05:今日、残業を頼めるかい?

 終業時間のチャイムが鳴り皆が帰宅を始める頃、井上課長が申し訳なさそうに私の元へとやってきた。


「狩谷くん、すまないね。急に残業を頼んでしまって」

「構いません。どうせ家に帰っても一人ですから」

「いつもありがとう。遅くても7時までにしよう。急ぎではあるけれど終わらない分は明日でいいから」


 今日はこれから課長以上の役職の人たちは管理職飲み会で、管理職が不在となるのと、勤怠締め日のため全員が定時退社を推奨されたのだが、他に鈴木と佐藤の二人も課長に頼まれて残業するようだった。


「おっ、井上くん。今日は隣の席だったよね」

「これは池崎部長、お疲れ様でございます。大変申し訳ございません、私も楽しみにしていたのですがどうしても急ぎの仕事が入り、部下たちと今日は残業となってしまいました」

「そうなのかい? 連絡は受けていないけど」

「3時ごろにメールを入れさせていただいたのですが……」


 池崎部長と井上課長、二人の仲は決して悪くはない。だが、池崎部長が泣き上戸の飲兵衛であり井上課長が下戸で池崎部長を宥める係をいつもしているので、フォローに入る私たちがいない管理職飲み会では、一番下の役職である井上課長がずっと付き添わなければならないので行きたくないというのを私たちは知っていた。


「悪いね、さっきまで会議でメールは見ていないんだ。明日、確認させてもらうよ」

「よろしくお願いします。急なキャンセルでしたので私の食事は皆さんでどうぞ。隣の席の役得ということで部長の好きなノドグロはお譲りしますよ」

「そうかい? ではありがたくいただくとしよう。君の分まで楽しんでくるが、またの機会を楽しみにしているよ」


 池崎部長が去り、休憩時間も終えて私たちは残業を開始した。内容は、まあ急ぎではあるが特別なものではなく、問題なく作業は進み残業時間が過ぎていく。そして夜の7時になり私たちはすぐに帰宅準備を始めた。


「狩谷くん、この後いいかい?」

「ええ、もちろん。今夜もご馳走になります」

「はっはっは、といってもいつものラーメン屋だけどね。私は戸締りをしてから行くから二人と先に行っていてくれ」


 井上さんからの誘いを受け仕事からプレイベートへと気持ちを切り替る。そして鈴木と佐藤と共に小さないつものラーメン屋へと向かった。


「あ、狩谷さん。お疲れさまです」

「お疲れさん、佐藤もお疲れ。どうだ? 転籍してきてそろそろ2年だろ、もう慣れたか?」

「皆さんいい人ですからね。仕事にも人にも慣れましたよ」

「ははは、この部署は一癖も二癖もあるだろ? 特に井上さんとか」

「ええ、そうですね。飲み会に行きたくないからって協力会社の人を使って仕事を急ぎにしてもらうとか相当ですよね」


 井上さんが来るまで男三人で店の入り口近くで駄弁る。佐藤もこうやって何度かラーメンを一緒に食べて随分と打ち解けた。最初に誘ったのは井上さんで、管理職飲み会を定期的にこうやって残業と現場の親睦を深めると言う名目でサボっていた。


「あの人はしっかりしているようで大きな子供のような面もあるからな、時たま大ドジをするから気を付けておいてくれ―――っと、今のは内緒な」

「お待たせ。悪いね、急に残業をさせてしまって」

「いえいえ、管理者飲み会があると聞いて覚悟はしていましたし」

「狩谷くんもいうね~。さすがに毎回とはいかないがたまにくらい私もサボりたいんだよ。っと、続きは中で話そうか」


 全員分のラーメンの食券を井上さんが購入し渡してくれたが、鈴木が「俺、チャーシュー2枚追加で」と騒ぐ。しょうがないなぁと言いながらも井上さんは私たちの分まで追加で奢ってくれた。


「けど僕らだけ奢ってもらっていいんですか?」

「他の人たちはどうしてもでなければ早く帰りたいと言っているからね。それに、一応は毎回、声をかけてはいるんだよ」

「それはそうと井上さん、あんまり中田さんからの急な仕事ばかりだとそろそろサボってるのがバレますよ?」

「井上さんってしっかりしてるようでたまに抜けてるからなー」


 仕事のことからプレイベートのことまでラーメンを食べながら緩く話す。鈴木は若いがなかなかに言うやつだ。正直、私も思ってはいるがそこまではっきりとは言えなかった。


「今月は残業だけじゃなくて休日出勤もあってけっこうみんな時間外やりましたよねー」

「44.75時間とかうまいこと井上さんなら調整してくれたんじゃないですか?」


 36協定で意識される月の残業45時間の壁、その話題になって井上さんの表情が何故かどんどん曇っていく。


「あの、どうかされましたか?」

「……すまん、そのはずだったんだが今日は残業0で計算していたから越えてしまった」

「いや、さすがに飲み会に行きたくないからってそれは……」


 そのあまりにもあんまりなやらかしに私たちは三人で顔を見合わせる。


「「「子どもか! このおバカ上司!」」」


 声が揃った。けれど、そんな井上課長が私たちはとても好きだ。

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