砕かれし願いの鏡
〈喜びなき願いの鏡〉はセリヴェルド七大呪宝の一つである。
作成者は歴代魔王の誰かとも、〈
鏡面はぬらぬらした紫色の光沢を帯び、漆黒の枠は
否、呪物と解っていても使わざるを得ない人々に対する、作成者の嘲笑が込められているのかもしれないが。
身を
『これが現実だったら!』
応じた人間の末路については、いくつもの
ある
ある日、夫が泥のような眠りから覚めると、壁に架けられている見覚えのない鏡に気付いた。気味悪がりつつ
驚く夫に、鏡はすかさず取引を持ち掛けた。元より妻さえ助かるなら、己の命さえ差し出すつもりでいた夫である。
寝台から立ち上がり、困惑している妻に出迎えられた。もう一ヶ月近く寝たきりだったのに。
奇跡が起きた! 夫は光の女神セリアーザに感謝を叫び、回復した妻を抱きしめた。そう、あの鏡が映した光景通りに。だが──。
その直後、妻は絶叫して夫を突き放した。彼女は体中に浮き出た
夫は必死に『自分は気にしない』『命が助かっただけで十分だ』と
──気が付くと、夫は妻を絞殺していた。己の命と引き替えてでも、助けたかったはずの彼女を。
妻の
逸話は他にもある。
不妊に悩む女性が、鏡と取引して子供を授かった。だが、子供は生まれつき邪悪な精神の持ち主だった。幼い頃から小
貧しい商人が、鏡と取引して大金持ちになった。だが、商人は手に入れた富を盗まれるのではないかと、疑心暗鬼に
──と、ここまで語っておいて何だが、鏡が実在するのか否かは、研究者の間でも意見が分かれている。他の七大呪宝についても言えることだが、逸話ばかりが多く直接の目撃者は皆無なのである。
実在派は逸話の多さを根拠に挙げるが、否定派は全て作り話だと反論する。もし鏡が自分の前に現れたら、果たして誘惑に勝てるだろうか──そんな人々の不安が、教訓として生み出したに過ぎないと。
一方、騎士や聖職者のような高潔な人物が鏡を砕く、という
聖ガラハム──乙女に
そんな聖ガラハムにも、当然ながら防げぬ悲劇はあった。崖から落ちた子供は
己の無力さを悔いる聖ガラハムの前に、大胆にも鏡が現れる。かの聖者すら誘惑する自信があったのだろうか。だが、それは甘かった。何せ、その邪悪さを一目で見抜いた聖ガラハムは、鏡に取引を持ち掛ける
果たして、聖ガラハムの祈りに応え、降った天罰の雷が鏡を砕き──。
*
寂しげな風が、村外れの墓地を吹き抜けていく。
葬列の人々も去り、残っているのはガラハムのみだ。真新しい墓石の前に
(
ガラハムは虚しさを飲み込めずにいた。
犠牲者はゴブリンの毒矢に倒れた兵士だった。駆け付けたガラハムの祈りで解毒には成功したものの、回復に必要な生命力は既に尽きており、夜明けと同時にその魂は〈
(慈悲深きセリアーザよ、
ガラハムを聖者と崇める人々には、想像も出来ないだろう。彼が内心では、いつもセリアーザを疑っているなど。
(むしろ──)
何故、自分のような不信心者に、セリアーザは奇跡の力をお授けになったのだろう。ガラハムが神殿の要職を拒み続けるのも、自分にそんな資格があるとは思えないからだ。放浪の聖者という尊称も、彼にとっては皮肉でしかない。
いっそ、放浪の旅すら止めて、無人の荒野にでも引きこもってしまおうか。ガラハムが絶望の
「お久しぶりです、ガラハム様」
聞き覚えのある声に振り返ると、墓場には不似合いな人物が立っていた。色とりどりの衣に、銀色の
「おお、
旅の道中で出会った吟遊詩人であった。だが、ガラハムが彼を覚えていたのは、その七色の美声
「詩人殿、
「おや、私のような芸人風情が、聖者様のお役に立てましたかな?」
「喜びなき願いの鏡──あれは本当の話だったのだな」
吟遊詩人の顔から微笑みが消えた。
「もしや、ガラハム様の御前に?」
「現れよった。ああ、心配は無用。あれがどういう存在かは、其方の物語で知っておったからな。問答無用で打ち砕いてやったわ。破片は聖火で灰にしてから、別々の川に分けて流した。二度と復活は出来まい」
「ならば、私としては光栄の至りですが──それにしては、ガラハム様はあまりお喜びでないご様子」
ガラハムは返答に一拍を要した。全知なるセリアーザの御前に立たされたような、どうしようもない後ろめたさを覚えて。
「後悔──しておるのかもしれん。あの鏡を砕いたことを」
鏡が手元にあれば、あの兵士も救えていたのではないか。否、これからも救い損ねるであろう、
「しかし、鏡で救われた人間は──」
「解っておるよ、其方の物語の登場人物のように、悲惨な末路を
それに──と、ガラハムは心の中でだけ続ける。不穏な想像を。
(拙僧は即座に鏡を砕いたつもりだったが、実は取引をしてしまったのではないか──無意識の内に)
鏡に最後に映っていたのは、鏡を砕かんとする自分の姿だった。つまり″鏡を破壊したい″という自分の願いを、皮肉にも鏡が叶えたのではないか。そして、取引による呪力は、鏡が破壊された後も消えないのだとしたら。
(拙僧は決して鏡の破壊を″喜べない″、死ぬまで後悔し続けねばならぬのか? おお、天の裁定者セリアーザよ、それこそが──)
偽りの聖者への天罰なのですか。
「ガラハム様──」
吟遊詩人はしばしの沈黙を挟み、そして続けた。
「余計なお世話でなければ、貴方の後悔を解消させて下さい」
「それは──願ってもない申し出だが、どのように?」
「亡くなった兵士殿のことを、なるべく詳細にお教え下さい」
戸惑いながらも、ガラハムは
「ありがとうございます。では、しばしお耳をお貸し下さい」
聴き終えた吟遊詩人は、弦楽器を
生き延びた兵士は、周囲から英雄として
だが、これすらも後悔の序曲でしかなかった。
長引く戦乱に、
戦火に包まれる故郷、かつての同僚たちの
「『こんな未来が待っているなら、あの時に死んでいれば良かった!』」
「おお、やめてくれ! もう十分だ」
耳を
「お許し下さい。死者を
吟遊詩人はあえて淡々と続ける。芸人風情が聖者を
「人間は獣類にはなれぬという事実です。故にこそ、人間には死よりも恐ろしく、そして悲しい生も有り得るのです。貴方は人々を、そんな生から救ったのですよ。永遠にね」
「解っておる、解ってはおるのだ。ただ──」
寒さに震えるかの
「拙僧は罪深い人間だ。他人の不幸を想像して、自分が救われた気になっておるとは」
「それはつまり、後悔が和らいだという意味でしょう? 貴方が鏡と取引していない証拠ですよ」
ガラハムは驚きに眼を見開く。
(詩人殿、其方は──)
神の御使いか、それとも悪魔の化身なのか? 問い掛けようと、ガラハムは振り返るが──。
吟遊詩人の姿は、既に何処にもなかった。
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