第4話 崇拝

 逆光でも氷室には分かった。

 流れ込んで来る風が運んでくる、自分と同じ香水の香り。

 それは、佐伯の小説に描かれているサイコパスが使っている香水でもある。

 シトラスの爽やかさとウッディな深みが特徴の、洗練された香りが特徴の香水。ダンヒルの『エディション』だ。

 作品内でブランド名は出てこないが、それに相当する香りを探し続けた結果、これに辿り着いたのだ。

 スーツと言い、香水と言い……。そんなことを考え、氷室はある考えに思い至った。

 ひょっとすると徳井は、いくつかの作品で森崎をモデルにしていたのかもしれない──。

「……氷室さん。いるんでしょう」

 冷水を浴びせられたような気分だった。

 自分と同じように、森崎もここに残る香水の匂いに気付いたのか。それとも、最初から罠だったのか。

 流石にこの臭気の中で、風上の森崎に嗅ぎ分けられる筈がない。

 氷室はゆっくりと立ち上がった。

 しかし、外の光を背にしている森崎の表情は分からない。


 これでは少々分が悪い──。

 

 氷室はちらと、床の発電機に視線をやった。そして直ぐに視線を戻す。

 明かりが欲しい。あの発電機のバッテリーに残量はあるだろうか。

 だが、こちらがそれを求めている事を相手に悟らせたくはなかった。

 逆にそこを突かれる可能性がある。

 寧ろ、森崎から自分が見えているなら、余裕を見せ、ハッタリをかましてやる位が丁度いいだろう。


 あたかも銃を持っているように見せかけ、こちらに近寄らせないように──。

 

 氷室は、ライトを握った手を背後に回した。

 ベルトの隙間に差し込んである銃に触れているぞと言うアピールだ。

 案の定、森崎は距離を取った。

 びりびりと張りつめた空気が漂う。

「──SNSに、佐伯美憂の電話番号を晒したのはあんたか」

 氷室は先手を取った。

 しかし、森崎は「何のことでしょう?」と淡々と返してくる。

 その抑揚のない声音のせいで、本当なのかどうなのか、氷室は判断出来なかった。

「ところで……」

 森崎は仁王立ちしたまま、ピクリとも動かずに話し始めた。

 下手に手足を動かせば、撃たれると判断したのだろう。

 冷静で、頭の切れる男だ。こちらも重々警戒せねばならない。

「ニケはどうやらあなたの仕業のようですね。あの後の2件も。徳井さんの作品を模倣したと言う事ですか」

 氷室は顎を上げ、口の端を上げると、肩を竦めて見せた。

「徳井を崇拝し、作品を理解した者にしか出来ない。あんたもそう感じただろう?」

 あれを徳井の作品と認知出来る者がおらず、氷室の承認欲求は中々満たされることがなかったが、ここに来てようやくその時が来た。

 徳井の作品と、それを具現化した自身の手腕を語れる時が。それを理解出来る者が、目の前にいる。

 こんな時にも拘らず、氷室は興奮を覚えた。が、しかし。

「全くダメですね」

 森崎の一言に、氷室は突然平手打ちをくらったように目を見開いた。

 思わず後ろに回していた手もだらりと下がる。

 森崎はライトが握られた氷室の手をじっと見つめながら深く息をつくと、体の向きを僅かに変えた。それによって、あの綺麗な顔が浮き彫りとなる。

 その整った顔には、嫌悪の表情が張り付いていた。

「解釈違いも甚だしい」

「なんだと」

「解釈違いも甚だしいと言ったんですよ。あなたはあの作品の──、胡乱の真髄を曲解している」

 2人は睨み合った。

 解釈違い?

 曲解だと?

 氷室はあのコピー誌を繰り返し何度も読んだ。情景を思い浮かべ、没入し──。

 そうさせるだけの筆力が徳井には有った。

 その描写から、犯行を事細かく想像出来るほどに。

 だからこそ実現出来たのだ。徳井の世界と、何ら変わらぬ芸術を作り上げた──!

 それを曲解とは。

 それは徳井の世界を否定するに等しいではないか。

「徳井の一番近くで作品を見ておきながら、あんたこそ真意に届いていないんじゃないのか」

「氷室さん。あなたが見ているのは、残念ながら多くの読者がそうであるように、徳井作品の表面的な狂気です」

 心臓を一突きにされた気分だった。氷室はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。

 自分が、その辺の読者と同等に扱われたことが不本意だった。侮辱以外の何物でもない。

 しかし、森崎は「いいですか」と構わず続ける。

「死から見える胡乱な美しさとは──。生と死の境界線でのみ見えるもの。胡乱はそれを綴ったのです」

 森崎はまるで自身が作者であるかの話す。

 その落ち着いた、これぞ真実と言わんばかりの口調が氷室の神経を逆撫でさせる。

「胡乱に登場するニケやウィトルウィウス、そしてモナ・リザは、単なる墓標に過ぎません。つまり、あなたは墓標を晒しただけです」

 ふざけるなと氷室はライトを床に叩きつけた。

 割れたプラスティックレンズが方々に散らばる。

「今の徳井は偽物に等しい。あれこそ胡乱だ。彼を目覚めさせる。その為には破壊が必要だ!」

「狂ってる……」

「それはお互い様じゃないのか」

 森崎は小さくかぶりを振った。話にならないとでも言うように。

 それはまるで自分を見下しているかのようだ。

 それでも氷室は続けた。

「あんたも徳井に心酔してる。徳井の小説を読んで、徳井が本物だと感づいた。

 徳井はその辺の量産系作家とは違う。サイコパスだと。

 それでもパトロンとなって彼を支えたのは、あんたも、徳井の狂気を崇拝しているからじゃないのか!」

 森崎の心を映すかのように、ざわわと木々が騒いだ。

 氷室は壁背を向けたまま、時計回りにゆっくりと移動を始めた。

 それに合わせ、森崎も同じ方向へと移動をする。

 次第に森崎の表情が見え始めた。

「あんた、あの車で徳井と一緒に狩りをしてたんだろう? 違うか?

 彼の欲求を満たすために。獲物を与え、小説を書かせるために」

 森崎は何も言わず氷室の動きに注視している。


 いや──。違う。

 一瞬だが目が動いた。

 どこだ。どこを見ていた?

 

 ハッとした。

 動きを止め、耳を澄ます。

 しかし聞こえるのは葉擦れの音。

 森崎の喉が、上下するのが見えた。

「徳井は……どうした」

「聞いてどうするんです」

「彼を覚醒させる。あんたも編集者なら、あの頃の徳井を欲しいと思うだろう。そうすればまた──」

「氷室さん」

 氷室の言葉を遮ると、森崎はじっと氷室を見つめて言った。

「人の心を失う感覚はどうでしたか」

「なに?」

「目の前の命を愛おしいと思った事は? 犬や猫でも構いません。一緒にいて、心地いいと思った事は?」

「そんなもの──」

「彼なんかどうです? あなたと一緒にいた」


 ──しゅっに~ん!

 ──俺、主任みたくなりたいんすよ!


 フラッシュバックする、翔平の屈託のない笑顔。

 それは次第に木の洞の様な目となり、氷室の足元に転がった。

 ぼんやりと足元を眺める。

「殺したんですか」

 森崎が言った。

 だったらなんだ。

「あんただって、目の前に蝿が居たら叩き殺すだろう」

「蝿……」


 

 その時、暗がりからごとりと音がした。

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