瑞光 3

 轟いた銃声。私はそれが自分に向けてのものだと思い、恐怖で身体が吹き飛びそうになった。だけど、ありすは発砲していなかった。何故なら、その銃声の後に私と満君へ血のような液体とプラスチックのような破片が降り注いだから。

 バン! バン!

 続く銃弾はありすの頭部と――右目を貫いた。一瞬の呻き声を発し、ありすは糸が切れた操り人形みたいに音もなく頽れた。だけど、頽れたのはありすだけじゃなかった。

「明夫……!!」

 振り返った先、綾香さんの側に京堂さんが倒れていた。何が起きたのかわからず、私は駆け寄って来た瑠偉と一緒に満君を起こして二人の側へ向かった。

「京堂さん……!」

 仰向けのまま胸から大量の血を流している京堂さん。その右手には南部という拳銃ではなく、螢さんから満君へ渡り、彼が床へ落とした九四式という拳銃が握られていた。私たちを助けるために……傷付いた身体で奏のことを撃ったんだ。だけど、それで全ての力を使い果たしたのか、京堂さんは起き上がる素振りもないまま息を何度も吐き出している。

「明夫……しっかりして……」

 必死に声をかける綾香さんは止血しようとしているけど、助からないのは明白だ――すると、京堂さんは自分の胸ポケットから一枚の和紙を取り出した。

「ちずだ……出口の……」

 震える紅い手で綾香さんにそれを差し出す。

「明夫……大丈夫よ。力を抜いて……話さないで……」

「みんな……俺をおいて……ひとりぼっちは……もう……美しさなんて……言い訳で……」

 激しい苦痛と悲しみを纏う京堂さんの目に映る私たちの姿はぼやけている。

「離ればなれ……いやだった……ずっと一緒にいたかった。愛した人たちとずっと……」

 譫言みたいに流れる京堂さんの本音に私は思わず顔をそらしてしまった。その時、撃たれる前まで京堂さんが握り締めていた十四年式という拳銃が落ちているのを見つけた。それを慎重に拾い上げると、グリップの下――弾倉が入っていなかった。

「もしかして、京堂……さん」

 綾香さんの側に落ちている弾倉を見て全てを察した。京堂さんは最初から私たちを撃つつもりはなくて、あの動きも全部が、私たちと一緒にいるための狂言だったんだ……。

「明夫……私も一緒にいるから――」

 その言葉に対し、京堂さんは今にも壊れてしまいそうな手を綾香さんの頬に寄せた。

「いいさ……ひとりでいくよ……もう……くるまと……愛里には……会えない……な。だけど……君たちは……いきろ」

 京堂さんは静かに瞬きをした。全てを忘れ、本当の意味で自由になった人が見せる眼差しのまま、私たちを一人一人見渡していく。まるで忘れないように、目そのものに刻み付けるような真剣な眼差し――。

「その時が来たら……聞かせてくれ……みんなが生きて来た人生の……最高のぶたい……」

 京堂さんは掠れた声を止め、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。全てから解放された人間が最期に吐き出した息は、悲しみも苦しみも昇華させる穏やかな眠りを誘い――。

 安堵のような息を吐き出して、京堂明夫さんはこの世から去った。

「あっ……」

 京堂さんの安らかな表情を見て、私は自分の頰を伝う液体に気付いた。触れてみるとそれは確かな涙で、その中にたゆたうのは京堂さんへの哀れみと安堵だ。まだ私は人の死に涙を流せる心があるんだ、そう思えたことにも私は驚いた。

 高神家で負った傷は私の心から死への恐怖と悲しみを奪い、リュシテン邸は記憶を奪い――それが今、欠片が私の中へ戻って来たんだとわかった。私もまだ……人間でいられた。

「さようなら……私の大切な人……」

 綾香さんは眠るようにして逝った京堂さんへ口づけをした。京堂明夫が存在していたことを確かめるようにその頬を両手で包み込み、立ち上がった。心配する私たちに対して、綾香さんは振り返ると地図を広げた。

「紅い印があるわね……どこかわかる?」

 開かれた地図は殴り書きではなく、この地下室と地下通路まで全てが記されている。紅い印の場所はわかるけど、私はその前に綾香さんを見た。

「大丈夫。立ち止まらないから」

 しっかりと私を見据えた綾香さんの目は強くて、堂々としている。

「示された位置は玄関です。きっとそれで脱出出来るのかもしれません」

「玄関なら……僕が入って来たドアからの方が近いです」

「満君……耐えられる?」

 涙を拭い、改めて満君の肩を診た。血がまだ流れていて危険なのはわかるけど、幸いにも銃弾は肩の上層を抉り取っただけで、肩そのものは撃ち抜かれていなかった。

「耐えるしかないでしょう?」

「桜、これで傷を」

 満君の身体を西条さんに支えてもらい、瑠偉のハンカチで止血の真似事をしておいた。

「それで動けるよね? 急ごう……」

 満君は瑠偉が支え、地図を持った私が先頭を行くことになった。

「行きましょう……私たちはもう戻らないから」

「……はい」

 京堂さんと横たわる螢さんを最後に一瞥した私は、満君が出て来たドアに向かった。ドアの片方は棺に偽装されていて、満君が出て来るまで私たちは気付きもしなかった。

 そのドアを抜け、冷たい石壁に挟まれながら階段を上がり、頂で私たちを待っている引き戸へ向かう。すると、西条さんが私の横を抜けていの一番に引き戸へ駆け寄った。

「重たいので気を付けてください。その先は前当主の間です」

 満君からの言葉に西条さんは片手で合図し、棒状の把手を両手で握り締めた。その左手の薬指にはいつの間にか指輪があった。

 西条さんが把手を動かすと引き戸は地響きみたいな音を発し、階段を包んでいた常闇が払われ、私がよく知っている明かりが飛び込んで来た。

「うわっ……こんな……!」

 西条さんは開けた引き戸を大慌てで閉めた。その理由は後ろにいた私にもわかった。見たことがない前当主の間が炎に包まれていた。

「……誰の仕業かなんてわかりきってますよね」

「誰の仕業かなんてそんなのどうでもいい……どうすんの……?」

「行くしかないですよ! 手遅れになる前に……!」

「だけど……」

 真耶さんが躊躇うのも当然だけど、もうその時間はないから私は引き戸を力任せに開けた。その瞬間に引き戸の向こうから、熱い風と目を焼こうとする業火が飛び出して来た。その勢いは高神家炎上と同じ――いや、それ以上の光景が広がっていた。

 天井にまで手を伸ばす黒煙はモクモクと芋虫のように這い回り、それを煽る炎は部屋中を呑み込んで、人形だか置物だかもわからない棒立ちの何かを食みながら勢力を拡大している。十年前の光景を彷彿させるけど、私は立ち止まらずにみんなへ振り返った。

「……行きましょう!」

 逃げ場はなく、満君も綾香さんも西条さんも怪我、屋敷そのものが燃え尽きれば逃げ場だって消えてしまうかもしれない。炎が怖いと怯えていられるような状況じゃないんだ。

 燃え盛る人形か置物かわからない何かの隙間を抜け、火の粉を振り払い、奥の両開きドアを抜けた。その先にあるL字の廊下にも炎はのたうつ魔手を伸ばしていて、客室棟へ通じる渡り廊下は既に炎の壁になっている。

 遺体は持ち帰れない。万が一、私たちの誰かが背負っていても、死んでしまった二人を現世に連れて帰ることなんて出来なかったんだと思う。それでも、言わずにはいられない。

 京堂さん……大淀さん……天龍さん……愛里……ごめんなさい。

 脳裏を過るみんなの笑顔で絞まる心臓。それに鞭打ちながら先頭を行き――背後からの物音に私たちは振り返った。その正体は奏――じゃなくて、炎の壁を壊して転がり込んで来たのは私と瑠偉を追いかけて来た花魁みたいな球体関節人形だ。

「あいつ……また……!」

 瑠偉の叫びを気にせず、炎に全身を食まれていても気にしていない人形は迫り――。

 バン!

 銃声と同時に、人形の右肘が粉々に吹き飛んだ――それでも飛びかかる動きは止まらず、

 バン! バン! バン!!

 左肩、胸元、立て続けに躰が砕けた人形は速度を落とし――額が粉々になると同時に人形は両足を散らして吹き飛んだ。そのまま炎が全身を包み、文字通り火だるまになった。

「早く……また動き出すかもしれないから!」

 人形を撃退したのは綾香さんだ。京堂さんが落とした十四年式をいつの間にか持って来ていたみたい。

 人形の追撃を躱し、私たちはL字の廊下を走る。だけど、炎は縁側廊下からも、前当主の間の壁を崩してまで執拗に追いかけて来た。さらに、玄関前の廊下に通じる両開きのドアの手前に、初日に出会した寒がりの人形が座っていた。

「……どいて!!」

 反射的に立ち止まった私を横に綾香さんは、寒がり人形に片手で銃口を向けると――。

 パン!

 たった一発で寒がり人形の顔を撃ち抜いた。だけど、人形はその場に力無く頽れただけで、血のような液体も蟲みたいにのたうつこともしなかった。

「ただの人形……!?」

 その事実に誰よりも驚愕したのは綾香さんだ。弾倉を引き抜いた時点で素人でもわかる。もう弾が無いってことを。それでも、

「綾さん、脅しにはなりますよ……!」

 十四年式を棄てようとした綾香さんの手を瑠偉が慌てて止めた。玄関にはまだ二体の球体関節人形がいることを見越してのことなんだと思う。

 骸骨みたいに細い四肢を四方八方に散らしている気味の悪い寒がり人形の横を抜けて、私たちはようやく玄関前廊下に飛び込んだ。

 ドアの真向かいにある十文字さんの部屋からも、二階へ通じる階段も、控えの間からも炎がゼリーみたいに飛び出し、私たちを迎えるように黒煙の雄叫びをあげている。だけど、その中でも一際目立つ光が廊下にはあった。

「あれが……出口?」

 瑠偉が慎重に吐き出したその言葉に、私たちは玄関の両引き戸があった場所で煌々と輝きながら雪のような粒子を散らすゲイトのような輪を見た。

「出口なら……帰ることが出来るんですよね……」

「ジュン……私……」

 脱出出来る。その事実がみんなの心を救い、私にも安堵の疲労感が押し寄せて来た。四人の犠牲を出したけど、私たちは現実という世界に帰ることが出来るんだと歩き出し――。

「動くな、屑共……!」

 その邪悪な声に私たちは振り返った。バネみたいに身体を震わせた先にいたのは、禍津と言うのに相応しい笑みを浮かべた高神ありすだ。京堂さんに貫かれた風穴からは血のような液体が溢れているけど、何よりも私たちを戦慄させたのは、辛うじて原型を保っている血走った左目じゃなく、割れた仮面の下から覗くウジ虫のような触手と焼け落ちたような肌とぶら下がる肉片のような欠片だ。

「そうか……その先が出口なわけか……! ようやくこの腐った舞台から解放される……」

 落ち着かない左目と引きつる狂笑と触手を連れたまま、ありすは私たちに近付いて来る。

「……動かないで!」

 綾香さんはありすへ銃口を向ける。だけど、その手も全身も安堵から垂れ出た疲労感の所為で定まらない。

「あらぁ……そんな陳腐な銃で勝負する気?」

「上等……明夫が繋いでくれた家族の命……あんたみたいな輩に渡すわけいかない」

「ふふ……ブラフじゃないのぉ? 十四年式の八発なんて……実戦じゃあっという間に撃ち尽くしちゃうのが常よねぇ?」

「試してみる……?」

「お先にどうぞ。その生意気そうなツラが……私への恐怖で歪むのが見たいから――」

「……いいえ、あなたに抱くのは憐れみです」

 私は綾香さんを庇うようにして前に出た。

「憐れみ? あなたに同情されるの? この私が?」

「あなたがどうして本家を燃やしたのかはわからないけど……今のあなたを見ていたら、あの時の業火で死んだほうが良かったのかもしれないとさえ思う……」

「ふん。ずいぶんな言い方ね」

 その口調は明らかに京堂さんの言い方を真似している。眉を顰める綾香さんを一瞥もせずに、ありすは私だけを見据える。すると、突然口を歪めて銃口を向けてきた。

「そうね、焼け死んでいたほうが幸せだったかもね。それか……警察と一戦交えても楽しかったかもね。だけど……あんたみたいな傷物に同情されるなんてまっぴらなんだよ!!」

 補食動物みたいな笑みを浮かべたまま口調だけが怒号になったありす――の背後で燃え盛る炎と廊下の隙間で影が動いた。すぐにそれが何かを察した私たちは、出来る限りありすの注意を自分たちに向けさせるために動いた。

「私のは蔑んだ憐れみじゃない……。高神という呪いに囚われた人達に殺されてしまったあなたを想って心を痛めることは……」

「ふん。だったら代わってちょうだい。可哀想なんでしょ? このあたしが! 葵の手に引かれて逃げなきゃ……あんたはあの時に私が殺してやったのに」

 不意にありすの口元から笑みが消え――背後に迫っていた葵さんの躰を撃ち抜いた。頽れる葵さんを見て、ありすは聞こえよがしの溜め息を吐き落とした。

「ふふ……残念でした。私はお前らみたいな屑の思考が読めるんだよ!」

 ありすはそう怒鳴ると、葵さんの躰に三発もの銃弾を撃ち込んだ。だけど、苦痛の声をあげるだけで葵さんの躰はどこも砕けなかった。

「あんたらが教えてくれた。後ろにいる木偶人形のことをね」

 銃口を私へ戻し、ありすは右目の眼孔から垂れ出た触手のようなワイヤーを掴むと肉片と一緒にそれを引き千切った。ビチャ、という嫌な音が響き、瑠偉たちは後退りした。

「それにしても……私が可哀相、か。まぁ……あの世界は私に悲しみと苛立ちしかくれなかったから……可哀相というのは合ってるかもね」

 そう言ってありすは笑みを消した。その代わりに浮かぶのは、引き千切られたワイヤーが吐き出した血のような液体で染まった右頬と飛び散ったそれを血涙のように受け止めた左目だ。その様相が狂気の中に悲愴のような翳りを生んだ。

「ふふ……ふふふ……何で生まれてきちゃったのかなぁ……」

「えっ……?」

「何が……高神家のご令嬢様だ。そんなに上に立ちたいか……そんなに誰かを意識したいか……くだらない生き物の巣窟にいれば……心だって腐るんだよ……クソッタレが……!」

「あなたは……何がしたかったの……?」

 私は高神ありすを知らない。どんな人生を生きてここまで来たのか、どんな両親と、どんな人たちと過ごしてきたのかも知らない。だけど、思い出せたことが一つある。彼女が行方不明になった高神家炎上の当日、本家の両親は何もしていなかったことだ。

「そもそも……高神の血が全ての元兇なんだよ……こうなったのも……私が苦しんだのも……だから……」

 ガクン、と銃口と躰を落としたありすは、

「過去の妄執を求める悪い遺伝子は……根絶しないといけない!! 私が可哀相?! だったら……私の全てを救ってみせろよ! 解放させてみせろよ! 葛城佳奈ぁ――」

 そう叫びながら銃口を私に向け、その引き金が引かれそうになった瞬間――。

 バン! バン! バァン!!

 私たちの背後から飛び込んで来た誰かが発砲した。ありすは葵さんに撃ち込んだのと同じ弾数で躰を貫かれた。そのうちの一発は肩の球体を砕き、右腕が炎の中に飛び込んだ。

 バン! バン!

 さらに二発の銃弾が躰を貫いた。液体が血みたいに噴き出し、バランスを保てなくなったありすは背後に迫っていた炎の中に倒れた。高神ありすは炎の中へ消えた。それを確かめるように立ち上がったその人は、拳銃を構えたまま炎へ近付き、私たちへ振り返った。

『佳奈ちゃん、お母さんに頼まれて捜しに来たよ』

「えっ……お母……さん?」

 私を一心に見据えて来るのは、警察の制服を来た男の人――。


 佳奈ちゃん、来年も遊びにおいで。もちろん、茉奈ちゃんもだよ?

 初めまして、お名前は? 

 お兄さんはこの人形峠に駐在しているお巡りさんの相澤猛だよ、よろしくね。

 大きくなったらーたけるお兄さんと……けっこんするのー。

 はは! それじゃあ、佳奈ちゃんと茉奈ちゃんが大きくなるまで楽しみに待っているよ。


「相澤……相澤猛……さん?」

 私の目の前に立つその人は――幼い頃に想いを寄せていた相澤猛さんだ。瑠璃島へお父さんが顔を出しに行くたびに駐在所に寄っていたのに、私はどうして忘れて――。

『葵さんなら大丈夫。彼女は全ての始まりの人形だから……死ぬことはないんだよ』

 葵さんのことを知っていて、あの時から変わっていない優しい顔立ち――私はそれで全てを察し、そして思い出した。

「猛さん……私……」

『君の所為じゃない。大切な人を守れたんだから……警察官として胸を張れる最期さ』

 相澤さんはそう言うと、あの頃のように私の頭を撫でてくれた。だけど、変わらない優しい笑みを浮かべたまま、その姿がノイズみたいに揺らいだ。

「待って……猛さん、待って……!」

 咄嗟に伸ばした手――それをすり抜けて、相澤さんは静かに消えていった。伸ばした手は虚を掴み、そこに相澤さんはいない。もう……それは過去になったんだ。

「相澤さん……助けてくれて……ありがとう……」

 縋ろうとした手を止めて、私は今を生きているみんなへ振り返った――その時、屋敷全体が大きく揺れた。あちこちから断末魔みたいな叫びが轟き、天井からは軋むような音が迫りつつあった。

「これ……もう崩れるじゃん……! 桜……!!」

 瑠偉の叫びに応え、私は彼女の腕を掴んで走った。動かない左右の人形を無視し、煌々のゲイトへ近付いた。そのゲイトの先は、例えるなら雪が降る真っ白の洞窟に近くて、そこ以外の外側にはノイズみたいに揺らぐ白紙の壁が広がっている。

 先にゲイトへ近付いた西条さんと綾香さんはそこへ飛び込むことを躊躇ったけど、背後から迫る地響きを見て、戻れない光景を見て――二人はゲイトへ飛び込んだ。二人は白の洞窟へ吸い込まれるように落ちて、私たちにはもう見えなくなった。

「桜、満を私に。もし向こうが地面なら三人同時はまずいから……」

 私は満君を任せ、その容態を見た。彼の顔色はいつの間にか悪くなっていて、今にも気を失ってしまいそうに見える。

「満……死なないでね」

 現世に戻ったら彼を背負って病院に運ぶつもりだ。それだけの恩がある。

「行こう……!」

 瑠偉の号令に頷き、私は最後に振り返った。

 燃える廊下に動く影はない。

「葵さん……螢さん……ありがとう」

 私は振り返らずに白の洞窟へ飛び込んだ。



「逃がさない……全員……」

 私は上半身を微かに起こした。躰のあちこちには炎が絡み付き、焼かれた部分からは液体が溢れ、皮膚は黒く変貌している。

 狭間に閉じ込められた半端な幽霊の思考は読めず、あろう事か直撃を受けてしまった。その幽霊によって貫かれた躰を起こすことは並大抵のことではなく、私は狙いも儘ならない左手で葛城佳奈に狙いを集中させた。葛城佳奈を撃ち、自分の代わりを用意する。その後に全員を撃つ。私は台本通りになんて動かない。だから……誰も逃がしはしない――。

「いいえ、あなたの行動は全て……台本通りよ」

 忌々しい声がした。隣の炎の中から現れた葵が九ミリ拳銃を掴んだ。

「この……! 人形のくせに……どうして人間の肩を持つ!」

「……待ってるの。私や……入れ代わる前のあなたたちを生んだ父様と母様を……!」

「それなら永遠に待ってろ……! 私には……待ってる人なんていない! 放せ!!」

 私は忌々しい葵の手を振り払う。そうこうしている内に二人が逃げてしまった。残っているのは三人しかいない。葛城佳奈の背中に狙いを定める。しかし、銃口が揺らいで狙いが定まらない。葵の手が何度も妨害し、私はその手を振り払おうともがく。

「させない……!」

「くっ……!」

 炎が頬を焼く。必死に三人の思考を辿るが、何かの妨害で居場所がわからず――。

「そんな……そんなバカなぁ!!」

 三人の気配が消えた。もう屋敷のどこにも存在しない。

「ちっ……ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーー!!!!」


 その怨言を掻き消すかのように天井が崩れ――二体の人形の意識を闇が奪い去った。

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