第壱幕 見知らぬ呼び聲
あぁ……口惜しい……。
あぁ……口惜しい……どうして……あなた様は見つけてくださらないのでしょう……。
あぁ……私は……ここであなたをお待ちしております……。
あぁ……口惜しい――。
口惜しい……?
誰かにそう囁かれた気がして、私は目を開けた。
違和感を抱かなくなった天井板。優しい毛布に包まれた自分。カーテンから漏れる朝の香り。堂々とデスクトップパソコンが鎮座する勉強机。年頃の女の子、というイメージを無にする殺風景な部屋。これが今の私の部屋だ。
見知らぬ天井ではなくなった現状に安堵しつつも、いつかこの生活が終わってしまうんじゃないかという不安はまだある。毛布を連れて上半身を起こし、布団の横に置いている携帯電話を掴んだ。
時刻は五時五分前。
いつもの目覚めを促してくれるクラシック……というわけじゃないけど、大好きな雅楽をアラーム音に設定している。お正月にテレビで流れる音楽だと言えばわからない人はいないだろう。
起動前のアラームを止め、畳んだ布団を押し入れに片付け、枕元に畳んでおいた長襦袢をパジャマの上に羽織って部屋を後にする。
そっと襖を開け、L字の木造廊下を覗き込んでみる。相も変わらずこの時間に廊下へ顔を出すのは私だけだ。一人はまだ熟睡しているだろうし、もう一人は自室でパソコンとお見合い中だろう。また目が痛んでも心配してあげないことにしよう。
襖と廊下の境に置いておいたスリッパを履き、パタパタと一階の洗面所へ向かう。ここは三階だから、移動が面倒だと思うことはあるけど、トイレが各階にあるのは凄く助かってる。一つだけだと朝なんて大変なんだから。
誰もいない二階と一階の階段を下り、その横にある洗面所で寝起きの支度が始まる。歯を磨き、洗顔し、乱れた寝癖を整える。大きな鏡に映るのは、美人なのか醜女なのかわからない中途半端な顔と気弱さを主張する下がり眉を与えられた私だ。
薔薇色の高校生活を謳歌する十七歳――という肩書きとは程遠い感じが顔からも滲み出ている。こっちの高校に入ってから出来た友達からもそれは指摘されているし、同居人からも同じ指摘を受けている。だけど、何が薔薇色かは私が決めます。
生きていた時のお母さんが買ってくれた大切な水引の髪飾りを最後に付けて、寝起きの支度は終わりを迎える。その後に行くのは二階のリビングだ。
また階段を上がって二階のL字廊下へ向かう。目的地のリビングがあるのはその廊下の最奥だ。たま〜に朝から同居人の一人がゲームをしていることがあるけど、今日はいないことがわかっていた。
ドアを開け、雨戸に覆われた四つの窓を真っ先に開ける。ソファーセット、薄くて大きなテレビに繋がるゲーム、共用の本とDVDの棚、それらを抜けて雨戸を退けると、沈黙していたリビングにも夜明けと鳥の鳴き声が届いた。命ある場所だと実感出来るから朝は好きだ。
まだ道行く人の姿も少ない道路を足下に、私は向かい側にある平屋の空き家や小さなマンション、団地の彼方に広がる山々の頂を見据えながら深呼吸した。お察しの通り、ここは東京でも神奈川でもない。ちょっとした地方に私は住んでいる。
狭い都会と汚い空気に辟易していたから、ここに来れたことは素直に嬉しい。私たちが転がり込むことを嫌がっていた親戚とも、他者の不幸ばかりに熱心な世間からの悪意ともお別れ出来たんだから尚更だ。そのうち骨董品扱いされるかもしれない携帯電話がその証拠。
朝日に映える頂を少し見つめた後は、網戸にしてキッチンへ向かう。
この家の持ち主を除いて一人の同居人の食生活はもう悲惨なもので、私がこうして朝からご飯の支度とか洗濯をしないとすぐに魔窟になってしまう。さっとたすき掛けと前掛けをして、大きな冷蔵庫から朝餉に使う食材を取り出していく。
気持ち良く晴れてくれた今日の朝餉は、ザ・和食の白飯とお味噌汁と焼き魚とサラダが予定されている。横にした鰺のゼイゴ、エラ、内蔵を取り除き、表と裏に斜めの切り込みを入れて塩をふりかけまぶし、二つあるガス台のグリルに並べて中火で六分。その間にお味噌汁へ大根と大根の葉を、同じく細切りにした油揚げたちを投入。それに合わせて炊けたご飯は潰さないようにしゃもじを操ってほぐしながらお櫃に移し、簡素なサラダは大きなお皿に彩りを考えながら乗せて冷蔵庫で冷やしておく。
こうして朝餉の用意をしている間に日はますます昇り、リビング全体が照明なんていらないほどになる。これが気持ち良くて、早起きしている理由の一つでもある。
そんな朝日を受けながら、香り立つ味噌汁をそれぞれの器に注ぎ、香ばしさを纏った鰺を食器へ誘い、大皿のサラダに付き添う小皿を用意する。すると、
「おはよう」
「あっ……おはよう」
いつの間に起きて来たんだろう。
リビングの入り口に立っているのは、私の片割れにして同じ顔付きをした兄、
「海、ちゃんと寝てる?」
「えっ? うん……寝てる、よ」
朝から何だろう。そう思って空を見たけど、ハッキリと見据えてくるその瞳に対し、私は慌てて目をそらした。
「ほんと? ネットゲームは面白いと思うけど、大事なのは自分の時間だから」
「う……うん。わかってる……よ」
いつからか、片割れの空に対して苦手意識――とは違う気持ちが私にはあった。空の癖なのかどうかはわからないけど、ああして一心に見据えられると心が痛くて辛い。心を見透かされているような気がするから、いつもこうして目をそらしている。
「これ、運ぶよ」
空はカウンターに乗せていた食器たちを年期が入ったテーブルに運んでいく。その脇には新聞が挟まっていて、私がよく顔を出しているスーパーのチラシがちらりと見えた。後でチェックしておかないと……。
「あっ……
「部屋にいる。ここに来るかどうかはわからないけど」
「もう……またネトゲか……」
ちゃんと寝ているか、と空が訊いてきた理由はそれだ。もう一人の同居人にして、先にこの家に住んでいた
「先に食べてて。連れて来るから」
「わかった」
日曜日のお父さんかおじさんみたいに新聞を呼んでいる空を一瞥し、私はリビングを出て三階に駆け上がった。
美穂が使っているのは三階の一番手前にある洋室で、ドアには立ち入り禁止を告げる般若のお面が付けられているけど、そんなのは無視してドアを叩いてから開けた。
「美穂! 朝ご飯出来てるよ!」
暗闇の住人は、私の大声とほぼ同時に「ピギャッ!」という悲鳴をあげた。何かが落ちる音と一緒に闇の中を影が蠢く。私はそれを気にせず、カーテンを開けて闇払いをした。
「ちょ……! おかん! この距離で太陽の拳は――」
「私は美穂のおかんじゃないよ。後で温めるのが嫌なら今食べて」
溶けるぅ、と朝日を拒むのは、上下ジャージのままベッドの隅に埋まった美穂だ。大きな丸眼鏡とぼさぼさの髪が主張しているように引きこもりだ。
「せめてノックしておくれ……恥ずかしい光景と出会したらどうするつもりだ……」
「女同士で何言ってんの。それに起きて来ない美穂が悪いよ。勝手に部屋に入ってほしくないならちゃんと起きて来てよ」
「うぅ……おかんよ、部屋に入るなとは一言も言っていない……ノックしないと驚く、ということを言っているのだよ……」
「いいから、ほら! 支度したらリビングね。洗濯物があるならカゴに入れておいて」
見た目は引きこもりだけど、黒髪を所々紅色に染めているように、彼女は別に自己主張が出来ないわけでも、人付き合いが苦手というわけでもない。
虹色に輝いていたキーボード、私もやっているネットゲームを映すパソコンとモニター、秘密基地みたいなその部屋を後にし、リビングへ戻った。
「美穂、起きてた?」
「うん。起こして来た」
空はもう読み終えたようで、畳まれた新聞が私の方へ置かれている。世界情勢も世間のこともそこまで興味はないけど、何一つ知らない世間知らずじゃ後々困ることもある、と言われたから、私も朝は目を通している。
「あっ……また行方不明者が出たんだ」
パサリと新聞を広げると、見出しの横に日本中を騒がせている行方不明事件の記事があった。詳しいことは知らないけど、確か二年前からこうして騒がれるようになった気がする。記事に目を通してみると、警察でもお手上げみたいだ。何しろ現代の神隠しなんて言われているんだから。
「その事件、今月は三人目らしい。明日は休みだから、
「えっ……空……この事件に関わるの?」
「付き合えば瑞樹さんがアルバイト代の上乗せをしてくれるって」
「あの人ギャンブル狂いでしょ……? またパチンコで三倍にして……とか言うんじゃないの?」
お父さんとお母さんがいない高校生に三十過ぎの社会人が金を無心してくるなんて聞いたことがない。というか、そもそも金を無心してくるような人にろくな金銭感覚なんてないだろう。こっちは家計簿だってつけているのに。
「まぁ……瑞樹さんの趣味に関してはどうでもいいよ。とりあえず、未来の就職先とコネ作りに集中した方がいいから」
「そうだけど……」
「海、二人で生きてくなら……やることはやらないと」
空はそう言って私のことを見据えた。もう……その瞳が苦手だってわかってるくせに……。
「はいはい、お二人さん……朝から同居人の前でニャンニャンしないでくださいな」
「ニャンニャンしてないって……」
「どうかなぁ〜」
眼鏡の下に意地の悪い笑みを浮かべながら、美穂はドスン、とイスに腰を下ろした。
「それより、洗濯物は? もう洗濯するよ」
「入れましたよ〜」
いただきます、と味噌汁から手を出した美穂は、
「はぁ〜……やっぱり朝からいただく人間らしい食事は美味しいねぇ〜」
「作ってもらったものは何でも美味しいでしょ。空、食器はいいよ。こっちで片付けておくから。今日もバスケ部に顔を出すんでしょ?」
「一応は」
「ソラさ〜部員じゃないのに部活勧誘祭なんかに出んの〜?」
それに対して頷いた空は、食器を置いてリビングから出て行った。
「あの容姿で運動神経も良く、成績も優秀ときたら……人間関係が面倒臭そうだね」
「まぁ……美穂ならそうだろうけどね」
美穂なら面倒だ、の一言で片付けられそうだけど、片割れに圧倒されるともう片方は色んな意味で肩身が狭くなる。そんなでもお母さんとお父さんは平等に愛してくれたから良かった。
「美穂も食べたら食器を水に浸しといてよ? 洗濯してくるから」
一番遅く来て、一番のんびりと食べている美穂を置いてリビングから出た。次に待っているのは洗濯だ。家主にして私たちが住むことを受け入れてくれた
また一階に下りて洗面所にある二台の洗濯機を起こす。自分と空と美穂の分をまとめて洗い、ゴウン、ゴウンと動いている間にチラシで値段のチェックと献立問答――それを一週間分も考えていれば洗濯はあっという間に終わり、洗濯カゴを持ってL字廊下の先端へ向かう。
由乃さんの部屋、襖で閉め切られた座敷を横目に私は先端にある木目のドアへ近付き、その横にある小さなアルミの格子ドアを開けた。私の腰ほどの位置にあるそれは荷物運搬用の小型エレベーターで、階段を使わずに運びたいものとか洗濯カゴを運ぶために設置されているものだ。洗濯カゴを中に入れて、三階と表記されたボタンを押した。
そうして私は階段を上がり、自分たちの部屋の前を通って奥の倉庫前にあるエレベーターから洗濯カゴを取り出した。その後は階段を上がって屋上に出る。そこは私のお気に入りの場所でもあり、洗濯以外にもよく顔を出している。
背の高い柵に囲まれた屋上でみんなの洗濯物を干物にしていく。それが終わったら、今度は由乃さんが大事にしているちょっとした植物園の植物たちに水をあげていく。専用のプランターに並ぶ植物たちの見た目にも異変はなさそうで一安心だ。
その後はリビングに戻って食器を洗い、朝の家事は終わりだ。自分の部屋に戻ってブレザーに着替え、前日に準備しておいたバッグを連れて部屋を出る頃にはもう七時五十分だ。
「行ってくるから! もしも雨が降ったら洗濯物はしまっておいてよ?」
「いてら〜」
般若越しに返って来た美穂の声を聞き、階段を下りて一階の玄関へ向かう。空の方はもうとっくに家を出ており、いつものローファーを踏み締めて玄関を出た。そのままガチャリと施錠し、柊由乃邸を後にした。
今から二年前――つまり私と空が中学三年生の時、お母さんと知り合いだった由乃さんが私たちをこっちへ誘ってくれた。その場所は地方都市の閑静なエリアで、私と空は盥回しで慣れていた転校をさっさと終わらせて、今の高校に二人で通っている。
高校には徒歩で行ける。自転車でも良いんだけど、急ぐ必要もないから基本的には徒歩だ。毎年四月になれば桜吹雪の聖地になる有名な道を散歩の気持ちで歩き、有名な赤い炭酸飲料の看板を掲げる古田商店という駄菓子屋さん、ハンバーガーとかうどんとかを売っている古びた自動販売機、コンビニ風の個人商店、田んぼと日本家屋と新興住宅の間を抜けると、次第にブレザー姿の生徒が増えてくる。
「オハヨー!」
「課題やってきた?」
「土日休みを使ってキャンプ行かねぇ?」
次第に通学路も騒がしくなり、私は前をダラダラと歩いている女子生徒の一団を見て、そっと道を外れた。
何の変哲も無い街路樹に街灯、ブロック塀で囲んだ住宅、ガードレールとその横を行き交う車の排気ガス……大きな国道に近付いたからか、こっちの方は車の音が騒がしいみたいだ。頼りないガードレールに守られながら歩き、電柱の陰に立つバス停に並んでいる人たちの横を抜けた時――歩道側へ大きく歪んだガードレールに出会した。
「っ……!」
加えてそのガードレールの足下にはゴミになりかけている花束が横たわっていて、思わず立ち止まってしまった。もう七年も前のことなのに、交通事故に関するニュースも花束もその残骸にも慣れることはなさそうだ。それともう一つ……慣れないものがそこにはあった。
「…………」
私は気付いていない。死にかけた花束の手前に――片目だけがハッキリと浮かび上がる黒い影が立っていることなんて。だから気付かないでそのまま横を通り抜けた。関わったら命も時間も浪費することになるからそれが一番正しい対処法だ。だけど、
……だ……たい……。
その黒い影の横を通り過ぎた時、明らかにこっちへ囁いてきた。反射的に振り返りそうになった身体を押さえ付け、そのまま道を曲がろうとしたけど、黒い影も私へ視線を送りつけたまま動き始めた。道を曲がり、他の通勤者や同じ学生の間を抜けたけど、それでも黒い影は私の背中を追いかけて来た。
「はぁ……」
このまま学校にまで付いて来るつもりだと察し、私は携帯電話を確認するポーズでガードレールに腰掛けた。それに対して黒い影はズケズケと私に近付き、
「それ以上……近付いたら話なんて聞いてやらないよ」
そう告げると、黒い影は意外にも大人しく立ち止まった。
「先に言っておくけど、あんたさんを成仏させるなんて大層なことは出来ないからね」
…………。
「何黙ってんの。あんたが勝手に付いて来たんでしょ?」
それでも黒い影は私を見ているだけで何も言わない。こういう輩に弱気は得策じゃないことを由乃さんから教えられている。
「あんたは死んでんの……交通事故で。あの献花ならまだ見えてんでしょ? そこに戻って自分が死んだってことに納得してきな。そしたらきっと……次に行ける」
そう言ってやると、黒い影は片目を細めて、静かに、ゆっくりと来た道を戻って行った。その動きを私以外の人たちは気付いてもいない。あの黒い影が本当に上がれるかどうかはわからないけど、自分が死んだことに納得出来たなら少しは変化があるかもしれない。
次からはここを通らないようにしよう。そう頷いた私は早足で通学の学生に戻った。
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