痛みを乞うほど好きでいたいのに

雛形 絢尊

第1話

 

  私は心底彼女に失望した。およそ一週間前のことだっただろうか。土曜日のこと。普段は何をしているのか定かではないが、しっかり家事をこなし、子供の面倒をし、午後には徒歩十数分の位置にあるスーパーマーケットで買い出しをし、夕飯を作る。いたって普通の主婦をしている彼女がその日、不審な動きをしたのだ。その日の私は後輩の代わりで職場に出向き、陰鬱とした気持であったが、案外仕事が落ち着いており、午後三時には退勤したのだった。

 東京都内の閑静な住宅街の中にある、一戸建てを二年前に購入し、その日も家路に帰る途中のことだ。時刻は午後四時を回り、普段車で通勤している私はもうあと一、二分で家にたどり着く。そう思った瞬間、我が家が見えてきた。安心感に駆られていると一台の車が家の真ん前に停めてあるのを見た。黒色の軽自動車だ。赤いランプが一定時間に点滅している。車は自分と同じ方向に停めており、不審なことだとは思わなかった。徐々に車に近づいていくと前方の車はブレーキを深く踏み、赤いランプで目がまぶしい。自分が後ろに着くと咄嗟に車が走り始めた。挨拶もしないのかと少しだけ苛々したが、疲れが溜まっていたのもあり、すぐに忘れた。車のエンジンを切り、外に出ると、夏特有のじめっとした空気が全身を覆う。玄関のドアに手をかけてみると鍵は開いていた。「ただいま」と声をかけると蛍光灯がついて白く光るリビングが見える。普段は扉が閉めているのが多く、少し気分が高揚した。リビングに向かうと、今年で五歳になる息子、汐音が先日買った玩具で一人遊びをしている。「おかえり」と汐音が言うと、私は汐音の頭を撫でた。キッチンの方に目を向けると、いつもより派手な服を着て、シンク周りを片付けている妻、愛香がこちらを見ている。

「ただいま」と彼女が言い、それとなく返す。

「そんな服持っていたのか」

 と彼女に問いかけると、

「随分前に買ったものよ」

 と何の変哲もない顔で言う。そこで問いただすのもよくないと思いながらも、

「さっきの車、誰の車?」

 と疑問を投げた。

「あれ、言わなかったっけ?古谷さんよ」

 古谷とは、愛香が主婦になる以前勤めていた会社の同僚の女性である。

 ふうんと声を漏らしながら納得するそぶりを見せる。だとしてもだ、私と面識のある古谷であれば、挨拶の一声くらいはあるはずだ。

 そのことを即座に言うと、気づかなかったんじゃないの?と言われ何も言えなくなった。

 これ以上聞かないと言い聞かせるように二階にある私の部屋に向かっていく。階段を一段一段踏みしめる音がうるさいくらいに頭に響く。部屋に着くと同時にきつく締まったネクタイを緩め、ベッドに横たわるように寝た。

窓の外には少しずつ夕陽が見えてきていた。


 目が覚めるといつの間にか辺りは真っ暗になっていて、少し疲れも取れたのでリビングに向かう階段を下りていく。

 リビングに隔てられたドアを開けると、息子の汐音が子供向けアニメのついたテレビを見ている。「ママは?」と汐音に聞くと

「お風呂」

 と答える。確かに風呂場からシャワーの音が聞こえる。そう安堵した私はリビングの机上にあったスマートフォンを手に取り、ソファに座る。夜には予定があるので風呂は入らないまま、リモコンでテレビの電源をつけた。

 

  2

 

 数日前、自動車を運転中事故に遭い、現在も週に3日ほど近所にある整形外科でリハビリを受けている。交差点で青信号になりアクセルを踏むと、赤信号を無視して直進してきた白のセダンに車もろとも破壊された。

 右の後部座席に衝突し、スピードもそれほど出ていないおかげで命に別状はないが、長年乗っていた車は廃車になってしまった。過失はなく、相手方も相応の対応をしてくれて、今は代車に乗っている。

 自宅に帰るとこの春、小学校2年生になる双子の娘、凛と香奈が庭で遊んでいる。ただいまと言うとおかえりと返してくれる。元気で活発で心が和む。玄関の扉を開けようとすると家の中から妻、鈴華が現れた。いつものようにただいまと言うとおかえりと優しい声が聞こえる。

「今日、早かったじゃない」

 そう鈴華が言う。

「最近晩飯一緒に食べれてないだろ?」

「あ、私今日夜出かけちゃうわ」

「そうか、言ってたっけ?」

「そうよ」

そうすると鈴華は何かを思い出したかのように家の中に戻った。

幼少の頃から極めて厳しい環境で育った上、家系上難関大学へ目指すようにと言われてきた、その結果を経て、大手企業に就職。上手いこと社会人一年目に結婚。その一年後には凛と香奈が生まれた。家庭の幸せのレールが鮮明に見えている。今こうして家族でいる時間を思えば、

厳しさの鎖に閉じ込められた日々もそれはそれでよかったと思う。

凛と香奈を外に残したまま、ネクタイを緩めながらリビングへ向かう。キッチンには鈴華がいる。

「夕飯はこれ暖めて食べてね」

鈴華は鍋の蓋を開ける。湯気が立つその食べ物はシチューだと分かった。柔らかい匂いが漂う。

「今日はリハビリ行かなくて平気なの?」

そう心配する鈴華に、

「明後日は早番だから明後日に行くよ」

と言った。

「あら、もう時間」と鈴華は小型のバッグを抱えて

「2人をよろしくね」と言って家を出た。


  3

 

 久しぶりに新しい服を買った。ママ友からは少し派手と言われる。今日私は初めて罪を犯した。夫に秘密で男とセックスをした。

 普段は主婦をしている。会社勤めの夫は大半家にはおらず、目を合わせてもここ最近は冷めたような関係にも見える。

 夫とはかれこれ2か月致していない。そのためか欲情を抑えきれずこんな昼間から鳴いた。ベッドが軋むたび罪悪感は消えていった。

 私と男はこんな話をした。肌身を隠さずシーツの上で。

「子供に、これを知られたら」

「心配することないさ」

「あなた、子供は二人?」

男は平然とした顔でこう答える。

「そう。二児の父」

「いつになったら終わりにする?」

「これか?」

「そう、こんなこと」

 男はこう言った。

「知られた時だ」

男はベッドから離れ、鞄からタバコを取り出しライターで火をつける。タールは解らないが、白い煙によればだいぶと強いような気がする。

私はぼんやりと煙が霞める天井を眺めていた。

男は灰皿に吸い殻を置いたまま、何も言わずシャワーを浴びていた。呆然と時間だけが流れていく部屋は

緻密に描かれた舞台の構成よりも複雑怪奇だと身に沁みた。我に返った瞬間にはもう午前0時を回っていた。

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