月に願う者たち

@monaca1siratama

祭祀の娘

 シャン――と鈴の音が森に響く。鈴を片手に舞を舞っているのは、顔を白い布で隠している幼い少女だった。その少女とは別に、他の者より一歩前に出ている少女がいた。少女は舞女を横目で見ながら、よく響く声で朗々と祭文を読み始めた。

 辺りは暗く、唯一灯る篝火だけが、この祭祀に集まった者たちの顔を照らしていた。


 ここは、台湾付近の海に浮かぶ小さな島である。周りの海域が荒れやすいため、漂流民が流れ着くことも、ほとんどない。

 アミは、そんな島で、祭祀に携わる一家の一人娘として生まれた。幼い頃から祭祀にまつわるあれこれを祖母から教わり、9つの時には大人たちに交じって、祭文を読み上げていた。


 祭祀が終わり、アミは帰路についた。すでに夜は更けて、いつもは騒がしい子供たちは寝ているので、聞こえる音と言えば自分の足音くらいだろう。早く家に帰って、寝たかった。アミは足を速めて歩くと、不意にどこからか影が飛び出して、アミの方へ向かってきた。

「わっ!」

 飛びつかれてしまい、夜中なのに思わず叫んでしまった。アミが胸に抱いていたのは、妹のユノだった。ユノは少しとろんとした目をしていたが、瞳の中はいたずら好き特有の輝きがあった。アミを驚かせられたのがよほど嬉しかったのだろう。

「全く。…ユノ、またお母さんに怒られるよ。」

 ユノはへへっと笑って手を繋いできた。アミは軽く溜息をついて、ユノと一緒に歩き出した。

「ユノはね、お姉ちゃんをここでずーーーっと待ってたんだよ?」

 眠いはずなのに、ユノはぴょんぴょん跳ねながら歩いている。アミを見る目は、まるでボールを取ってきた犬のようであった。

「はいはい、頑張ったね。えらいえらい。」

 空いている方の片手でユノの頭を撫でた。ユノは嬉しそうに顔を綻ばせた。鼻が真っ赤だった。真冬なのに寝間着で外に出るというのは、もはや自殺行為だ。それなのに、アミを驚かせるために外で待つ…。可愛いが、呆れざるを得ない。アミは、重ね着していた一枚をユノの肩にかけた。


 ユノは窓から入らせて、アミは普段通り入口から入った。母は、居間の半分もあろうかというほどの大きさの機織り機の前に座って寝ていた。家の中は火を熾してあり、人が過ごせるくらいには暖かかった。機織を担う一族の娘であった母は、なんと四女だったそうだ。祭祀のことが何も分からないのに、祭祀の一族に嫁ぐことになった時は、どんな気持ちだっただろうと、アミは時々考える。風邪をひいたらいけないので、薄布をそっとかけておいた。

 アミは、蔵の中にある祭祀後用の燻製と乾飯を食べて、ころんと土の床に転がり、天井を見上げた。隙間から夜の闇が覗き、暖かさが吸い込まれている…と感じた。それでも、やはり疲れていたのだろう、アミの意識はすぐに遠のいていった。


 アミが目を覚ましたのは、もう太陽が眩しいくらいの時間だった。朝餉を食べる気になれず、アミは、ライミの葉を少し食べて、家を出た。ライミは、この島に自生している木である。水分をよく蓄えているため燃えにくく、火事になることはほとんどない。しかも、十分に乾かせば水分が飛ぶのだが、水分がなくなった部分は空洞にならない。例えるならば、稲だろう。稲作で中干しする際、水をわざと抜くので、稲は水が足りなくなる。しかし、稲は根を伸ばして水を探すのだ。それと同じように、ライミの枝や幹の中はそのようになっており、根っこのようなものがライミの枝や幹の中にたくさんあるという感じだ。つまり、丈夫な木材としても使える優れものである。もちろん、葉は食べることができる。島ではどこでも潮風が吹き、作物が上手く育たないので、ライミの葉は重要な栄養源だ。他にも様々な用途があり、真に便利な植物である。

 或る程度空腹を紛らわすと、アミは、木漏れ日が揺れる森の奥へ、一人歩いて行った。

 アミは、島の中央部に集まる森に入った。鬱蒼と茂る若葉は、時々刃になりうる。こんな場所に住むなど狂気の沙汰だ、といつもアミは思う。

 しばらく道なき道を歩くと、開けた場所に出た。木漏れ日が揺れて、風が吹いていることを改めて感じる。そこには、アミの家より一回り小さい家が建っていた。


「ばあちゃん。アミだよ。」

 アミは、軽く扉を叩いて祖母を呼んだ。

「せかさんといてな。すぐ開けっから。」

 古い言葉で話す祖母は、この小さな家に1人で住んでいた。前になぜこんな不便なところに住むのかと聞いたら、森の中の方が静かだから、とだけ言った。祖母は、それ以上は触れられたくないようであった。

 祖母が扉を開けると、祖母の頭の上に木屑が落ちた。祖母が顔を上げると、パラパラと木屑が玄関に落ちた。祖母はこれを気にしないが、どうもアミは気にしてしまうので、ここに来るたびに掃除をするのが習慣になった。

「今日はどうしたんかね。」

「石板を読みに来た。それと、ばあちゃんに。」

 そう言って、籠いっぱいの新鮮な野菜を渡した。祖母は皺だらけの顔を綻ばせて、こちらをすっと見上げた。その目には、何もかも見通すような光が宿っており、出あって間もない頃は怖かった。今でもその光は、私を見ている。前に比べたら「慣れた」はずだ。

「ついでに食べっかね?ばあちゃん特製のおやつ。」

 アミは顔をパッと輝かせた。祖母が作るおやつはライミの実で出来ているのだが、固い皮をむいてゆでるだけで、もちもちとした触感の甘い菓子になる。祖母は、それを色々な植物を加えた特製のタレに漬ける。これがまた、少し酸味を加えるもので、甘すぎず酸っぱすぎずの味になるので、妹も大好きだ。家でも作ってみたいと思い、何の植物を使っているのか聞いたところ、不器用に片目をぎゅっとつぶって、内緒、とだけ言った。


 祖母は、家の裏にまわった。いつも、私が来てから植物を採るが、植物がどこにあるかは足が覚えているらしい。

 いつもならすぐに帰ってくるが、暫く待っても戻らないので、少しアミは不安に思った。そろそろ祖母を探しに行こう、というあたりになって、誰かが歩いてきた音がした。アミはほっと胸をなでおろして、固まった足をほぐそうと、座り直した。

 少しして、祖母が部屋に入ってきた。

「おそうなったな。ムコ花が、いつものところで見つからなかったんや。」

「ムコ花?昨日泉の畔にいっぱい咲いてなかった?」

「それがねえ、ほとんど枯れてしもうて。変やなあ。」

 ムコ花は透き通った水の近くでしか咲かない。しかも、塩分が少しでも混じっていると咲かないので、小さい島であるここでは、数が多いわけではなかった。それでも、アミは祖母お手製のおやつが食べられるだけで満足だった。

「はい、どうぞ。」

 草の葉で編んだ敷物に、蓬色のおやつが乗っていた。アミは、喉に詰まらせないようによく噛んで食べた。アミは舌の上にいつもと違う、少しピリッとした味を感じた。それが塩味であると気が付き、祖母を振り返ると、祖母も複雑な顔をしておやつを眺めていた。今日は家に持ち帰らずに食べてしまおう、とアミは思った。


 おやつを食べ終わると、アミは石板を読み始めた。石板は、代々祖母の一族が受け継いできたもので、過去について彫られている。特に大切なことが描かれているわけではないのだが、一つの物語のような日記で、時々面白おかしく、祖母の家に通う度に時を忘れて読んでいた。

 祖母も、そんなアミを見て悟ったのか、石板について深堀することはない。ただ石板を読ませてくれるだけだが、アミにはそれがありがたかった。


 前日の祭祀の疲れがまだ取れていないのか、石板を読んでいるうちに瞼が重くなってきた。ついにアミの首が石板に当たりそうになった時、今日はここで切り上げよう、と初めて思った。もう少し読んでいたいが、石板が自分の頭で割れたり傷ついたりしたらと考えると、足早に帰りたい気持ちになった。もし石板が割れたとき一番怖いのは、自分の罪悪感より祖母の顔なのだろう。


 祖母の家を出て森を覗くと、狩人たちが声を掛け合いながら、ルミック(鹿の一種)を狩っていた。ルミックは、馬よりも一回り大きいため、一頭狩れれば数日の食事が持つ、素晴らしい食料源であった。木々の間からは、俊敏に動く、小柄な少女が見え隠れしていた。肩まである栗色の髪を一つにまとめ、くりっとした目は森の中に隠れるルミックの影を目で追っている。アミは、そんな姿の彼女に心が惹かれたのだろう、と思った。後で聞いた話だが、狩人の少女―アミの友人のリンは、逃げるルミックにとどめをさして、見事大物を持ち帰ったと言う。


 アミは、祖母のおやつの塩味について考えていた。ムコ花以外はいつもの場所にあったと聞いたので、ムコ花がおかしいのだろうか。いつもの泉の畔になかったのは、何故だろうか。

 特に何の考えも及ばず顔を上げると、アミは海辺まで歩いてきたことに気が付いた。潮風が頬をなでて、潮の香りが鼻をついた。波にのまれた記憶が滝のように頭に流れ込み、夕日に反射した海の茜色を見ていることができず、アミは踵を返して家へ駆けだした。

 走りながら嫌な記憶を振り払っているうちに、ふと、何かがつながった気がした。もう少しで分かりそうなのに、喉のあたりで何かに堰き止められているようで、むず痒い。辛いとはわかっていても、どうしても気になり、潮の香りをもう一度深く吸ってみた。その瞬間、濁流のような記憶の挟間に、おやつの塩味が垣間見えて、アミははっとした。

 もしかしたら、海水が島の上の方まで上がっているのではないか。アミが小さい頃に波にのまれた場所は、危なくないと言われていた。なのに、波にさらわれてしまった。それも、海面が上がってきているからではないのか。また、森の方まで海水が染みこんでしまっているのだとしたら、ムコ花が泉で枯れてしまったのも筋が通る。ムコ花は、塩には弱い。きっと祖母が採取したのは、塩にわずかでも勝った個体だろう。それでも、塩水を吸い込んで、身体に蓄えていたのだろう。

 アミは一瞬、冷たいものが胸に走ったように感じた。もし、島が海にのまれてしまったら…。島に遺されたもの、守られてきたもの、それらすべてが、波に流されてしまったら――

 それはしかし、アミの中にある一瞬の気の迷いだった。


 一筋の叫び声で、アミは現実へと引き戻された。海辺からだった。一瞬間を置いてから、たくさんの人の叫び声と、砂を蹴る音が異様に大きく聞こえた。アミは、その時初めて海の方を振り返った。


 アミは目を疑った。波が、夕日を呑み込む瑠璃色の壁を作っていたのだ。

 高くそびえたつその津波は、美しくも残酷で、触れたものを一瞬にして流してしまった。アミはその時、石板に書かれていたことを思い出した。

 波、瑠璃色の壁のごとし。波、全てを流しけり。救われる場はいずこへ。


 森の方へ駆けている人に、波が覆いかぶさり、何人かが流されて―その中に、一瞬ユノの顔があった。

「ユノ!!!」

 頭で考えるよりも先に、アミは叫び、一直線に海へ走って行った。海は怖かったが、それよりもユノを失う方がずっと怖い、そう思うと、足は震えなかった。

 アミが着くころには、ユノたちは浜辺に打ち上げられ、口から入った海水を必死に出そうと、たくさんの島民が奮闘していた。海水を出すためにユノの胸を押している、真っ黒に焼けた少年が居た。アミと同年代だった。近づいてきた私に気づくと、ちらっと目をやった後、

「こいつの何だ。」

とだけ言った。その声は腹に響くような低さだったが、不思議と安堵を感じた。

「この子、私の妹で。」

 そっとユノの体に手を触れると、氷のように冷たかった。アミは、無意識に自分の拳が強く握られていることを感じていた。

「ユノは、助かるんですか。」

「そのために今ここにいるんだ。黙って見てろ。」

 とだけ言うと、再びユノの方に視線を向けた。その横顔は至って冷静だが、波が砕ける音がするたび、微かに瞳が揺れていた。それでも、少年はユノの口から海水を出し続けた。そして、ユノの口からほっという息が漏れだし…ゆっくりと吸って吐いて、うっすらと目を開けた。

「お姉ちゃん……」

 その言葉が現実だったのか、夢だったのかは分からない。この記憶を最後に、アミの意識は深い闇の中に吸い込まれていった。

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