輪廻対称
森本 晃次
第1話 減算法と加算法
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年11月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
「世の中には、いろいろな相対的なものが存在している。それは、双極性のあるものや、ただ単に、対になっているだけのものとがあったりする」
ということをいわれたりする、
その中の一つで、
「減算法と加算法」
という考え方があり、それが、いろいろな発想を歪めて考えることになる場合が多かったりする。
減算法というのは、その名のごとく、
「100のものから、少しずつ減らしていって、最終的に、残った数字を評価とする」
という、学校などで行われる、
「テスト」
と呼ばれるものが、その代表例だということになるだろう。
逆に、加算法というのは、
「元々は、ゼロから、どんどん可能性を広げていって、どこまでが見えてくるのかということを探るという意味で、
「何もないところから、作り上げる」
ということで、
「開発」
であったり、
「創作」
というような
「クリエイティブなものだ」
といえるであろう。
この、
「どちらがいい」
ということを厳格に言えるわけではなく、しいていえば、
「その人がどちらのタイプなのか?」
ということである。
基本的に、
「すべての人は、この加算法なのか、減算法なのかということを考えた時、必ずどちらかに当てはまる」
といってもいいのではないだろうか?
そのことを考えると、一概には言えないが、
「加算法というのは、文系に多く、減算法というのは、理数系に多い」
といえるのではないだろうか?
理数系のような、数学や、科学のようなものは、
「最初から世の中に存在し、さらに君臨しているものを、解読していく」
ということで、いわゆる、
「発見的」
なものが、理数系に多いといえるだろう。
もちろん、コンピュータであったり、ソフト開月や、工学的なことは、
「加算法」
といってもいいかも知れないが、あくまでも、
「大まかに言って」
ということである。
逆に、加算法」
という文系であるが、これは、小説であったり、短歌などの、
「文章をつぐむ」
ということで、
「いろいろなものを作り上げる」
という発想から、加算法といってもいいだろう。
ただ、ここで、文系でもなく、理数系でもないものとして、
「モノづくり」
というものに一番近いというもので、
「芸術」
というものがある。
これに関しては、普通に考えれば、
「加算法」
といえるだろう。
しかし、例えば、音楽であれば、
「作詞、作曲されたものを演奏したり、歌い上げる人」
というものがいるわけで、それが、
「実際にあるものを、形にする」
ということで、減算法とは少し違うものが、そこには存在しているということになるだろう。
と考えられるのである。
加算法というものが、
「0から積み上げるものだ」
ということで考えると、
「どこまでが現実なのだろうか?」
ということも言えるのだ。
そんなことを考えていると、
「加算法や、減算法があるのであれば、積算法や、除算法」
という考え方もあるのではないだろうか?
という発想にもなるわけだ。
「発想というものは、元々は、二つから始まって、どんどん増えていく、まるで細胞分裂のようなものだ」
といえるのではないだろうか?
「減算法」
というものを考えた時、思い出すのが、
「将棋」
だった。
将棋というのは、
「それぞれの階級のある駒を、決まった位置に最初に並べることで、一種の戦闘態勢を築くことで、ここから、お互いに一手ずつを打っていき、そこから、相手の王将を奪うというやり方の勝負」
ということである。
つまりは、
「最初の陣地から、一手ずつ駒を進めていく」
ということになるわけで、そのために。どうするのかということになるわけだが、将棋でまず言われることとして、
「同じ、盤n上での勝負として、
「1対1」
で競技をするものの代表として、囲碁があるが、この違いを考えてみるのも一つといえるだろう。
まず、将棋というものとして、
「一番隙のない布陣としては、どういうものなのであろう?」
と聞かれたとする。
するとそこで言われる答えとして、
「最初に並べた形だ」
と言われるのであった。
というのは、答えとして言われることでは、
「最初に並べた形」
だといわれる。
これが、一番隙のない形で、その理由としては、
「まずは、最初に並べた形から、相手に攻め込んでいくので、その都度、自軍の守りが薄くなる。だから、隙がない形ということになれば、最初の形だというのは当たり前のことになるのだった」
ということである。
さらに、将棋には、それぞれに、
「役割を持った駒が一定数ある」
ということで、これは、
「戦でいうところの、部隊に種類が、その特徴の駒ということになるだろう」
といえる。
つまり、戦においての、それぞれの舞台といえば、たとえば、
「槍隊」
「であったり、
「弓隊」
「鉄砲隊」
などという種類がそうである。
それによって、戦であれば、いろいろな陣地が最初にはあるであろう。戦国時代の戦の陣地ということになれば、
「鶴翼の陣」
「魚鱗の陣」
などと言われるものである。
これも、一長一短があり、攻守という意味で、
「どういう戦法に特化しているか?」
ということもあるだろう。
だから、戦において、配置もその特性を犯したところに置かれるわけで、
「それぞれの陣地の形によっても、変わってくるだろう」
ということになるのであった。
戦の進め方にもいろいろとあり、だから、それだけに、
「戦で、もっとも隙のない布陣というのはないものか」
と言われることがないのは、それだけ、
「戦によって、陣地も違えば、陣地の張り方、さらには、相手の陣地の立て方によっても違うわけで、将棋のように、決まった形があるというわけではない」
ということであった。
そんな戦の体制を考えると、その勝負の行方というものが、まるで、
「本治」
であったり、近代戦争における、
「大本営」
などでの。
「机上演習を思わせる」
近代戦争では、そのやり方の統一性が分かるのであるが、もっと考えれば、戦国時代は、さらなる昔の、
「武士が台頭してきた時代」
というものがあり、
「いかにも、戦争の基礎を築いた時代だ」
といえるのだろうか。
しかも、戦争になると、誰もが、
「戦の戦法であったり、軍師というものが生まれてきたり」
などと、特に戦国時代などは、群雄割拠と呼ばれる時代であるだけに、そんな時代においては、隣国との間に、結界のようなものがあり、基本的な情報のやり取りは行われていない。
何といっても、カメラがあるわけではないので、
「相手国がどのような戦法でうやってきたか?」
ということは、知る由もないだろう。
さらに、不思議なのは、
「戦になってから、よく敵が分かるものだ」
ということで、いわゆる、
「敵味方の判別」
という意味で、カオスな中に、兵士が混乱せずに、相手を倒すことができるのに、
「旗」
というものの存在が大きいだろう。
「自軍の兵士には、特に足軽などの、10人に1人くらいは、背中に旗を背負っている」
という状態であろう。
しかし、戦になれば、
「誰が敵の大将か?」
あるいは、
「大将でなくとも、敵の有力家臣なのか?」
ということがよくわかるというものである。
「本陣に座っていて、決まったこの場所に座っている人が、大将だ」
ということが分かっていれば、本陣で、戦評定を行っている時であれば、分かるというものである。
もっといえば、
「自軍の戦評定に出ている人であれば、分かるということで、ある程度の有力武将であれば、分かる」
ということになるであろう。
敵の有力家臣や、大将を討ち取って、首を持ち帰れば、その後の、論功行賞というものの査定となるものとして、
「首実検」
というものが行われる。
これは、
「どの武将の、いわゆる、どれだけの武将かということが分かれば、そのランクによって、論功行賞が決まる」
ということで、
「大将の首」
というものを取ったりすれば、それだけで、大名でもなかった男が、
「城持ちの大名」
ということも言えるということになるかも知れない。
それを考えると、
「首実検」
というのは、結構大切なもので、ただ一つ気になるのは、
「首実検」
などとする武将や大将は、
「一歩間違えれば、自分の身に起こっていたことだ」
と感じて、恐怖に駆られるようなことはないのだろうか?
と感じるのだった。
そんな戦場において、
「相手の顔が、よく分かるな?」
ということと、もう一つ言えば、
「戦のやり方や、戦術、さらには、相手の大将の性格など。よく分析できているな?」
ということであった。
確かに、戦をしょっちゅう行っている武将であれば、ウワサガいろいろ飛び交うこともあるだろうが、戦術にしても、
「テレビ、ラジオ、新聞などの、今の時代でいうところの、インフラがまったくそろっていないのに、よく分かるな?」
ということである。
これは、もっといえば、時代劇などを見ていれば、
「どうして、皆分かるのか?」
ということが、多すぎる気がする。
というのは、例えば、水戸黄門などが一つの例になるのではないだろうか?
「印籠」
というものを見ただけで、
「どうして、水戸光圀だ」
と分かるのかということだ。
そもそもがお忍びの旅のはずで、確かに前週で、
「印籠」
を出して、悪代官を懲らしめるなどという所業をしているのだから、
「隣の藩にウワサくらいは」
ということであろうが、さすがに、口止めくらいはするだろう。
悪代官をやっつけるのを、基本的に、大衆の面前でやるわけでもなく、たいていは、料亭か、代官の屋敷でのことであろう。それを、一般庶民が知るわけもない。それなのに、
「黄門様が、世直し旅をしておられる」
などという隠密の旅がわかるわけはないのだ。
ということは、
「葵のご紋」
ということが分かり、それが、
「徳川将軍家」
のものだということは分かったとしても、
「じゃあ、徳川将軍家の誰の印籠であろう?」
ということが分かるはずなどないだろう。
それを考えると、
「普通分かるはずのない黄門様だってよく分かるものだ」
ということである。
それに、
「水戸のご老公」
ということは分かっていても、
「黄門様」
などという言葉を、武士なら分かるが、商人や、百姓などに至るまで、
「水戸のご老公」
というものが、
「水戸黄門」
だということをどうして知っているのだろうということである。
それを考えると、
「水戸黄門」
というのは、
「テレビや、小説の中の世界でしかない」
ということである。
実際に、水戸光圀は、
「諸国漫遊」
などしていない。
あくまでも、
「大日本史」
という歴史書を編纂している人だったので、それの執筆だけで、水戸から離れるなどありえないはずである。
それを思うと、江戸時代の洒落本などと言われるものが流行った時代に、面白おかしく考えられたものではないだろうか?
「水戸黄門」
と同じような時代の、いわゆる、
「時代小説」
として有名なものとして、
「遠山の金さん」
なるお話がある。
こちらになると、さらにおかしなところが多すぎるといってもいいだろう。
まずは、何といっても、
「町奉行である、遠山金四郎が、そんなに市中に出ていってもいいのだろうか?」
ということである。
いくら、
「天下泰平の世」
といっても、それは、
「戦というものがない」
というだけで、暗殺や、誘拐などがないわけではない。
今でいえば、
「警視総監が、警備をつけずに、昼の日中に、街中を
「市中見回り」
と称して、出かけることが果たして可能だろうか?
ということである。
さらにもっとひどいドラマになると、
「実在の将軍が、町人に扮して、江戸城を抜け出し、街火消しの棟梁と仲良くなり、居候風情を演じている」
という信じられないものもあるくらいである。
それを考えると、まだ、
「遠山の金さん」
というのは、まだマシだといってもいいかも知れない。
そんな江戸の街に繰り出して、金さんは、
「毎回、悪代官などに出くわす」
という、
「実に都合のいい話」
が出来上がるわけである。
しかも、この話の突飛なところは、殺陣シーンなどにおいて、斬り合いを行っている際に、金さんが、肩をはだけると、そこにあるのは、
「桜吹雪」
と呼ばれる、背中の入れ墨というのを見せるということだった。
そして、お白洲の場で、悪人たちが、しらを切っていると、そこに金さんが、業を煮やして、
「お前たちは、これを見忘れたとは言わせないぜ」
ということで、肩はだけて、入れ墨を見せることで、
「参りました」
ということになるわけであるが、そもそも、
「誰も、金さんの顔を覚えていないというのも、おかしなことではないだろうか?」
ということだ。
「まさか、奉行が遊び人を演じているとは」
と誰もが思っているからだろうが、そんな悪党が想像もつかないくらいなのだから、この設定に無理があることを誰も感じなかったのだろうか?
それとも、
「洒落本だから許される」
ということであろうか。
さらに、一番も問題は、
「町奉行たるものが、入れ墨などしていいのだろうか?」
ということである。
今の時代であれば、警察官の身内に犯罪者がいれば、
「警察を辞めなければいけない」
というそんな時代である。
それを考えると。
「入れ墨などしている町奉行が許されるのであれば、江戸幕府というのは、本当にひどい政府だった」
といってもいいだろう。
それこそは、洒落本だったということで、別に問題はなかったのかも知れない。ただ、それも、時代のタイミングというのもあるわけで、それによって、とらえ方も違っていたに違いない。
将棋のように、
「減算法」
というのは、戦を進めていくうえと似ていることから、分かりやすいのかも知れない。
「では、
「加算法」
として考えられる、囲碁というのはどういうものなのであろうか?
これは、将棋とはまったく違い、最初に、盤の上には、碁石が乗っているわけではない。碁石は、最初だけは決まっていて、そこからは、黒と白が、
「自分の陣地を獲得する」
というゲームであった。
将棋との一番の違いは、もちろん、
「最初から、駒や石があるかどうか?」
ということであるが、さらに違うというのは、
「囲碁は将棋のように、いくつも、動きが違う駒があるわけではない」
ということである、
なぜなら、当たり前のことであるが、
「囲碁は、将棋のように、一度盤の上に石を置いたら、動かすことはない」
というものである。
囲碁というものは、戦のように、
「自軍を動かして、敵に迫っていく」
というものではない。
まっさらな盤の上に、ひとつづつ石を置いて、そこで、陣地を作っていくというもので、こちらは、
「戦」
というものではなく、
「要塞の建設」
とでもいえばいいのか、
「建設をしても、そこまでで、相手に攻め込んで、王将を取る」
ということではないのだ。
将棋が、
「豪」
であれば、囲碁は、
「静」
といってもいいだろう。
加算法とは言っても、確かに、何もないところから、築き上げる」
ということは、攻撃的なところがあると思っていたが、
「盤の上では」
ということになれば、将棋の方が圧倒的ンに強いということであるが、一歩でも盤の上から離れれば、その神通力はあったく通用しないといってもいいだろう。
「加算法と、減算法というのは、それぞれに対になるものであるが、その間に、何か、見えないものが介在している」
といってもいいかも知れない。
ただ、何かの発想として、
「もう一つの定義が、真ん中にあり、その定義が、お互いを誘発しない」
というような力を持っているのかも知れない。
それが、
「何かの抑止力」
というものを秘めていて、このお話の根幹に進むにつれて、
「何かの関係が分かってくるようになると、その力がどちらに向いているのか?」
ということが分かるようになってくるというものだ。
「それがどのようなものなのか?」
ということを考えると、
「盤の上というのが、どういうことなのか?」
ということを考えると、
「盤の上というもの自体が、それぞれの抑止力というものになっているのではないだろうか?」
と考えられるのであった。
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