第16話

今日はたまにはとホテルのレストランで食事をすることになった。

 先にトイレに行くと言えば遠伊がついて来ようとしたので、一人で行けると突っぱねて用を済ませたところだ。

 そして今、失敗したなあと思う。

 目前にはいつものにやついた笑みを浮かべた光が立っている。

 トイレから戻る廊下で、突然後ろから腕を掴まれて振り向いたらいたのだ。

 あいかわらず、大学生という身分には不釣り合いなものを身に着けている。

 いい加減、理斗の両親の保険金もなくなっているだろうに。


「いいところで会ったな」


 パッと腕をはらって光の手を外すと、鼻白んだ。

 けれど気を取り直すように、にやりと口元を歪める。


「お前と一緒にいた狐野郎、俺のご学友様が何としてもあいつとお近づきになりたいそうだ」


 その一言で理斗の眉が不快げに寄った。

 次に言われる言葉が手に取るようにわかる。


「あいつにどうやって取り入ったか知らないが、あいつにパイプを繋げば俺を取り立ててくれると約束した。将来は安泰だ。育ててやった恩があるだろ?」


 図々しい物言いだ。

 少なくとも光に育てられた覚えも恩もない。

 冷めた気分で光を見返しても、光はにやけた笑みを浮かべたまま得意気に口上を続けた。


「俺のため、ひいては家のためだ」


 そこまで聞いたところで理斗はサッと身を翻した。

 光に遠伊を紹介するなんて冗談ではない。

 人目のある所に行けば下手なことはしないだろうと思い、遠伊のところに戻るのはやめた。

 逃げようと足を動かしたけれど、一瞬光の方が早かった。

 後ろから髪をわし掴まれる。


「うわっ」


 ギリギリと掴む手を外させようと指を伸ばしたけれど、表面を爪先でひっかくことしか出来なかった。

 痛む頭皮に顔を顰め、光からどうやって離れようと後ろを小さく振り返った瞬間。


「ぐあ!」


 光の鈍い悲鳴が響いて、髪を掴んでいた手が離れた。

バランスを崩して後ろに倒れそうになるのをこらえて、何があったのかと振り返る。

ふかふかの絨毯の上で、光が右手を庇って片膝をついていた。

その手は赤く腫れあがっている。

何があったのかわからず混乱していると、光の後ろに人が立っていることに気が付いた。

真っ直ぐな腰までの金髪。

久奈だ。

何故ここにと呆然と見やると、久奈はたれ目気味の目でにこりと微笑んだ。

何も含みのない笑みに、どう反応していいか困惑する。


「大丈夫?」

「え、あ……」


 現状についていけなくて、咄嗟に返事が出てこなかった。

 ぽかんと久奈を見ていると、光が片足をついたまま久奈に目をやる。

忌々し気にその目が眇められた。


「お前あやかしか?」

「そうよ、狐のね」


 久奈の言葉に光の顔色がサッと悪くなった。

 理斗には強気に出ても、あやかしには無理らしい。

 その様子は、いつも暴力を振るってくる大きな存在だった光をひどく矮小に見せた。


「どうしたの?あなた遠伊様とお近づきになりたいんでしょう?私にお願いしなくていいのかしら」

「お、俺はお前らが気にしてるこいつの身内だぞ」


 うろたえた様子の光に、久奈は知ってるわと口角を上げた。


「あなた達一家にはこの人に近づかないと契約書にサインしたでしょう?」


 思いがけない久奈の言葉に、えっと理斗は声を上げて目を丸くした。

 契約書なんて聞いていない。


「知るか! 親父が勝手にしたことだ」


 吠える光に、すいと久奈が指をさした。

 そして優雅な所作でわずかに指先を動かすと。


「ひぎ!」


 バチリと光の眼前で火花が散って、派手に転倒した。


「次は焼かれてみますか?」


 尻もちをついた光に、久奈がくすくすと指を向けたまま笑う。

 その眼差しは小馬鹿にしたものだ。

 けれどあやかしのその行動に、身の危険を感じたのか光は慌てて立ち上がり。


「ちくしょう! もう知るか! 」


 転げるように走り去ってしまった。

 理斗は唖然と見送るだけだった。

 ぽかんとした顔で光の走り去った方を見ていたら「まったく」と呆れたような久奈の声がする。

 慌てて理斗は久奈に向き合った。

 思うところはある人物だけれど、助けてもらったことに変わりない。


「あの、ありが」

「しっかりしてね」


 言葉をさえぎられて、お礼は最後まで言えなかった。

 呆れたような眼差しに居心地が悪くなりながらも、さきほどの気になった単語を思い出す。


「接近禁止って」

「知らないの?」


 久奈が不思議そうに小首を傾げた。


「遠伊様があなたの身内に関わらないって誓約させたのよ。花嫁の身内はいないものとするって。妹の方は物分かりがよかったみたいね」


 それでかと、以前慌てて離れていった輝子のことを思い出す。

 それにしても何故自分の知らないところでそんなことが決まっているんだと、わずかに手を握りしめた。

 けれど今は後回しだ。

 ちゃんとお礼は言いたい。


「ありがとう、助けてくれて」

「いいのよ、当然だもの」

「当然……」


 予想しなかった言葉に繰り返すと、久奈はさらりと長い髪を肩にはらった。


「遠伊様の子供を産む大事な体だもの」


 ドキンと緊張で胸が震えた。

 当たり前のような言葉に、そんな覚悟なんてまったくない理斗は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。


「でも、おじさんは認めないって……」


 花嫁でも必要ないと逸平は言った。

 それはつまり伴侶として理斗を必要としていないということだ。


「ええそうよ」


 不思議そうに久奈は目をきょとんとさせた。

 それからふんわりとした春の花のような笑みを浮かべる。


「私が正妻になって遠伊様を支えるわ」

「え……」

「あなたが産んだ子供は私が育てる。そのあとは殺してあげる。子供を産めばあやかしと同等になるけれど、あなたの居場所はないもの」


 艶やかな唇が、妙に目についた。


「あなたのためよ」


 ひくりと喉が動く。

 ひどく息がし辛かった。

 理不尽なことを言われている自覚はあるけれど、頭が真っ白でうまく働かない。

 それでもなんとかこれだけはと声を絞り出した。


「俺は、子供を産む道具じゃ」

「産まないの?」


 ないと言いかけて、さえぎられた。

 ひたりと見据えてくる顔は、もう笑みを浮かべていない。

 その瞳には失望したような色合いが浮かべられていた。


「なら何故そばにいるの?遠伊様のことを思うなら、一族のための子を産むことが一番大事なことでしょ」

「あなたは、それでいいのか?」


 ひくりひくりと何度もぎこちなく動く喉を震わせて、声を出す。

 質問した声は掠れている気がした。

 久奈は理斗の質問に勿論よと頷いた。

 その頬が甘やかにピンクへ染まる。


「遠伊様をお慕いしているもの。花嫁が現われなければ、いずれ逸平様に選ばれて私が妻になる予定だった。少しイレギュラーがおこっただけよ」


 ふふ、と満足そうに笑うと高いヒールを動かして理斗に背を向けた。

 肩越しに振り返り、瞳を細める。


「それを伝えたかったの。それじゃあ、一日も早く丈夫な子を産んでね」


 期待してるわと久奈は長い髪を揺らしながら歩き去ってしまった。

 見えなくなった廊下の先を呆然と見てしまう。

 逸平の態度から歓迎されていないのは理解していたけれど、ここまで理斗の人格を無視した道が提示されるなんて思ってもみなかった。

 理解の範囲外すぎて、うまく頭が回らない。

 叔父一家に関しても、理斗の知らないところで何かが動いていることに胃が気持ち悪くなるような不快感を覚えた。

 自分のことなのに、何も知らないと。


「理斗! 」


 背後から声がかかって、のろのろと振り返れば遠伊が足早に近づいてきた。


「遅いから心配した」


 目前まで来た遠伊を緩慢に見上げれば、遠伊の眉が寄った。


「顔色が悪い」


 そっと頬に手を添えられ、覗き込まれる。

 さきほどの出来事に胃から何かがせりあがってわめきたい衝動に駆られるけれど、何が言いたいかもわからず、理斗は気まずげに視線を逸らした。


「部屋を用意させる」

「いや、大丈夫だよ平気」


 わざわざ必要ないと首を振ったけれど、真っ青だと頬を撫でられて観念した。

 よほど酷い顔をしているらしい。

 遠伊が気遣わしげに背中に手をそえてうながされた。

 上階の広い部屋に入りソファーに座るよう言われるけれど、部屋の扉をくぐってすぐに理斗は立ち止まった。


「あのさ」


 口のなかがカラカラに渇いている。

 今こんなことを言うべきタイミングじゃない。

 そう思っていても、口は勝手に開いた。


「子供産んだら嬉しい?」

「理斗?」


 顔を覗き込まれて、理斗はその眼差しを避けるように俯いた。

 そのおかげで遠伊の表情はわからない。


「……嬉しいけれど妊娠も出産も負担が大きい。私の妖力の影響を大きく受ける。無理強いする気も要求する気もない」

「でも……」

「父のことなら気にしなくていい。私が話をつけるから」


 ぴくりと理斗の指先が動いた。

 腹の底がぐるぐるとモヤのかかったものが渦巻いて、重苦しい。


「話って何を?」

「理斗は気にしなくていい」


 その言葉に酷く頭が沸騰した。

 呻くように唇から低い声が漏れる。


「この前の学校のときもそうだけど、俺に関することを勝手に決めて終わらせるなよ」

「理斗?」

「叔父さん達のことだって」


 一気に遠伊の空気が冷たいものに変わった。

 それだけで、知られては困ることだったのだと確信する。


「誰がそれを?」


 頭の中がカッと熱くなった。


「あんたに関係ない! 」


 弾かれたように顔を上げて声を荒げる。

 見上げた遠伊は、わずかに目を見張って理斗を見ていた。

 金色の瞳がチカリと光を反射する。


「でもあんたは違う! 俺に関係あることを勝手に決めて勝手に結論出してる! 」

「そんなつもりはない」


 遠伊の冷静さが癪にさわった。

 ぐいと遠伊の胸を押し返して、一歩後ずさり距離をとる。


「遠伊を受け入れなかったらさっさと死ぬ短い命だもんな」

「理斗、落ち着いて」

「あんたにはすぐに忘れられる一瞬のことかもしれないけど、俺にとってはそんなんじゃない!なのにあんた達は自分達の都合で振り回してもいいなんて簡単に考えてるんだろ!」

「理斗! 」


 バチンと大きな音がして、調度品として棚の上に飾られていた白磁に青い絵柄の花瓶が音を立てて割れた。

 派手な音に、理斗の肩が大きく跳ねる。

 恐々と遠伊を見れば、ハッと息を飲んだあとに何かをこらえるように眉根を強く寄せた。

 こんなときでも涼し気な美貌は美しいままだ。

 ボロボロと泣きたくもないのに涙が溢れた。

 口を開ければ嗚咽を漏らしそうで、必死に引き結ぶ。

 癇癪を起こした子供のようだ。

 自分が情けなくて、遠伊の前にいたくなくて、理斗は踵を返して部屋の扉に手を伸ばした。

 行くところなんてないけれど、今はここにいたくない。

ドアノブを掴んだところでその手が大きな手に包まれた。

ビクリと身を震わせると、後ろから遠伊が声をポツリとかける。


「私が出ていく。君はここにいて」


 そのまま扉を開けると、出て行ってしまった。

 表情は一切わからない。

扉が閉まるまでその広い背中を呆然と見送った。

 咄嗟にそのスーツの背中に縋りたくなったけれど、手を伸ばす前に扉は閉じてしまった。

 自分の癇癪が原因のくせにと思っても後の祭りだ。

 そのまましゃがみ込んで自分の膝に顔を埋める。

 あとからあとから涙が零れて、ホテルのレストランに行くからと履いた少し綺麗目のボトムスに染みが出来ていく。

 いつも泣かないようにと言い聞かせてきた。

 何があっても平気と強がってきた。

 なのに、立ち上がる気力すら持てない今に情けなさがこみ上げてくる。


「遠伊がいなきゃ大丈夫でも平気でもないよ……馬鹿……」


 散々自分を甘やかした男は、理斗の自業自得で出て行った。

 結局嗚咽は殺せず、その晩は遠伊が戻ってくるかもしれないと扉の前で膝を抱えたまま、泣き疲れて眠りに落ちた。

 

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