第5話 悪辣

 照明を最小限に絞り、アロマオイルを落としたバスタブにゆったりと体を預けて目を閉じる。

 そして深く──、深く息を吸い、深呼吸を繰り返しながら、自身が神格化してきた男を想った。

 

 徳井呰鬼英──。

 

 数年前から、彼の作品は少し変わった。勿論、作品としてのクオリティは高く素晴らしい。

 それでも氷室は違和感を覚えていた。

 何かが違う。何かが足りないと──。

 それは何か。


 狂気だ──。


 背筋が凍るほどに傲慢で、身勝手で、どこまでもサディスティック。しかし芸術的なまでに美しく、読む者を興奮させる。

 今の徳井にはそれが足りない。

 その事に気付いた者がどれだけいたか。

 いや、恐らく自分だけだろう。

 事実、彼は6年前の病によって、断片的に記憶を失った事が当時の医師からの聞き込みで明らかになっている。

 つまり、彼を神たるものとしていた力を失ったのだ。

 

 思い出させてやる──。

 

 今の徳井呰鬼英は偽物だ。

 胡乱なのだ。



 引き摺り出してやる。


 

 はりぼての中に閉じ込められた、本当の彼を──。


 *   *   *

 

「うわ……。いい匂いがする」

 ベッドルームのドアを開け、隙間から体を滑り込ませた翔平は驚いた。

 ふわりと、心地良いアロマの香りがする。

 ラベンダーだろうか。

 30も半ばになれば、いくら自分に香水を振ったところで寝室は臭うはずと思ったが、氷室はここも完璧だった。

「わっ……! んっ」

 翔平は慌てて口元を押さえた。

 一歩踏み出すと、足元の人感センサーライトが点灯したせいだ。

 心臓がどきどきと早鐘を打った。

「びっくりしたぁ……」

 しゃがんでライトを確認する。なるほど、こう言う物をコンセントに差し込んでおけば、トイレに行くのにいちいち明かりをつける必要もない。

「主任って、どこまでもスマートだなぁ」

 足元で点灯したライトの光が拡散し、ぼんやりとだが寝室の全体が見渡せる。

 綺麗にベッドメイクされた、Wサイズの大きなベッドが室内の真ん中に設えられ、ベッドヘットにはリーディングライトと時計。

 ティッシュボックスもあるが、怪しげな小箱は見当たらない。

 その代わり、文庫本が数冊積まれていた。

 ベッドの片側の壁はクローゼット。そして、その向かいの壁とベッドの間に冷蔵庫が置かれている。

 氷室は自炊をするせいか、キッチンに置かれた冷蔵庫は3~4人家族用の大きなものだが、ここにあるのは一人暮らし用の小さな物である。

 冷蔵庫の上にはグラスが伏せておいてあるから、寝酒を保管しているのかもしれない。

「高いお酒が入ってそう……」

 翔平は好奇心に駆られ、その冷蔵庫へと近づいた。

 寝室に2ドア冷蔵庫かとも思ったが、氷室はとかく氷をたっぷりと入れたがる。

 それにはそれなりの冷凍庫が必要なのだろう。

「なに入れてるのかな」

 翔平は下の扉を開けた。

 しかし、中は引き出しになっている。そして軽く霜が付着していた。

「ん? これ、下が冷凍庫になっ──」

 そう独り言ちた翔平の目は、透明なプラスティック製の引き出しからはみ出ている黒い物に釘付けになった。

 所々細かな霜が付着している。

 翔平はそっと、引き出しを引き、そして中の物と目が合った・・・・・

「え──?」

 真っ白な人の顔が、そこに有った。

「うわあああああッ!」

 思わず後ろに倒れ込み尻もちをつく。

 逃げ出そうにも腰が抜け立ち上がれない。

 踵が無意味に床を滑った。

 

「悪い子だな」

 

 背後から、冷えた声。

 聞きなれた声。

 憧れてきた人の──。

 翔平は、油切れのロボットのようなぎこちなさで背後を振り返る。

 そこには、肩からバスタオルを下げた氷室が立っていた。

 髪から滑るように雫が落ち、床のカーペットに染みを作る。

 翔平は子供が嫌々するように首を振った。

 もう、悪趣味な冗談ではないと、分かった。

 

 ──佐伯の妹に当たる女性の友人から頂いた写真です。

 ──うわっ! 可愛いッスね! アイドルみたい! マジ天使!

 

 蘇る。

 八王子の、殿入中央公園の現場で森永から見せられた写真──。

 あれは、あの娘の顔だ。

 そこにあるのは、サモトラケのニケの頭だ──!

 

 翔平は、空気を求める金魚のように口をパクつかせた。

 喉の奥が締まり、声が出なかった。

 

「徳井──佐伯の初期の作品のオマージュだ。帳場で見せたろ?」

 翔平の脳裏に、帳場で氷室が冊子を掲げている姿がフラッシュバックした。

 『WRONG~胡乱~』と言うタイトルのコピー本だ。

「あれは、佐伯がまだアマチュアだった頃のものなんだが、彼の驚異的な才能が爆発した作品だった」

 氷室は目にかかる前髪を後ろへ撫でつけると、片膝をつき、浅い呼吸を繰り返す翔平の顔を覗き込んだ。

 怯える、子犬のような相棒の顔を、人差し指の背で撫でる。

 優しく、何度も、愛しむ様に。

「佐伯は天才なんだよ、翔平。俺の神と言っていい。そんな彼に、力を取り戻させる事は俺の使命だ。本来の佐伯は──」

 翔平は、氷室が何を言っているのか理解出来なかった。

 ただ、うっとりと佐伯を語る氷室が、そして冷凍庫の中の頭が気持ち悪く、そして恐ろしかった。

 がたがたと体が震えた。

「ああ──。せっかく風呂に入ったんだけどな」



 

 それが、翔平がこの世で最後に聞いた言葉だった──。

 

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