8話
「最終日、やだなああ」
当然だが、私はプロじゃない。プロじゃないから、出版社から派遣される校正や校閲に携わる人がいるはずがない。居たらその人に反論できなくて言いなりなってしまいそうだけど。なので推敲のみでエラーを消去しきる手間がある。推敲は創作の中でも大嫌い。一番嫌いだ。でも四の五の言っていると締め切りに轢き殺されるので仕方なし。ひとまず誤字脱字の訂正から。
「はあぁーっ。ょし。──」
一度自分が書いた文章を再確認したいときは恥ずかしいが音読をしてみるのが効果覿面。口蓋と喉の筋肉を動かすのが目的なので、ボソボソか細い声でも構わない。狙いは視覚と聴覚を同時に働かせることで擬似的なダブルチェックを行うこと。おかげで苦行が倍速で片付く。母国語に十五年も親しんでいれば、これだけで不恰好な文と文の繋ぎ方だったり書き損じを察知できる。オマケで頻繁に出現する単語を弾く機能も兼ね備えている。この分野なら、大規模言語モデルなんぞより偏差値四十台後半の私の方が優秀だ。
次に誤用の削除と入れ替え。インターネットで黙々とデータベースを参照し、リアルの辞典を引いて語彙のミステイクを洗い出す。これが辛い。書いてる途中もカッコつけて言い換え表現を血眼で選りすぐりした記憶が確かにあるのだけれど、不思議なことに意図していた用法に悉く噛み合っていない。
「怒髪天をつくは脳天を攻撃したわけじゃないんだ。激おこプンプン丸」
サーチアンドデストロイ。誤った表現は受け手の集中リソースを削いで没入体験を減衰させてしまう。ここでサボタージュを決め込むクリエイターは覚悟が足りない。滝行などで性根を叩き直してきてから作業に戻ることを強く推奨したい。
「注射器って十九世紀の半ばで開発なの!? ここで出したらまずいじゃん消せ消せ消せー」
ここまでも随分と大変だったけど、実はまだ楽な方だった。最も時間がかかるのが内容のファクトチェック。参考文献や資料と再度照らし合わせて時代背景と整合性が釣り合わなければ完成度がガクンと下がる。学校の教科書が資料としてかなり優秀。手に塩かけて育てた我が子を駄作にするか、傑作にするかの命運は考証の精度が握っている。明らかな嘘は公理としてあっさりと受け入れられるが小さな間違いは正さねば落ち着かないというのが人類の
デスクライトに照らされる視界。逆剥けを毟った人差し指の先に黝い点が付着している。金属の根本に接していたせい。側面が生乾きの文字に掠れて手の皺が強調される。
この空間の主導権を完全掌握しているのは私なんだ。生殺与奪は掌の上。私が全て。
推敲で忌み嫌っているのは今まで丹精と真心を込めて記した文章を幾らか削除しなきゃいけないこと。一節が冗長になりすぎてないか、濃度が高すぎないか。上手くいけば順番を前後でトレードしたり、ニュアンスが似通っている箇所に移植することでお気に入りの文をそのまま残すこともできる。ただ、テキストを削るのは家庭菜園で間引きをするのと一緒。枝分かれがあまりにも多いとそのシーンで何を表したいのかわかりづらくなる。どの果実も大切だからと中途半端にしてはもったいない。厳選した、コレだけはというものに栄養を集中させる。
「……コレでいいかな。いいか。いいや」
作品は出来上がった。納期ギリギリ。でも間に合った。これで安心して明日を迎えられる。
推敲を終わらせることで作品は仕上がったことになるのだが、どうも達成感が湧かない。腕に縒りをかけるというよりかは、顔も見たことない人様の文章を添削している気分になる。今しがた私に眼痛をもたらした元凶はまだ直近に書いたものだから自分ごととして捉えられるが、これが一週間一ヶ月と寝かせる期間が開くとどのような内容だったのか簡単に忘却してしまう。主人公のフルネームは答えられないし旅の目的は見失う。プロットやログラインはここで思い出すためにも有用なので作成しておくのに越したことはない。
天才なのか天災なのかは私には判断しかねるが、日本が誇る漫画家の巨匠、手塚治虫先生の驚愕する逸話の一つに、アメリカから国際電話を介して遠隔で漫画をアシスタントに描かせるといった有名なエピソードがある。その際に方眼紙で座標を指定し枠線を引かせ、背景の注文は『鉄腕アトム』の何巻の何ページを開いてくれと暗唱で行っていたそうだ。この逸話とは関係がないかもしれないが、作家と名乗る人種は皆すべからく脳内に自身の成果物のコピーを保存していて、いとも容易く諳んじることができると勘違いしている消費者のなんと多いことか。彼の場合は医学部卒であり死後も日本のアニメーション業界に多大な影響を及ぼした真の俊豪であるからできた芸当であり、私たち凡人にそんなことできない。だから定期的に原作者はもっと原作を見ろといった怪文をギャラリーから投げかけられるのだ。
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