


 旅の道中で出会った吟遊詩人であった。だが、ガラハムが彼を覚えていたのは、その七色の美声ゆえでも、弦楽器のたえなる調べ故でもない。


「詩人殿、其方そなたには礼を言いたかった」

「おや、私のような芸人風情が、聖者様のお役に立てましたかな?」

「喜びなき願いの鏡──あれは本当の話だったのだな」


 吟遊詩人の顔から微笑みが消えた。


「もしや、ガラハム様の御前に?」

「現れよった。ああ、心配は無用。あれがどういう存在かは、其方の物語で知っておったからな。問答無用で打ち砕いてやったわ。破片は聖火で灰にしてから、別々の川に分けて流した。二度と復活は出来まい」

「ならば、私としては光栄の至りですが──それにしては、ガラハム様はあまりお喜びでないご様子」


 ガラハムは返答に一拍を要した。全知なるセリアーザの御前に立たされたような、どうしようもない後ろめたさを覚えて。


「後悔──しておるのかもしれん。あの鏡を砕いたことを」


 鏡が手元にあれば、あの兵士も救えていたのではないか。否、これからも救い損ねるであろう、幾多いくたの人々も──どうしても、そんな考えがぎってしまう。


「しかし、鏡で救われた人間は──」

「解っておるよ、其方の物語の登場人物のように、悲惨な末路を辿たどることになるのだろうな──だが、命とはそれ自体で尊いものではないか? 獣類は楽しいから生きている訳ではあるまい」


 それに──と、ガラハムは心の中でだけ続ける。不穏な想像を。


(拙僧は即座に鏡を砕いたつもりだったが、実は取引をしてしまったのではないか──無意識の内に)


 鏡に最後に映っていたのは、鏡を砕かんとする自分の姿だった。つまり″鏡を破壊したい″という自分の願いを、皮肉にも鏡が叶えたのではないか。そして、取引による呪力は、鏡が破壊された後も消えないのだとしたら。


(拙僧は決して鏡の破壊を″喜べない″、死ぬまで後悔し続けねばならぬのか? おお、天の裁定者セリアーザよ、それこそが──)


 偽りの聖者への天罰なのですか。


「ガラハム様──」


 吟遊詩人はしばしの沈黙を挟み、そして続けた。


「余計なお世話でなければ、貴方の後悔を解消させて下さい」

「それは──願ってもない申し出だが、どのように?」

「亡くなった兵士殿のことを、なるべく詳細にお教え下さい」


 戸惑いながらも、ガラハムはわれた通りにした。幸い、あの兵士の来歴や人柄は、遺族や同僚から聞いていた。勇敢かつ心優しい青年で、皆を守る為に兵士になったらしい。毒矢を受けたのも、後輩をかばった結果だったとか──何と惜しい人物を死なせてしまったものか。ガラハムの後悔は一層膨れ上がったが。


「ありがとうございます。では、しばしお耳をお貸し下さい」


 聴き終えた吟遊詩人は、弦楽器を爪弾つまびきながら語り始めた。あの兵士を鏡で救っていたら、どんな未来が彼を待っていたかを。想像の、しかも即興の物語とは信じられない程、具体的で生々しく。


 生き延びた兵士は、周囲から英雄としてたたえられる。その名声は国王の耳にも入り、兵士は騎士に叙任じょにんされる。栄光に包まれるのも束の間、彼を待っていたのは同じ人間──敵国人との戦いだった。優秀な彼は勝利と出世を重ねるが、罪悪感と虚しさもまたおりのように重なっていく。


 だが、これすらも後悔の序曲でしかなかった。


 長引く戦乱に、かさむ戦費。まかなう為に課された重税が切っ掛けで、国民が反乱を起こす──彼の生まれ故郷を中心に。いまや将軍にまで上り詰めていた彼は、国王から反乱の鎮圧を命じられる。断れば反逆罪に問われ、家族まで道連れにし兼ねない。従うしかなかった。


 戦火に包まれる故郷、かつての同僚たちのむくろを前に、彼は慟哭どうこくして崩折れる。


「『こんな未来が待っているなら、あの時に死んでいれば良かった!』」


「おお、やめてくれ! もう十分だ」


 耳をふさいでうずくまるガラハムを前に、吟遊詩人は語りを止めた。


「お許し下さい。死者を冒涜ぼうとくするつもりはないのです。ただ、私が申し上げたいのは──」


 吟遊詩人はあえて淡々と続ける。芸人風情が聖者をなぐさめるなど、烏滸おこがましいとでも言いたげに。


「人間は獣類にはなれぬという事実です。故にこそ、人間には死よりも恐ろしく、そして悲しい生も有り得るのです。貴方は人々を、そんな生から救ったのですよ。永遠にね」

「解っておる、解ってはおるのだ。ただ──」


 寒さに震えるかのごとく、ガラハムはおのれの身体を抱えている。失った衣は信仰か、それとも。


「拙僧は罪深い人間だ。他人の不幸を想像して、自分が救われた気になっておるとは」

「それはつまり、後悔が和らいだという意味でしょう? 貴方が鏡と取引していない証拠ですよ」


 ガラハムは驚きに眼を見開く。見透みすかされていたか。


(詩人殿、其方は──)


 神の御使いか、それとも悪魔の化身なのか? 問い掛けようと、ガラハムは振り返るが──。


 吟遊詩人の姿は、既に何処にもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る