第10話 事情聴取
春子は、リビングに立っている人たちに近寄っては頭を下げた。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。春子の知らない人達は、名刺を差し出し春子に挨拶を始めた。正夫が世話になっていたデイサービスの施設長、ヘルパーの伊藤さん、ケアマネ、正夫の両親、姉、二人の息子、そして警察官。名刺を貰いながら「すみません。」と、詫びながら頭を下げ続けた。
指揮官がやっと帰ってきたので、皆が安心した表情に変わった。春子は一刻も早く正夫に会いたいと思い二階へ行こうとした。すると、刑事ドラマに出てくるような二人組の太った刑事と細身の刑事が、春子を静止した。
「奥さんですか?」
「はい。」
「こちらに来て頂けますか?」
自分の家なのに刑事に主導権があった。店の奥にある楕円のテーブルに連れていかれ話を聞かれた。刑事は春子が高知から帰る前に、前日に来ていたヘルパーに事情聴取していた。春子の聞き取りの内容がヘルパーと一致したので事件性は無いと判断したようだった。すんなり正夫に会うことが出来た。この家に越してきてから、主に春子と良夫しか昇り降りしていなかった二階へと続く階段を、今日は何人が使ったのだろう。そんな事を思いながら階段の隅に溜まったホコリを指でかき取りながら二階へ上がった。
部屋に入ると、正夫の二番目の姉さんと両親と叔母夫婦が正夫を囲んで立っていた。正夫は急死だったためか、眠っている様に窓際に置かれたベッドに横たわっていた。
「今朝五時ごろ心筋梗塞で亡くなったらしいよ。」
春子の隣に立っていた正夫の姉里美が言った。冷たくなった正夫の傍に行って頬に触れるとザラザラした触感がした。髭が伸びていた。春子はいつもそうしていたように、ベッドサイドに置いていたシェービングを正夫の氷のような頬に着け、カミソリで髭を剃り始めた。それを見て姑の美佐子が言った。
「あまり剃らない方がいいよ。皮が剥けるよ。」
そう言われて春子は剃るのを止め正夫の顔をタオルで拭いた。乾いたタオルの繊維が、まだらに残った正夫のひげに引っ掛かって鈍い音を立てささくれだった。正夫のベッドを囲んで田中家の人々が無言で立ち尽くしていた。沈黙を終わらせたのは正夫の叔母だった。
「春子さん、お葬式しないといかんよ。」
春子は叔母の言葉に我に返った。
その後、葬儀屋に連絡し、通夜、葬式は正夫が愛してやまなかった田中家で行う事にした。誰かが知らせたのだろう。県外にいる姉から電話が掛かってきて甥や姪が揃うまで告別式を三日待つように言われ三日通夜をした。四月とは言え、三日間過ごした広い座敷は寒かったのを覚えている。良夫はその間、人の出入りが激しくても、正夫の傍を離れず、冷たい手を始終握っていた。
十三年前の語るに堪えない出来事も今となっては細かいところまで思い出せない程風化している。家族にとって劇的な最期だったが、何とか無事正夫を送ることが出来てよかった。
正夫が亡くなった時春子が留守だった事で、田中家の人々の春子への心証は地に落ちた。
正夫亡き後、長男の嫁は田中家に戻って正夫の両親を看るように言われたが、田中家が生活費を援助してくれるわけもなく、生活の為と、そのころ認知症が悪化していた房子の面倒を見る為に、実家の「こまち薬局」で、まだ引きこもっていた良夫と、認知症の房子と三人の暮らしが始まったのだ。
この話をお客さんや友達にすると「相当苦労したね。」と、皆口を揃えて同情してくれるが、色々な事があったこの二十年余り、ひたすら走り続けてきたので、辛いというより「よくやって来られたものだ。」と、言う思いの方が強い。
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