Please make me gay.

数田朗

Please make me gay.

 簡単に変えられないものと言えば、まず名前だ。年に一度、クラス替えの度に、僕は自分の『渡辺朗』という平凡な、しかしそのせいである宿命を負うことになる名前を恨む。それが、新しい高校生活の幕開けに関わるとなれば尚更だ。

 今、鈴木というこれまた平凡な苗字の生徒が自己紹介を終え、緊張から解き放たれて安堵の表情を浮かべている。自己紹介の時間が始まってもう三十分は経っている。そして鈴木くんとやらが座っているのは教室のちょうど中心。自分が座っているのは、廊下側の一番後ろの席だ。単純計算で、あと三十分は時間はまわって来ないだろう。そしてクラスからは既に、最初の頃の初々しさ、これから共に時を過ごす人間に抱いていた好奇心はほぼ喪われ、「ああ、早く終わらないかなあ」、という空気が漂い出している。自分の番がまわって来たとき、自分は、「やっと来た最後のヤツ」という印象しか抱いてもらえないことだろう。ああ、自分があの窓際一番前に座る「安藤」くんだったら。彼の名前は「あ」から始まるというそれだけの理由でクラス全員にしっかりと覚えられ、中学ではサッカーをやっていたけれどずっと補欠だったこと、でも高校でもサッカー部に入るつもりだということまで思い出せる。だけれど、もう「鈴木」くんがどんな趣味を持っていたか、朧げにしか思い出せない。洋楽が趣味と言っていたのは、その前の生徒だったっけ?

 代わり映えのしない自己紹介が続いている。高校一年生の世界なんて狭いものだ。ましてや進学校のこの学校では、飛び抜けた個性の持ち主はそういないだろう。密かに期待していた巷で問題になっている珍名も、今の所いないようだった。偏差値に反比例して多くなるという説は、どうやら本当らしい。

 段々と自分の順番が近づいてくる。自分自身、早く終わらないかなあと思ってしまう。それと同時に緊張もする。誰も聞いてないとわかっていても、この緊張は毎年だった。どうせ誰も聞いていない、と虚しい自己暗示をかけることで緊張を追い払おうとしたけれど、それでもやはり心臓が高鳴るのは止められない。高校では部活に入るつもりもなかった。この学校は進学校だが比較的部活にも力を入れている学校だ。生徒たちは自然と部活でグループを作るだろう。帰宅部の自分がはぐれないためには、やはり最初の掴みが重要だった。

 僕の前の生徒が立ち上がった。さっきまで少しだけ話をしたから名前は知っている。ヤナイという名前だ。他のことは余り教えてくれなかった。何を言うのだろう。

「箭内紡(やないつむぐ)です、東京の江東区から来ました。ゲイです。よろしくお願いします」

 箭内は、それだけ言うとさっさと席についてしまった。教室の弛緩していた空気が一気に張り詰めたのが感じられた。僕は呆気に取られ彼の後ろ姿、短く切った髪のつむじのあたりを見つめた。光の加減で銀色が入っているようにも見える。彼の頭が少し下がって、頬杖をついたのだとわかった。それを合図に、担任教師と自分は同時に我に返った。

「あ、ああ、じゃあ、次のやつ、自己紹介——」

 僕は慌てて立ち上がった。混乱する頭の中、なんとか用意していた言葉、名前と出身校、趣味なんかを言ったけれど、本当に、間違いなく誰も僕の自己紹介なんて聞いていなかった。教室じゅうの誰もが箭内を見つめていた。担任までもだ。僕の自己紹介は、本当に無意味な時間になってしまった。僕が自己紹介を終えて席についても、まだ皆が衝撃の中にいて、退屈な時間がようやく終わったことに気づいていなかった。そのとき、まるで諮ったようにチャイムが鳴って、僕たちは呪縛から解放された。

 休み時間になり箭内が立ち上がって教室を出て行くと、全員が待ってましたとばかりに彼について会話を繰り広げた。僕たちは出会ったばかりなのに、びっくりするくらい連帯していた。

 なあ、あれ、マジかな? いや、冗談だろ。あんな冗談言ってどうすんだよ。いやそりゃあ、ウケ狙いだよ。だけどだったらすぐに釈明しないと意味ねえだろ。マジだって。うっへ、男子校だからいるかもって思ってたけどいきなり自分から言うとか無いわー。本物見たの初めてなんだけど。どうすんだよこれから、俺イヤだよホモと一緒とか。黙っててくれりゃあいいのに、なんで自分から言いだすんだよ。訳わかんねえ。どう接したらいいのかわかんねえよ。いや、普通に無視でしょ。話しかけたら何されるかわかんねえし。俺までホモ扱いされそうじゃん。

 俺の左の席に座っていた土井昇(どいのぼる)くんが、俺に話しかけてきた。

「どう思う?」

 箭内くんが余り話に乗り気でなかったので、俺は隣の土井くんと話してホームルームまでの時間を潰していたのだ。土井くんは野球部に入るらしく(坊主頭で大きな体をしていた)、多分今後友人関係が深まる可能性は低いと思った。だけれど今自分たちには、大きな課題が突きつけられているのだ。

「どう思うって……多分、本当なんだと思う。だって埼玉の学校にわざわざ——」

 そこまで言ったところで、箭内くんが教室に戻ってきた。一瞬教室に緊張が走ったけれど、すぐに雑然とした、新入生特有の空気を取り戻した。

 その後は教科書の配布があった。前の席から箭内くんが自分に教科書を回す度、まじまじと彼を見つめてしまう。彼は整った顔をしていた。切れ長の目と、綺麗な形をした鼻、薄い唇。日本人らしい顔つきと言えばいいだろうか。多分、女の子にモテるだろうと思った。中学で告白されたりもしたんだろうか。勿体無いなあ、と思った。自分がこの顔だったら、中学でずっと一人なんてこともなかっただろう。

 言いかけた自分の言葉を思い出す。彼がわざわざ東京の江東区から埼玉の進学校に進んだのは、多分いじめか何かにあったからではないだろうか? だから地元の学校、同級生が進学する学校には進学したくなかった。そう言おうとした。しかし僕は矛盾に気づいた。それだと一つ疑問が残る。なぜ彼はわざわざ自分からカミングアウトしたのだろう? 誰も知らない学校に来たのだから、黙っていれば良かったのではないか? 自分から言いだしたら、またいじめに遭うかもしれないのに。

 机の上に教科書が積み重なっていく。その度に彼の顔を見て、僕はますます訳が分からなくなる。


「それはさ、他人にバラされるか自分から言いだすかの違いなんじゃない?」

 雪穂はドリンクバーの、カルピスとメロンソーダを半分ずつ混ぜたものをストローで撹拌しながら言った。

 僕たちはお互いに入学式を終えると、連絡を取り合って地元のファミレスで落ち合った。雪穂は幼馴染で、お互いに最も気の置けない友人だ。

「もちろん推測に過ぎないけどさ、例えば中学では誰かに秘密がバレちゃって、こそこそ噂される状況だったとか。だから高校では開き直ってやろうって思ったんじゃない? なんていうか、そういうのが自分発信かどうかって、結構違うんじゃないかって気がする」

 そんなものだろうか。僕にはいまいちぴんと来なかった。

「それに担任のいるところでぶっちゃけちゃえば、仮に何かあったときに相談しやすくなるじゃない。担任も事情は分かってるんだから」

 その説には一定の説得力があった。

「それにしても入学初日に本物に会えるなんてねえ」

 雪穂はその童顔に似つかわしくない、下衆な笑みを浮かべた。そう、彼女はボーイズラブの熱心な読者で、男子校に進学する僕にホモがいたら報告するように命じていたのだ。

「しかもイケメンなんでしょ? いやー、ほんと、ご馳走様ですって感じ。攻めなのかな、受けなのかな」

 僕の脳裏に箭内くんの顔が思い浮かぶ。彼が「そういうこと」をしていることを想像する。雪穂に今まで何冊も「布教」と称して読まされた漫画を思い浮かべる。だけれどそれはやはり漫画の中の話で、目の前に実際に存在した箭内にそれを当てはめようとすると、どこか歪な感じがしてうまくできなかった。

「なんにせよせっかく席も近いんだし、仲良くならない手はないよね」

 どこかウキウキした表情で言う雪穂の言葉を聞いて、僕の脳裏に今日のことが思い浮かんだ。

 ——話しかけたら何されるかわかんねえし。俺までホモ扱いされそうじゃん。

 きっとそれを差別と言うのだろう。中学でもそんなことがあったのかもしれない。だけれど自分もまた同じ思考回路に嵌っていることが心底嫌だった。

「仲良くなってあたしに紹介してよ」

 そんな僕の懊悩なぞ知らず、雪穂はそう命じるのだった。

 結局その後、雪穂の学校の話などをしてだらだらと数時間ファミレスに居座った。


 帰宅して、教科書の詰まった重たい紙袋を机の上に置く。その脇に、雪穂から借りた漫画があった。僕はまだサイズの合わない制服のまま、その漫画を手にとってベッドに寝転ぶ。

 それは有名な少年漫画の二次創作で、バスケ部の話だ。ぱっと見、公式の漫画のようにも見えるそれはアンソロジーと呼ばれているものらしく、何人もの短い漫画がたくさん収録されていた。雪穂も、最初は間違ってこういった漫画を購入したらしい。本屋によっては、公式の漫画の近くに置いてあることがあるそうだ。公式に出ているファンブックの類だと思って買ったら、「そんなこと」ばかりしている漫画だらけで、雪穂がどれだけ驚いたかは想像に難くない。どうだろう、普通の女子だったらそれに拒否反応を示すものなのだろうか。雪穂は逆だった。どっぷりとその世界にハマってしまった。それまで、雪穂は別にオタクではなかった。バレー部に入っていて、友達もたくさんいた。だけれどこれに夢中になった雪穂は、なんとこれを友人たちに「布教」した。もちろん全員がハマった訳ではない。だけれども、基本女子は「こういうもの」が好きなようだった。結果、うちの中学では公然とそういう漫画の貸し借りが行われるようになった。やがて、雪穂は僕にまで「布教」してきた。いたずら半分だったのだと思う。僕はそれを読み、特に何か嫌悪感とか、不快感とかを覚えない自分に驚いた。漫画の上で行われる行為は、確かに男性同士だったけれど、女性が描くだけあって美化されていて、生々しさみたいなものに欠けていた。僕が平然としていると、雪穂はどんどん僕に漫画を貸してきた。自分に姉がいて少女漫画を嗜んでいたことも影響しているのか、そういった漫画の中でもストーリーに重きを置いたものなど、感動するものさえあった。だんだん自分の中でも、例えば漫画を読んでいるときに、「こいつは攻めだな」とか、「こいつは受け」と考えるようになっていた。女子とそんな話で盛り上がることが多くなり、気がつけば友人が女子だらけになっていた。冴えない自分が女子と話しているのが不思議なのだろう、「お前いっつも女子と何話してんの?」と、運動部の男子に訊かれることがよくあった。ごまかすのに苦労した。確かに女子はそういった漫画の貸し借りを「公然と」行っていたが、それはあくまで女子の中だけで、男子には知られたくないことに違いなかった。「漫画の話だよ」とだけ言ってその場を立ち去るのがいつものやり方だった。

 そう、あくまで漫画の話なのだ。僕はバスケのユニフォームを着たまま行為に及ぶ二人の漫画を平然と読みながら考える。

 この漫画で描かれる行為を、実際に行っている人がいて、それが同じクラスの前の席に座っているだなんて、やっぱりどうしても思えなかった。

 それともそれは、僕が童貞だからかもしれない。男同士以前に、男女で及ぶそういう行為だって、脳内で考えたりしても、いつもどこかぼんやりして感じてしまう。インターネットにごろごろ転がるそういう動画を見て、確かに無性に高ぶるときもあるけれど、それが自分もいつかやることだと言われると、そんな馬鹿なという感じがしてしまう。

 雪穂から借りた漫画では、二人が仲良く果てていた。僕はいつも思っているけれど決して雪穂に聞けない質問を思い浮かべる。

 雪穂はこれで興奮するの?


 翌日学校に登校すると、もうそれなりにグループができあがっているようだった。まだ部活の勧誘は公には始まっていなかったが、既に入る部を決めているメンバーはその部員たちで固まっていたし、そうでないメンバーもそれなりに居場所を見つけているようだった。

 案の定というか、箭内くんは一人で席に座って文庫本を読んでいるようだった。僕はその後ろの、自分の席に座る。昨日雪穂に言われたことを思い出したけれど、どうやって箭内くんに話しかけたら良いのか分からない。いや、簡単なことだ。「何読んでるの?」そう聞くだけだ。一番キャッチーで、いかにも新入生らしく、自然な会話の導入じゃないか。まずこの状況で読書をしていること自体、無言で拒否の空気を出しているのだけれど、そんなことは知ったことか。友達作りには多少の無理はつきものだ。分かっていたけれど、できなかった。

 ——話しかけたら何されるかわかんねえし。俺までホモ扱いされそうじゃん。

 口の中に苦い味が広がる。

「はよーっす」

 そう思い悩む自分に、土井くんが声をかけてきた。

「どうしたの、すごい顔して」

「え? いや、その」

「箭内も、おはよう」

 動揺している自分を他所に、土井くんはあっさりと壁を突き破った。箭内くんは本から顔を上げ土井くんを一瞥すると、「おはよう」と言った。

「何読んでんの? 三島由紀夫?」

 机にカバンを置いて箭内くんのところへと歩み寄る。三島由紀夫って。ギリギリのギャグじゃないか。心臓が縮み上がった僕を驚かせたのは、箭内くんの笑った顔だった。

「何、それって俺がホモだから言ってんの?」

「『仮面の告白』でしょ。読んだことないけど」

「まああれは読んだけどさ。だけど俺は三島はあんま好きじゃないよ。ナルシストっぽすぎるから。あの人、自分の体大好きで写真集まで出したんだぜ」

「まじか、そりゃすげえな」

「まあだからって作品までそうだって思うのは思い込みなんだけどさ。でも三島の文章は読んでるとどうしてもあの顔が思い浮かんじゃって、なんか集中できないんだよ。同じ理由で太宰も苦手」

「知ってる。『人間失格』。読んでないけど。ああでも『走れメロス』は教科書で読んだな」

「まあ太宰は『人間失格』以外は割とマシだけどな。どうせ読むなら他の作品の方がいいと思うよ。ってか、本読むの?」

「読まない!」

「なんだよそれ、意味わかんねえ、じゃあなんで俺に聞いてきたんだよ」

 そう言いながらも、箭内くんは決して不快な顔をしていなかった。寧ろ楽しそうだ。

「そ、それで何読んでたの」

 僕は勇気を振り絞って会話に割り込んだ。二人は驚いた顔でこちらを見ていたが、やがて箭内くんが無言で本を僕に差し出した。書店のものではない、布製のセンスの良いカバーがかかっている。カバーを取り外すと、シンプルな絵が描かれた表紙が現れた。

『すばらしい新世界』

「絶対すばらしくないってのが読まなくてもわかるな」

 土井くんが言った。

「確かSFだよね、これ」

 僕が言うと、

「そう。よく知ってるな。ディストピアもの。今までSFってほとんど読んだことないんだけど、手を伸ばそうと思ってさ」

「ディストピア?」

 頭にハテナを浮かべる土井くんに

「ユートピアの対義語。ユートピアはわかるだろ? まあだからお前の言う通り、すばらしくない新世界の話だよ」

「それって読んでて楽しいの?」

 土井くんが素朴な疑問を口にした。

「昔の話だと、今の未来を予見してるような部分があったりするんだよ。現代の話だったら露骨に現実を皮肉ってたりとか、そういうのが楽しいわけ」

「ふーん」

 そう言いながらぺらぺらとページをめくる。

「ダメだ、やっぱ文字ばっかのは読めないわ」

 そう言って土井くんは本を箭内くんに返した。

「それ、読み終わったらさ、貸してくれない?」

 僕が言うと、箭内くんはしばらく手元の本を見つめて、「別にいいけど」と言った。


「そういえばさ、DTMって、何?」

 初めての数学の授業は、ほとんどが教師の自己紹介で終わった。その後の休み時間、隣の土井くんが僕に聞いてきた。あの誰も聞いていないと思われた自己紹介で、自分が最近興味を持っていると言って挙げたものだった。その素朴な疑問を受けて、そうか、その説明をしないと意味が分かってもらえない、と僕は失敗を悟った。と同時に、しっかりとそれを聞いていてくれた人がいたことが嬉しかった。

「ええと、デスクトップ・ミュージックの略で、まあ簡単に言うと、パソコンを使って曲を作ったりすることなんだけど。あの、初音ミクとか、あんな感じの」

「えっ何、朗って作曲すんの!?すげー」

 もう名前を呼び捨てだ。距離の詰め方がすごい。だけれど不快じゃなかった。

「なあ紡、朗って作曲するらしいよ、すごくね?」

 本を読んでいるだろう箭内くんに土井くんが言う。

「ちょっと、箭内くん本読んでるみたいだから」

「別にいいよ」

 箭内くんが振り向いた。

「いや、それにまだほんと、全然曲作ったりなんてできてないよ。僕、楽器とかしたことないから」

「楽器できないのに作曲なんてできんの?」

「DTMだと全部パソコンの画面上で作業できるから、全く楽器できなくても、その気になれば。実際、最近はそういう作曲家の人とかもちらほらいるし、ネットだとかなりいるんじゃないかな。もちろん鍵盤くらい叩けるようになる必要はあるんだけど。それで今はいろんな曲がどういう風にできてるのかなってのを勉強してるとこ。耳コピって知ってる? 曲を聴き取って再現するんだよ」

「ほえー」

「まあ別にそれで作曲家になりたいとかそんなんじゃなくて、まだほんと、好きな曲を再現して楽しんでる段階で。受験勉強終わってから始めたばっかりだから」

「それで本も結構読むんだろ?」

 これも自己紹介で言ったことだ。

「本は受験の気晴らしで読んでたなあ。ほとんどミステリだったけど。多分本は箭内くんの方が全然詳しいんじゃないかな」

「別に俺もそんなだよ」

「僕なんて外国の作家の小説は全然読めなくて。登場人物の名前が覚えられないんだ」

「ああ! それ分かる。俺ハリーポッターでもこんがらがったから」

 昇が言った。

「いきなりロナウドって出てきて、誰だよそいつって登場人物表見ても載ってなくて、意味わからずにしばらく読んでたらロンだったの」

「土井はロシア文学は読めないな」

 箭内くんが苦笑した。

「なんで?」

「ロシア語は人の名前がすごい変化するんだよ。同じ人なのに呼び方が五通りあったりする。それに名前も何とかコフとか何とかスキーとかばっかりだし」

「げえ」

 土井くんは顔をしかめる。僕は言った。

「ロシア文学読むんだ。すごいね、ドストエフスキー?」

「『カラマーゾフ』読んで挫折した。さすがにまだ早かったかな。『地下室の手記』は面白かったけど。そんなに登場人物も多くないし、短いし。太宰の『人間失格』よりは共感できた。俺不思議なんだよな、なんで『人間失格』の主人公ってあんなモテるんだろう? どう考えてもダメ人間なのに」

「ああ、それ分かるかも。なんか、特に文学の主人公って妙にモテるよね。どこが魅力なのか良くわかんないのに、いつの間にかくっついてたりして」

「なんか、ラノベみたいな話だな」

 土井くんの言葉に、箭内くんは笑った。

「真面目なやつが聞いたら激怒するな」


 そうやって僕ら三人は、なんとなくつるむようになった。意外だったのは、野球部の土井くん——昇が、部活が始まってクラスの中に部員たちのグループができても、僕たちとの関係を切らなかったことだ。勿論、それ以前に比べて話す時間は減ったものの、他の運動部、例えばラグビー部なんかがそうであるように、部員たちだけで世界を作り上げるようなことはしないようだった。箭内が居ないときに、直接昇に訊いたことがある。昇はこう答えた。

「んーなんていうかさ、一つの世界だけに住むって決めるって、それはそれで結構勇気のいることだし、尊いことだと思うけど、やっぱある程度経つと慣れが生じるっていうか、まあ居心地が良くなっちゃって、その世界の外のことがあんまり考えられなくなると思うんだよな。実際、中学までは野球一筋でずっとやってて、他のことなんて考えなかったんだよ。それで受験です、ってなったときに、なんか今まで俺ってすごい狭い世界で物考えてたんだなって思ったんだよ。だから高校ではせめて通気孔くらい作っておこうかなって思ったわけ。それがお前らよ」

 昇は一リットルの紙パックの紅茶を、ストローで音を立てて飲んだ。

「箭内はさ、やっぱこう、俺らと違うわけじゃん? それにあいつすげー頭良いし。あいつがどういう風にいろんなものを見てるんだろうっていうのがすごい興味あるんだよね」

 そう言う昇に、自分とつるむ理由を聞きたかった。僕は、何か新しいものの見方というものを、昇に与えられているだろうか? 多分、無理だ。僕は自分自身の平凡さを嫌というほど知っていた。確かにDTMという少し変わった趣味を持っているが、それも受験が終わって始めたばかりのど素人で、他人に聴かせられる曲なんて未だに作れたことがない。

「朗もさ」

 昇はスマホをいじっていた。

「なんにでも興味持つよなって俺思うんだよ。貪欲な感じがする。だって普通、楽器やったことない人間がいきなり作曲しようって思わないだろ。んで本も読むし。俺は結局自分の安全圏にいることをすごい大事にしてるけど、朗にはそれが無い感じがする」

 僕は素直に喜べなかった。それは、僕自身が空っぽだからに過ぎないと、自分が痛いほど分かっていたからだ。僕が悶々としていると、野球部の部員が近くへ寄ってきた。

 途端に自分が何かの外に放り出された気がする。

「土井さあ、今日の自主練、出る?」

「んあ? 出るけど?」

「なんか俺の中学の同級生の女子がさ、合コンしないかって誘ってきてて」

「マジ? その子可愛い?」

「まあそこそこ可愛いかな。ほら、あそこの女子校なんだけど」

「うはーどうすっかなー」

「お前普段真面目に練習出てるし、たまにはいいじゃん。サボろうぜ」

 昇はしばらく黙っていたが、

「よっしじゃあ行くか! その代わり今回だけな。あとは部活無い日!」

「よっしゃ、じゃあ連絡しとくわ」

 そう言って部員は立ち去った。昇は「合コン〜♪」と鼻歌を歌っている。


「土井×箭内かな」

 今度はオレンジジュースとメロンソーダを混ぜている。絶対に美味しくないと思うのだけれど、雪穂は平然とそれを飲んでいる。

「やっぱり野球部は攻めって感じだよね、あくまであたしの中ではだけど」

「僕の友人でカップリングするのやめてくれない?」

「ああ、でも純朴受けの可能性もあるのか……高校球児だもんね……まだまだあたしの知らない世界が……」

「だからさあ」

「やっぱり写真か何か見ないと妄想が捗らない。無いの? 写真」

 この友人の妄想の餌食にするために写真を提供するなんてごめんだった。それに、男子は女子みたいにぱしゃぱしゃ写真なんて撮らない。それを伝えると、

「それもそっか」

 とあっさり引き下がる。

「ああ、でも箭内は空手の経験者だって」

「えっ!?」

 雪穂の目の色が変わった。

「体育の着替えの時腹筋バキバキだったから聞いたら、中学まで空手やってたんだって言ってた。今やってるのかはわからないけど」

「空手と野球……どっちが攻め度高いかな……」

 不気味な色の液体をかき混ぜる雪穂を見ながら、その着替えのときのことを思い返していた。

 初の体育の授業。着替えのときから明らかに不穏な空気が漂っていた。クラスが明らかに箭内のことを意識していた。

「要するに女子の着替えに一人紛れ込んでるみたいな感じだろ?」

 と言ったのは、サッカー部の部員だった。明らかに箭内に対しての発言だった。

「羨ましいなあ。だからわざわざ男子校選んだのかもな」

 周りの部員たちが乗じて下品な笑いをあげる。男子校だろうが共学だろうが着替えの時は男子だけなのは変わらないじゃないか、と思ったけれど、それが何の擁護にもならないと気づいたので僕は黙っていた。箭内は何も言わずに服を脱いだ。当のサッカー部員の体が霞むような肉体が晒された。膨らんだ胸、八つに割れた腹筋、膨らんだ僧帽筋に、がっしりとした肩周り。ズボンも下ろす。膨らんだ太もも。その肉体に気圧されるように、思わず皆が黙り込んだ。箭内はそんな視線を全く気にせずさっさと体操着を着ると、いち早く教室を後にした。

「オナニーでもしにいったんじゃねえの。俺らの裸でさ」

 負け惜しみのようなサッカー部員の声が響いた。

 その後の体育の準備運動でも、箭内に密着するのを嫌がったのか一緒に組む生徒がいなかった。昇が駆けつけて一緒に組んでいた。僕にはできないと思った。

「土井ってさあ、すげえ箭内とつるんでるけど、あいつもホモなの?」

 僕と組んだ帰宅部の冴えない男子が訊いてきた。

 やっぱりそういう目で見られてるんだ。

「違うと思うよ、のぼ、土井くん、中学で彼女いたらしいし。この間も、野球部の友達と合コン行ってたもん」

「ふーん。じゃあお前は?」

「え?」

「お前もつるんでるじゃん。気持ち悪くないの? ホモだよ? 自分のことそういう目で見てるかもって思ったらぞっとしない?」

 なぜこの帰宅部の冴えないオタクは、自分がそういう目で見られると思えるんだろう。その自信がどこから湧いてくるのか不思議だった。女が相手だったら絶対にそんなこと思わない癖に。

「気持ち悪くないよ、普通のヤツだよ、箭内は」

 そこまで思い出し、昇のことをホモだと言ったオタクと、目の前の妄想を繰り広げる雪穂と、何が違うのだろうと思ってしまった。

「やめようよ」

 僕は言った。思ったより大きな声が出た。

「僕の友達で妄想するのはさ」

 雪穂はしばらく目を大きくしてこちらを見ていたが、やがて視線を下げて、

「そうだよね、ごめん」

 と素直に謝った。

 分かってる。雪穂とあいつは違う。雪穂には別に悪意はない。第一本気じゃない。「あくまでファンタジー」って、いつも言ってるじゃないか。雪穂は箭内も昇も見たことがない。想像上の人物と同じだ。漫画のキャラクターをカップリングさせるのと、雪穂の中では大差ないのだ。

 僕は自分が神経過敏になっているのだろうかと思った。目に見えて向けられたあの悪意に、自分の心がささくれ立っているだけだろうか。

 けれど。悪意がなければいいのだろうか。悪意なく昇までホモにされて——。

 僕はひっと小さく息を吸った。頭の芯がいきなり冷える感覚だった。

「帰る」

 そう言って鞄を取り、自分の支払いより遥かに多い千円札を机の上に置くと、雪穂の方を見ないようにファミレスを後にした。

 家までの道のりはずっと下を向いて、自分の足が一歩ずつ前に進んで行くのを無心に見つめていたけれど、頭の中は回転を止めてはくれなかった。

 僕は何に怒ったのだろう。

 昇までホモにされたから怒ったんだ。

 つまりそれって。

 やっぱりホモを一段下に見ているってことじゃないのか?(傍点)

 僕は家に着くとそのままベッドに直行した。僕は難しく考えすぎているのか? スマホに連絡があった。雪穂からだった。『ごめんなさい』。

 雪穂に怒ったからじゃないんだ、そう返事しようと思ったけれど、手が動かなかった。返事は明日でいい。

 ヌこう。僕はそう唐突に思い立って、デスクトップのパソコンを立ち上げた。キーボードと、小さな鍵盤が接続されている。

 僕はあまり性欲の強い方ではない。よく中高生は一日に何回もオナニーするとか言うけれど、僕は一週間くらいヌかなくても平気だったりする。だけれど試験のときとか、受験のときとか、何か脳に負荷がかかると、リフレッシュさせるために射精をする。

 ブックマークに入れてあるエロサイトに飛ぶ。海外のサイトはウイルスとかが怖いから、日本のサイトにしかいかない。

『あなたは18歳以上ですか?』

 ——はい。

 クリック一つで接続される。目の前では女の人が、裸だったり服を着ていたりするパッケージの写真がずらりと並んでいる。毎度のことだが、何かとても悪いことをしている気分になる。僕は思ってしまう。雪穂が妄想するのと、僕が今からしようとしていることは、何か違いがあるのだろうか。それを考えるのをやめようとこのサイトにアクセスしたのに、これでは意味がないと思い、僕は考えるのをやめる。今まで何度もお世話になった、アイドルグループの女の子に似ているという触れ込みのパッケージをクリックする。女の子はそのアイドルグループを模して制服風の衣装を着ている。勿論クレジットカードなんて持っていないから、本物を買うことはできない。だけれど便利なもので、こういうサイトにはサンプル動画というものがある。このサイトの良いところは、サンプル動画で十分すぎるほどにエッチなシーンを見せてくれることだ。

 何度も見た『sample2』をクリックする。女の子が上目遣いでこちらを見ている。その眼前にはモザイクのかかった太い何かがある。僕の股間からも同じものが生えている。女の子はちょっとぶっ飛んだ目をしてそれを見つめる。鼻を寄せ、においを嗅ぎ、それへの感想を述べる。「おっきい」。そう、確かにそれは大きい。モザイク越しでも分かる大きさだ。僕は自分のそれを扱きはじめる。画面上よりもだいぶ小さいそれを。女の子は上目遣いで許可を求めている。「ねえ、もうしゃぶってもいい? 私、我慢できない」。男は声を出さない。女の子の後頭部を大きな手で掴むと、優しい手つきでそれへと導く。女の子はかすかに上擦った声をあげて、とてもおいしそうにそれを口に含む。僕の股間をしごく手が早くなる。女の子はそれに吸い付いているせいで間抜けにも見える顔をしている。わざとらしくしゃぶる音が、マイクで大きく拾われる。その音が僕を興奮させる。しばらく女の子は頭を前後に動かしてそれをしゃぶっている。僕はそれに合わせて手を動かす。やがて女の子が口を離す。口とそれの間に、よだれなのか他のものなのかわからない糸が引かれている。ぷはあ、と呼吸をし、「おいしい」と女の子は言う。僕はそこで果てる。

 僕は射精の直前に先端に当てたティッシュをゆっくりと取り除いた。溜まっていた精子がたっぷりと注がれていた。それから少ししたところで、サンプル動画は終わっていた。実際に出すシーンは見たことがない。本物のシーンはどれだけ興奮するんだろうか。その気になって探せば、多分ネットにいくらでも転がっているだろうけれど、僕はそれをしたことが無かった。

 僕はいつもフェラチオのシーンばかり使っていた。実際の行為のシーンは、あまり見ても興奮しなかった。久しぶりの射精に、ぐったりとした虚脱感が襲ってきて、お風呂も明日の朝でいい、と僕はとりあえず制服だけ着替えるとそのまま眠ってしまった。


「腐女子ってどう思う?」

 僕は箭内に、相当な勇気を持って聞いてみた。

「ああ、別に良いんじゃない」

 箭内はあっさりと答えた。

「人の趣味にどうこう言える立場じゃないから、俺はさ。まあ知り合いにはすごい嫌ってる人もいるけど」

 やっぱりそういう人もいるのか。

「嫌ってる人は、何が嫌なの?」

 昇が昼食の焼きそばパンを口に含みながら訊く。

「うーん、多分単純に、女子がおかずにされて嫌なのと同じなんじゃね? 本人に聞いたわけじゃないけどさ」

 君たちも妄想のネタにされてたよ、とはとても言えず、僕は黙ってツナサンドを食べた。

「まあでも若い人ほどあんまそういうの気にしてない感じかなあ。そういう漫画、実際に俺も読むし」

「読むのかよ」

 昇が半笑いで突っ込む。

「ほとんどありえねーって展開のばっかりだけどな、ときどき結構良いのもあるんだよ」

 僕の頭の中に、いくつか漫画のタイトルが浮かんだ。箭内もそれを読んでるだろうか?

「あれは読んだ? 『空想少年』」

 気がついたら聞いてしまっていた。最近そういう話をすっかりしなくなったから、誰かと共有したかったんだと思う。

「え、何朗そういうのも読むの?」

 昇が笑った。「どんだけ守備範囲広いんだよ」

「中学の親友、女子なんだけどさ、そいつが無理やり僕に読ませてきたんだよ」

「あれかあ、あれは結構好きだったなあ。展開が自然だったな」

 僕は久しぶりにそういう話ができるのが嬉しくなってしまった。

「そうそう、展開がすごい良いよね」

「二人が付き合うまでの流れが良くできてるんだよな。何気ないとこがちゃんと伏線になってて、あとから読むとああ、ってなるんだよな」

「そうそう、保健室でのやりとりとかが読み返すとちゃんと効いてるんだよね」

「あーあのやりとりはな、泣けるな」

「なんだよ二人で盛り上がってさー」

 昇が拗ねると、

「貸してやろうか?」

 と箭内が言った。

 昇はしばらく考えて、

「……いや、いいわ」

 と言った。まあ、そりゃそうか。

「まああとやっぱ学生同士の話だから、身近に感じたってのはあるなあ」

 さらりと言ったその言葉が、僕には衝撃だった。そうか、箭内にとってはあれはファンタジーじゃなくて、もっとリアリティのあるものなのか。僕は箭内と同じ漫画について話していたはずなのに、全く噛み合っていなかったのではないかという気持ちになった。そんな僕の衝撃を他所に、箭内は話を続けた。

「じゃああれ読んだ? 『ハッピーエンディング』」

「読んだ!」

 好きだった漫画だ。後半ほとんどずっとしてた(傍点)けど。

「あれはエロかったわ、何度も使ったよ」

 僕は再び何も言えなくなってしまった。そうか、やっぱりそういうものなのか。そうだよね、エロかったよね、と言う訳にもいかず、僕は他の漫画の話題を持ち出して誤魔化した。昇はずっと蚊帳の外だった。


「結局、僕も差別してるってことなのかな」

 いつものファミレスで、目の前には雪穂がいる。今日は混じりっけなしのカルピスだ。あの後雪穂にどう返信すれば良いか分からず、直接話した方が良いと思って呼び出した。僕は自分が怒ってはいないことと、あの時の感覚を素直に雪穂に話した。

「例えばさ」

 雪穂はカルピスをストローでかき混ぜている。

「帰宅部の、気の弱い男子高校生が主人公。いろんなことに興味があるけど、どれか一つに絞ることができないのが悩みなの。クラスに馴染めなくて、いつもお昼は一人で食べてる」

 突然話し出した雪穂についていけず、僕は顔を上げた。雪穂は渦を巻くカルピスに視線を落とし、その唇から話し続ける。

「同じクラスに、自己紹介でゲイだって言って孤立している男子生徒がいる。彼は空手をやっててイケメンで、いかにも攻めって感じの男子生徒」

 箭内のことだ。それがわかると、雪穂の話が飲み込めた。話の主人公は僕だ。少し、現実とは違うけれど。

「そこにもう一人野球部の子が登場。この子は彼女がいて、誰にでも気が使える優しい子。クラスで浮いている二人は席が前後だったから、うまくすれば二人が仲良くなれるんじゃないかと考えた。そうすれば、クラスで孤立している人がいなくなる。野球部くんは友達が多くて話術に長けてたから、自然な感じで攻めの子に話しかけた。その二人の会話を聞いていて、受けの主人公も興味をそそられた。元々受けの子、主人公は、攻めの子がどんな子なのか興味があったから。主人公は二人の会話に割り込んだ」

 そう、それはほとんど事実に近い。でも多分、大事なのはここからだ。(傍点)

「そして三人は仲良くなった。親しい関係になるうちに、主人公は攻めの子に惹かれ始めていることに気づいた。体育の着替えのときに見える逞しい体とか、ふとしたときに見せる、多分ゲイだから味わってきた苦悩の表情とか、そういうものに見惚れるようになっていた」

 雪穂はかき混ぜるのをやめても回り続けるカルピスを見つめている。

「でも主人公は自分に自信が持てなかった。告白しても受け入れてもらえないかもしれない。攻めの子はゲイだけど、自分のことをきっと友達としてしか見てないだろうと思う」

「……結末はどうなるの?」

「ハッピーエンド。実は攻めも受けに、最初から惹かれていて、でも言い出すことができなかった。野球部の子は最初から全部わかってたってわけ。二人が仲良く手をつないでキスをして話は終わり」

 結局雪穂は飲まずにカルピスを置いた。

「どう? ごめんね、また妄想してみた。ゲイにさせられた気分は?」

「どう、って……」

「嫌じゃない?」

「うん、そうだね、まあ」

「だったら差別してないんじゃない? 多分、普通の人は嫌がるよ」

 結局雪穂はカルピスを飲んだ。一気に。

「多分この前朗が怒ったのは、やっぱり友達を妄想に使われたからっていう、単純にそれだけの理由だよ。あたしが悪かった。ごめんなさい」

 雪穂は頭を下げた。つむじがこちらを向いている。

「まあ、僕に謝られてもね。二人に謝れとも言えないけどさ」

「怒ってない?」

「うん、もう怒ってないよ。それに多分、二人も気にしないと思う」

 そう言って先日、BL漫画について話したことを言った。

「BL読んでるって言っちゃうって、結構度胸あるね」

「誰のせいだよ」

 僕は半笑いで突っ込む。雪穂も少し笑った。

「でもやっぱりゲイの人で怒ってる人もいるんだ」

「まあでもそれはさ、女子も同じような目に遭ってるじゃない。そう箭内も言ってたよ」

 雪穂はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「なんか、弱肉強食みたい」

 僕が意味が分からないでいると、

「強者の異性愛者の男性が女性を食い物にして、女性がマイノリティのゲイの男性を食い物にする、みたいな」

 と雪穂は続けた。

 僕は先日の自慰行為を思い出していた。弱肉強食。ずらりと並べられた女性たちのパッケージ。そのサイクルから抜け出すにはどうしたら良いのだろう?

 お互い黙り込んでいると、周囲の音が良く聞こえた。家族連れの赤ちゃんの泣き叫ぶ声、同じ学生の集団の黄色い声、店員を呼び出す電子音、扉が開いたベルの音、カップルの囁き合う声。厨房で皿を派手に落とす音が響くと、雪穂は、

「好きなものは好きだからしょうがない、って、よく言ったもんだよね」

 と言った。

 そのあと雪穂は僕に映画を見に行かないかと誘った。最近話題のアニメ映画だった。僕が好きな作曲家の人がBGMを担当していて、丁度観たいと思っていたものだったので、僕に断る理由は無かった。


 昇に彼女ができたらしい。

 直接は言って来なかったけれど、野球部員と話しているのが漏れ聞こえてそれを知った。正直水くさいと思った。真っ先に教えてくれても良いのに。それくらいの関係になれたと思っていた。そういう風に考えて勝手に距離を感じるのが自分の悪い癖だと分かっていたけれど、やっぱり部活の友人の方が優先順位が上なんだろうかと思ってしまう。

「箭内、知ってた?」

 これで箭内が知ってたらダメージがでかすぎると分かっていたけれど、聞かずにいられない。

「いや、知らん」

 箭内は振り返らずに答えた。野球部員の声がでかく、どうやら前の合コンのときに知り合った女の子だということが分かる。もうやったのか、とか訊いている声が聞こえてきて僕はうんざりした。

「そういえばさ、箭内はいるの? 彼氏」

 流れで思わず訊いてしまった。彼氏という表現が正しいのか分からなかったが。

「いるよ」

「えっ!」

「念のため言っとくけど男な」

「お、おう」

 そこを念を押されても。

「でもどうやって知り合ったの? なんていうか、正直未知の世界なんだけど」

 箭内は、壁を背に座り直した。箭内は横顔が一番格好良く見えるのを知っているんだろうか。

「中学の時の家庭教師。今は大学で医学部行ってる。ちょっと暗い話になるよ」

 僕は頷くしかなかった。

「まあさ、わざわざ埼玉まで来てるってので気づいてるだろうけど、俺中学の時結構病んでて、色々自暴自棄になってたんだよな。そんなとき面倒見てくれた先生で、相談乗ってくれたから流れでカミングアウトしたんだよ。親にも言ってなかったし、まあ一部にはバレてたんだけど、それでも結構勇気振り絞ってさ。そしたらびっくり、先生もそうだった。んで別に先生のことが好きだった訳じゃないんだけど、初めて打ち明けた相手で、相手は色々そういう世界のこと知ってて、話してるうちに先生のこと好きになってた。んで告白したら、高校生になるまで、志望校受かるまでダメだって言われた」

「志望校って」

「ここ。んで見事合格して、晴れて恋人になったって訳。正直中学だろうが高校だろうが条約違反なんだから一緒だろと思ったけどさ」

 箭内は笑った。

 やはり中学で色々あったのだという話がさらりとされてしまって、正直どうリアクションすれば良いのかわからなかった。

「でもすごい偶然だね、先生もそうだったって」

「まあな、でも言ってないだけで結構いるから、こっちの人。多分お前が思ってるより多いよ? このクラスにも俺以外に一人は確実にいるね」

 箭内はクラスメイトたちを見ている。

「これにはちゃんと根拠があって、まあよく言われる調査で全人口の五%は同性愛者だって言われてる。でもこういう調査で全員がバカ正直に答えるとは俺には思えないから、実数はもっと多いと思う。まあ仮に五%だとしても二十人に一人。このクラスの人数を考えると俺ともう一人いておかしくない数字だ。これは本当なのか分からないけれど八割は潜在的にバイセクシャルの傾向を持ってるなんていう説もある。男子校とか女子校でやたらカップルができるのもそれを踏まえると納得できる」

 箭内は机の上に置いてあった本——カバーがかかっているけれど、確か『一九八四年』を今読んでいると言っていた——を手に取ってぱらぱらとめくった。

「箭内はいつ自分が『そう』だって気づいたの?」

「俺は子供の頃からずっとそうだったよ。初恋も小学校一年生のときで、相手は男子だった。すぐにそれがおかしいことなんだって分かって隠してたけどな」

 僕の頭の中に、雪穂の言った言葉が思い出された。『ゲイだから味わってきた苦悩の表情』。多分今目の前の箭内は、そんな顔をしている。初恋の話を、こんな苦しそうにする人を見たのは初めてだった。

「逆に先生は気づくの遅かったらしいけどな。高校で彼女ができて、セックスできなくて初めておかしいなって思ったらしい。あの人頭良いけどその分硬いんだよな」

 そう話す箭内は幸せそうで、『先生』のことが本当に好きなのが伝わってきた。

「俺ばっか話してる。朗はどうなんだよ」

 箭内がこちらを向いた。

 僕は動揺した。何と言えば良いのか分からなかった。今までそうしてきたように、適当な嘘をでっち上げるのは簡単だった。だけれど箭内の話を聞いた後にそれができるほど僕は心の死んだ人間では無かった。だから僕は正直に言うことにした。

「僕は、人を好きになるってことが分からない」


 雪穂と見に行った映画はSFだった。舞台は近未来、理想の人間をヴァーチャル・リアリティで限りなく現実に近く具現化できるようになった世界で、人間から人同士のつながりが喪われていくという話だった。

 アニメで表現するには余りに皮肉なその内容に、興行収入を心配する僕を他所に客入りはそれなりに良く、恐らく製作会社が丁寧な作画で有名なところだからだろうと思われた。

 実際、アニメの映像は美しかった。確かにこんな『理想の人間』が目の前にいたら、現実なんてどうでも良くなってしまうかもしれない。そう思っては、シナリオ的にまずいのではないか。そんな映像を見ながら、僕は箭内との会話を思い返していた。

 馬鹿にされるだろうと思った。高校生にもなって碌に恋愛もしたことがないなんて。

 だけれども箭内は違った。

『お前、アセクシャルなんじゃない?』

 初めて聞く単語だった。

『恋愛感情を持たない人のことをそう言うんだよ』

 家に帰ってパソコンで検索した。ウィキペディアには『無性愛』として載っていた。その他のサイトも見たけれど、馴染みの無い単語が多く、理解するのに時間を要した。恋愛的志向、性的志向、人類の一%、第二次性徴、恋愛未経験。

 難しい単語が並んでいたけれど、確かにそれは要すれば——本当に、本当に単純に言ってしまえば——『恋愛感情を持たない人』のことをそう呼ぶらしい。

 何かが違う。そう感じた。それはもしかしたら自分がマイノリティに陥ることへの恐怖だったのかもしれない。人類の一%。箭内が言っていたよりも少ない数字。自分がそれだと言われてすぐに受け入れられる人間はそういないだろう。

 映画の中ではそんなヴァーチャル・リアリティに囚われた人々を救い出すべく二人の刑事が奮闘している。この二人が良いのだと雪穂が言っていた。刑事の一人は既婚者だ。だけれどそんなことは雪穂の妄想の上では関係無いんだろう。結婚。その言葉も、なんとなく自分から遠かった言葉だ。多分自分には無縁だと、どこかでそう思っていた。

 ネットの記述で気になったのが、アセクシャルの人間は性的欲求を持たないというものだった。だけれど、自分はオナニーをしている。振り返れば確かに、常にオナニーには何か罪悪感みたいなものがつきまとっていた。どこかで、「皆していることだから」と思っていた。だけれど自分は射精するときに間違いなく興奮していた。あれは性的欲求ではないのか?

 映画では若手の刑事が窮地に陥る。ヴァーチャル・リアリティに飲み込まれそうになるその若手を、ベテランが救い出そうと奮闘している。雪穂が喜びそうなシーンだと思った。

 つまり雪穂みたいな人たちは、友情や信頼といった感情を、敢えて恋愛感情の発露だと『誤読』するのだ、と思った。誤読。息も絶え絶えな若手に、渋面のベテラン刑事が声をかけている。確かに見ようによっては、まるで死にかけた恋人を前にした婚約者の表情みたいにも見える。

 友情と恋愛はどう違うなんて、Jポップの歌詞に良くあるけれど、果たしてそこの間に明確な違いはあるんだろうか? Jポップなら大抵、本当は恋愛感情だったんだ、君が好き〜♪なんて言って一件落着だけれど、それはきっと二人が男女だからこそ認められるんだろう。同性の間では、それは認められない。同性の間には友情しかないと、多くの人間が信じている。

 そういえば僕はその検索の過程で、「ホモ」というのは差別用語で、「ゲイ」と言うが正しいのだと知った。そして同時に、雪穂が今まで一度も「ホモ」と言ったことが無いことに気づいた。雪穂は雪穂なりにそういう人たちについて配慮していたのかもしれない。僕は深く考えずホモと言っていた。僕は考えを進めた。

 雪穂みたいな人たち——いわゆる『腐女子』と言われる人たち——が一部から猛烈に嫌われるのは、その暗黙のルールを破るからだ。同性の間にある「友情」としか形容しちゃいけないはずのものを、「恋愛感情」に塗り替える。でもそれはあくまで空想上、妄想での話だ。

 実際はどうなのだろう。箭内みたいな「ゲイ」の人たちの間では、友情と恋愛感情は明確に違うものなのだろうか。それともそれはとても境界の曖昧なものなのだろうか。友情だったと思っていたものが恋愛感情になったり、恋愛感情だと思っていたものが友情に過ぎなかったりするんだろうか。

 もしその境界が曖昧なのだとすれば、今まで自分は全てを友情と片付けてきたけれど、恋愛感情というものを持っていたのかもしれない。それが同性であれ異性であれ。

 気がつけば映画は終わっていた。

「これをオタク向けに公開するって、結構すごいよね」

 雪穂がそう言った。はっきり言ってほとんど身の入っていない鑑賞だったけれど、雪穂の言うことは尤もだと思った。

「要するにお前ら現実見やがれ、ってことでしょ?」

 映画館のロビーでは、グッズを買い求める客が列を作っていた。作中に登場する『理想の人物』の一人である女の子が、あられもない格好をしたクリアファイルやポスターが売っていた。この人たちはあの映画の何を見ていたのだろうと思わずにはいられない。

「まあそれでもあの二人に萌えちゃう自分もさ、結局同じだよねえ」

 雪穂はしみじみと言う。

 久しぶりに繁華街に出てきたので、二人で一緒に漫画やアニメのグッズなどを売っている専門店に行くことにした。勿論目的はBL漫画だ。

 女性だらけのフロアに踏み込むことにも、もうすっかり慣れっこになってしまった。時々物珍しそうに見られることもあるけれど、今日は雪穂と一緒なのでそんな視線もなかった。あくまで付き添いの人だと思われているのだろう。実際フロアには自分の他にも男性がいた。一人はものすごく居心地悪そうにしている。多分彼女か誰かに無理やり連れて来られたのだろう。もう一人は、熱心に棚を一つ一つ確認しているようだった。

 昇だった。

「え、昇?」

 僕が思わず声をかけると、昇は大袈裟なほど体を震わせて、びくびくとした目でこちらを見た。

「なんだ、朗かぁ」

 相手が僕であることを確認すると、安心したように笑った。手には漫画が握られていた。『空想少年』と『ハッピーエンド』だ。

「お前らがすごい盛り上がってたから、どんなんなのか読んでみようと思ってさ」

 そこで雪穂の存在に気づいたようだった。

「ああ、えっと、同じクラスの、土井」

 雪穂は頭を下げた。

「こんにちは。いつも朗がお世話になってます」

 お世話になってるってなんだ。お前は俺の保護者か。

「えっと、こいつがそのBLを俺に貸してきた野中雪穂」

「ああ、この子が」

 昇はなるほどといった顔をした。

「丁度良かった。他にも何かオススメあるなら教えてよ。あんまりハードじゃないやつね」

 昇は雪穂に言った。昇はこういうとき人との距離をあまり気にしないというか、あっさりと人のプライバシーゾーンに踏み込んでくる。だけれどもそれが不快感を与えないのは、彼の人懐っこい笑顔とか、持っている雰囲気によるものなのだろうと思った。自分には無理な芸当だ。正直羨ましいと思った。

「うーんこういうのって、すごい好みが細かく分かれてるから気に入ってもらえるかわかんないんだけど」

「大丈夫大丈夫、俺全然まだこういうの知らないし。そうだなあ、でも絵がかわいい感じだと良いかも」

「それだったら……」

 言いながら二人は他の漫画の棚へと移動する。俺はそんな二人の姿を見ながら、普段だったら自分がいるはずの場所に昇がいるということに、微かな不快感を覚えていた。

 やがて昇は合わせて五冊の漫画をレジに並んで買うと、新刊の並んでいる棚を見ている雪穂を見ながら、

「お前らって付き合ってんの?」

 と聞いてきた。

「付き合ってないよ」

 中学でも何度もされた質問だった。男女が二人でいると、人はすぐにくっつけたがる。そうか、それは雪穂がしていることと同じことだ、と思った。友情と恋愛感情の書き換え。

「でも映画まで二人で見てきたんだろ? それで友達って、よっぽどだよ。お前がどうかはわかんないけど、絶対向こうはお前に気ぃあるって」

 僕は何も言えなかった。そんなことは考えたことも無かったからだ。僕は雪穂に恋愛感情を持っていない。当然向こうもそうなのだろうと、ずっと思っていた。棚を覗き込む雪穂を見る。雪穂は漫画の品定めに夢中で、こっちなんてまるで見ていなかった。僕は笑って、

「それはないよ」

 と言った。

「ていうか昇こそ彼女できたんでしょ?」

「え、なんで知ってんの」

「野球部の樋山、声でかいんだもん。全部聞こえてたよ」

「ああー、まじか、ああ、まあ、うん」

 昇は決まりの悪そうな顔だった。

「別に隠すつもりはなかったんだけど。そのうちちゃんと言うつもりだったんだけどさ」

「どこまで行ったのさ」

「え?」

「もうヤった?」

 下衆な質問だと分かっていたけど、思わず聞いてしまった。自分がされたら嫌な気分になる質問だ。でもなんというか、反射的にしてしまった。

 昇の方を見ると、なぜかちょっと泣きそうな顔をしながら、

「ばっか、まだだよ、さすがに」

 と言って笑った。


 雪穂が自分のことをどう思っているかなんて、本当に考えたこともなかった。自分が当たり前に友達だと思っていたから、当然向こうもそうなんだと思っていた。

 そういえば中学の卒業式で、誰かが自分に告白したがっている、と言われたことを思い出した。結局何もなく終わって、何だったんだと思ったのだけれど、もしかしたらその相手が雪穂だったのではないだろうか? 確かに自分は、雪穂に呼び出されて教室で会話をしたのだった。『高校に行ってもさ、ときどき会おうよ』。それだけだった。自分は『うん、そうしよう』と言って、その約束を忠実に守っている。

 他に呼び出しは無かった。

 根拠は他に何もない。ただの妄想だ。だけれどももし本当にそうなのだとしたら、僕は雪穂に応えてあげることができるだろうか。

 幼い頃からずっと一緒に居て、隣にいるのが当たり前の存在。雪穂が見ているものがどんなものなのか知りたくて読み始めたBL漫画。雪穂の隣に昇が立っていたときに感じた微かな不快感。

 それが恋愛感情なのか、やっぱり自分にはわからない。

 そういえばアセクシャルについて検索したとき、恋愛感情は持つけれど性的欲求は持たない人を含むとも書いてあった。僕はどうだろう。雪穂と「そういうこと」をしたいだろうか。手は、繋いでみたいかもしれない。キスは、ちょっと分からない。セックスは、靄がかかったようにうまく想像できなかった。


「友情と恋愛感情の違い?」

 結局僕は箭内にあの質問をぶつけることにした。

「ゲイの人たちって、そういうのハッキリ区別できてるのかなって」

「多分一般的な人の定義で言えばさ、」

 箭内は意図的にか僕の発言を無視した。

「ヤリたくなりゃ恋愛、そうでなきゃ友情、そう思ってる人がほとんどだと思う」

 箭内はいつも親の作った弁当を食べている。昇は野球部丸ごと呼び出しを食らっていなかった。

「まあ、だけどノンセクシャルとかもいるから、単純にそうとは言えないわな」

 そう言って箭内は弁当から視線を上げてこちらをちらりと見た。恋愛感情を持つけれど性的欲求を持たない人々——それが『ノンセクシャル』と呼ばれる人たちだ。その定義に則れば彼らは「性欲の無い恋愛」をしていることになる。だからさっきの定義とは矛盾する。

「それにホモの場合、ハッテン場とかあるからな」

 ハッテン場、という単語は聞いたことがあった。ゲイの人たちが互いにその場限りの出会いで性行為をする場所だ。

 そういえば箭内はいつも同性愛者のことを「ホモ」と言う。どうして「ゲイ」と言わないのだろう。そこに差別的な意図があることを、当然知っているだろうに。

「多分そこには性欲はあるけど恋愛感情は無い」

「箭内の中ではどうなの? はっきりと区別されてる?」

 箭内はしばらく黙っていた。

「例えばさ、これで区別されてないって言ったら、どう思う?」

 箭内の深刻そうな表情の意味が理解できないでいると、

「『あいつは俺のこそをそういう目で見てくるかもしれない。ホモキモい』って言葉に、何も反論できなくなっちゃうんだよ」

 そう言って苦々しい表情をした。

「まあだいたいそんなことを言ってくるヤツは、全く興味の湧かないようなヤツなんだけどな。でも、実際区別なんてないのかもしれない」

 箭内は少し慌てた。

「あくまで俺の場合は、だからな、全員がそうだとは思うなよ。それにお前らは友情としてしか見てないから、安心しろ」

「別に気にしないよ、僕は、そう見られても」

「——そっか。はは、ありがとな。っていうかわざわざそんなこと聞いてくるのは、なんか心当たりでもあるのか?」

「うん、幼馴染の女子がいて、すごい仲良いんだけど」

「でも今までそういう風に思ったことなかったんだろ?」

「昇がさ、向こうは僕のこと絶対好きだって。それ聞いたら、なんか自分も急に意識しちゃって」

「昇?」

「ああ、たまたま二人で遊んでたら会ったんだよ、んで僕たちのこと見て、そう言ってきた」

「そうか……」

 それきりしばらく箭内は考え込んでいたが、

「ヤリたいと思う?」

 箭内はズバリと聞いてきた。

「そりゃノンセクシャルの例もあるけど、やっぱりそこって大事だよ。相手と触り合いたいとか、キスしたいとか、そういう願望は?」

「——わかんない。でも、特別な人間なんだって感情はある」

『特別な人間』。それが自分が考えた、今の雪穂への感情を最も的確に表したものだった。

「特別な人間、ねぇ」

 箭内はイマイチピンと来ないようで、

「俺にとってはそりゃ先生は『特別な人間』だけど、親友だって『特別な人間』だし、なんなら家族だって『特別な人間』だからなあ」

 箭内は食べ終わった弁当箱を仕舞った。

「『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』って、知ってるか?」

 聞いたこともない。

「昔は日本ってほとんど見合いで結婚してただろ。それでもなんとかなってたって、今の感覚からするとすごくねぇ?」

 話が急に昔に飛んだので、やや理解が追いつかない。

「だってほとんど相手がどんな人間か知らない、写真とかちょっとのプロフィールだけで知り合った人間と結婚して、家族になって、セックスして、子供作ってたんだぜ。しかもそれが普通だった。でも西欧の文化が入ってきてそれが変わった。結婚は好きな相手とするものになった。その時に一緒に入ってきたっつーか、それを主導したのがロマンチック・ラブ・イデオロギーってヤツ。まあ簡単に言っちゃうと恋愛至上主義っつーか、ロマンチックっていうのは例えば『運命の赤い糸』とか、昔はよく言っただろ? 今は死語だけど。でも運命の相手とか、そういうのは少女漫画だとよくある考え方だよな。要するに男と女のカップルがいて、恋愛して、結婚しましょうっていう考え方そのものを指す言葉なわけ。で、これが結構人間を束縛してるんじゃないかって言われてる。だってそれ聞いて、普通のことじゃん、って思うだろ?」

 僕は頷いた。

「でもお前の目の前にいる人間はそこから外れてる訳よ」

 僕は箭内を見つめた。そうか、箭内はそうじゃないんだ。

「まあ今は国によって同性婚とかあるし、結局俺らだって一組のカップルな訳だから、そこからどこまで自由なのかはわかんないけど、でもまあ、ちょっと外側から見れる」

 箭内は視線をクラスメイトたちに向けた。無邪気にはしゃいでいるクラスメイトたちが、箭内にはどう映っているのだろう。

「人のセクシャリティだから不用意なことは言えないけど、もしかするとお前の中にはその考え方がべったり張り付いてるのかもしれない」

 僕は否定も肯定もできなかった。自分の常識を疑えと言われても、そう簡単にできるものじゃない。

「僕にはわからない」

 正直に言う。

「先生もしばらく悩んだらしいし、そんなすぐにわかるもんじゃないよ。俺はガキの頃から皆と違うんだって思ってたから特に悩まなかったけど。それに俺とお前は多分タイプが違うからな。ゆっくり考えれば良いんじゃね? それで普通にその女の子のことが好きだってなったら、それはそれで正しいと思うし」

 だけれど僕にゆっくり考える時間は与えられなかった。


 さすがに烏龍茶とカルピスの混合物はまずかったらしく、濁った色の液体は少し口をつけただけで放置されていた。

「そうそう、五月さんの新刊出たから買ったけど、読む?」

 五月さんというのはBLの、僕たち二人の共通して好きな作家の一人だった。心理描写がとてもうまい作家で、絵柄もどこか中性的なところが魅力だった。

「読む」

 そう言って漫画を受け取る。

「それで、用事ってこれ?」

 漫画を鞄に仕舞いながら聞くと、雪穂は小さく首を振った。

「ちょっと大事な話があって」

 僕の心臓が高鳴った。まさか、と思う。頭の中に昇の言葉が蘇る。僕はみるみる心拍数が上がって、心拍数が上がるということは、と思ったけれど、いや、ただ緊張してるだけなんじゃないか、と思って、なんでそんなに無理に否定しなきゃいけないんだ、と考え直し、そもそもそうとは限った訳じゃない、例えば学校に溶け込めないとか、そういう相談かもしれないじゃないか、と思うと、申し訳ないが少し落ち着いた。

「何? 何か相談?」

「うん」

 ——相談。ということは告白ではない。僕は急に冷静になった。なるほどこれがロマンチック・ラブ・イデオロギーというヤツなのかもしれない。そんなことを考えていた僕に、

「告白されちゃった」

 と、鈍器でぶん殴るような言葉が投げつけられた。

 そうか、そういう可能性は考えていなかった。よくよく考えれば雪穂の学校は共学だった。当たり前にあり得る話だった。僕は動揺を隠した。

「へえ、そうなの。相手はどんな人なの?」

「同じクラスの子で、バスケ部で、かっこいい感じの人」

 自分とは全く違う世界の住人だ。しかも『かっこいい感じ』なんて雪穂が言うのだから、相当なイケメンなのではないか。僕が黙っていると、

「なんか、入学式からずっと私のこと気になってたんだって」

「性格は?」

「うん、爽やかで、クラスの中心にいる感じ。皆と仲良いよ」

「すごいじゃん」

 心にもない言葉がするりと出てきた。

「なんで私なのかなあ……」

 雪穂は余り自分に自信がないが、見た目は決して悪くない。中学でも友人も多かったし、別になんら不思議なことはない、

「雪穂は自分に自信なさすぎなんだよ。中学でだって友達いっぱいいたし、別に顔だって悪くないし、告白される要素は十分あるよ。少なくとも俺なんかより遥かにね」

「自分に自信が無いのは朗も一緒じゃん」

 雪穂はそう言って笑った。

「でもほんと、喋ったこともほとんど無いのに」

「同じクラスなんだから、ちょっとは接点あったんでしょ?」

「うん、まあそりゃ少しはね、でも、なんでかなあ」

「どうするの? 受けるの?」

「うーん……」

 僕はふと思いついた。今が絶好のチャンスではないか。

「他に好きな人がいるとか?」

 僕は緊張して雪穂の顔を見た。雪穂は一瞬目を見開いてこちらを見、視線を斜め上に投げた後、

「今はいない、かな」

 と言った。僕は体から力が抜ける感じがした。そうか、いないのか。

「だったら、断る理由も無いんじゃない?」

「うん、そうだね、それに、断りづらいっていうか」

 雪穂は少し表情を歪めた。

「どういうこと?」

「人気者だから、ファンみたいな感じの子が結構いて、多分断ったらすごい難癖つけて来そうなんだよね」

 僕は急に不安になった。

「それって、付き合うってことになってもヤバいんじゃないの?」

「うん……でも多分、断る方が『何様』って感じになると思う」

「そっか、でも、その男子に悪い感情は持ってないんでしょ?」

「まあそうだけど、なんか自分の意思で決められない感じがすごい嫌」

「いつまでに返事しなきゃなの?」

「とりあえずしばらくは大丈夫だって言われてるけど」

「だったらちょっと待ってもらえば?」

「それはそれで波風立ちそうなんだよね。ああ、嫌だなあ」

「じゃあ、もう付き合っちゃえば良いじゃん!」

 僕は半ばヤケクソだった。

「イケメンなんでしょ? 滅多に無いチャンスだよ! 嫌になったらなんかしら理由つけて別れちゃえばいいんだよ、せっかくだしとりあえず付き合ってみれば良いんじゃない?」

 雪穂はしばらく僕の上気した顔を見つめた後、

「うん、そうだね、……ちょっと考えてみる」

 と言った。

 家に帰ってベッドに横になると、僕はなぜあんな乱暴な提案をしてしまったのかと猛烈に後悔の念が襲ってきた。好きでも無い相手と、無理に付き合うことなんてないのに。頭の中に箭内の見合い結婚の話が浮かんだけれど、無理やりに追い払う。それとこれとは話が違う。

 雪穂に彼氏ができる。

 その事実が、僕の胸を締め付けた。しかも相手は、クラスの中心人物で、イケメンで、バスケ部だ。僕と真逆の人間。そのうちに雪穂も相手のことを好きになるんだろうか。二人はデートに行く。カラオケに行く。僕と行くときみたいにアニソンは歌えないから、雪穂は何を歌うんだろう。二人は徐々に仲良くなる。デートはどこに行くだろう。僕みたいに漫画を一緒に買いに行ったりはしないだろう。二人でスイーツでも食べるのだろうか。僕の頭の中では、相手はバスケ漫画の、雪穂が攻めだと言っていたキャラクターに置換されている。雪穂はキスをする。場所は誰もいなくなった教室。すっかりできあがった二人は、親が留守だという相手の家に行く。そしてする、セックスをする。

 ——ダメだ。耐えられない。

 僕は好きなんだ、雪穂のことが。でなければ、こんな辛い気持ちになる筈がない。


 僕は雪穂のことが好きだ。そう思うと、今まで悩んでいたもやもやが解消されて、気分は楽になった。もちろん、気づくのが遅かったという気持ちの方が大きかったけれど。

 今から雪穂に告白しようか? 相手はバスケ部のイケメンの人気者だった。雪穂は迷っていたけれど、実際の所、その取り巻きがいなければ、すぐに返事をしていたのではないか。自分に勝ち目があると全く思えなかった。相手は、雪穂がよく好む漫画のキャラクターの属性をほとんど全部持っているような男だった。

 それに、気持ちが楽になったといってもまだ悩みは残っていた。確かに雪穂がその男とセックスするのを僕は耐え難いと思ったけれど、じゃあ自分がセックスしたいかと言われると、どうしてもそうは思えないのだった。そんな自分に、告白する資格があるのか自信が持てなかった。

 僕は『ノンセクシャル』、なのだろうか。

 教室に入ると、窓際に人だかりができていた。あのオタク風のクラスメイトが、どうやらノートパソコンを教室に持ち込んで何かを見ているらしい。

「うわ、マジかよ」

「やばいな、これ、あとでくれよ」

 口々にクラスメイトが何か言っている。なんだろう?

 僕は人ごみの後ろから画面を覗き込んだ。

 画面には裸の女性が映っている。動画だ。縦長の画面なので、スマホか何かで撮影されたものなのだとわかる。その女性は、最近売り出し中の若手女優だった。主演しているドラマも見たことがある。ショートカットの黒髪で、爽やかな顔立ち、ハキハキした性格で人気だった。そういえば、先週あたりの週刊誌で、「ハメ撮り流出!」と記事になっていた。その映像なのだろう。音声は聞こえない。その女優は、普段の爽やかな印象とはまるで違った、ある種痴呆的な表情をしていた。そんな顔で、自らの恥部を弄っている。僕はそこに視線が吸い込まれた。無修正の局部を見るのは初めてだった。僕は思った。あれが無い。当たり前だ、女なんだから。だけれどそれが僕をひどく不安定な気持ちにさせた。股間のあたりがむずむずする感じがした。撮影者の要望に答えたのか、女優は自らの腰を持ち上げて、性器をカメラに見せつけた。周りの男子がおお、とどよめく。僕はそれを見て、言いようの無い感覚を覚えた。セックスをするとき、あそこを舐めたり、あそこにあれを入れたりするんだ。

 無理だ、と思った。僕にはそれはできない、と思った。それは生理的な感覚だった。僕は今までそういったビデオの行為を見ても平気だったのは、モザイクがあったからなんだと痛感した。モザイクはあの映像を一種のフィクションに仕立て上げていた。現実との間に一枚の大きな壁を作っていた。

 その壁が壊されてしまったのだ。

 僕は何も言わずそこから立ち去って自分の席へ向かった。そうしながら、雪穂のことを考えた。雪穂にもあれがあるのだ、と思うと、朝から抱いていた雪穂への感情が萎えていくのがわかった。それは完全に潰えはしなかったけれど、もう虫の息に近かった。

「よう」

 箭内が声をかけてきた。

「ああ、おはよう」

「顔色悪いぞ」

「うん、ちょっと、きつい」

「あれ見てそんな顔してたら、変な奴だと思われるぞ。普通にしとけ」

 その通りだ。他のクラスメイトたちは皆興奮している。していないのは俺と箭内くらいだ。

「僕は『ノンセクシャル』なのかもしれない」

「女の裸はダメだったか?」

 僕は頷いた。

「好きだと思うんだ、雪穂のことは。でも多分セックスはできない」

 箭内はじっと僕のことを見つめ、やがて言った。

「なあ、『ハッピーエンディング』を読んでるときは、どんな気分だった?」

「どう、って、別に」

「男同士のセックスシーンを見て、何も思わなかったか? 今みたいな気分にならなかったか?」

 そういえば、それは普通に受け止められた。

「今までBLでオナニーしたことは?」

「ないよ、一度も」

「オナニー自体はしてたんだな?」

「うん……」

 さすがに恥ずかしくて声が小さくなる。

「おかずは? 何使ってた?」

「あの、女の子が、しゃぶってるの」

 大きな音を立てて、箭内が突然立ち上がった。動画に興奮していたクラスメイトたちも、一瞬こちらに視線を向けたが、すぐに視線を戻した。驚いて見上げると、箭内は真剣な顔で、僕の腕を掴んで立ち上がらせた。

「ちょっと来い」

 箭内に抵抗できるはずもなく、僕は引き摺られるようについていった。箭内は何も言わずどんどん歩いていく。

「授業、始まっちゃうんじゃ」

 箭内は無視した。どんどん人通りが少なくなり、あたりに誰もいなくなると箭内は言った。

「先生も一緒だった。オナニーするときはフェラの動画ばっかりだったって。本番は使えなかったって」

 辿り着いたのは校舎の果て、寂れたトイレだった。個室へと押し込められる。

「『ノンセクシャル』の人間は、そもそも触れ合いたいって欲求がないんだよ。性行為全般を嫌悪するんだ。だからフェラの動画なんて見ない。俺が思うに、お前は多分違う」

 目の前に箭内の顔がある。やっぱりイケメンだ。僕みたいなぼんやりした顔じゃない。

「先生はセックスできなくて女の子を傷つけたって後悔してた。お前にも、雪穂って子にも同じ思いはして欲しくない」

 そう言うと、箭内は僕を壁に押し付けて唇を重ねてきた。

 僕は驚きに頭が真っ白になる。驚いて逃げようとしたけれど、頭を抑え付けられてできない。舌が入ってきた。僕は体をよじらせる。箭内の手が股間に触れて、そこで初めて自分の股間が硬くなっていることに気づく。

 箭内は舌を絡ませたまま、慣れた手つきで、まずズボンの上から股間を扱いた。慣れない初めての感覚に、僕の体が小刻みに震える。

 チャイムの音が、どこか遠くにぼんやり聞こえた。

 やがて箭内はズボンのチャックを下げ、そこから手を入れてパンツを下ろし、僕のものを取り出した。自分でも驚くほど、そこはもうぬるぬるになっていた。箭内がごつごつした手でそれを掴んで上下にしごくと、僕の口から甘い声が漏れた。脳の奥が痺れる。

 狭い個室で、箭内がしゃがみこんだ。

「ダメだよ、そんな」

 僕の制止を聞かず、箭内は僕のそれを口に含んだ。

 僕は見下ろした。動画で見慣れた風景だけれど、一つ違っていた。しゃぶっているのが男だということ。そしてそれは、僕の違和感の原因がなんだったのかを如実に示していた。僕が見たかった映像はこれだった。多分、僕は「しゃぶられている」という事実だけを抽出して興奮していたのだ。『先生』もそうだったのだろうと思った。

 箭内が頭を動かすたびに巨大な波に飲まれ、あっという間に射精してしまった。

 口の中に、直接出した。快楽に白く濁っていた頭が正気を取り戻すと、僕は慌てて箭内に謝った。

「ごめん、我慢できなくて」

 箭内はトイレの蓋を開け、僕の出した精液をそこに吐き出した。そして僕を見つめて言った。

「お前はゲイだよ」


 『先生』は、箭内に出会って、その時自分が本当にゲイなんだと確信し——つまり先生は一目惚れをした訳だ——、そして今までの人生で抱いていた諸々の違和感の理由がわかり、自分が解放された気がしたらしい。

 例えそれがマイノリティであったとしても、自分が何かに分類されるというのは、やはり安心するものなのだろうか。

 何かに名前をつけるという行為。引きこもりが、引きこもりと呼ばれるようになって増加したように、うつ病が、うつ病と名付けられて増加したように、人は分類されたがっているのではないか。何者でもない自分、何物でもない感情を持って生きるというのは、多分とても辛いことだ。

 ——お前はゲイだよ。

 僕は思い出す。口の中に入ってきた箭内の舌の感触。微かに香った箭内の汗の匂い。無骨な手が僕の股間を撫でたこと、そしてしゃぶったこと。味わったことのない、脳が痺れて腰から力が抜けるような快感。

 それを思い出したら、僕の股間が再び力を持ち始めた。

 僕はパソコンを立ち上げ、グーグルに検索したことのないワードを入力する。

『ゲイ 18禁』

 見慣れないサイトが表示される。ビデオメーカーと書いてある。僕はそれをクリックする。

『あなたは18歳以上ですか?』

 ——はい。

 ゲイのサイトでもこのやり取りは変わらないのだな、と思う。トップサイトでは、爽やかな男性、高校生くらいにも見える二人が親しげに肩を組んでいる。下の方には、やはりずらりとパッケージが並んでいる。裸のものもあれば、服を着たものもある。中にはサッカーのユニフォームを着て、泥だらけでボールを抱えて微笑みかけて来ているものもある。何かレザーの、いわゆるSMと呼ばれるもので使うようなものを身に纏ったものもある。僕はそれらを見て、あの『罪悪感』みたいなものを覚えない。

 僕は肩を組んだ二人の写真をクリックする。

 いきなり二人がキスをしている。僕は驚くが、すぐに冷静になる。ここはそういうサイトなのだから、当たり前のことだ。どんなに自分の奥深くを探っても、嫌悪感は見当たらない。『サンプル画像』には、二人が様々な体位で絡み合っているものが掲載されている。再び僕の股間が熱を帯びる、僕は『サンプル動画』をクリックする。音は出さない。街中で二人が仲良さそうに歩くシーン、キスシーン、そして服を脱がせあって、僕は自然に、今までで初めて、自らオナニーがしたいと思った。股間はもう限界だった。僕は興奮している。二人がやがて絡み合い始める。僕は着ていた部屋着のズボンを下ろす——

 その時、スマホが震えた。

 僕は反射的にスマホを手に取った。

 雪穂からのメッセージだった。

『やっぱり、付き合ってみることにした。相談乗ってくれてありがとう』

 僕はパンツ丸出しの間抜けな服装のまま、しばらくその画面を凝視していた。やがてゆっくりと視線を動かすと、動画は終わっていて、最後の、二人が結合しているのを真横から写したシーンで止まっていた。

 ——お前はゲイだよ。

 まるで呪いの言葉のように頭の中に声が響く。

 僕には『先生』のような解放感が無かった。何も解決されていないと思った。雪穂に彼氏ができる。雪穂が誰かの彼女になる。それは変わらず、僕の胸を締め付けた。僕は名前をつけて欲しくなんてなかった。僕は分類されたくなかった。違う。僕はその分類を、正しくないと思っているんだ。僕は雪穂が好きだ。僕は雪穂の彼氏になりたい。雪穂は女だ。だから僕はゲイじゃない。僕はパソコンの画面を見た。だけれども僕は、どうしようもなく(傍点)これに興奮する。

 頭がこんがらがりそうだ。普段だったらその解消にオナニーをするのだけれど、もう僕にとってそれは性的欲求と結びついてしまった。正しく、オナニーとはそういうものだ。

 パソコンの画面を閉じた。ズボンを履き直した。先走りが少しパンツに滲んでいた。

 雪穂にメッセージを送ろうと思った。『おめでとう』。その五文字を打つことができない。

 この感情に名前が欲しかった。

 僕はベッドサイドに置いてあった、雪穂から借りた漫画を手に取った。

 それは灯台が近くにある学校が舞台だった。女子生徒に人気の教師が、もう一人の教師に女装をさせて、カップルであるカモフラージュをする話だった。その女装させられる教師のことが、好きだという男子生徒が出てきた。自分はゲイなのだとその男子生徒は言った。僕は先生のことが好きなのだ、と男子生徒は思う。だけれどその男子生徒は、先生とセックスしたいとは思わない(傍点)。

 僕は寝転がっていた姿勢を正し、胡座に座りなおした。

 結局教師二人はお互いに結ばれる。女装も止める。男子生徒は遠く離れた学校に進学することになる。男子生徒は、仲の良い女子生徒に打ち明ける。

『好きだけど、セックスはしたくない。こういう感情って何なのかな』

『うーん……家族愛、じゃない?』

 その後の漫画の展開は、ほとんど頭に入ってこなかった。思わぬところからあっさりと与えられた名前。家族愛。僕が雪穂へ抱いている感情の名前は、それで正しいだろうか。僕は娘を嫁に行かせたくない父親と同じ感情を抱いているということなのだろうか。僕が子供の頃、お姉ちゃん子だったとき、姉が友達と遊びに行ってしまうときに感じた寂しさ、それと今の感情は同じものだろうか。家族愛。

 ——なんなら家族だって『特別な人間』だからなあ。

 僕が雪穂のことを『特別な人間』と言ったとき、箭内がそう言っていたことを思い出す。

 やはり、箭内が正しいのだろうか。

 けれど。僕は思う。

 『ノンセクシャル』の人たちもまた、セックス抜きの恋愛感情を抱いているというではないか。セックス抜きに、恋愛感情は成立する。だとすれば、僕の抱いている今の感情は、やはり恋愛感情なのではないか。

 でも僕は——僕は画面の真っ暗になったパソコンを見た。僕は、男性に性的に興奮するのだ。

 僕の愛は一体どこにあるんだろう?


 軽快な音を立てて、ピンが勢い良く薙ぎ倒された。

「いぇーいストライク〜」

 昇がガッツポーズを取ってくるくるまわる。もう三ゲーム目で、僕の親指の爪は割れかけているし、上腕ももう力が入らなくなっていたのだけれど、さすが体育会系の二人はまだまだ余裕そうだった。

 三人で校外で遊ぶのは初めてだった。場所は埼玉県民大好き池袋だ。都民の箭内がいることを考えると、当然の選択だった。遊ぶきっかけは、僕が箭内に雪穂のことを話していたのを昇が盗み聞きしたことだった。最近部活で忙しく話す機会が減っていたことを、昇自身少し気にしていたらしい。

「最近二人でばっかり話してるけど、何話してるんだよ」

「何って、本の話とか」

 箭内は僕のことは言わなかった。

「でもなんか今女子の話してただろー! 分かるんだぞ、そういうの」

 昇は意外と耳敏い。僕は素直に、雪穂に彼氏ができたということを告げた。

「雪穂ってあの子か? あの漫画の子?」

 僕は頷く。

「なんだよ、朗も失恋かぁ」

 も?

「も、って何」

「あ、言ってなかったか。俺、別れたの」

「え、知らない。箭内知ってた?」

 知らん、と言うと思った。

「知ってた」

 マジかよ、と思った。

「っていうか早くない?」

「お、さらっとキツいこと言ってくれるねぇ。まあ、なんかイメージと違うって言われちゃってさー」

 いやはや参ったね、と昇は頭をかいた。

「そうだ! 俺今度部活オフなんだけどさ、三人で遊ぼうぜ。カラオケでもボウリングでもいいからさ。残念パーティしようぜ!」

 僕は正直残念パーティなんて気分では無かったのだけれど、三人で遊んだことは今まで一度も無かったので、せっかくだから、と了承した。箭内は関係なかったけれど、断る理由も無いようだった。

 そして今日に至る。

「もう無理、限界。腕痛い」

 二時間フリーゲームだけれど、これ以上続ける元気が無い。

「ひ弱だなぁ、朗は。そんなんじゃモテねぇぞお」

 昇は随分攻撃的だ。振られてヤケになっているのだろうか。

 結局次のゲームからは僕は脱落して、二人の争いを静観することにした。パーティだということで、持ち込み禁止のお菓子がテーブルの上に並んでいる。これならカラオケにした方が良かったのでは、と思ったけれど、僕はそれを食べることに専念した。

 投球の準備をする昇の背中を眺めていると、

「まだ好きか、あの子のこと」

 と箭内が聞いてきた。

「多分、好きだと思う」

 正直な気持ちだった。昇がボールを投げた。足を後ろに出す綺麗なフォーム。

「自分がゲイだって受け入れるのに時間がかかる人もいる」

 球が転がる。僕はぼんやりそれを見つめている。昇の左手から放たれたボールはカーブを描いて、一番ピンと二番ピンの間に吸い込まれる。理想的なコースだ。違うんだ。僕はもう分かってる。僕は男に興奮するんだ。それは間違いない。ピンが弾け飛び、互いを倒し合う。後には何も残らない。でも好きなんだ、雪穂のことが。多分それは、箭内には分かってもらえない。

「うん……そうかもね」

 僕はそう言うことしかできない。喜びはしゃぐ昇に変わって箭内が立ち上がる。箭内は僕に微笑みかけた。その笑顔が辛かった。

「またなんか話してた?」

 箭内に変わって昇が座る。まだ制服は衣替えしていないけれど、もう十分に暖かくて、昇はTシャツ一枚だった。野球で鍛えられた体のラインが良く出ている。僕はどきりとして視線を離した。

「なんか最近二人だけで色々話してるよな」

 昇はしけたポテトチップスに手を伸ばした。

「まあ色々あるだろうけどさ、俺はちょっと寂しいよ」

 昇がそんなことを言うのが意外だった。昇は野球部でも大勢の友人がいて、休み時間にしょっちゅう呼び出されていたし、他の運動部員なんかとも仲が良く、やっぱり僕と住む世界の違う人間なんだと思っていたから、まるで僕みたいなことを言うのに驚いた。

「それはこっちのセリフだよ、別れたこと箭内には言ったくせにさ」

「いや、朗にもちゃんと言うつもりだったんだけど、タイミングがさ」

 昇はチョコレートを食べ、

「なんかあるなら、俺だって相談乗るぞ?」

 と言ってきた。

「うん、ありがとう」

 本心から嬉しかった。だけれど言えない。言っても理解してもらえない。周囲の騒がしい音が、一枚の薄い膜の向こうのもののように聴こえた。

 結局途中脱落した僕は論外として、五ゲーム投げて三勝二敗で箭内の勝利だった。昇は自分が菓子まで持ってきたのに負けるなんて、と悔しがっていた。

 池袋に来たからには、と大型書店へと移動する途中、昇が

「そういや紡最近彼氏さんとどんな感じなの」

 と訊いて、箭内の恋人のことは自分と箭内しか知らないと思っていたので驚いた。昇が寂しがるように、自分の知らないところで箭内と昇も話をしているのだ。

「この間二丁目連れてってもらった」

「マジか。すげーってか年齢!」

「十八って嘘ついて、酒は飲まなかった。ばれなかったよ。いや、もしかしたら暗黙の了解で見過ごしてくれてたのかもしんないけど」

「で? どんな感じだった?」

「行ったのは先生の行きつけのバーで、うーんなんか正直何のために行くのか良く分かんなかったなあ。やっぱまだガキには早いのかも」

「どんな人いた?」

「めっちゃオカマ口調の人とかもいたけど、基本フツーだったよ。落ち着いた店だったし。ただ店員、店子(みせこ)って言うらしいけど、それは皆イケメンだった。ああ、んでめっちゃ体触られたわ」

「紡良い体してるもんなあ。俺も頑張って鍛えよ」

 本屋に着くと、エスカレーターで文芸書のフロアに上がる。新刊のコーナーを見て、箭内は純文学の本を一冊手に取った。僕は好きな作家の新刊が出ていたけれど、お金がないので図書館で借りようと思う。文庫コーナーに移動すると、

「なんかさ、どんでん返しがすごいミステリ教えてくれよ」

 と昇が言ってきた。どうやら先日、たまたま話題になっていたので読んだミステリがいたく面白かったらしく(僕も読んだ、確かに衝撃的などんでん返しのある作品だった)、似たような衝撃を味わいたいらしかった。僕は苦笑して、

「よくそういう質問されるんだけどさ、どんでん返しがあるって分かって読んでたらもうその時点でどんでん返しじゃなくなっちゃうんだよ」

 と言った。昇はきょとんとしていたが、しばらくして「確かに」と納得したようだった。

「まあ勿論それを知って読んでも十分面白い作品、いっぱいあるけどさ。どうせならまっさらな状態で読んでほしいなあ」

 などと宣う僕の横で、箭内は、

「ホームズでも読んどきゃいいんだよ」

 と言いながら、新潮文庫の『シャーロック・ホームズの冒険』を昇の手に置いた。

「ミステリなんて古典でほぼ完成してんだから」

 と言う。だけれどホームズには叙述トリックは出てこないぞ、と思ったが黙っていた。それに自分も、ホームズを全部読んだ訳ではなかった。

 箭内はその後何冊か文庫を選んで(中には千円以上する文庫があって、昇が仰天していた)、僕はノベルスの新刊を買い(昇は見たことのないサイズの本に興味を示した)、昇はホームズを持ってレジに向かった。

 もう日は傾きかけていたのでお開きになった。埼玉県民に無縁な地下鉄に乗るという箭内を見送ると、僕と昇は東武東上線のホームへ向かった。停まっていたのは各駅停車だった。

「次急行だし、待とうか」

「おう」

 ベンチに腰掛けて、電車に吸い込まれていく乗客を見ていた。昇は疲れたのか急に黙り込んで、スマホをいじっている。やがて扉が閉まり電車が出て行った。向こうのホームで立ち尽くす女性の姿が見える。同じようにスマホをいじっている。僕は先ほど買った本を取り出し、書店でかけてもらった紙のカバーを外して、袖の部分の著者の言葉を読んだ。挑発的な言葉が並んでいて、面白そうだと思った。もしかしたら「どんでん返し」があるかもしれない。そう言えばこの作者のデビュー作はまさにそれだった。それとなく昇にオススメしよう。そんなことを思っていると、電車がホームに滑り込んだ。快速だ。早く乗らないと席が埋まってしまう。僕が立ち上がると、シャツの裾を昇が掴んだ。

「待って」

 昇はスマホから視線を外さない。

「え、早く乗ろうよ」

「いいから」

 そう言ってぐいと引っ張られた。仕方なく僕は座る。続々と客が乗り込んで、もう席は埋まってしまっているだろう。昇は相変らずスマホを見ている。僕は苛立ちを覚えた。

「何、どうしたの? 早く帰ろうよ」

「いいから、ちょっと待って」

「だから、どうしたのさ」

 僕が声に怒気を含めると、昇はスマホをいじるのを止めた。そして、肘を膝に乗せ、祈るように額を拳の上に乗せた。長い溜息をつき、視線を上げ、乗客を見つめていた。僕は何も言わず昇を見つめていた。

「——好きだ」

 昇が言った。喧騒に紛れてよく聞こえなかったが、多分、そう言った。何が好きなのか分からなかった。

 昇はこちらを見た。まっすぐに、真摯な表情で。そしてもう一度、今度ははっきりと言った。

「お前が好きだ」

 意味が分からなかった。何を言っているのだろう。僕が好き?

「初めて会ったときからずっと好きだった」

 昇が余りにまっすぐに僕を見つめるから、僕は視線を外すことができない。初めて会ったときから? おかしい。

「でも、彼女、いた、じゃん」

 それを言うと、昇は苦虫を噛んだ顔をして、初めて視線を逸らした。

「カモフラージュだった。紡と一緒にいるから、ゲイなんじゃないかって部員に言われた。冗談半分だったけど、そうじゃないって証明しないとだった」

 僕はそれを聞いて、心の奥底から湧き上がるような怒りを覚えた。そんな、利用するようなことをしたら、女の子がかわいそうだ。昇は僕の表情を見て察したようだった。

「——仕方なかったんだ。体育会でゲイだってバレたら生きていけない。でも、キスもしてない。なるべく傷つけないように別れたつもりだ」

 ひどい言い訳だと思った。だけれど、体育会でゲイがバレることは、僕の想像より遥かに過酷なのかもしれないと思った。彼らはまるでゲイなんじゃないかというくらいベタベタくっついている。でもそれは、お互いがゲイじゃないという前提があるからこそのことなのだ。もしそれが揺らいだら。

「野球を続けたかった」

 他に方法はなかったのか、という思いは消えなかった。だけれど、多分昇にはそうする以外の道はなかったのだろうと思った。昇は僕と違う世界に生きている。僕と抱えているものの量が違いすぎる。やがて昇は語り始めた。

「ずっとゲイだった。誰にも言えなかった。中学で女子と付き合ったけど、キスをしてやっぱり違うって思った。それで高校でお前に会った」

 僕の何が良かったのだろう。僕は体を鍛えてもいないし、顔も地味だし、面白い話ができるわけでもない。僕のことを好きになる理由がわからない。

「好きになるのに理由はいらない。まあ、顔が好きだったっていうのが、最初だけど」

「僕みたいな不細工より、紡の方がよっぽどイケメンだよ」

「俺は紡よりお前の顔の方が好きだ。お前の顔を見てると癒されるよ。笑顔が好きだ」

 僕は余りの恥ずかしさに黙り込んだ。

「それに紡に会った。自己紹介を聞いたときは本当にびっくりしたけど、同じ境遇の人間に会うのは初めてだったから、興奮した。すぐに打ち明けた。自分がゲイだって」

 それを聞いて驚いた。自分の知らないところでそんなことになっていたなんて。

「お前が好きだってこともずっと相談してた。でも告白するつもりはなかった。紡も最初は止めてた。紡は中学のとき、クラスメイトに告白していじめられるようになったから」

 箭内が埼玉の高校に来た理由。

「でもBLを読んでるとか、そういう話を聞く内に、告白しても大丈夫なんじゃないかって思うようになった。少なくとも言いふらされたりはしないだろうって。でもお前があの女の子と一緒にいるのを見て、やっぱり止めようと思った。お前はあの女の子に惚れてるんだと思った(傍点)」

 やっぱりそう見えるんだ、と思った。

「でも——違うんだろう?」

 昇が、息苦しそうな顔をしてこちらを見た。

「謝らなきゃいけない。お前の秘密を知ってることを」

 心臓が震えた。

「お前も——ゲイなんだろ? 紡に聞いた」

 指先から力が抜ける気がした。聞いた。どこまで? どこから? あのトイレのことも?

「まだ迷ってるんだろ? わかるよ、受け入れられない気持ち。なあ、はっきりさせないか? 俺と付き合ってみれば、本当のことがわかるんじゃないか?」

 雪穂の言う通りだ。他人にバラされるか自分から言いだすかは、本当に違う。僕の頭が赤く怒りに染まるのが分かる。僕の気持ちが滲み出ていたのか、

「紡は悪くない。俺がカマをかけたんだ。確かにあの女の子のことを好きなんだろうって思った。でもあのとき勧められた漫画を読んで、これを読んでる人間がノンケだとも思えないと思った。最近二人で何か話しこんでたから、何を話してたのか教えてくれってせがんだ。それで一か八かお前がゲイかどうか悩んでるんじゃないかって言ったら、当たりだった。俺が無理に聞き出したんだ。紡は責めないでくれ」

 僕は静かに目を瞑って、深呼吸をしていた。

「それに紡はお前のことを思って、お前がいつまでも迷わないようにって。だから俺も告白することにした」

 僕は自分の感情の置き場所を完全に見失っていた。昇は僕のことが好きで、だから無理に聞き出した。紡は僕のふらふらした態度を心配した。誰にも悪意は無い。だけれど、僕のいないところで、僕の大事な心の問題がやりとりされた。それに何より、僕はゲイか迷ってるんじゃない。ゲイであることを受け入れられてないから、雪穂を好きだと思い込もうとしているんじゃない。僕は本当に(傍点)雪穂のことが好きなんだ。少なくとも、僕はそう思っている。

「ごめん、今は、返事はできない」

 怒り散らそうとするのをなんとか抑えて、僕は言った。

「朗——」

「帰る」

 ホームに、発車のベルが鳴り響いた。各駅停車だったけれど、僕は滑り込むように電車に乗り込んだ。ホームを振り返ることはできなかった。


 雪穂に会いたい。家に帰ると真っ先にそう思った。晩ご飯の時間だけれど、今まではそんなことを気にせずに互いにファミレスに呼び出しあっていた。

 だけれどできない。今雪穂は恋人がいるのだ。付き合い始めたと聞いてから、僕は極力雪穂に連絡しないようにしてきた。例えば彼氏が独占欲の強い男だったら、幼馴染とはいえ男と二人で食事をすることなんて許さないかもしれない。仮にそんなことなくても、他の男と連絡を取ること自体、やはり歓迎する男は少ないのではないか。それに自分が雪穂に好意を持っていると自覚してしまっては尚更、人の彼女に連絡するのは憚られた。雪穂からは時折、なんでもないようなメッセージが届いたけれど、僕はわざとなるべく会話が続かないような返信をした。僕には、雪穂との適切な距離がすっかり分からなくなっていた。

 大体、実際雪穂と会ったとして、一体何を話せば良いのか?

 そういえば、雪穂に昇がゲイだと妄想されて怒ったこともあったと思い出す。今じゃ三人ともゲイだ。雪穂が聞いたらどう思うだろう。そして「ゲイ」の僕が、雪穂のことが「好き」だなんて言っても、全く理解できないのではないか。自分自身、意味不明なのだから。

 そう、意味不明だ。

 僕は箭内と昇のことを考えた。二人は純粋に、こんな意味不明な僕のことを心配してくれただけなのだろう。

 昇のことを思った。まっすぐ自分を見つめて告白をしてきた初めての人間だった。カモフラージュに使われた女子のことを思うと胸が痛んだが、「女子の恋は上書き保存」なんていうふざけた俗説が事実なら、すぐに忘れ去られるものかもしれなかった。

 誰かに愛される日が来るなんて、思ってもみなかった。どんな恋愛小説を読んでも、ボーイズラブを読んでも、それは空想の中のものでしか無かった。小説の中で人々がいとも容易く恋に落ちるのが分からなかった。主人公たちは唐突にキスし始めた。どこにそのスイッチがあったのか、読み返しても分からなかった。雪穂のことが好きなんだと実感してからも、自分が好かれるということは想像できなかった。

 僕の脳裏に、今日の昇の体が蘇った。シャツに浮き出た鍛えられた肉体。ボウリングで汗が少し滲んでいる。頭の中で記憶が勝手に漁られて、体育の着替えのときの昇の体が再生される。自分の体とは全く違う、全体的にどっしりとした肉体。絞られた筋肉のついた箭内とは違って、胴回りがほとんどくびれていない体。膨らんだ胸に、その先端の小さな乳首。

 僕の頭の中に蓄積された膨大なBLと、その体が結びつく。今までファンタジーでしかなかった、おかずにしたこともなかったそれらの漫画が、質感を帯びてリアルになる。昇は僕のことを好きだと言った。漫画の中で愛し合っていた人たちがしたように、昇は僕としてくれるんだろうか。気がつくと僕はズボンの中に手を突っ込んで、熱を帯び汁を垂らすそれを一心不乱にしごきあげていた。昇が僕のものをしゃぶるところ、寝転がった僕に昇が股がって、昇の中に入れるところ。野球部で鍛えた健脚で昇は自ら腰を動かして、昇は喘いでいる。とても気持ちよさそうに。昇は繋がったまま体を倒して、僕の顔に近づき、唇を重ね、そして舌を入れて——。

 気がつくと頭が真っ白に飛んで、手にべたべたの液体がかかっていた。パンツの中はぐしょぐしょだった。荒い呼吸で僕は精子に塗れた自分の手を見ていた。僕はなんとなく、それを舐めた。口の中にへばりついて、青臭い匂いが鼻に広がる。とても苦い。思わず飲み込んでしまっても、口の中にいつまでも感触が残っていた。漫画では嬉々として飲み込んだりするけれど、やっぱりファンタジーなんだな、と思った。

 ベッドの上でぼんやりしているとスマホが震えた。僕は汚れていない方の手で画面を点けた。昇からのメッセージだ。

『今日はごめん。色々本当に申し訳ないと思ってる。でも本気だから。返事はいつでもいいから。ずっと待ってる』

 今しがた君でオナニーしたところです、などと送れるはずもなく、僕はそのメッセージに返信することができなかった。

 昇を相手にセックスをする妄想であんなに興奮したのに、僕の心の中心にいたのは雪穂だった。僕の心は引き裂かれていた。性欲と恋愛感情が、僕の中では完全に逆の方向を向いているのだと思った。僕は雪穂のことを愛していると言いながら他の男を思ってオナニーをして、昇をオナニーのおかずに使いながら他の女を愛していた。

 こんなに不誠実な人間がいるだろうか。浮気や不倫どころでは無い。僕は気持ちが冷めたとか、一時の気の迷いでそうしている訳ではないのだ。僕の心の構造そのもの(傍点)がそうできあがっている。僕は自分の手がザーメン塗れなのを忘れて、両手に顔を埋めて声を殺して泣いた。僕はゲイだ、そう断言できる二人が羨ましかった。愛していることを素直に誇れる二人が妬ましかった。僕の歪な心にあるのは、愛と性欲のねじれた得体の知れない化け物だった。名前が欲しい。いや、名前をつけても何も変わらない。これ(傍点)は、誰のことも幸せにすることができない。僕は一生このままなのだろうか。一生この化け物と付き合って生きていかなければならないのだろうか。僕の口から泣き声が漏れた。僕はゲイになりたい。差別されても、気持ち悪がられても構わない。愛と性欲を結びつけたい。愛してくれた人をちゃんと愛したい。そして愛する人と、愛のあるセックスがしたい。

 母親が晩ご飯を告げる声が聞こえてもなお、僕は泣き止むことができなかった。


 学校に行くのは憂鬱だった。サボってしまいたい。そう思ったけれど、多分僕がサボったら昇が傷つくと思い、学校へ向かった。

 教室はいつもの喧騒で、皆が楽しそうにそれぞれ話に興じていた。週刊漫画のグラビアを覗き込む運動部員、アニメの感想を語り合う帰宅部、彼女の愚痴をこぼす文化部員、誰も僕みたいな化け物を抱えていない。前の席には箭内が座って、いつものように本を読んでいる。多分、昨日買った本のどれかだろう。僕は席に着くと、全てを遮蔽するように机の上で腕を組んで頭をそこに収めた。席につく音で気づいたのだろう、箭内が椅子を動かす音が聞こえた。 

「おはよう」

 いつになく優しい声だった。僕は寝た振りを決め込んだ。

「お前のこと昇に言ったのは、悪かったと思ってる」

 僕は瞑っていた目により力を入れた。目は塞げるのに耳は塞げないことを呪わしく思った。

「俺自身中学で同じ目に遭ったから、裏切られた気持ちになるのは当たり前だと思う。お前が怒るのは当然だと思う。でも俺は、ずっとゲイだったから、——これはすごい傲慢かもしれないけど——そういうことについては人よりちょっと物が見えるんじゃないかって思ってる。ふざけるな、余計な御世話だと思うなら怒ってくれて良い。絶交されても仕方ないことをしたって分かってる。でも昇の相談とお前の相談を両方聞いて、多分これが一番良い結果になるんじゃないかって思ったんだ」

 そういえば雪穂は、まず昇と箭内をくっつけて、次に俺と箭内をくっつけたんだったか、と思い出していた。そのとき昇は、良きアドバイザーだった。雪穂の妄想力もまだまだだ。まさかくっつくのが俺と昇で、アドバイザーが箭内だなんて。

「昇はお前のことが好きで、でも誰にも言えないで悩んでた。お前はゲイかもしれないことを受け止めきれずに、ずっと立ち止まってる。昇がお前の悩みを晴らしてくれるんじゃないかって思った」

 だからそこが違うんだ、と僕は言いたかった。僕は分かってるんだ、僕は男に興奮するんだ。だけど僕が好きなのは雪穂なんだ。

 箭内にも分かってもらえないんだ。僕の心の中の化け物を。

 箭内はとんちんかんなことを言った。

「多分お前の心にはまだどこかでホモを差別する感情があるんだと思う」

「そんなの、ない!」

 僕は寝た振りも忘れ、思わず大きな声で否定した。顔を上げることはできなかった。だから箭内がどんな顔をし、何を考えたかはよく分からない。

「じゃあ、お前の中にがっしりと、『男は女を愛するものだ』って常識が巣食ってるか」

 以前箭内に言われた言葉だ。『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』。それが僕の中の化け物の正体なんだろうか。そいつを退治すれば、僕は晴れてゲイになれるのだろうか。僕は黙った。

「昇は、自分が実験体で構わないって言ってる。付き合ってみて、自分がゲイじゃないってお前が分かったら、それはそれで前進だって。それで振られても、全然構わないって言ってる。それくらい本気でお前のことが好きなんだよ」

 昇はどうして、僕のことをそんなに好きなんだろう? 僕の何が昇をそうさせているのだろう? 僕のどこにそんな価値があるのだろう?

「まあ勿論、そもそもお前が昇が全然タイプじゃないって可能性も、勿論あるんだけどな」

 そう言って箭内は少し笑った。

「でもそれはないだろう? あいつ、『空想少年』に出てくる野球部にそっくりだもんな」

 そう言われて、ああ、その通りだ、と思った。保健室で主人公にずっと優しく語りかける野球部のエース。人の良さそうな顔と、逞しい体と、皆の前では剽軽で、だけど一途に主人公を愛する男。最初は心を閉ざしていた主人公が、徐々に心を開いていく物語。僕はあの主人公のように、受け取った愛に何かを返してやることができるだろうか。

 だけれど僕の心の中には——。

「はよーっす」

 昇の声が聞こえた。僕の全身が緊張した。

「寝てる?」

 小声で箭内に尋ねる。箭内がどう答えたかは分からなかったが、昇が話しかけてくることは無かった。

 ——昇が、この化け物ごと僕を愛してくれるなら。

 僕は腕の中の真っ黒な闇を見つめながら考える。

 僕はそれに、何か返さなければならないのではないか。


 音楽にコード進行というものがあること自体僕は知らなかったし、ましてやそのコード進行というものがパターン化していて、同じコード進行が様々な曲に使われているということを聞いたときは、驚くというよりもがっかりした。

 特に自分が好きだった曲が、極めてありきたりなコード進行に基づいて書かれていることを知ったときは「お前のセンスは凡庸なんだ」と告げられたような気がしたものだ。

 だけれども小説だって、ある程度話の展開にテンプレートがある。特に僕の好きなミステリはそれが顕著だ。そして僕は、いわゆる例えば『クローズド・サークル』ものと呼ばれるような、分かりやすいテンプレートに則ったミステリを好んでいた。

 コード進行には著作権は無いという。ある有名な曲のコード進行を敢えて拝借して作曲した、ということをインタビューで語る人もいる。もちろんだからと言って、盗作は許されない——この線引きは非常に曖昧だが、今はその話は関係無い。

 同じようにミステリでも、例えばかの名作、『ABC殺人事件』をモチーフに作品を作る、なんていうのはよくある話だ。

 いずれにせよ、そこには何か明確な「形」が存在している。ゼロから「形」を作り上げるのでは無く、「形」にオリジナリティを足していく。これは僕が抱いていた「何かを作り上げる」という行為のイメージとは真逆だった。そして僕は、その「真逆」の作品に惹かれることが多かった。

 確かにミステリでも、革新的な作品というものがごく稀にある。しかしそういったものを読むと僕は、「これはミステリなんだろうか」と、真っ先に思ってしまうのだ。

 僕が求めているのは「形」なのかもしれない、と思った。

 僕はいわゆる「カノン進行」を使って、初めて曲を作った。どこかで聴いたことのあるような曲だ。だけれど、聴いていてとても居心地が良かった。

 ゼロから作り始めるのでは無い、「形」から入るということ。

 僕は安っぽい電子音に耳を澄ましながら、スマホを手に取った。


 待ち合わせの十分前なのに、もう昇はそこにいた。

「早いね、待った?」

「いや、さっき来たとこ。んじゃ、行こうか」

 昇はさっさと歩き出す。僕は慌てて後を追う。正しい距離感が分からない。横に並べば良いに決まってるのに、どうしても気後れしてしまう。そもそも、今の僕たちの関係自体曖昧なのだ。

 僕は全てを洗いざらい昇に話した。僕が今好きなのは雪穂だということ。でも昇でオナニーしたこと。箭内が言うように、自分が常識に囚われているのかもしれない、でも自分の中ではなんとなくそうではない気がしているということ、僕の中に存在するねじれについて。僕は話しながら泣いてしまった。昇は大きな体で僕を抱きしめた。昇は体温が高いのか、布団にくるまれてるみたいな感じだった。

「付き合おう」

 昇は言った。

「俺でオナニーしたんだろ、だったら、可能性はある」

「好きなのが雪穂でも?」

「構わない」

 そう言われて、僕には拒否する理由がなくなってしまった。

 だからつまり恋人なのだ。だけれどお互いに『実験』だと思っている。なぜなら、僕は昇を愛してないから。

 僕は「形」を先に作り上げることにしたのだ。

 前を歩く昇の大きな背中を見ながら、そういえば雪穂も好きではない相手に告白されて付き合ってるのだということを思い出した。

 僕は色んなことを複雑に考えすぎなのだろうか。物事の全てが理想の形にならないと納得できないのだろうか。世間では別にこんな状態は「普通」なんだろうか。僕が罪悪感を覚えるのは潔癖すぎるだろうか。

「わりぃ、歩くの早かったな」

 そう言って昇が振り返った。そうだ、隣を歩こう。それが「普通」だ。友達だって、恋人だって。

 僕たちはあの漫画の専門店に向かっていた。あれ以来、昇はBLにハマってしまったらしい。

「どうして今まで読んでなかったの?」

 と尋ねると、

「いや。多分ゲイでも読んでるのは少数派なんじゃないか? やっぱり女の書いたもんだから、リアリティなんてどうせないだろうって思ってたし」

 昇はちょっと躊躇した後、

「でもあの日雪穂さんに紹介してもらったのは全部面白かったんだよ。あの人、見る目あるな」

 と言った。昇はどういう気持ちで雪穂の名前を出したのだろう。

 漫画店につき、女性向けのフロアに上がる。いつになく、若い女子でごった返していた。

「それにしてもすごい量だよな」

 昇がフロアを見回して言う。改めて言われると確かにその通りだった。ワンフロア全てがそういう漫画だ。街中の小さな本屋のワンコーナーとは規模が違う。

「ネットで見かけて気になったのがあってさ……」

 そう言いながら昇は移動した。慣れた感じで、あの後何度かここに来ているのだな、と分かった。

「ああ、これこれ」

 表紙をこちらに向けて棚に置かれていた漫画を昇は手に取った。その人の別の作品を読んだことがあった。

「その人だったら、前に出た他のも面白かったよ」

「え、ほんと? だったらそっち先に買おうかな」

 そう言って漫画を棚に戻す。ええと、どこの出版社だったっけ。BL作家の人は、色んな出版社で書くことが多いから、棚が分散して配置されていることが多いのだ。僕が周囲を見回していると、何人かの女性が明らかに視線をさっと逸らすのが見えた。あからさまにこちらを指差している年下の女子二人組もいた。

 雪穂と来たときはそんなことは無かった。ただの付き添いだと思われたのだろう。

 一人で来たときも、ここまででは無かった。そういう趣味がある人間、でもゲイかは分からない、という感じだったのだろう。

 だけれど男二人で来ていたら。明らかに冷やかしではなく、真面目に漫画を選んでいたら。

 彼女たちが特に妄想が好きだから、とは言えないだろう。多分、ほとんどの人がごく自然にそういうこと(傍点)なのだろうと思うだろう。そして実際そうなのだ、だけれど、僕はその、極めて露骨な好奇の視線に晒されるのは初めてだった。

「どうした?」

 昇が僕の肩に手を置いた。止めてほしい、と思った。それすら食いものにされるんじゃないかと僕は恐れた。

 箭内は自分でカミングアウトする道を選んだ。それは常にこの視線に晒されるということなのだ。どれだけの決意があればできるだろう。

「こっち」

 僕は素知らぬ振りをして人混みを縫って歩き、目的の漫画を見つけると昇に渡した。常に肌に視線が刺さっている感覚がした。早くここを立ち去りたかった。

 『弱肉強食』という雪穂の言葉が蘇った。女子は常にこんな目で見られているんだろうか。電車で、学校で、街中で。僕だったら耐えられない。

 昇は結局他にも三冊漫画を選んで購入した。

 店を出た後も、僕の不安な気持ちは続いた。僕たちはどう見えるのだろう。友達に決まってる。そう思ったけれど、実際そうではないのだから、不安は消えない。

「どうしたんだよ、ちょっと様子おかしいぞ」

「いや、その、視線が気になって」

 なるべく昇に嘘はつかないでおこうと決めていた。半ば予想はしていたけれど、昇はやはり傷ついた顔をした。

「そう見られたら嫌か」

「うん、なんか、居心地悪い」

「まあ、そりゃそうだよなあ。俺だって良い気はしないもん」

「本当?」

「だから黙ってるんじゃん。紡みたいになれる奴はほとんどいないよ。大丈夫。さっきの場所はアレだったけど、普通の友達にしか見えないから、安心しろって」

 そう言って昇は僕の肩を抱き寄せた。その行為自体がどう見えるか、と思ったけれど、視線を上げると、通行人は皆スマホを見るか、うつろに行く先を見ているかで、誰も僕たちのことなんて見ていなかった。

 その後ファストフードで昼食を済まし、予定だったパフェの店に行くと、店内は女子ばかりだった。

「混んでるしやめとくか」

 と昇は言った。行きたがっていた場所なのに、多分自分のことを思ってそう言ったのだと分かった。大丈夫だから、と言おうと思ったけれど、先ほどの好奇の視線が蘇って僕の言葉を遮った。

 結局他に大して行く場所もなく、カラオケに行くことになった。三十分ほどの待ち時間、昇は野球部のことについて話をした。今まで昇から部活の話を聞いたことはほとんどなかったので、僕から話題を振ったのだ。毎朝六時半からの朝練、夜は七時まで、話を聞いているだけで僕には到底無理だと思えた。そのモチベーションがどこから来るのか知りたかった。

 やがて部屋に通された。カラオケ店特有の薄暗い部屋だ。順番の関係か、かなり広い部屋に通されたが、昇はすぐ隣に座った。僕が女性歌手の歌を一オクターブ下げて歌っていると、昇が手を重ねてきた。大きな手だった。野球のせいかマメができていて、皮が厚くごつごつした手だ。僕は動揺したけれど歌い続けた。その続きがあるかと思ったけれど、昇はそれ以上何もせず、自分の歌の番になると手を離した。

 カラオケが終わると外は日が傾き始めており、僕たちは帰ることにした。

 僕たちの目の前を高校生らしきカップルが幸せそうに手を繋ぎ、見つめ合い、笑い合っている。

「手繋げたら良いのにな」

 昇がぼそっと言った。

「でもできないな」

 そう言って僕に笑いかける。それは、周りの目があるからできない、なのか、僕の気持ちが中途半端だからできない、なのか、その両方なのか、分からなかった。僕は目を伏せた。

 帰りの電車、昇と別れたあと、一人きりで席に座りながら向かいの窓を流れていく景色を見ていた。付き合い始めてしばらく経ち、昇は部活が忙しかったので、今日が初めてのデートだったけれど、やはり、自分の中に昇に対する恋愛感情は微塵も見つけることができなかった。スマホが震えた。

『今日は一日ありがとう。今度のオフもまた遊ぼうな』

 僕の選択は果たして正しいのだろうか。分からなかった。


 普通の恋人は何回めのデートでセックスに至るものなのだろう。村上春樹の小説みたいに、出会ってそのままセックスするなんてこと、この世の中に本当にあるんだろうか。それがスタンダードなのだとしたら、世の中はとんだ淫乱だらけだと思う。僕は彼の小説のそこがどうしても気になって、他の部分がどんなに魅力的でも説得力がないと思ってしまう。だけれども、遂に自分にもその番が回ってきたのだということは鈍感な僕でも分かった。付き合い始めて一ヶ月弱が経ち、夕食を十数回共にし、デートを三回し、初めて家に呼ばれた。キスだって、何回かした。どう考えてもそういうことだ。問題は僕たちは男同士で、どっちがどっちをするのかということだった。だけれどそれは既に昇に訊かれていた。ごく自然とは言えないまでも、なんとなくと言える会話の流れで。僕は入れる側をするはずだった。昇は一方的に僕の希望を聞くだけで、自分がどうしたいのかは全く言わなかった。

「悪いな、散らかってて」

 昇は僕に座布団をすすめた。僕は大人しくそれに座る。人の家に行くこと自体、小学生以来だった。玄関を入るとき特有のあの他人の家の匂いを懐かしく感じたものだ。

 昇の家は、埼玉の、僕の家より都心から離れたところにある一軒家だった。埼玉から東京まで長時間満員電車に乗る僕の父親と違い、昇の親は家の近くに会社があるらしい。両親ともに埼玉生まれ埼玉育ちということだった。そしてその両親は、どうやら今日は結婚記念日で留守らしい。

 部屋は言うほど散らかっていなかった。寧ろ僕の部屋と比べてものがとても少ない。野球に使う備品、ワックスやバットを入れる筒、それに鉄アレイなどが部屋の隅に寄せられている。カレンダーも野球選手のもので、ああ、本当に昇は野球が好きなんだな、と思った。白いカラーボックスの上の段には本が並んでいる。ホームズが全巻揃っていて、いつの間にか抜かされてしまったと思うと悔しかった。その後ろに目立たないようにBLの漫画が置かれているのが分かった。下の段には雑誌が乱雑に詰め込んであった。野球の雑誌や、ターザン、それからファッション誌。平均的な学習机の上には教科書と参考書。昇は成績も優秀だった。

「あんまりじろじろ見ないでくれよ」

 昇は少し照れた口調で言う。

「ごめん、でも、ものが少ないなって」

「そうか? こんなもんじゃね?」

「僕の部屋、ものだらけだよ。こんなに片付かない」

 昇は僕に笑う。

「朗の部屋も行ってみたい」

「昇の体じゃ入るスペースないかも」

 冗談めかして言うと、

「そりゃ重症だな」

 と笑った。

「そういえば」

 昇は体をねじってカラーボックスから本を一冊取り出した。

「また騙したな、これ」

 それは「どんでん返し」のミステリだった。僕はあれから何冊か昇に本を紹介したけれど、数冊に一冊、さりげなく、それとなく、昇が望んだ「どんでん返し」のミステリを仕込んでいた。その度に昇は驚いてくれるので面白かった。

「別の屋敷の話だと思ったら、くっついてたとか、分かるかよ」

「面白かったでしょ?」

「まあ、な」

 昇はその本を戻し、別の僕が勧めた本を手に取った。

「でも最近は、お前が教えてくれる他の本が面白いよ」

 昇が手に取ったのは、文庫で千円以上する、日本のポストモダン文学の代表とされる本だった。タイトルに有名なミュージシャンの名前が入っていたので気になって読んだのだ。その本は「形」を自ら作った本だった。

「これとか正直さっぱり意味分かんないけど、でも、お前が読んだんだって思うと、お前はこれ読んでどう思ったんだろうって思うし、自分じゃ絶対に、多分一生この本を手に取ることは無かったと思うし。そういうのが嬉しいっていうか。付き合うってそういう風だと良いなって俺は思ってるから」

 昇は本を棚に戻した。大きな背中がこちらを向いている。

「まあ、その本は正直僕も意味はよく——」

「俺たち、付き合ってるんだよな?」

 昇は背中を向けたまま言う。

「俺にとって、お前は『特別な存在』なんだ」

 『特別な存在』。僕が箭内に説明した言葉にそっくりな単語が出てきて、僕は驚く。まさか箭内はそこまで言ってないだろうと思う。

「お前にとってはどうなんだ? 俺は『特別』になれてるか?」

 昇の声は、すがりつくような、何かを求める色に塗れていた。

 僕は答えることができなかった。嘘はつかないと決めていたから。相変わらず、昇は僕にとって親友以上の存在では無かった。それ以上の感情は、どうしても湧いてこなかった。

「キスしたよな」

 昇が言う。

「カラオケでしたし、裏道でしたし、学校のトイレでだってした。正直に答えてくれ、嫌だったか?」

「嫌じゃ、ないよ」

 本当だ。僕は嫌じゃなかった。

「じゃあどうして! どうして好きになってくれないんだよ!」

 僕は何も言えなかった。僕に、目の前の苦しむ『親友』に何か言葉をかける資格なんて、どこを探してもありはしないのだ。やっぱり、僕の心の中の化け物は、人を不幸にするばかりなんだ。昇だって分かって僕と付き合い始めたんだ。だけれど化け物は、昇のことを食い殺そうとしている。これ以上『実験』に、この真摯で優しい『親友』を、付き合わせる訳にはいかないと思った。

「あのさ、もう」

「お前の事情は分かってる」

 昇は言った。鼻声だった。

「分かってて付き合ってるんだ。苦しいのは多分お前の方だ。俺はただ我儘を言っているだけなんだから」

 そんなことは無い。どう考えてもおかしいのは僕なのだ。

 昇が振り返った。目が潤んでいた。苦痛に顔を歪めていた。

「ヤろう」

 そう言いながら僕の方へにじり寄った。

「そうすれば、何か変わるかもしれない」

 昇は僕に覆いかぶさった。僕は抵抗する気は無かった。

 昇は僕の顔をその無骨な両手で掴むと、唇を貪るように吸ってきた。荒い呼吸が聞こえた。昇が興奮しているんだと思うと、僕も興奮した。互いに舌を絡める。鼻呼吸をすると、濃厚な昇のにおいがした。昇は僕の顔を舐め、首筋を舐め、顔中をべとべとにした。重たい体が僕に密着して、僕の股間が硬くなる。

「ほら、勃起するだろ?」

 昇がまたすがるような声で言う。起き上がると、着ていたシャツを脱いだ。

「朗も脱いで」

 僕はその肉体に圧倒されながら、自分の貧相な体を晒した。情けない体が恥ずかしかった。そんな体に、昇はまた舌を這わせる。乳首をしゃぶられると、僕の体は震えた。その反応を見て、昇は執拗に乳首を責め立てる。僕は声を出すのをこらえた。

「親、いないから、……声、出せよ」

 僕は昇の言う通りにすることにした。僕が喘ぐと、昇はやっと嬉しそうな顔をした。

「一緒に気持ち良くなろう」

 そう言って僕のズボンを下ろした。半立ちのそれを、昇はとても愛おしそうな顔で見た。そしてしゃぶった。しゃぶられるのはあの時以来だった。純朴な昇が、嬉しそうにしゃぶるのを見て、僕の体の底から熱が湧き出てくるのが分かった。僕は激しく喘いで腰を振った。

「やばい、イキそ……」

 と声を漏らすと、昇はしゃぶっていた口を離した。

「なんで」

 僕は多分、哀願するような声になっていたと思う。昇は好色な笑みを浮かべて、自らのズボンを下ろした。僕のものよりかなり大きな、立派なものがぶるんと現れた。完全に勃起しているみたいだったけど、皮は半分しか剥けないようだった。

「ここ、使ってくれよ」

 昇が背中に手を回しながら言う。

「ちゃんと練習したから、多分、入るから」

 BLだったら何の苦労もなく結合できるところだが、現実はそんなに甘くない。昇がどれほど苦労してそこを慣らしたかと思うと、僕の心が強く痛んだ。昇はベッドの下からローションを取り出した。それを手に垂らすと、自らの指を何本か入れ始めた。苦しそうに顔を歪め、そこを準備する昇。僕は起き上がって昇にキスをした。先ほど自分がされたように、昇のいろんなところを舐めた。しばらくそうしていると、

「多分、もう、……大丈夫」

 そう言い僕を押し倒した。勃起した僕のものを掴んで、尻の穴に当てがった。

 僕は昇の初めてをもらうんだと思った。本当に良いのか? 僕にその資格があるのか? だけれど、本当にもしかしたら、それによって何かが劇的に変わるかもしれなかった。その可能性を、二人が信じていた。その時僕たちの心は一つだったと思う。

「入れる、ぞ」

 ゆっくりと昇が腰を下ろした。みちみちっと肉を割る音がして、僕の先端が昇の中に入った。はあーっと昇は一度深呼吸をした。僕は先端が入っただけで、その未知の感触に頭が飛びかけていた。見ると、結合部から血が流れていた。僕がそれに気づいたことを察したらしく、「平気だ、大丈夫だから」と昇は言い、「最後まで、入れるぞ」と言って、ずん、と腰を下ろした。

 全部が入った。

 僕たちはセックスをした。それは(少なくとも僕は)とても気持ちが良かった。昇はうわごとのように僕の名前を呼び、僕はそれに応えるようにキスをした。そうしながら腰を動かして、互いを求め合った。

 だけれど僕の中では何も変わらなかった。僕はとても興奮していたけれど、快楽に飲まれそうになったけれど、僕の中の化け物は相変わらずそこにいて、寧ろこの状況を、与えられる快楽を貪り食って吸収していた。

 僕は村上春樹の登場人物なんかより遥かに淫乱だった。彼らのセックスにあるささやかな紐帯さえ、僕の中には無かった。僕はただ快楽のためだけに、愛情を全く抱かずに腰を振った。

 さすがに中には出せなかったので、僕はイく直前にちんこを抜いて外に出した。そして興奮の収まらない昇のそれをしゃぶった。昇は何度も僕の名前を叫んで、僕の口の中に出した。僕にできることはそれくらいだった。


 セックスの後の気怠さというのはこういうものなのか、と感じていた。僕たちは裸のまま体を重ねあっていた。昇の大きな体が僕の体を圧迫していた。暖かくなってきた気候の中、裸で重ねあった体は汗が吹き出てきた。僕は、セックスの結果についてどう昇に告げれば良いのか分からなかった。嘘はつかないと決めていたけれど、限界かも知れなかった。僕のために血まで流したのだ。

 そのとき、僕の脱ぎ捨てたズボンのポケットから、スマホが震える音が響いた。

 鳴り止まない。電話だ。

 僕は服を手繰り寄せてスマホを取り出した。

 電話は雪穂からだった。僕は冷水を浴びせられた気がした。雪穂からいきなり電話がかかってくるなんて、もしかしたら初めてかも知れなかった。

「ごめん、電話……」

 そう言って昇を体の上から動かした。昇が、不安そうな目でこちらを見た。もう相手が誰なのか分かったのかも知れなかった。

「もしもし?」

 電話口に呼びかけても、返って来るのは無音だった。

「もしもし? どうした?」

 イタズラ電話だろうか。雪穂がスマホを落として、誰かが僕に電話をかけている。そうであって欲しいと思った。僕はちらりと昇の方を見た。僕は視線を逸らして、言った。

「雪穂? どうした?」

 呼吸の音がわずかに聞こえた。向こうに誰かいる。

「雪穂? 雪穂なのか?」

 僕の心臓が高鳴っていくのが分かった。わずかに聞こえる呼吸の音が、震えているように聞こえたからだった。

『朗……?』

 聞こえてきたのは、あまりに小さな、かき消えそうな、弱々しい、聞いたこともない雪穂の声だった。

『会いたい、……会いたい』

 雪穂の声が震えていた。

「もしもし、雪穂どうした? 今どこにいる?」

『駅前の公園、……今から来れる?』

「分かった、すぐ行く」

 ただ事ではない気配に思わずそう言って通話を切ってから、昇の存在を思い出した。昇は裸で、こちらを見上げていた。その昇の表情を、どう形容すれば良いのか分からない。だけれども僕は今ここで急に心臓が止まって死んでしまえれば良いと思った。そんなことはあり得なかった。だから僕は言わなくてはならなかった。嘘はつかないと決めていたから。

「雪穂が呼んでるんだ。行かなきゃなんだ」

 昇は俯いた。僕はそれをありがたく思った。あの表情をあれ以上見させられたら、僕は自殺していたかもしれない。僕は辺りに散らばった服をかき集め、着込んでいった。完全に服を着終えると、

「ごめん」

 とだけ言って部屋を出て、見慣れない家の廊下を通り、玄関から外に出た。

 僕は心臓が狂ったように脈動するのを感じていた。雪穂に何があったのだろう。僕は激しく動揺していた。

 僕の心臓は割れそうに早鐘を打っていた。スマホを取り出して地図を見る。来る時は緊張していて、道なんて覚えていられなかったからだ。

 駅は思っていたより遠かった。来る時は時間の感覚も曖昧になっていたのだと思った。僕の頭の中はとにかく雪穂のことでいっぱいだった。ホームの電光掲示板を見て、電車が来るまでの五分間をこれ以上なくもどかしく感じた。

 待っている間、昇のことが頭をよぎった。息苦しくなったけれど、今はそれよりも雪穂のことが大事だった。スマホからメッセージを送る。『すぐ行くから、待ってて』

 電車に乗り込んだ。駅に停まるたびにメッセージを送った。返事が来ないのが僕の不安を煽り立てた。

 地元の駅に着くと、尚更雪穂のことを心配する気持ちがどんどんと膨らんだ。駅前の公園は歩いてすぐだった。

 休日の公園。日の暮れかけたそこから、人々が手を振って立ち去っていく。その流れに逆らうように歩いた。小さな男の子と女の子が、砂場で何かを作り上げていた。女の子は帰りたそうにしていた。男の子がそれを引き止めている。これができあがるまで待って。あとちょっとだから。女の子はしぶしぶといった風を装ってそれに付き合う。本当は男の子と、少しでも長く一緒にいたいと思っている。僕は視線を動かした。ベンチに、雪穂と思しき人がいた。俯いていて顔は見えないけれど、間違いないだろう。僕は歩み寄った。

「雪穂」

 呼びかけると、雪穂は顔を上げた。ぼんやりとした目でしばらく僕を見つめていた。僕が誰なのか理解できていないように見えた。やがて目に生気が戻り、

「ああ、朗か」

 と言った。そして力無く笑った。

「何、朗、その顔、なんか変」

 そう言う雪穂は、先ほどのぼんやりした表情を除けば、普段通りにも見えた。

「はは、なんかそんな顔見ちゃったら、涙引っ込んじゃった」

「何があったんだよ」

 冗談めかしておどける雪穂に僕は言った。思っていたよりもきつい声がでた。

「ごめんね、急に呼び出したりして。あたしちょっとおかしくなってた」

「だから、何が」

「振られちゃった」

 雪穂は再び俯いたので表情は見えなかった。

 ——それだけ?

 僕は思ったが、黙っていた。それ以上の何かがあるのは間違いないと思った。僕は雪穂の隣に座った。俯いているので、横顔に髪がかかってやはり表情は伺えない。

 僕が黙っていると、雪穂は言葉を絞るように話し出した。本当は話したくない、という声色だった。

「罰ゲームだったんだって。あたしと付き合うの。誰が言ったのか知らないけど、あたしがオタクだってバレてて、それでターゲットにされたみたい。おかしいと思ったんだよね、明らかにあたしと釣り合いの取れる相手じゃなかったから」

 僕は衝撃で何も言えなかった。漫画なんかでよく見る典型的ないじめだった。本当にそんなことをする人間がいるとは思えなかった。ましてや雪穂がそのターゲットにされるなんて。

「気付かないあたしが悪かったんだよね、だって一ヶ月も付き合ってるのに、手も繋ごうとしないんだよ? 最初は恥ずかしがってるのかなって思ったけど、さすがに鈍いよね。どう考えたって相手は今まで色んな女の子と付き合ってるようなタイプだったのに」

 雪穂はまたしばらく黙った。そして、腹痛に苦しんでいるかのように体をぎゅっと縮めた。腹の前で両手を祈るように重ねていたけれど、その手が震えているのが見えた。

「だけど、だけどさあ」

 雪穂の声が大きくなった。

「何もいきなり無理やりセックスして、それで種明かしって、ひどくない? なんでお前から何にもしてこないんだって、おかしくない? ふざけるなって、こっちのセリフだよ」

 雪穂の声は震え、鼻声になった。雪穂は泣きだした。本当に小さな声で言った。

「あたし、初めてだったのに」

 僕は激しい憤りを覚えた。許せない。人の心を弄んで、自分勝手な理屈で相手をねじ伏せて、体だけ味わって最終的には捨てるように別れるなんて。

「雪——」

 雪穂に手を伸ばしかけたときに気づいた。

 自分が全く同じことを昇にしたと言うことに。昇が最後に僕のことを見上げた顔が蘇った。雪穂の小さな体が、痛みに震えていた。昇は今頃、部屋でどうしているのだろう。

 僕が今雪穂に何を言っても、それはそのまま自分に返ってくる言葉だった。そんなの許せない。そんな奴は最低の人間だ。人間の屑だ。そんな人間のことなんて、はやく忘れてしまいなよ。そんな奴、絶対不幸になるに決まってる。

 僕は昇が女子をカモフラージュに利用したことについて怒った。

 僕がしたことはそれより遥かに悪辣だった。

 ——偽善者!

 僕の中で叫ぶ声がした。そうだ、僕はとんでもない偽善者だ。僕は、僕のことをあんなに愛してくれた人間に、最悪の仕打ちをした。

「あたしさ」

 そんな僕の葛藤を知らず、雪穂が顔を上げた。涙が頬を伝っていたけれど、雪穂は無理に笑ったようだった。

「ほんとは朗が好きだったんだ」

 その言葉は、僕を絶望の淵に叩き落とした。それ以上何も言わないでくれ、もう何も聞きたくない。

「ほんとは中学の卒業のときに告白しようと思ってたんだけどさ、勇気がなくてできなかったの。だってずっと友達だったから、このまま友達でいられればそれでいいかなって思っちゃって。告白して振られて、会えなくなるのが一番怖かったから」

 雪穂、今目の前にいるのは、さっき雪穂を最悪の形で侮辱した男の生き写しなんだ。

「最初は朗が良かったなあ」

 僕の背筋に悪寒が走った。雪穂が目の前の男の本性に気づいていないということと、女性とセックスをするということに。

「なんてね、ごめんね、朗はあたしのことそういう風に見てないって、分かってるから——朗? なんで泣いてるの?」

 雪穂に向かって伸ばした手を宙に浮かせた姿勢のまま、溢れ出す涙が頬を伝っていた。泣けば許してもらえるとでも思っているのか。誰のために泣くのか。本当に泣きたいのは僕じゃない。僕には泣く資格なんて無い。だけれど涙は止まらなかった。

 分かっていたことじゃないか。見えていた結果のはずだ。僕の中の化け物が、どんな不幸を呼び寄せるか。

 僕は告白を断るべきだった。

 僕は初めて愛されて浮かれていたんだ。僕には愛される資格がそもそも無かったのに。

「やだ、そんなにあたしとするの嫌だった?」

 雪穂は冗談めかして言う。それが外れていないことが、また僕の涙腺を壊した。手から力が抜けた。涙で視界がぼやけて何も見えなかった。

「大丈夫? どうしたの? 朗」

 雪穂の声が聞こえる。本当は泣きたいのは雪穂なんだ、そして昇なんだ。僕には泣く資格なんてないんだ。慰めないで欲しい、雪穂は自分を汚した人間を慰めているのと同じなのだから。はやく雪穂を止めないと、雪穂が自分を汚している。

「——同じなんだ」

「え?」

「雪穂を侮辱した男と、僕は、同じなんだ」

「何言ってるの? 朗はそんなことしないでしょ?」

「したんだ、同じことを、いや、もっとひどいかもしれない」

 雪穂は黙った。僕の視界は相変わらず濁っている。

「僕は最低の人間だ」

 気がつけば僕は全てを雪穂に打ち明けていた。雪穂が好きだということ、でも女性とセックスはできないということ、男性に性的に興奮すること、でも男性には恋愛感情が持てないということ、昇が僕に告白してきたこと、『実験』として付き合い始めたということ、昇が僕のことを、とても大切に、本当に愛してくれたこと、それでも、昇とセックスまでしても、昇のことを好きだとは思えなかったこと、そんな昇を捨てるように置いてここに来たということ。

 僕の体に、昇の熱が蘇った。ファミレスで机の下で握り合った手。トイレで隠れてしたキス。告白のとき抱きしめてきたあのぬくもり。そして先ほどまでの、セックスの感触。

 その時初めて、僕の中に昇に対する『特別な感情』が湧いてくるのが分かった。だけれど、だからこそ、僕はまたぼろぼろと涙をこぼした。

 僕はその感情の名前を知っていた。

 ——『家族愛』。

「僕は心が壊れてる人間なんだ」

 そう言う頃には、涙は止まっていた。僕は眼球に残った涙を腕で拭った。雪穂の顔がはっきりと見えた。雪穂は泣きそうな顔をしていた。

「それってあたしのせい?」

 雪穂は顔を歪めた。

「あたしがBLを貸したから、朗はおかしくなっちゃったの?」

 僕は驚いた。そんな可能性、考えたことも無かった。だけれどそれははっきりと違うと思った。

「それはないよ、だってずっと僕はあれをファンタジーだと思ってたんだから」

「だけど、無意識に影響を受けていたのかもしれない」

 無意識のことなど、誰にも分からない。それでも反論はできた。

「でも、僕が女の人に興奮しない理由にはならない」

 そう、仮にその影響を認めるとしても、僕はバイセクシャルになるだけで、女性とのセックスへの嫌悪感の由来の説明にはならないのだ。

「だったら」

 雪穂はまっすぐ僕を見た。

「朗はあたしのことが好きなんでしょ? 愛してくれてるんでしょ? だったらあたしとしてみれば、何か変わるかもしれない。本当は女の人とそういうことができるってわかるかもしれない」

 僕は雪穂の顔を見た。その目は、あの時の昇と全く同じものだった。僕はその先に何が待っているのかもう知っていた。僕は、もう誰かを『実験』に使いたくなかった。これ以上僕の中の化け物の犠牲者を増やしたくなかった。できなかったら、雪穂が傷つくだけだ。そして、僕は確信していた。雪穂が相手でも、絶対にできないのだと。

 僕は首を振った。

 雪穂の顔を見て、結局、雪穂を傷つけてしまった、と思った。


 僕は学校に行かなくなった。

 最初の数日は体調が悪いとだけ伝えたが、三日を過ぎると、さすがに親もおかしいと思ったようだった。いじめられているのか、何かあったのか、クラスに馴染めないのかと聞かれたけれど、僕は何も答えなかった。親に説明できる事情など何一つ無かった。

 昇はどうしているだろう、と思った。昇はちゃんと学校に出ているだろうか。それが心残りだったけれど、スマホの電源は切って、誰とも連絡を取らないと決めたので、どうなったかは分からなかった。

 母親がパートに出かけ、家が無人になる。僕は布団の中で、覚醒と睡眠の間を漂っていた。眠ろうと思えば、人間は幾らでも眠ることのできる動物なのだと僕は知った。僕はこのまま社会からドロップアウトするのだろうかと思った。僕は漠然と、常にそんな予感があったことを思い出した。例えば普通に彼女を作り、別れたりくっついたりを何人か経て、そのうちにセックスをし、そこそこの大学に進学し、就職は厳しいかもしれないが、恐らくどこかそんなに有名ではない企業に就職し、そのうちに一生を付き合える女性と出会い、結婚をし、子供を作り、子供を育て、反抗期などを経て、やがて子供も大人になり、妻が先立ち、自分も死ぬ。細部に違いこそあれ、「人生」と呼ばれて想起されるそんな物語から、自分は疎外されている、という自覚があった。多分自分はどこかで石に躓くだろう、そう思っていた。常にどこか綱渡りをしているような感覚があった。見せかけの日常、その裏側に何かが潜んでいる。だけれどそれが、こんな化け物だとは思わなかった。僕は自分が傷つくことは予期していたが、誰かを傷つけることは全く予想していなかった。

 僕は体にかかったバスタオルを払いのけ、起き上がった。机の引き出しからカッターナイフを取り出す。死ぬ気は無かった。化け物を追い払うには、こうするしかない。僕はズボンを下ろし、局部を露出させた。毛の生えそろったその根本に、カッターナイフを当てる。手が震えた。どうしてこんなことになったんだろう。僕は何をしようとしているんだろう。だけれど、これ以外の方法が思いつかない。誰か、僕をここに連れてきた人間がいるならば、今僕はそいつを躊躇なく刺すだろう。だけれどそんな人間はいなくて、そして、言い訳をすることが許されるならば、僕にだって責任はないんじゃないか。僕は自分で化け物を飼いたいと思ったわけではない。化け物が勝手に僕の中に住んでいたんだ。だったらなぜ僕はこんなことをしなきゃいけないんだろう。罪のない罰。ナチスの元では、同性愛者たちは収容所に連行されたという。彼らに何か罪はあっただろうか。だけれど僕には一つ確実な罪があった。昇を傷つけたということ。そしてこの化け物がいる限り、多分それは永遠に繰り返される。化け物は常に腹を空かせて、僕の中の性欲や愛情を弄んで、僕を乗っ取ろうとする。それもこれも、僕の股にぶら下がる「こいつ」のせいなのだ。「こいつ」がなくなれば、化け物はいなくなる。僕は解放される。切り落とせ、さあ!

 僕の頭の中に、昇が幸せそうな顔で「こいつ」をしゃぶっている姿が蘇った。だからこそ、昇は傷つくことになったのに。あの昇の顔を思うと、手が止まってしまった。そして昇の中に「こいつ」が入っていったこと。血を流しても、昇が嬉しそうにこちらを見つめたこと。「こいつ」はあのとき、昇に少しでも喜びを与えることができたんだろうか? やがて力の抜けた手からカッターナイフが滑り落ち、その拍子に刃先が数本の毛と、皮を少し切り裂いた。鋭い痛みが背筋を駆け抜けた。ほんの少し切れただけ、血が一直線に滲んでいるだけなのに、驚くほどの痛みだった。僕はなんて恐ろしいことをしようとしていたのだろうと思った。すっかり気力は萎えてしまった。


 雪穂が、裸でベッドの上に横たわっている。僕は少し離れたところからそれを見ている。僕も裸だ。雪穂は恥ずかしそうに体を薄い白い布で隠している。僕はその下の体のことを思うと、とても苦々しい気持ちになる。

 ——ねえ、こっち来てよ。

 雪穂が言う。

 ——あたしのこと、好きなんでしょう?

 僕は何も言えず俯く。

 ——大丈夫、安心して。

 布が払いのけられる音がする。僕は、視線を上げる。雪穂の胸はささやかな膨らみだ。綺麗な色の乳首が、その先端に丸くついている。僕の心臓は高鳴る。そんなはずはない。視界の端に映ったものが信じられない。ゆっくりと視線を下ろしていく。女性らしいくびれた体が、わずかに腹筋の浮いた胴体が、こちらを向いている。異物が目に入る。僕はそれを見る。あるはずのないものがそこにある。

 ——ね、これならできるでしょう?

 そこには男性にしかないはずのものがある。それが血流を帯びて屹立している。

 ——これが欲しいんでしょう?

 これは夢だと僕は気づく。これは、これこそが僕の願望なのだろうか。女性でありながら男性である存在。僕はそれを望んでいるのだろうか。

 それは違うのだ。夢の中の僕は、それを見て興奮していなかった。

 僕は女性としての雪穂が好きなのだ。雪穂にそれがついていたらそれでいい、そんなことはない。

 そう思うと、ぼろぼろと目の前の塔は崩れていった。

 そして現れた真実の体は、やはり僕のことを拒絶した。

 目覚めると、尿意を催した。今日は母親のパートは休みで家にいるはずだった。僕はこっそりと部屋を出ると、トイレに向かった。夕飯の匂いが家の中に漂っている。

 座って用を足していると、電話が鳴る音が聞こえた。手を洗ってトイレを出ると、母親が目の前に立っていた。

「雪穂ちゃん」

 そう言いながら電話の子機を差し出した。僕はしばらく迷って、電話機を受け取る。

「……もしもし」

 どうしても先ほどの夢を思い出してしまう。

「朗、学校行ってないって本当?」

 母親め、と思う。

「ちょっと、体調悪くて」

「嘘でしょ、携帯も通じないからおかしいと思って電話したんだから」

「ああ、携帯はたまたま充電忘れてて」

 雪穂のため息が聞こえた。

「嘘はやめようよ、ね?」

「……うん」

「なんか色々中途半端だったから、ちゃんと話がしたくて」

 僕は部屋に戻った。ベッドに腰掛ける。

「とりあえずあたしはさ、ちゃんと学校行ってるから、心配しないで。むしろ暴露してやったら、相手の男の株暴落してるから」

 僕はそれを聞いてとても安心した。それと同時に、相手の男と自分を重ね合わせた。雪穂はそれを察したようだった。

「あたしは自分がされたことと朗がしたことはさ、おんなじだとは思わないよ」

「いいよ、そんな慰めはさ」

「だけど、相手の子も、事情は分かった上だったんでしょ? あたしがされた『罰ゲーム』とはやっぱり、違うんじゃないかな」

「でも、僕は昇を傷つけたよ。それは間違いない」

 電話を切ってしまいたかった。自分のしたことに向きあいたくないのだ。

「恋愛なんてそんなのばっかりだよ」

 雪穂が言う。

「そんなこと言ったら、あたしの方がよっぽど傷つけられてるよ。ずっと好きだったのに、全然気付いてくれないんだもん。鈍すぎだよ」

「……ごめん」

「でも、あたしのこと、好きなんでしょ?」

 僕は先ほどの夢を思い出す。

「好きだよ」

「でも、セックスはしたくない」

 その言葉に僕は黙った。

「あたしがそれでも構わないって言ったら、どうする?」

 そんなことを言ってくるとは思っていなかった。セックス抜きで付き合うということ。僕はふと思った。

「それって、今の関係と何か変わるのかな」

「変わるよ。私が朗の彼女になって、朗が私の彼氏になるんだよ」

「名前の問題?」

「名前は大事だよ」

 高校生の間はそれでも良いかもしれない。そんな関係を続けられるかもしれない。でも大人になったら。

「気の早い話して良い?」

「良いよ」

「雪穂言ってたじゃん、子供欲しいって」

 雪穂は少し笑った。だけれど僕は真剣だった。僕は一生多分それに悩むのだ。

「ホントに気の早い話だね。うーん、それは確かに欲しいけど。でも体外受精とか、色々方法はあるんじゃない? よく知らないけどさ」

「それに雪穂自身だって、そういうことしたいんじゃないの?」

「あたしはいいや、とりあえずしばらくは」

 雪穂がされたことを思い出した。

「そっか、ごめん」

 でもだとしたら、尚更相手は自分なんかでは無い方が良いのでは無いか。僕みたいな壊れた人間より、例えば昇が僕にしてくれたように、愛を持ってセックスをしてくれる人間と付き合い、ちゃんとそういうことができるようになる方が、雪穂のためなのではないか。

「……僕じゃ無い方が良いよ。もっとちゃんと、『普通』の相手と付き合った方が絶対に良い。雪穂ならもっと良い相手が見つかるよ。僕なんかと付き合っても、時間の浪費にしかならないと思う」

「あたしは今の話をしてるんだよ、今あたしは朗が好きで、朗はあたしを好き、それで十分なんじゃないの?」

「でも僕は、別に性的に不能なわけじゃない。僕にだってちゃんと欲望があるんだ」

 今度は雪穂が黙った。

「雪穂が例えば僕が、他の男の人を考えながらオナニーしてても、それでも大丈夫だって言える? 他の男の人とセックスしてても平気? それで僕が雪穂を愛してるって言って、ちゃんと信じてくれる?」

 しばらく電話口にはホワイトノイズが流れていた。

「あたしのことを愛してるなら、それは我慢してって言っても、無理なの?」

 今度は僕が黙る番だった。

「本当に愛してるなら、そうして欲しい。あたしだって我慢するから」

 雪穂の言うことはもっともだと思った。そしてもしかしたらそれは可能かも知れなかった。僕はもともとそんなに性欲の強い人間では無いから。

 しかし僕はもう知ってしまったのだ。僕は昇とセックスをしてしまった。昇が僕に与えてくれた快楽がもう二度と味わえないというのは、僕には耐え難いものに思えた。

「……やっぱり、本当は昇くんのことが好きなんじゃないの」

 僕の考えていることを見透かしたようなことを言う。

「それは違うんだ、僕は」

「——ごめん、やっぱり、あたしには分からない。朗がどういう状態なのか、多分ちゃんと分かってあげられない。さっきはああ言ったけど、やっぱり好きな相手とはくっつきたいって思う。それが自然なんだってあたしは思う。あたしは朗が好き。朗とくっつきたい。だけど朗はそうじゃないんでしょう?」

「うん」

「じゃあ、やっぱりこの話は無しにしよう」

「うん」

 僕はそれがいい、と思った。それが雪穂のためだ。雪穂はこんな世界(傍点)に関わるべきじゃない。

「だけどさ、これからも、友達として——」

「それは無理だよ」

 雪穂ははっきりと言った。

「だってあたしは朗が好きなんだもん。それで朗もあたしのことが好きだなんて言って、それで友達続けるなんて、無理だよ。あたし、期待しちゃうもん。無理ならもう、きっぱりと離れるしかないよ」

「そっか」

「これはあたしの我儘だから。ごめんね、これじゃ、なんのために電話したのか分かんないね」

 黙っている僕に雪穂は、申し訳なさそうに言った。

「ごめんね、本当に。でも、あたしは朗が好きだった。朗はもっと自分に自信を持って欲しい。あたしは朗の苦しみを分かってあげられない。でも、好きだったよ」

「うん、……ありがとう」

「早く元気出して、学校行きなね。きっと友達が待ってるよ」

 勝手に涙が出てきたので、気付かれないように必死だった。雪穂が沈黙をどう受け取ったのかは分からなかったが、しばらく経つと、

「じゃあね、ばいばい」

 そう言って電話は切れた。

 僕は泣きながら、これが当然のことなのだと言い聞かせた。これで良かったのだと思うことにした。雪穂が言うように、これで叶えられない期待を持たせることもないのだ。

 しかしはっきりしたこともあった。これから僕がどれだけ女の子を好きになろうと、おそらく同じ結果が待っているということだった。

 僕は深い穴の底にいて、見上げても光は見えてこなかった。


 僕は昼に寝て、夜、親が寝静まってから活動するようになった。親の顔を見たくなかったからだ。こうやって人はどんどん道を踏み外して行くのだろうかと思った。絵に描いたような引きこもりへの転落に、自分自身が驚いていた。

 僕は最初の頃にしていた自習をすることも止めて、ただミステリを読んだり、稚拙な音楽を作って過ごした。本は、ミステリ以外はほとんど読めなかった。僕はなぜ自分が、小説というジャンルの中で、特に文学としてしばしば一段下に見られる——『人間が書けていない』という常套句で——ミステリが好きなのかなんとなく分かった気がした。つまるところミステリというのは、特に完成度の高いミステリと呼ばれるものは、謎の足し算引き算を行って、本が終わるときにそれがゼロになっているものこそ優秀なものなのだ。乱暴に行ってしまえば、例えば文学が目指すような、読み終わった読者の中に何かを残すような方向性とは真逆なのだ。読んでいる最中に読者に様々な謎を与え、混乱させても、読み終わるときにはそれを「きれいさっぱり」失くしてこそ優秀なミステリなのだ。

 もちろんこれは暴論で、様々な例外はあるし、ミステリはトリックやロジックだけでできているのではない、それが小説である以上物語であることからは逃れられない。

 だけれど自分が惹かれているのは、自分がどれだけ混乱させられても、颯爽と現れた名探偵が、それを全て拭い去ってくれるからだ。

 そしてそれが、今まさに自分が求めていることだった。だけれどどんな名探偵でも、僕の化け物は退治することができないだろう。

 深夜にヘッドフォンを着けて画面と向き合い、DTMのソフトを弄る。音楽は小説とは真逆だ。言葉が全くないものなのに、なぜ感情を伝えることができるのだろう。なぜ人はあるメロディーを聴いたとき、それが「悲しいもの」だと理解するのだろう。そこには言葉も、映像も全く無いのに。

 だからこそ、今音楽は自分にとって最も最適なツールなのかもしれなかった。僕の中のものを吐き出すには、言葉や映像ではダメだと思った。だけれど今の自分は未熟すぎて、この化け物を表現することなどとてもできなかった。そして仮にそれを完璧に音楽で表現できたとして、聞いた人はそれをどう理解するのだろう。多分それは、ただの雑音になる。


 学校に行かなくなって一週間経った。昼の睡眠から覚め、窓の外は赤らみ始めている。今日の夜は何をしよう。なんだかもう、ミステリさえ読みたくなくなってしまった。音楽も、目標が高すぎてくじけてしまいそうだ。昇がいつか自分を褒めてくれたときの言葉を思い出し、ああ、僕はそんな人間じゃなかったんだな、と思った。

 そんなことを考えながらうとうとしていると、少し大きな足音がした。足音の感じで、数人のものだと分かる。扉の前で止まった。

「朗、起きてる? お友達、来てくれたわよ」

 疲れた、だけれど少し明るい母の声がした。そして立ち去っていく足音。しばらくして、声がした。

「よう」

 箭内だった。

「元気か、ってのもおかしいな、大丈夫か」

 僕はベッドに寝転び、バスタオルを頭から被った。勿論意味なんて無かった。

「大体のことは聞いた。俺が昇にお前の——朗のことを話さなければ、こうはならなかった。本当にごめん。俺は自惚れてた。自分がゲイであることを自覚して、人とはちょっと違ったものの見方ができる人間なんだって思ってた。そういうことに関してならそれなりに詳しいと思ってた。だから朗は本当はゲイなのに割り切れない人間なんだって思い込んでた。よくある悩みなんだ、本当に。昇はいいやつだし、昇と付き合えば本当の自分に気づくだろうって。だけど朗は違ったんだな、それをもっとはやく分かるべきだった。朗は何度もそう言ってたのに」

 箭内はその場に座り込んだようだった。

「朗みたいな人間がどれくらいいるのか、俺は聞いたことがないから分からない。それで、多分朗みたいな人間は、俺みたいな分かり易いゲイよりも、多分もっと辛いだろうって思う。またこうやって勝手に憶測するのは俺の悪い癖だな。でも、本当にそう思う。特に朗の性格だったら、余計辛いだろうな。朗は優しいから」

 僕は声を殺して泣いていた。なぜ泣いているのかは自分でも分からなかった。

「だけど、解決策はある。ゲイの人間でも、例えば既婚者で、性欲は性欲って割り切って、ハッテン場に行ったりセフレを持ったりする人間もいる。朗が悩んでいるなら、そうやって性欲を解消するのも一つの手かもしれない。間違ってもちんこ切ろうとしたりするなよ」

 僕は泣きながら、思わず吹き出してしまった。やっぱり箭内はなんでもお見通しなのだ。

「さっきから聞いてれば、変なアドバイスばっかすんじゃねえよ」

 呼吸が止まった。昇の声だった。

「朗、大丈夫か? 俺のことなら心配しなくていいぞ。まあ俺もさすがに三日引きこもったけど。お陰で紡がクラスで一人になっちゃって体育の時間に嫌がらせされたらしいぞ」

「バカ、そんなことは言わなくていいんだよ」

「良いだろ、その方が朗も学校来る気になるだろうし。あのさ! ほんと、気にしなくて良いから。だって最初から分かってたことだろ? そういう約束で付き合い始めたんだから、朗が自分を責めることは無いんだよ。無理やり付き合おうって言ったのは俺——と紡の方なんだから」

 僕はベッドから立ち上がって足音を立てないようにドアへ向かった。昇の声を近くで聞きたいと思った。

 足が止まった。僕は自分の中にいる化け物のことを思い出した。

「僕の中には化け物がいるんだ」

 僕は思わず言った。扉の向こうが静まり返った。

「化け物が、僕の中の性欲とか、愛情とか、そういうものをぐちゃぐちゃにして、それで、人のことを食おうとするんだ。僕はそれで昇を傷つけた。雪穂も傷つけた。僕はもうあんなことしたくないんだ」

「悪いのはその化け物で、朗じゃない」

 昇が言った。

「朗は悪くない」

 箭内の声だ。箭内は皮肉めいた口調で言った。

「俺らだって世間じゃ化け物扱いされるような人間だからな」

 昇が明るい声で言う。

「なあ、朗——俺たち、まだ別れ話、してないよな? だから、まだ別れてないよな?」

「無理だよ、もう」

 僕は喚く。

「また同じことになる。昇が傷つくだけだ。良いんだ、もう。分かった、どうすればいいのか」

 昇の話を聞いていると、昇が自分を愛してくれていると分かると、化け物が暴れだす。だったらその逆をすれば良い。

 誰のことも好きにならず、誰にも興奮せず、愛を求めないこと。

 そうすれば化け物は何もできない。

 そうやって生きていけばいい。

「昇、友達に」

「『実験』を続けよう」

 僕の言葉を遮って昇が言う。

「俺は諦めない。いつかお前が俺のことをちゃんと好きになってくれるって信じてる」

 また化け物が暴れだす。その言葉に心が揺らぐ。可能性のない未来を信じたくなる。振り払わなければ。

「僕はもう昇を傷つけたくない」

「何度でも傷つければ良い。俺は諦めない。俺はセックスしたとき、心が一つになったと思った。体だけじゃない、お前とちゃんと繋がれたと思った」

 僕の脳裏に蘇った。僕たちが繋がる時に、いや、厳密にはその直前に感じた、心が重なった瞬間のことが。昇が言っているのは、あの瞬間のことなのだろうか。もし、あの一瞬がずっと続けば——。

 僕は扉へ歩み寄り、ノブを掴んでドアを引いた。座り込んでいた箭内が僕を見上げ、昇が仁王立ちで僕をじっと見た。

「怪物くんがようやく目覚めたな」

 皮肉っぽく箭内が言う。

「昇——」

 昇がまた僕のところに来て、その大きな体で僕を抱きしめた。僕は、昇が愛想を尽かして僕から離れていく姿を見た。その未来がいつかやってくる。

「そんな風にはならない」

 昇が言った。その力強い言葉に、僕は初めて、そうかもしれない、と思った。化け物の気配がほんの少しだけ薄らいだ気がした。僕も化け物を追い払う言葉を言った。

「昇、僕をゲイにしてくれ」

 僕はそう言い、自ら手を昇の逞しい体に回した。自分から抱きつくのは初めてだった。僕が抱きしめるにはあまりに大きな体だった。この大きな体で、僕を救い出してくれるかもしれない。

「その言葉、後悔するなよ」

 昇はもっと強い力で抱き返してきた。

 僕は薄く目を開けた。昇の大きな体に覆われて、視界は真っ暗だった。


(完)

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