【BL】第三都市の精霊学者
けい
第01章 竜討伐
あかるい月に照らされた荒野は不吉な咆哮で満たされている。
竜だ。
黒い巨体に光の鎖がぐるぐると巻き付いている。強力な魔術の鎖だ。今夜は満月だ。月の光が竜の姿を明るく照らし出している。所々うろこが剥がれ、皮膚がただれているのが見える。こんな場所にまで腐臭が届く。病の匂いだ。
竜は死病を得ている。おそらくそれがこの竜を狂わせた原因だろう。
じゅうぶんに離れた場所から、デリクは、照準越しにそれを見た。
竜は東の果ての山脈群、蛇の背骨の向こうからやってきたものとされている。
最初の目撃情報は第六都市周辺からだ。第六都市は七都市連合最東に位置し、蛇の背骨に最も近い。
竜の中には知性を持つ個体も多い。第三都市の東、魔王国の主も正体は五百年生きた竜だと言う。まつろわぬ竜王の国、魔王国の別名だ。
竜は災害級の魔物だ。交渉が可能なら、貢物でもやって帰ってもらった方がいい。
しかし、その竜は見るからに話の通じるたぐいではなかった。言語も理性も失った、あるいは最初から持たない怪物だ。
交渉は不可能だった。都市連合は竜との対決を余儀なくされた。討伐隊は可能な限りの素早さで結成された。有力者と専門家が集められ、幾度かの会議を経て適切な人材が集められた。
同時進行で魔王国に使者が向かった。竜に対抗できる武器は魔王国との協定により封印状態だ。このような時でも利用には魔王国の許可が必要だった。
規則が多く仕事が遅いとされがちな神殿だが、非常時には有能だ。
しかし、どんなに急いでも狂った竜のスピードにはかなわなかった。
その間に犠牲は出た。
討伐隊のリーダーは三の小賢者が務めた。
元A級冒険者という神官には珍しい経歴の持ち主だ。
彼は偵察隊として数名の冒険者を選び、第六都市に派遣した。神殿関係者と共に情報収集にあたらせるためだ。
デリク・フィンレイはその一員だった。
デリクはB級冒険者だ。主にハンターとして仕事をしている。依頼は膨大な魔力量に支えられた体力を見込まれてのことだ。急ぎの仕事だ、日夜休まず動くことになる。
彼の武器についても必要になるかもしれない。この時点で既にそういう話は出ていたが、デリクは半信半疑だった。
彼らは複数のチームに分かれると、竜の痕跡を探すため、騎獣を駆って荒野に出た。
丸二日ほど走ったところで焼きつくされた集落を見つけた。
家畜も建物も、すべてのものが焼けていた。人も。死体の中には子どもの姿もあった。彼らはしっかりと抱き合い、一塊に焦げていた。
偵察隊からの報告に、三の小賢者は険しい顔をさらに険しくした。
想定より竜が近い。
神殿は賭けに出ることになった。
依頼は強制ではなかったがデリクは受けた。
第六都市にも縁があったが、彼の住む第三都市は比較的第六都市に近い。竜が少し気まぐれを起せば被害を受けかねない場所だ。
何よりも冒険者は汎都市的なスキル保持者として役目を果たすために恩恵を受け、役目を果たすことによって名声を得る。
このような場で自らのスキルを行使することは、彼らの存在意義の一つだ。
こうして第六都市の命運はひとまず彼に預けられたが、人選に異を唱える声も出た。
B級冒険者では不安がある、せめてA級に任せるべきだというのが彼らの言い分だった。
ランクがすべてではないとしてもこれだけ大きな仕事だ、そういった意見が出るのは自然だろう。
しかしそれだけではなく、実際より低く評価されるのはデリクにはよくあることだった。
デリクは成長異常者だ。実際には三十歳を越えているが一見は二十歳くらいにしか見えない。
通常人は三十歳前後で成長を止める。成年年齢は十八歳だが一人前とみられるのはそれくらいの歳だ。
加えて彼の印象は平凡の域を出ず、頼りなげにさえ見える。時に学生と間違えられるくらいだ。
体躯は必要じゅうぶんに鍛えられているがそれだけだ。魔力強化型の身体能力は外見にあまり反映されない。明るい茶色の髪と目には温和な印象があり、容貌は整ってはいるものの人目を惹くほどでもない。冒険者の中には身に着けるものや言動で個性を演出しようとする者もいるが、彼はいたって常識的だ。外見通り人当たりもよく、トラブルの場合も声を荒げることはない。
自己主張が強い者の多い冒険者の中で、侮られることも多かった。
一方で彼の武器はうつくしく異様だ。
ハンターとしてのデリクは魔力銃の使い手として知られている。所有する複数のうち今回選ばれたのは最も大型のものだ。
全長はデリクの身長ほどもあり、形状は細身で、武器というより祭器のように優美だ。白金色の表面にはびっしりと魔術回路が刻み込まれ、要所にはめこまれた魔石は装飾ではなく魔術回路の一部となっている。これらによって魔力を取り込み強力な魔術弾を高い精度で発射することができる。それだけのエネルギーを扱うための強度もそれに補われていた。機械技術師には違和感のある形状は魔術回路あってのことだ。
強力だが恐ろしく魔力を喰う。発動条件を満たすための魔力は主に撃手が供給源だ。この銃を使うには銃器を扱う技量だけでなく並みならぬ魔力が必要だった。
故ヨハンナ・ビートンが完成させ、彼女の後継者であるアリステア・ブラック・スカイが改良を加えた、N式魔力銃だ。
魔力銃といえばB式が一般的だが、N式は魔獣に対応するための銃だ。普及品としてつくられたB式とはコンセプトから違う。今回はさらに無謀と言っていいほどの改造を行っている。
そんな銃を手にすればそれ相応に見えそうなものだが、デリクはむしろ銃の異様さとの対比で危なっかしくさえ見えるらしい。ヨハンナ・ビートンの銃を持ちながらB級どまり、彼の評価はそんなものが多い。
彼の銃を別の者に持たせてはどうか、会議の場ではそんな声さえあがった。
ヨハンナ・ビートンはN式魔力銃の使い手をデリクに限っている。それは彼女の死後も契約によって守られている。できもしないことをわざわざ口に出したのは、デリクに対する八つ当たり、むしろ侮辱だろう。
デリクはしかし、顔色一つ変えず笑って流した。
複雑な背景を持つ彼には争いを避ける傾向がある。そのような性格も侮られる理由の一つだろう。
彼の代わりにアリステアが盛大にブチ切れて黙らせる、これもいつものことだった。
神殿が目を付けたのもデリクというより銃のほうだ。
大型魔獣用のN式を大型魔獣である竜にぶつけようというわけだから発想は単純だが、N式にも竜をしとめるほどの威力はない。そのため、研究中の魔術回路の利用があわせて検討されることになった。
N式の魔術回路に改良を加え、竜に対抗しうるものにするということだ。
課題はある。その魔術回路自体、試作品での試験もされておらず、安全性に不安がある。そもそもN式への利用を前提に作られたものでもない。応用すれば攻撃力は格段に上がることが予想されるが、不測の事態も起こり得る。スケジュール的にも余裕がなく、予算や資材との兼ね合いもあり、試験もできずに実戦で利用することになる。通常ならまずとられないやりかただろうが、個別の理論についてはチーム外の専門家も交えて検討を重ね、程度を落とした試験は成功しているというのが研究チームの言い分だった。
彼らはここぞとばかりに利点を並べ立て、リスクについてもコントロールは可能であることを強調した。
デリクから見れば熱が入りすぎているように見えた。彼らにしてみれば今回のことは正確なデータを取る好機なのだろう。試験が進んでいない理由の一つは利用される魔石の希少さゆえだ。ここを逃せば次の機会は未定だ。失敗しても試験結果がとれれば次に活かせる、それくらいは考えていそうだ。
神殿も同じ判断だったはずだが、アリステアが成功の可能性を示したことが採用の決め手になった。
彼はヨハンナからN式の技術師として指名された唯一の人物であると共に、魔術回路を扱わせれば七都市でも五本の指に入るといわれる錬金術師だ。さらに、このことで彼は銃の使い手であるデリクの安全を賭けのテーブルに置くことになる。
デリクとアリステアの縁は一部では有名だ。彼らを恋愛関係にあると信じている者さえいる。
そのアリステアの判断だ。リスクを取るに値する。神殿はそう考えたのだろう。
「アリステアさんの言葉は憶えていますね、撃てる弾は三発だけ、四発目には暴発の危険があります。ここで仕留め損ねても、封印中の武器が利用できれば竜をたおすことは可能です。いいですね、絶対に無理はしないでください」
銃を準備するデリクを見ながら、ハドリーはあからさまに心配そうに念押しした。
既に不老期に入った彼には、成長期の者に配慮する習慣が身についてしまっているのだろう。彼のような反応は珍しくないが、デリクは苦笑しそうになる。外見だけ見れば年下に見えても、実際にはハドリーの方が少しだけだが年下だ。
しかし、今更子ども扱いに目くじらを立てる気もなかった。侮辱としてそうしてくる者もいるが、ハドリーはそうではない。
彼は今回の作戦で通信係としてついた神官だ。デリクとは偵察隊からの付き合いになる。神官の中には冒険者を下に見る者もいるが彼にはそんな様子はない。今回も純粋に心配してくれているだけだろう。
「大丈夫ですよ、ハドリーさん。無理はしません。彼の銃を暴発させたら彼に殺されてしまいますからね」
そもそも暴発させればその時点でデリクの命は危ういのだが。
冒険者の冗談は神官にはあわなかったのだろう。ハドリーはさらに心配そうに沈黙した。
今回の作戦の肝は狙撃手であるデリクよりも竜を拘束する魔術師たちだ。
最も危険にさらされるのも彼らになる。
いくら銃を強化しても竜には飛行能力がある。一撃必殺が非現実的である以上、拘束して数発の弾で削るしかない。
勝利条件は討伐ではなく足止めだ。竜を各都市圏内に入れないことが優先される。
しかし、手負いで理性も失っている。多少のことでは止められないだろうことが予測できる。
ポイントを決め、罠を貼り、竜寄せの香を焚き、長い時間が準備と待機に費やされたが、状況というのは動くとなると勢い良く動く。
作戦は成功し、竜の拘束は成った。
魔力の鎖に戒められ、竜は当然のように怒り狂った。
幾度かブレスを吐いたようだがすべて無効化される。
鉄をも溶かす高温のブレスは細かい光のくずとなり、きらきらと辺りにまき散らされた。
デリクはその様子を高台から見下ろした。
荒野には大規模な魔術回路が浮かび上がっている。十数名の魔術師たちによる、高度で負担も大きい魔術だ。
近距離で身を削る彼らを見れば責任の大きさを否が応でも自覚する。皆高位の魔術師だ。一人でも失えば都市連合全体にとって痛手だろう。
B級ハンターの弾丸にそれだけのものをかけた。かけざるを得なかった。気を抜いていい仕事ではない。
封印中の武器を使えば竜を殺せるかもしれない。
しかし、魔王国は簡単な相手ではない。わざと交渉を引き伸ばし、第六都市の壊滅を待つくらいはやりかねない。
武器を得たとしてもそれで安心というわけでもない。
巨大な武器は機動性が低く、第六都市のものも据え付け型だ。広範囲の魔術攻撃は強力だが攻撃可能範囲は限られている。複数である程度の範囲をカバーできるようにはなっていたはずだが、封印中のものだ、騎士団での訓練も万全ではないはずだ。詳しくは公開されていないが、あの手の武器は再発動までに時間もかかる。
竜を相手にするのに使い勝手がいいとは言えない。
なによりも病の竜だ。魔物の病は時にその死地を壊滅的なまでに汚す。
竜を第六都市に入れれば結果は悲惨だ。
被害を抑えるためには迅速な対応が必要だった。
現時点で出せる最良の武器はどれだけ不完全だろうとデリクの銃だ。
デリクはスコープを覗きながら態勢を整えた。
込められた弾は四発だ。ただ当てるだけなら竜の巨体は外しようがない的だ。
しかし、竜だ。
限界まで強化した魔術弾であっても傷つけることさえ難しい。
うろこが剥がれ、腐肉がのぞいている箇所がある。狙うならそこだろう。
ハンドルを操作し弾を送る。
装填の手ごたえと共に魔力を食われる感覚がある。消耗がえぐい。いつもの倍近くにも感じた。
魔術回路に光が通る。銃全体が光を帯びる。
「拘束」
デリクは言った。その言葉を合図にハドリーから現場へ伝達が行くことになっている。
鎖がひときわ光を放ち、竜の動きが鈍くなる。
デリクは見計らって一発目を撃った。
弾道が白く線を引く。
一発目はかすっただけだった。竜の拘束も完璧ではなかったうえ、いつもよりひどい反動で少し狙いがぶれた。
しかしダメージは与えた。
竜は怒りに喚き、あたりには嫌なにおいが立った。腐った肉が焼ける匂いだ。
魔術弾は強力だった。竜の肉を深くえぐった。傷は焼け、血も出ない。本来なら衝撃だけでも内臓にダメージが出、死に至らしめる威力がある。しかし、腐っても竜だ。拘束を解こうとますます激しく身をよじる姿を見れば、痛手を与えたようにも見えない。
ハンドルを操作し排莢する。二発目の弾を装填する。魔力を食われる感覚は一回目より身に応えた。
照準ごしに竜を見る。目が合った。産毛が逆立つ。暴力そのもののような目だ。同時にふと分かる。ダメージは通っている。
一回目の感覚を念頭に狙いを定めた。
「拘束」
二発目は一発目よりよかった。
竜がデリクに意識を向け、動きが予想しやすくなったのが幸いした。肩に着弾し、すさまじい勢いでねじ切るように腕を飛ばした。
肉片が飛び散った。濁った黒い血が噴き出す。同時に翼の一部も傷つけたが、竜の翼は飾りでしかない。竜は魔力で飛ぶ。
かなりの痛手のはずだが、攻撃はむしろ竜を活気づかせたように見えた。
痛みで脳がおかしくなっているのかもしれない。
咆哮を上げ、ひかりのクズをまき散らし続ける。強すぎる攻撃は自身にさえダメージを与える。しかし、意に介した様子はない。ブレスが効かないことなど分かりそうなものだが、そんな理性はもう残っていないのだろう。
竜は真っ直ぐにデリクを見た。闘争本能に突き動かされるように、ただこちらに来ようとしている。
ぴん、と鎖が伸びている。ぎりぎりときしむ音が視覚から伝わってくる。今にも切れそうだ。
三発目の装填は血が引く心地が伴った。命そのものを冷たい手で撫でられているような心地だ。
「拘束」
決して焦ったわけではなかった。最後の一発は狙いを外れた。鎖が持たなかった。想定外のことだ。銃弾の魔力が影響したのかもしれない。
鎖はガラスのようにはじけ飛んだ。弾はかろうじて竜の脇腹をえぐった。しかし傷は浅い。動きを止めるまでには至らなかった。
かなりの損傷を与えている。再生も追いついていない。おそらくもうこの竜は死ぬ。
しかし死ぬまでには第六都市の半分は破壊することができるだろう。下手をすればもう半分が竜と一緒に道連れになる。
竜は邪悪な笑みを浮かべた。それは知性を取り戻したかのような笑みでもあった。
翼を震わせ勢いよく上昇する。逃亡ではない。竜は真っ直ぐにデリクを見ていた。
風圧と共に悪臭が届く。血の臭い、腐肉の臭い、新鮮な怒りの臭い、悪い物がごった煮になったような最低の匂いだ。
デリクは反射的に排莢し、なかば薄れゆく意識の中で、最後の弾を装填した。
「デリクさん!」
踏みとどまれたのはハドリーの声に引き留められたからかもしれない。
同時に竜がつんのめるように停止した。竜の胴に一本の鎖が絡まっている。一人で竜を止めた。S級魔術師、カーティスの鎖だろう。彼が稼いだ時間で他の魔術師も立て直す。
再び竜は拘束された。
「やれってことか…」
デリクは思わず苦笑していた。
魔術師たちも三発が限界であることは知っている。同時にここで竜を逃せば最悪都市一つが滅ぶことも。
第六都市はカーティスの故郷だ。
デリクは銃を構えた。
照準の中で竜の目は真っ直ぐにこちらを見ていた。最初に感じたほどの恐怖はない。竜はデリクだけを見ている。他には何も見ていない。狙いやすい的だ。
デリクは乾いた唇をなめた。
「拘束だ、伝えろ、そして逃げろ」
デリクは言った。
「デリクさん!」
ハドリーは叫んだが言葉は続かなかった。彼も分かっている。
「早く行け、俺の方も勝てない賭けでもない。……頑丈さには自信があります。装備も一級品を選んできました。魔術回路も最強のものをいれている。S級魔術師のご指名だ、手足が飛んでも、命があれば、彼が復活させてくれます」
デリクは意識して明るく言った。腹は決まった。やるしかない。幸い後悔の暇もなさそうだ。
「伝えることはありますか?」
ハドリーは言った。デリクは一瞬も迷わなかった。
「ありません、伝わります。ハドリーさん、拘束を」
「……はい。あなたに神の祝福を」
ハドリーが去る気配がある。
狙いを定め、引き金を引く。
撃針が雷管を打つ。魔力がはじけ弾頭を押し出す。銃身が熱を帯びる。魔術回路を光が走り、火花のような音を立てた。聞いたこともない音だ。強すぎる光が銃身をめぐる。螺旋状の光だ。
あぁ、やばい、デリクは思う。光は弾頭の軌跡だ。銃身内を渦巻きながら魔力を帯びて突き進むエネルギーの塊だ。そのすべてが一瞬で起こり、そのすべてがゆっくりと見える。
すさまじい反動と共に弾丸が発射された。これまで以上のエネルギーと共に弾丸は竜に飛んだ。
それが竜を殺すことがデリクには分かった。
銃はもたなかった。
役割を完璧に果たした銃は耐えきれずに爆発した。
デリクは唐突に息を吹き返した。
体は雷にでも撃たようにびくびくと震えた。自分の中からわけが分からないほどの魔力がこみ上げてくる。どくどくと心臓が脈打ち、幾度も幾度も塊のような息をこぼした。白い光が目の前でバチバチと瞬いている。世界が異様に明るい。うわんうわんと耳鳴りがする。せき込むと喉はからからに乾いている。
荒い呼吸を繰り返しながら、自身があおむけに寝ていることを意識する。金縛りにあったかのように動けない。
身を起そうともがいていると、扉が開く音がする。
「デリク、起きたか!」
アリステアの声だ。
彼の名前を呼ぼうとしても張り付いたように声が出ない。恐怖に襲われ、声にならない悲鳴を上げた。
「デリク、いいから、大丈夫だから、ゆっくりと息をしてくれ、デリク、ゆっくりだ、」
アリステアの姿が視界に入る。彼はデリクの両頬を覆うと、力づけるように名前を呼んだ。
彼の手の感覚がある。力強い手だ。彼の魔力が伝わってくる。自分の体が再び世界に属していくのが分かる。
「ア……テア……」
デリクはようやく声を絞り出した。
「そうだ、私だ。デリク、ゆっくりと呼吸をしろ、力を抜け」
アリステアは何度も何度もデリクの髪を撫でつけた。デリクは大きくため息をつきながら、促されるように力を抜いた。
何か強烈な、疲れのような眠気のような感覚があった。
「よかった、デリク、本当によかった」
アリステアは泣きだしそうに眉を寄せた。端正な顔が強い感情で歪む。
デリクはぼんやりと彼を見る。彼のこんな顔がデリクは好きだ。覚醒後の無防備な心に、まっすぐにつきささる。
黒髪と黒い目、昔は髪を伸ばしていたが、最近では短くしている。柔らかそうに見えてさわると案外固い。中性的な顔立ちは瑕瑾なく整いすぎて、無表情では冷淡にさえ見えるがどんな表情もうつくしく乗る。少年期から青年期にかけての一時期、奇跡のようにうつくしいと言われた彼も三十歳手前にもなれば線に崩れもある。その柔らかなひずみも、デリクは好きだった。
「……そんな顔をするな、アル、つらいならイーデンを呼ぶか?」
感情がこみ上げ、デリクは頬に添えられた彼の手にふれた。
「……デリク、イーデンはもういない」
アリステアは驚いたように目を見開き、それから困ったように微笑んだ。
彼の言葉がゆっくりと脳内をめぐり、その意味を思い出した時、デリクは大きくため息をついた。
イーデンはデリクの後見人だ。アリステアの夫だった人でもある。
もういない。
アリステアは黒い衣服を身に着けている。それは喪服だ。
「……ごめん」
滞っていたものが動き出したように色々な記憶が押し寄せてくる。
じっとしていることもできずにデリクは何とか体を起こした。アリステアは的確にそれを支え、ベッドヘッドによりかからせながら背中にクッションをいれてくれる。
差し出された水を飲む。体に染みわたるようにうまい。貼り付いていたような喉がいくらかましになった。
「どれくらい寝てた?」
「あの日から四十三日目だ」
デリクが尋ねると、アリステアは空になったカップを受け取りながら言った。
「……四十三日目?」
あまりのことに、デリクは顔をこわばらせる。
「そうだ、四十三日だ。……あの後、蘇生はうまくいったが、君は目覚めなかった。君の中で魔術がループを起こしているような状態だった。原因は不明だ。干渉をさけるため魔道具による検査や治療はできなかった。医師によると確認できる限りでは肉体に問題はなかったようだが。蘇生は複雑で繊細だ。失敗も多い。意識が戻らないだけとなれば様子を見るしかなかった。……君が目を覚ましてよかった」
アリステアはカップを置きながら何でもないように言った。しかし、相当心配してくれていたことはデリクが目覚めた時の様子で分かる。
「心配かけた」
今更ながらデリクは言った。
「そうだ、心配した。何人か見舞客も来たが、皆心配していた。後でリストを渡すから、連絡を入れた方がいい」
アリステアはそっけなくこたえた。
「竜は…」
「竜は君に撃たれて死んだ。病の竜だ。残念だが死体は焼かれた。魔石など限られた素材は回収されたが。竜の死地は浄化後もしばらくは封鎖されることになった。幸い、汚染の影響は今のところ見られない。
カーティス師は君を蘇生し眠りについた。君の状態はひどかった。カーティス師でも対価は半年は取られるだろう」
「S級の半年か。カーティス師には感謝しないとな。俺の命の対価としてはもったいないくらいだ」
「莫迦なことを言うな。当然のことだ。彼がそうしなければ、半年どころか永久に眠らせても足りないくらいだ。私は三発だと言った。彼らにも、君にもだ」
「言ったな、さすが君だ、容赦なし、きっちり四発で暴発した」
デリクは思わず笑った。
「笑って言うようは話ではない!」
アリステアは叫んだ。感情的な声だった。
「……悪かったよ」
デリクは半ば気おされながら言った。
「思ってもいないことを言うな。腹が立つ。君の死を覚悟したのは二度目だ。四十三日だぞ、ふざけるな」
声が冷たい。本気で怒っている時の声だ。さきほどの優しさが嘘のようだが、こちらの方がいつもの彼だ。
「私は心配した。本当に、心配した。蘇生なんて死んだら意味がないんだ、なんで君は、こう何度も、何度もっ……」
アリステアは視線を落とすと、ぎゅっと拳を握り締めた。
結局死ななかったんだからいいじゃないか、言いかけたデリクは、アリステアの拳が震えていることに気が付いた。
デリクは思わずアリステアを見た。
彼は子どものように顔をゆがめ、ぎゅっと唇を噛んでいる。デリクは何も言えなくなった。
「……君がしたことは最悪だ」
アリステアはやがて視線を上げるとデリクを見た。彼はもう平静を取り戻していた。
「もう一度言うが、君の死を覚悟したのは二度目だ。君は忘れているみたいだが、たった五年前のことだ。しかも君は私の銃で死にかけた。私が言ったことを完璧に無視して」
アリステアの表情は冷たかった。怒っているどころではない。彼は本気で切れている。
「分かっていると思うがあの銃は壊れた。他の銃は没収した。君にはもう私の銃は預けられない。ヨハンナも君を死なせるために銃を渡したわけではないだろう。私のやることに反対はしないはずだ」
アリステアは言うだけ言うと踵を返した。
デリクは部屋を出ていく彼を見送るしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます