第8話
年末が近くなると忙しくなる。それはどこも同じだろう。
セイラたちの会社は普段、残業することは滅多にない。むしろ禁止されているくらいだ。
しかしこの時期になると連日残業。セイラもレイトと背中合わせで、陽が落ちてからもパソコンに向かっていた。
ようやくその日の仕事が片付き、時計を見ると19時近く。外はとうに暗く、周りのデスクでも帰り始める者がいる。
「お疲れ様ですセイラさん……」
「お疲れ様。声ガラガラじゃない、大丈夫?」
「ずっと無言で仕事してたせいです……」
そう言って体を伸ばすレイトは椅子からずり落ちそうになっている。セイラも立ち上がり、背中を思い切り伸ばした。体のあちこちから骨が鳴る音がする。
引き出しからのど飴を取り出すと、レイトに渡して自分も封を切った。喉が乾燥しやすいこの時期は常備している。
セイラはマウスを握るとパソコンの電源を落とし、筆記用具などを片付け始めた。
(私も帰ろ……)
「待って、セイラさん。デートしましょう」
椅子で移動したレイトが、飴を口に放り込みながら笑いかけた。
「……ん?」
「デートです。二人で食事に行きましょう」
「呑みに行くのではなく?」
いつもの軽い誘い方ではない。セイラが聞き返すと、レイトは真剣な眼差しになって立ち上がった。
横の女性社員は一度手を止めると、机回りをやけに静かに片付け始めた。
「デートって……。私は君をそういう目では見てないから……」
セイラは視線を落とすと、眉を下げた。
「それでも一回はせめて! 俺はセイラさんのことしか見えないんです!」
「分かったからここで騒ぐのはやめて……!」
レイトに大声で口説かれて根負けした。背中に他の社員の視線を感じながら、セイラは彼と共に会社を出た。
カフェの前を通り過ぎたら、店じまいをしているお母さんたちに声をかけられた。”遅くまでお疲れ様”としか言わなかったが、瞳には好奇心があふれている。レイトはそんな彼女たちに愛想を振りまきながら通り過ぎた。
デートと言っても19時から遠出ができるわけない。レイトに付いて駅に向かうと、不意に彼は立ち止まった。
「ここです」
「えぇ……!?」
そう言って指し示したのは駅前のホテル。正確にはホテルのエレベーター前に貼ってある、レストランのポスター。それには大きな和牛の塊や色鮮やかな野菜、芸術品のようなスイーツの写真が詰まっている。
最上階にあるレストランは市内でもお高い部類に入るレストラン。もちろんセイラは訪れたことがない。
ポスターをまじまじと眺めた後、自分の格好を見下ろしたセイラは尻込みした。
「だ……ダメだよ! 一緒に来る相手間違ってるよ!」
慌てて自動扉の向こうへ消えようとしたら、レイトに腕をつかまれた。
「間違ってない! セイラさんとしか来たくないですよ、こんないいところ!」
ずっと疑っていた。彼の”付き合いたい”は冗談半分だと。
自分は彼より歳上だし、オシャレとは程遠い格好だし、実は口が悪い。本当に好かれているなんて夢にも思わなかった。
レイトは掴んでいた腕を離し、セイラの手をそっと握った。
優しい手つき。さすが何人もの女性と付き合ってきただけある。
「……だましたみたいになってすみません。どうしてもセイラさんと来たかったんです。どの彼女とも行ったことない所に……」
その言葉に反射で心臓が跳ねる。こんなことを言われてときめかない女はいないだろう。セイラは思わず手を握り返しそうになった。
もしそうしたらどうなるのだろう。彼との関係がいよいよ変わってしまうのだろうか。彼の望むものに。
ゆっくりと振り返ると、震える瞳のレイトと目が合った。
子犬みたいな顔をした彼は初めて見た。こんな顔もできるのか、と頭の中はひどく冷静だった。
「予約してるんです。キャンセル料がもったいないと思って付き合ってもらえませんか」
「……こんな格好でいいと思う?」
セイラは自分のキャメル色のコートをつまんだ。この下は黒のリブニットにグレーのワイドパンツ。イヤリングはジュエリーとは程遠い安価なもの。爪はマニキュアを塗っただけ。メイクだって朝からそのままだ。
レイトを困らすつもりで言ったのに、彼はほほえんでいた。握った手を引き寄せられ、腰に腕を回される。ここまであからさまなアプローチは初めてかもしれない。
「充分いいカッコしてますよ。俺と一緒だから、みたいな。これで誰かに何か言われたら、俺が噛みついてやりますよ」
レストランは駅ビルの最上階にある。セイラを背に入ると、スーツをピシッと着こなした男性が腰を折った。
苗字を伝えると窓側の席に案内された。そこから見えるのは駅前の広場や広小路通り。
この時期になるとイルミネーションが駅前の至る所で輝いている。今夜は地上の美しい星たちを眺めながら、最高の食材を頂いた。
食事は今までで一番のディナーと言っていいほど豪華だった。一回では覚えきれないほど長いメニュー名、聞き慣れない食材、目でも楽しませてくれた美しいスイーツ。
ワインは呑み慣れていないが、”初心者におすすめです”と従業員が持ってきたものは美味しかった。柔らかい渋さと芳醇な香りに、心地よい酔いが訪れる。
食事を終えたレイトはセイラを連れて、先ほどまで見下ろしていた広場を訪れた。この下にはバスセンターがあり、バスが次々と帰ってくる。終電の時間を迎えたのだろう。
駅ビルを出てすぐ。広場は冬になると、イルミネーションが柱やオブジェに巻き付いて様々な色の光を放つ。
平日の夜だと言うのにそこら中に親子連れやカップル、女友だち同士で写真を撮ったりはしゃいでいた。セイラとレイトは彼らを横目に、空いているベンチを見つけて腰かけた。
お互いにいい歳なので彼らのようにカメラを向けることはしないが、今夜のセイラの姿を形に残したかった。
イルミネーションに囲まれた彼女は、会社の白い明かりに照らされている時よりずっと綺麗だ。
彼女は車庫に帰っていく回送のバスを目で追っているようだ。
「俺にデートに誘われてよかったでしょ」
横顔に問いかけると、セイラはほんのりほほえんだ。
「……うん。あんなに美味しいもの食べたことない」
「またお連れしますよ」
セイラの横髪をかきわけると、彼女の手に優しく払いのけられた。まだふれることは許してくれないらしい。困った顔の彼女がかわいくて、ベンチに置いた手に自分のを重ねた。
セイラは目を見開き、レイトの顔をまじまじと見つめた。身じろぎをして小さな声で”えっと……”と、場をつなごうとしている。
「木山君……」
「セイラさん、いい加減はっきりさせてください」
手を引っ込めようとした彼女は顔を曇らせ、レイトのことを上目遣いで見上げた。
「いつまでも曖昧な関係を続ける気はありません。俺は初めて誰かだけを見つめたくなった。それはセイラさんなんです。だから彼女たちとは関係を清算しました」
次第に自分の心臓がバクバクと音を立て始める。ふれた手から彼女に伝わってしまいそうだ。
「もし、本当はセイラさんに好きな人がいるなら教えてください。残念だけど……ちゃんと諦めますから」
好きな人、という単語にセイラの瞳が揺らいだ。この反応は初めてだ。以前、きっぱりと否定されたのに。
もしかして清田と過ごす時間が増えたことで彼に惹かれたのか。それとも、他の男性社員で気になる人でもできたのか。
暴れる心臓が口から飛び出そうな感覚を覚え、レイトは口元に力をこめた。
セイラは視線を落とし、小さく口を開いた。
「私、実は────」
「レー君……?」
二人の後ろに現れたのは、ツインテールにピンクのフリフリ地雷服の女性というか女子というか。
手にはキャラクターステッカーを挟んだカバーをつけたスマホ。レイトのことを見て手を下ろすと、涙をうっすらと浮かべた。
「げっ……。チユ……」
レイトは思わず彼女の名前を呼んでしまった。このツインテールはレイトの元カノの一人。一緒に歩いている時に別の地雷彼女に遭遇したことがあり、二人は大ゲンカに発展した。
どちらもレイトの彼女は自分だと言い張り、お互いのハンドバッグで殴りつけ合って止まらなくなってしまった。
チユは名前を呼ばれると、目をぎゅっと閉じて声を張り上げた。
「レー君のバカ! ずっと好きだよって言ったくせに! なんでまた別の女といるの!?」
大ゲンカになった時、レイトは二人をなんとかなだめてその日は解散した。
次のデートで埋め合わせようと考えていたが、しばらく会っていない彼女たちのことを思い出してしまった。久しぶりに電話でもしようかと思った時、セイラに惹かれてしまった。
「好きな人ができたって、急にブロックされて悲しかったんだよ……」
チユの声は次第にしぼんでいく。厚底靴のリボンが力なく垂れ下がっている。
悪いことをした、と今さらながら罪悪感が湧いてきた。
「ごめん、チユ……。最低な別れ方をした。でも俺、今はこの人しか見えないんだ」
レイトはセイラの肩を抱き寄せた。彼女は顔を赤くする暇もなく、勢いよく顔を上げた。
セイラにはあえて何も言わず、チユのことを真面目な顔で見据える。
「この人は俺の大切な人だ。俺の……本当に好きな人」
「また好きな人が増えたんだ」
瞬間、チユの目が虚ろなものに変わった。
周りにこれだけイルミネーションが輝いているのに、彼女の瞳に写っているのは闇だけ。
「違う、俺はこの人だけを選ぶ!」
「そんなの無理だよ。レー君が本当はたくさんの女の子と付き合ってるの知ってたし、同棲してるおばさんがいるのも知ってた。でも一人だけに長続きしたことなんて無いでしょ? たまに会えば皆の心が満たされると思ってた? 無理だよ……。チユも皆も、寂しかったよ……」
早口で話すチユの目は、段々と据わっていく。周りでイルミネーションを楽しんでいた人たちも、何事かと足を止めて見ている。
何人とでも、好きになった人なら誰とでも。レイトは初めて自分の浮気性を後悔した。
好きになっていい加減に付き合って、一方的に関係を捨てた女性たちの顔が思い浮かぶ。ほとんどの女性にメッセージアプリで別れを告げてブロックし、関われないようにした。
こうして目の前で責め立てられたのは二度目だ。
今からセイラに弁解したって無駄だろう。全て暴露されてしまった。レイトは歯ぎしりして顔をそらした。チユにも、セイラにも、なんと言ったらいいのか。
すると、セイラが腕を押しのけた。彼女は通勤カバンを肩にかけ直し、姿勢を正した彼女はまるで、できの悪い弟を諌める姉のようにほほえんだ。
「セイラさん……?」
「木山君、いい加減なことはしちゃダメだよ」
何も言い返せない。ただ、すがるように彼女に手を伸ばしたが、セイラは二人から離れた。
「ちゃんと関係を整理できていないじゃない。……言わなくても、分かるよね」
「セイラさんっ……」
「今日はありがとう。彼女のこと、ちゃんと慰めてあげるんだよ」
「待っ……」
セイラに向かって手を伸ばしたが、爪の先すら届かなかった。
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