水のない海

数田朗

1:2018/04/28 17:57

 どういう経緯で、コウイチと映画を観に行くことになったのだったろう? 映画が終わり、彼とスターバックスで感想会をしていたとき、数ある映画から俺たちがそれを見に行った『理由』は明らかになった。

「僕はね、ゲイなんですよ」

 コウイチはホットラテを口に運びながら、なんでもないことのように言った。

 見に行った映画は、『君の名前で僕を呼んで』だった。

 俺は、黙ってしまう。その沈黙をどう解釈したのか、彼は話し続けた。

「別に、誰彼構わずカムアウトするわけではないんですけど……。ただ、親しくなりたいと思った人には、知っていて欲しいって思ってて」

 彼は、生きることに誠実であろうとしているように見えた。誠実。久しぶりに聞いた言葉だ。女性はよく、「誠実な人がいい」だなんてことを言うけれど、ゲイの間でそういう話をほとんど聞かないのは、『ゲイとして誠実に生きる』ことの困難さを、皆が実感しているからなのだろうと思う。誠実なゲイだなんて、言葉ごと存在が矛盾している。

 だって俺たちは、嘘をつくことに慣れすぎている。「彼女いる?」「結婚しないの?」「あの子かわいくね?」そんななんでもない会話を、仮面を被ってやり過ごすたび、俺たちの顔に嘘がへばりついていく。

 だから、もうどっぷり嘘に浸かってしまった俺は、とっさに彼のカミングアウトに応じることができなかった。「俺もそうだよ」、そう一言いうだけで良かったのに。

 そもそもコウイチとは、読書会で知り合った。国籍問わず海外文学を取り扱う、ツイッターで人員を募集している読書会だった。俺の初参加の回の課題図書は、ヴィクトル・ペレーヴィンの『宇宙飛行士 オモン・ラー』。なんとか会で恥をかかないようにと、三回通してその本を読んで臨んだ俺だったが、会の雰囲気は俺が想像していたよりも砕けていて、俺は気軽に、そして快くその会で過ごすことができた。コウイチは、そんな会の中でも真剣に議論に臨んでいる人たち――通称『ガチ勢』の一人で、会が終わった後、場にまだ溶け込めてないでいる俺に話しかけてくれたのだった。

 第二回のハン・ガン『菜食主義者』、第三回トム・ジョーンズ『コールド・スナップ』、と回をこなすうち、俺自身にも読書会に『真剣』に取り組む気持ちが生じてきた。俺はその時、コウイチのことを強く意識していたように思う。コウイチよりも深い読みがしたい。コウイチよりも鋭い指摘がしたい。実際に張り合えていたかはわからなかったが、それが俺のモチベーションの一つだった。コウイチはそんな挑戦心剥き出しの俺に対し、のらりくらり……よく言えばひらひらと、その刃をかわしていた。

 だからコウイチにカミングアウトされたとき、俺は、なんだかちょっとだけ上位に立てた気持ちになれたのだと思う。それをみすみす同列に下げたくなくて、自分のことが言い出せなかった。

 俺は、そんな人間だった。

「なあ、『穴』を見に行かないか?」

 だから話を逸らして、ちょうど良い手ごろな話題にすがりつくみたいな感じで、俺はその話を切り出した。

「ああ……」

 コウイチはそれを聞き、意外なことにあまり乗り気ではないようだった。この新宿で、今一番ホットな話題なのに。

『新宿に突如大きな陥没 けが人なし』

 そんな文字が新聞の一面を飾ったのは、一昨日のことだ。その題の通り、新宿の大通りの端、ちょうど二丁目との境のあたりに、突如大きな『穴』があいた。ときおり事件になるような、地面の陥没事故だ。しかし、随分規模は大きいようだった。この新宿で、怪我人がいなかったのは奇跡に近い。今のところ陥没の原因はわからないらしいが、他に穴があく恐れもないとのこと。原因がわからないのになぜそう言い切れるのか、と、ネット上は騒ぎになっており、新宿付近はしばらくのあいだ危険だという意見もあるが、俺はいつものように新宿に遊びに来てしまっている。

「まあいいよ、いこうか」

 結局コウイチはそう言い、俺たちは店を出て『穴』へ向かった。

 そこにたどり着くだいぶ前から、車の侵入は規制されているようだった。往来を『穴』によって遮断された歩行者の数も少なく、しかし自分たちと同じように『穴』を見物しに行くだろう方向の人たちの姿も見えた。

 遠くからでも、『穴』の存在は感じられた。近づいていくと、どことなく空気が冷えているような気もする。

 俺はコウイチの顔をちらりと見た。コウイチの顔もどこか強張って見えた。俺はそれを見るとかえって安心して、足を進めることができた。

 カラーコーンで周囲を囲われた『穴』。そのコーンのところには等間隔に制服の警察官が立っており、関係者以外が近づかないようにと厳重に見張っている。しかし、そのコーンの外側に立ってなお、しっかりと視認できるほどに『穴』は大きかった。その向こう側に立つ人が小さく見える。そしてそこから視線を下げれば、真っ黒な穴。もう日も暮れているからなのかもしれないが、穴はなぜかとても黒ぐろとして見えた。まるで何もかもを吸い込むような、全てを飲み込むような黒い穴。それが、新宿の中心地にある。

「水のない海みたいだ」

 隣で誰かがそう言った。振り向くとそれはコウイチだった。コウイチはどこかうっとりした顔をしているようにも見えた。目がうるんで、顔があからんで、口を半開きにして――。

 水のない海。

 俺は正面に向きなおる。

 そこにあるのは、どこまでいってもただの『穴』にしか、俺には見えなかった。


 コウイチと別れ、俺は時計を確認する。『18:45』。本日二件目のアポイントがこの後待っていた。

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