第2話マスクがない。

そんなある日、五年ほど前から処方箋を持って来てくれている竹内さんという男性が、お薬を取りに店に入ってきた途端、春子と従業員の木村さんを見て言った。

「二人ともマスク着けてないの?信じられん。戸を開けているから?二人とも美人だからや。」

 竹内さんは無表情で脾肉たっぷりに言った。

「すみません.マスクします。」

春子は、机の引き出しに入れていた貴重なマスクを着けた。

「ええんよ。そんな取って付けたみたいにしなくても。」

 竹内さんは不機嫌を露わにして言った。

「すみません。私マスク苦手なんですよ。」

春子はそう言い訳をしてもう一度謝った。今のご時世、マスクを着けていないのはどんな理由があっても許されないのだ。

それから春子は、自分と木村さんの為にマスクを調達しなければならなくなった。世間では皆がマスクを手作りし始めた。それに伴って今度はガーゼが売り切れた。隣の電気屋でも良く行く文房具屋でも手作りでマスクをカウンターに一枚五百円で並べていた。通常薬局で売っているガーゼやナイロンマスクは一枚百五十円程度だった。「ガーゼ売りよんやけん、作らんけん?」と、お客さんに言われたが、医療従事者として自分で作るにしても滅菌していないマスクを使う気にはならなった。政府支給の「安倍のマスク。」はなかなか配布されなかった。薬剤師会や保健所からマスク不足で困っている薬局には少量の支給があった。花粉症ではない春子はマスクをする事はなかったので少量の備蓄もあまり減らなかったが、この先いつまで続くかわからないコロナ騒動を無視できなくなってきた。

ネットで検索してみたが、通常価格のマスクは品切れで、手に入りそうなのは何千円もする物だけだった。「こまち薬局」で在庫していたマスクが底をつきかけた頃、今治市が災害用に備蓄していたマスクを希望する薬局に二十枚ずつ支給してくれた。今治薬剤師会に取りに行き恭しく受け取ると早速車の中で付けてみた。「プチッ」鈍い音を当てて、これ以上薄くならないという程薄い紙に付いた三ミリ幅の見るからに粗悪なマスクのビニール紐は無残に切れた。「マジ?」このマスク不足に未使用の紐の切れたマスクを捨てる気には到底なれず、何とか修繕を試みた。最初はゴム紐をミシンで縫い付けてみたが、不器用な春子の裁縫力ではあまりにも仕上がりが不細工でとても人前で着けられるような代物にはならなかった。ゴム紐を買いに行こうと思ったがどうせ品切れているだろうと思い、相当前に保険請求を紙でしていた頃に、書類を閉じる為に買っていた一生使えると勧められた一巻千円もする丈夫な紙紐を付けてみた。これが結構骨が折れる作業で、手が空いている時に四、五枚ずつ老眼鏡を掛けながら作った。時々目打ちで手を刺した。滲み出る血を拭き取りながら、「何でこんな事せないかんの?」と、哀しくなった。マスクや消毒液、体温計、ボタン電池、テレワーク用のカメラやマイク、手作りに転じたマスクの材料のガーゼやゴム紐、全て売り切れた。戦争が起きるとこんな感じなのだろうかと想像した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る