第零幕 白濁の記憶

 唄声が聞こえた気がした。

 忽然と、刹那的に、過ぎ去るように、私の耳を横切ったそれは、まるでこの白濁の海にたゆたう行き場のない魂たちの慟哭にも聞こえる物哀しい唄声だった。

 私はクレバスの歩みを止めて、その場で耳をすませてみた。

 東雲に戦く灰色の空より天降る白の落とし子。水面から突き出し、挟霧のベールを纏う沈黙の木々。そのどこからも唄声を齎すものは見当たらない。風の動きはなく、黒い人影も蠢くけれど、唄う理由はどこにもない。だとしたら、その唄声の主は一人しかいない。

 聞きおぼえのある唄と声に私の心は微かに揺れる。『忘れないで』と、縋られているような気持ちになるけれど、それは〝彼女〟への冒涜だし裏切りだから、私は聴き入れたい気持ちを抑えつつも振り返り――肩越しに聞こえて来た足音に、それすら咎められた気がして、雲散霧消に任せて背中を向けた。

 ここはもうお前のいる場所じゃないよ、早くお帰り。

 そう告げるかのように、逸らした視線の彼方には東雲が告げる私の世界がある。夜の帳を裂き、新たな世界と住人たちの息吹を確かにしてくれる旭日の威光が、白濁の海底までも照らし出そうとしている。

 その威光から逃げ出すように、黒い影たちは古い衣を脱ぎ捨てた木々や剥き出しの岩肌に溶け込んでいった。これからは命あるモノの時間だ。命なきモノたちを追い立てるかのように、東雲を連れて来た冷たい風は白濁の海を揺らし、私の頬にも命の証を突き立てた。

 足音に続いて齎されたその痛みも、『振り返るな』と告げているような気がして、私はただ、その場に立ち尽くした。だけど、それが過去の渇望への警告だとしたら、この痛みにすら反発していたかもしれない。何故なら、私はここへ振り返りに来たわけじゃない。過ぎ去ったどうしようもないことへの哀れな渇望を抱いているわけでもない。


 私がここへ来た理由は、過去への追悼だ。


 追悼の言葉がなくても、こうして訪れるだけでも〝彼らの存在〟と〝彼らが生きていた〟ことを証明出来る気がするし、失くしていい記憶にしたくないからこうして過去を偲ぶ。

 目を閉じて浮かぶ彼らの姿はまだ鮮明で、私が知る全ての出来事を思い返すことだって出来る。待ち望んだこと、望み掴もうとしたこと、掴めたこと、失ったこと、奪われたこと、その全てが私たちにも彼らにも押し付けられたあの光景も……。

 私は自分の右頬に触れ、そこに刻まれた命あるゆえの痛みを確かめながら、まだ微かに降り続けている白の落とし子たちの哀歌に耳を傾けた。


 誰が生めと頼んだ……誰がこの命を望んだ……誰が永遠を願った……誰が限りある命を願った……誰が定められた滅びを願った……。


 その悲痛な叫びを受け止めてくれる存在はもういない。望む、望まないに関わらず生み落とされた命の末路は一つの定めに収束される。その間に、自らの存在意義を選ぶことも見つけることも出来なかった命の末路は悲惨でしかない。ただ出来たから、という理由で生み出され、殺されてしまう幼い命と同じだ。

 その命に対し、私は追悼として唄声に応えた。

 その唄はとあるクラシックのカバー曲。歌手でもあった母が小さい頃の私に子守唄として聴かせてくれた思い出の曲。子供が遠い国の母に呼びかける唄。その唄が彼女の慰めになれていたかどうかはわからないけど、こうして応えることで少しでも慰められたら、と思う。足下に横たわるモノにも……。

 落とし子たちに包まれるようにして横たわるモノ――それは人間を精巧に模した機巧人形。この山の名称にもなり、創造主による神への挑戦か冒涜か、或はその二つを望む望まないにも関わらず背負わされた哀れな機巧人形だ。

 それでも、この足下の機巧人形は恵まれているんだろう。人間と同じ死の道を緩やかに進み、自らの終わりを待っている。見上げる瞳には歓喜の光さえあるように見える。

 その場に屈み込んだ私は、一心に見据える蒼の瞳を眠らせ、朽ちた躰を呑み込もうとする雪を払った。名も知らぬ機巧人形に衣服はなく、躰のあちこちには亀裂と腐蝕が見えた。その所為で折れたのだろう、右足首から下が見当たらない。

「あなたもようやく解放されるのね……」

 当然、機巧人形は何も答えない。ただ黙って、終わりを待っているだけだ。

 その機巧人形を見て、私は〝とある人物〟が望み得ようとした永久を思った。命ある全てに定められた死という約束を拒んだ末に得られるのは幸せなんかじゃない。それをこの機巧人形は物語る。人間にも機巧人形にも永久は過ぎた願いだということを……。

 だけど、死への渇望を抱き過ぎる生き物も欠陥品だ。死への恐怖を感じ取れないから自分の命に関心を持てないし、引き止めるもの(肉体的快楽と物欲や食欲だろうか)をほしがらなくなるのは、もう死に片足を踏み込んでいると言っても過言じゃないんだと思う。 

 それでも、誰だって死へ憧れにも似た感情を抱いている。前向きか後ろ向きかという問題に過ぎないけれど、私は前向きだった。今思えば、生きているという実感が欠落していたんだと思う。零落の名残によって縛られた残人たちの嘆きに包まれたあの時から。

 私は人形からも、遍く旭光からも離れ、そびえ立つ黒焦げの木柱に触れた。

 私の周囲には黒焦げた建造物の一部が、水面から手を伸ばす巨木のように天を仰いでいる。その巨木の手を辿り、翳りゆく綺羅星を仰いだ。

 全ては偶然ではなく、定めの因縁とも言える出会いと別れ。甦る記憶と役者たち――。

『誰が生めと頼んだ』この悲痛な叫びを、胸に、魂に、抱いたまま解放を望んだ彼らが起こした事件のことを偲ぶ。

 あれから六年の月日が経った。

 たったの六年なのか、長過ぎた六年なのか、それは個々に委ねられた体感時間が決めることだろう。だけど、世界と人々は六年の月日で目まぐるしく変わる。世界情勢、時代情勢、個人情勢……進化しているのか退化しているのかわからない世界において、この峠と山だけは何一つ変わることなくこの場所に存在し続けている。

 再び風が頬を切り付けた。

 その冷たい風に応えるようにして、周囲の木々は唄い始めた。その風のメロディーをなぞった先に聳える旭日は美しい。

 自らの腕に触れる温もりを感じながら、あの日の光景をなぞる。


 二0一一年十二月――。


 今と同じ、白銀の〝機巧山からくりやま〟と〝人形峠にんぎょうとうげ〟で、私たちは彼らに出会った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る