DEVENIR PAPILLON

幽世とこよ

第1話 私たちは蛾

 私は蝶だ。

 鮮やかな羽をひらひらと羽ばたかせて宙を舞う。辺り一面の花畑を、自由に飛び回っている。

 そうやっていることが無性に楽しかったのだが、少しだけ疲れてしまった。羽休めをしようと、ふと目についた青い花へと向かう。

 ああ、これはなんという名前の花だったっけ。たしかにこの花の名を誰かに教わったはずだけれど、ちっとも思い出せない。

 青い花は爽やかな風に吹かれて揺れている。すぐ上を飛ぶ私を歓迎しているかのようだ。花には顔はないけれど、きっと笑っている。私は花に降り立って、そこでようやくこれが夢だと気付く。


 微睡みの中で私を呼ぶ柔らかな声が聞こえて、瞼を開けた。


「オフェリアったら」

 少年が私を覗き込んでいる。彼の瞳はいつ見ても不思議だ。光の当たり具合で、どんな色にも見える気がする。


「シエル」

 彼の名前を呼べば、シエルは呆れたように笑って、私のブランケットをはいだ。先程までの温もりと心地よさが奪われて、思わず体を丸める。


「君は本当にねぼすけさんだよね」

 奪い取ったブランケットを器用に折り畳みながら、シエルはそう言う。


「まだ時間じゃないでしょう」

「何を言ってるの。遅刻だよ」

「嘘っ」

 嘘じゃないよ、とシエルが部屋の壁に浮かぶ数字──時計を指差した。

 たしかに彼の言う通り、朝礼の時間はとっくに過ぎている。無情だ。


 飛び起きて着替えようと服に手をかけた瞬間にシエルは驚きの声を上げながら私の部屋から出ていった。

 早く準備を済ませてみんなのもとへ向かわないと。


 寝癖の取れない髪はこの際放っておく。着替えを終え、最速で歯を磨き、顔を洗ってから部屋を出る。

 部屋の外ではシエルが壁にもたれ掛かっていた。


「待っててくれたの?」

「うん。パピヨンに怒られる時、一人だと心細いんじゃないかと思って」

 なんだかジーンとした。持つべきものは友達だと誰かが言っていたけど、その通りだ。

 私はシエルの手を取って、殺風景な廊下を走った。




 *




「オフェリア、シエルの両名には罰として共用トイレの掃除を命じます」

 パピヨンの無機質な声が会議室に響いた。それから後ろで笑いをこらえている少年の声も。


「パピヨン、クロードの態度が悪いと思います。彼も罰してください」

 パピヨンというのは私たちを管理しているAIだ。感情は削ぎ落とされているが、私たちに害をなす存在ではない。


「おい、ふざけんなよオフェリア。お前とシエルが遅れたのが悪いんだろうが。今はオレの態度は無関係だろ」

 クロードと私は犬猿の仲というやつで、いつもこうやっていがみ合っている。


「兄さん、やめて。オフェリアも」

 我関せずのメンバーが多い中で、私たちの仲裁に入るのは大体シエルかクレアだ。今回はクレアが止めに入ってくれた。

 クレアはクロードの妹。クロードと違って人間ができていると思う。小さな体で図体と態度のでかいクロードを全力で引き止めている。

 この兄妹の相似点は金色の髪と翠眼だけだ。

 クロードなんてただのゴリラ。ゴリラというのは、パピヨンの見せてくれる映像でしかまだ見たことはないけど、そっくりだ。


「繭の内部で争った者には罰を与えます」

 パピヨンが無慈悲に告げる。


「待って。オフェリアたちは争っているわけじゃないんです。戯れ合っているだけです」

「仲が良いことはとても良いことです」

 シエルの言葉に納得したのか、パピヨンに褒められる。

 私とクロードは勿論納得がいっていなかった。


 ────誰がこいつなんかと!!

 お互いがそう思っていることなどつゆ知らず、パピヨンが再び話し始める。


「地上の探索任務を与えます。二つの班に別れて任務を遂行してもらいます」

「そればっかだな」

「文句言わないの、兄さん」

 後ろで小さくそう聞こえた。


 私たちは宇宙から地上に送られた探索隊だ。

 ある日突然謎のテストを受けさせられて、環境に適応する能力が高いのだとか言われて、繭に乗せられてここへ来た。

 地上の核汚染はおよそ数百年前には元通りになっていて、今ではすっかり生き物の棲める星になっているのだと宇宙での授業で教わっていたので、その時は特に抵抗は無かった。ただ、人類以外の生物が生き延びていたとすると、地上でどのような進化を遂げているかわからないため、その点は大きな不安の一つだ。

 地球へとやって来て、一週間は体を慣らした。二週間目で繭の周囲はすでに探索済みで、行けども行けども木だらけの森なのは把握している。パピヨンは一体次はどこまで行けと言うのだろうか。




 *




 私達、A班の五名は鬱蒼とした森の中を歩いていた。


「水辺ねぇ。確かに宇宙から持って来た水はそろそろ底をつきそうだったけどな」

 私の斜め後ろで含みのある言い方をしているのはフレイ。黒髪を鬱陶しそうにかき上げている。


「何か言いたげじゃない」

 私が口を開く前にそう言ったのはシズク。眼鏡のレンズが反射していて、表情はよく窺い知れない。


「お前らも内心気付いてるだろ。オレたちは死地へと厄介払いされたって事によ」

「問題児だらけだものね」

 繭のメンバーの事だ。確かにコロニーに居た頃から問題を抱えているメンバーは多かった。特にフレイ。いつでもこんなふうに場の空気を嫌なものにしようとする。コロニーに居た頃、彼がソーシャルスキル・トレーニングの常連だったことを覚えている。大人たちはフレイを相手になんとか普通の交流を試みるが、みな最後はお手上げ状態になってしまっていた。大人がお手上げになるのだから、私たちに彼をコントロールすることが出来るわけがない。いつもはパピヨンの命令を無視して勝手な行動をとっている彼だが、今回は自分の生命線に関わることだからだろうか、比較的きちんと参加している。


 フレイの言う通り、多分私たちは地球に捨てられたのだろう。繭には私たちを生かそうとする設備がない。例えば雨から飲料水を作るような機械、そういったものは一切備え付けられていないのだ。パピヨンによれば、現地調達しろということらしいが。今まで宇宙で与えられたものを消費して過ごすだけであった私達に、そのようなスキルがあるはずもなかった。


 ただ、私達を捨てることが目的なのであれば、何故パピヨンというAIを搭載した繭に乗せたのかがわからない。


「きっとこれは試練なんだよ。みんなで乗り越えれば宇宙から迎えが来るはずだよ」

 隣を歩くシエルが微笑む。フレイは唾を吐き捨てた。


「待て」

 今の今までずっと黙っていたヨハネが歩みを止めて静かにするように言う。


「何? ついにお出まし?」

 私は核汚染を生き残り変質した野生動物を想像する。森を見渡すが、静かなものだ。


「いや……。水の流れる音だ」

 向こうから、とヨハネが指差した方へしばらく進むと、彼の言った通りに流れる水があった。


「川だよ! オフェリア!」

 水を掬って、嬉しそうに振り返るシエル。隣にしゃがみ込んで、水の中に手をつけ込んだ。冷えていて気持ちがいい。見た目は特に問題なさそうだ。


「数値にも異常は無さそうだが」

 川の水に謎の機械を向けていたヨハネも、水に触れている。


「その機械を信用していいもんかねぇ」

「あなただけ干からびてれば?」

 シズクは相変わらずはっきりとものを言う。言われて渋々とフレイも川へと歩みを進めた。


「どの道もう、この地球上の水分に頼らなきゃ生きていけないわけだしね」

 そう言う私の隣で、シエルが躊躇せず水を飲んでいる。怖いもの知らずだなぁ。

 とっくの昔に空っぽになった水筒に水を汲んでいた時だった。


 川の向こう岸で何かが動いたと思った瞬間、ヨハネが呻き声を上げた。


「何!?」

「弓矢だ! 急いで森の中へ隠れろ!」

 左肩に矢を受けたままの彼の指示に従って、私達A班は森へと入り、走る。


「一体何なの!?」

「人間だ!」

 私の叫びに、ヨハネが答える。


「人間? 地上の人類は滅んだんじゃ無かったのか!」

 前を走るフレイが振り返る。私も後ろを振り返って、それから後悔した。

 不気味な仮面をつけた人間達が追って来ていたのだ。


「このままじゃ全員やられるぞ!」

 敵意剥き出しの仮面達に捕まってしまえば、きっとあの掲げられた刃物で首でも落とされるに違いなかった。

 森の中は仮面達の庭のようなものなのだろう。明らかに私たちよりもずっと速い。勾配のある森の中で、私達は圧倒的に不利だ。


「……先に行け!」

 ヨハネが走る速度を緩める。


「囮になるってか?」

「理に適ってる」

 フレイとシズクは彼を見捨てる気満々だ。いや、私だって……。


「ヨハネ!」

 ヨハネの元へ戻ろうとするシエルの手を私は咄嗟に握った。シエルはバランスを崩してよろめく。


「まさか、オフェリア」

「そのまさかだよ。シエル、このままじゃ全員奴らに捕まって死ぬ。行くよ!」

 シエルの手を引いたまま、丁度谷のようになっている分かれ道へと入る。先行していたフレイとシズクがどちらの道を行ったのかは考える余裕などなく、私達は左へと進む事にした。


 どれだけ走っただろうか。いつのまにか森を抜けて岩場まで来ていた。結局先行組の二人とは合流出来ないままだ。

 ヨハネはどうなっただろうか。そう考えていると、シエルも同じことを考えていたのだろう。彼は泣いていた。


「ごめん」

 でもシエルを行かせてたらきっと彼も死んでいた。


「……ううん。良いんだ。きっとヨハネは地上に来る前に覚悟をしてたんだ。だって頭がいいでしょう。彼は僕みたいに能天気でもないし、現実を受け入れられない人じゃない」

 数時間前、きっと宇宙から迎えが来ると言っていた彼は、今はもう絶望しきっている。


 そんなことない。

 そう言えればどんなに良かっただろうか。宇宙から助けが来ないことなど、私もとっくに気付いている。事前の説明では、宇宙との交信は常に取れるようになっていると言われていたが、実際は違った。パピヨンは通信機器のエラーだと言っているが、そんなのは嘘に決まってる。機械に強いシズクが何度も確認して、テストしたけどちっとも繋がらなかったから。


「ヨハネには何か策があるんだよ」

 ただ一緒に絶望するのが怖くて、私はそう言う。


 シエルは岩陰にしゃがみ込んで小さくなって、俯くだけだ。彼の虹色の瞳は、酷く曇ってしまった。


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