第三章

第15話 朝の挨拶と心野さん

 今日も広がる青空を見上げながらの登校。深呼吸をして肺いっぱいに朝の空気を送り込む。そして感じる心地良さ。やっぱり僕は晴れの日が好きだ。天が晴れることで、僕の心も晴れるような。そんな感覚を覚えるんだ。


 なんてことを考えながら、僕は学校に到着。錆びついた校門の門扉を抜け、教室へと向かう。今日も平和な一日になることを願いながら――。


 *   *   *


「おはよう、心野さん」


「あ。おはようございます、但木くん」


 僕の隣の席の心野さんと交わす、朝の挨拶。これが日課になってくれたことに、感謝をする。僕にとっての、ひとつの朝の楽しみ。


「心野さん、昨日は大丈夫だった? 保健室で安静にしてたから体調は戻ったみたいだけど、それでも心配でね」


「はい、お陰様で大丈夫でした。一睡もしてませんが元気ですよ」


「えーと、心野さん? 一睡もしてないのは大問題だと思うんだけど? またあれでしょ、妄想が捗っちゃって眠れなかったってやつ」


「そうですね、捗っちゃいました。でも、最近はもう慣れてきちゃいまして」


 うーん。平然と言ってのけるけど、その慣れは良くないことのような……。


「でもそっか、またムッツリスケベな妄想が捗っちゃったんだ」


「……ち、ちち、違います! 私は決してそんな妄想は……。と言いますか、但木くんって完全に私のことをムッツリスケベ認定してるんですね。意地悪」


「意地悪で結構だよ。絶対に当たってる自信あるしね」


「むぅーー」


 頬を膨らませて不服そうにしている心野さんがハムスターに見えてきたよ。餌を口いっぱいに詰め込んだハムスターに。


「よう但木。相変わらず遅刻ギリギリだな。もっと早起きしろよ」


「うるさいなあ、僕は朝が弱いんだよ。知ってるくせに」


 さて、毎朝恒例となってきた友野の登場。でも聞こえてたんだ、僕と心野さんが話していた内容。気になってチラリと心野さんを見やると、やっぱり縮こまってしまっている。やっぱり今は僕以外の人間とは喋れないか。


 簡単にはいかないと思っていた。心野さんが他のクラスメイトに心を開くのは。だって、高校に入学して一ヶ月以上が経つけれど、心野さんは誰とも喋ることはできなかったわけだし。それがいきなり克服できたら苦労はしない。


 だけど、今日はいつもの心野さんとは違った。確かにまだ縮こまっていたままではあるけれど、一度深呼吸をして、そして言葉にした。


 何かが、大きく変わろうとしている。


「お、おお、おはようございます、と、友野くん」


 正直なところ、ビックリした。心野さんが、友野に朝の挨拶をしたことに。緊張からなのか、たどたどしくはあった。だけど勇気を絞り出すようにして、未来を切り開こうとして、言葉にしたんだ。


 そして、思い出す。以前、心野さんは僕にこう言ってくれた。


『私、頑張るね。友野くんともちゃんと話せるように』、と。


「おはよう、心野さん。いやー、しかし心野さんから挨拶してもらえるだなんて、嬉しいな。絶対に今日はいいことがあるに違いない」


 友野はその場にしゃがみこみ、僕にチラリと視線を向けた。笑顔を添えて。その視線はとても優しく温かくて、そして、とても嬉しそうだった。


「ご、ごめんなさい。きゅ、急に話しかけちゃったりして……」


「何言ってるんだよ、心野さん。謝ることなんて何ひとつないんだぜ? 特に俺みたいな奴には気を遣う必要なんてないんだ。いつも適当だしな、俺」


「い、いえ、だけど私、緊張して、へ、変な喋り方になっちゃったし。そ、そ、それに、こんなミジンコ以下の私が人気者の友野くんに話しかけて、ご迷惑をおかけしちゃったんじゃないかなって……」


 段々と俯き加減になっていく心野さんを見て、友野は一度腰を上げて心野さんの近くに座り込む。笑顔のまま。優しい目をしたまま。


「ははは、人気者ねえ。ありがとう、お世辞でも嬉しいよ。でもさ、いいんだよ。そんなこと気にしないで。どんなに緊張しても、変な喋り方になっても、別にいいじゃん。無理をする必要なんかないぜ? 自然体で、そのままの心野さんで、俺はいいと思っているよ。自分を偽って生きている奴なんかより、ずっといい。それに――」


 友野はまたこちらに視線を移した。


「今、心野さんは一人なんかじゃないしな。但木がいるんだ。何かあったらコイツに甘えろ。頼りなく見えるかもしれないけど、結構但木は頑張り屋なんだ。俺が保証する。それに、但木は但木で少しずつ変わってきてるみたいだしな」


 僕が変わってきている? あ、そうか、なるほど。音無さんから何か話を聞いたんだろう。そして僕は一番前の席にいる音無さんを見た。彼女もまた、いつもの笑顔でこちらを見ている。それはそれは、嬉しそうに。


「あ、ありがとうございます、友野くん」


「何言ってるんだよ心野さん。ありがとうって言うのは俺の方だ。声をかけてもらえて、俺は嬉しかったよ。それに、心野さんがムッツリスケベという貴重な情報を知ることもできたしな。収穫収穫っと」


 心野さんはギクリとしたようで、咄嗟に僕を見た。え? これって助け舟が欲しいというサイン? それとも怒ってる?


「まあ、これからもよろしくな。せっかく同じクラスになったわけだし。それじゃ、俺は戻るよ。あとは但木に任せた。邪魔者は退散しなきゃな」


 言って、友野は自分の席へと戻っていく。少しの沈黙のあと、心野さんはまたハムスター的に頬を膨らませて僕を見やった。


「友野くんに誤解されちゃったじゃないですか。但木くんのせいで」


「ご、ごめんね。まさか友野に聞こえてるとは思ってなくて」


 あー、やっぱりちょっと怒ってる。まあそりゃそうか。自分がムッツリスケベであることは男子に知られたくなかったよね。いや、一応僕も男子なんだけど。


「――でも、友野くんってすごく優しい。但木くんのお友達ですもんね、当たり前なのかな。羨ましいです、なんか」


「まあ、優しいよ。最近は余計にそう思うようになったかな。でもほんと、友野の言う通りだと思う。そのままでいいんだよ」


「そのままで、ですか……」


 そう言って、心野さんさんは天井を見上げる。何を考えているんだろう。だけど、きっと悪いことではないと確信している。だって心野さんは頑張ってるんだ。しっかりと、前に進もうとしているんだ。


 心野さんは、変わろうとしているんだ。


「但木くん、私って本当にそのままでいいんですかね? 自然体でいいんですかね? ありのままの自分を受け入れるべきなんですかね?」


「うん、僕もそう思うよ。友野と同じ様に考えてる」


「――そっか」


 心野さん。キミはもう一人じゃないんだ。僕がいる。友野もいる。それに元々、心野さんはこれまでも一人じゃなかったんだよ? ずっと心配してくれていた人はいたんだ。それこそ、中学時代から。心野さんは、一人じゃない。


 でも、今はあえて言わないようにするよ。きっと、直に分かる。いや、分かると言うよりも、思い出せると言えばいいのかな。それまでは僕が埋めていってあげるから。ポッカリと空いた『ココちゃん』の心を。


 それでいいよね、オトちゃん。

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