走馬灯ループ

ユキノ

走馬灯ループ

1.01


「ブレックファーストの後のコーヒーは格別よね。しかもそれが空の上でっていうんだから最高よね、界人」


「そうですね。でも主任それお代わり何杯目ですか?」

「いいじゃない、お代わり自由なんだから」


「それより界人、いつまでシートベルトしてるのよ、あなたもしかして怖いの?」


1.02


 その時、遥のコーヒーカップがソーサーの上でカタカタと揺れた。そこから先は一瞬の出来事だった。けたたましい爆発音。それとほぼ同時に猛烈な爆風が機内を襲った。シートベルトが辛うじて私と座席を繋ぎ止めていたが、機体と座席がいつ分離してもおかしくない状況である。そして私も覚悟を決めた。


1.03


 人は死を悟ったとき走馬灯を見るという。あの時こうしていれば、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうと人生の後悔を回想する。とても恵まれた幸せな人生だった。私に後悔などあるのだろうか。そんなことを考える余裕があるほどにひどく冷静だった。そして私の走馬灯が唐突に始まった。


1.04


 断片的なフィルムが脳裏に流れ込むようなものを想像していたが、実際には全く異なっていた。それは、この世に生を受けた瞬間から、スタートした。まるで、人生を初めからやり直していると錯覚するほどのクオリティだった。ダイジェスト版でもない。倍速再生でもない。忠実に等倍である。


1.05


 気の遠くなるような時間が流れ、幾度となくこれが走馬灯であることを忘れかけた。しかし、すべての事象が自分の推測の道筋を外れない。こうなって欲しいという願いを受け入れる余地など全くない。その虚しさを突き付けられる度に、これが走馬灯であるという現実に引き戻されるのだった。


1.06


「李依、ごめん。明日の水族館なんだけど、行けなくなった」


「えっ! なんで? 約束したじゃん!」

「急な出張でロンドンに行くことになってさ」

「やだ! やだ! 行かないで!」


 小学校4年生にしては、かなり幼稚に駄々をこねる李依。


「仕方ないだろ、お仕事なんだから」


1.07


「水族館はまた今度だな」

「今度って、いつ?」

「今度は今度だよ」

「お父さんの嘘つき! もう知らない!」


 頬をパンパンに膨らませる李依。そして、心にもない思いが脳裏をよぎり、考えるよりも先につい口にしてしまった。


「お父さんなんて死んじゃえばいいのに……」


1.08


 あの子は、一生後悔する。


「私がお父さんを殺したんだ……」と。


 まだ、死ねない。私はこの思いをどうにかこの時の自分に知らせようと試みる。しかし、それは伝わらない。もがいても、もがいても。そして、次の瞬間、私は覚醒した。そう、悪夢にうなされて現実に引き戻されるように。


1.09


 まるで、時間が止まっているようだった。カップからこぼれ落ちたコーヒーの雫が空中に留まっている。そして一つの興味が湧き上がり、私は徐に目を閉じた。すると、また、等倍再生が始まったのだ。さっき一時停止された、その続きからである。


「そうか、書き換えられるかもしれない!」


1.10


「あなた起きて」


 耳元でささやく妻の声で目を覚ます。私は、無理やり上体を起こし、ベッドから勢いよく飛び降りた。それと同時に、視界が暗転する。時間にして3秒程度ってところだろうか。足がもつれてふらついたところを妻から差し伸べられた右腕に助けられ、辛うじて転倒を免れた。


1.11


「大丈夫? もう若くないんだから。気をつけてよね!」


 妻が心配するのも無理はない。私には心臓の持病があり、健康管理のために心拍数を計測するための簡単なインプラントを体に施しているくらいだ。今は、便利なもので、この健康計測アプリなるものをスマートフォンからタイムリーに確認できる。


1.12


「ごめん、ごめん、寝不足かな? 少しめまいが……」

「昨日のことまだ気にしてるの? あの子、今反抗期だから。気にしない方がいいわよ」

「そうはいってもなぁ……まぁ、出張から戻ったら休暇を取って今度こそ水族館でもどこでも連れていくつもりさ」

「そうね。李依と2人で楽しみにしてるわ」


1.13


「そういえば、遥はどう? 元気にしてる?」

「相変わらずさ」

「ふ――ん。そうなんだ……。最近、遥とも会ってないしな……」

「遥の息子のあの――、名前、え――と、なんだっけ?」

「信人君だろ」

「そうそう、その信人君も誘って、今度、5人で行かない? 水族館」

「ああ、分かった。聞いてみるよ」


1.14


「おはよう、界人おじさん。ママ、シャワー浴びてるから、あと10分待ってだってさ」

「…………………………………………」

「あっ、今、ママの裸想像したでしょ」

「はっ!?」

「だって、界人おじさんの心の声が聞こえたよ」

「何をバカなこと言ってんだ! 大人を揶揄うんじゃない!」


1.15


「中に入って待ってて」


 玄関からシャワーを浴びる音が聞こえるバスルームの前をすり抜けてリビングへと通された。


「コーヒーでいいよね」


 すでにお湯が沸騰している。こういう抜かりのなさは、李依と同い年とは思えない。やはり長年、母子家庭という環境がそうさせてしまったのだろう。


1.16


「信人、お前、3日も一人で大丈夫か?」

「全然。むしろ、清々するよ」

「そっか――、凄いな。李依なんて『やだ! やだ! 行かないで!』だもんな」


「羨まし――い!」

「羨ましくなんかないですよ! 昨日もそれで一悶着あったんですから!」


 そう言いながら私は後ろを振り返った。


1.17


 そこには全裸でバスタオル一枚という完全無防備状態の遥が立っていた。私はあまりの衝撃に目の前が一瞬真っ暗になり体勢を崩した。その勢いでバスタオルがひらりと床に落ちてしまった。


「きゃっ!!」


「ちょ、ちょ、主任!! なんて格好してるんですか? 早く! 服! 服を着て下さい!!」


1.18


「ごめ――ん、いつもの癖で……」


 バスタオルを拾う遥、私は分かりやすく両手で顔を覆い隠した。


「ママ! 界人おじさん、指の隙間から覗いてるよ――」

「もう、大人を揶揄わないの――」

「大人を揶揄うんじゃない!」


 私と遥は小学校4年生の子供に大人げなくマジギレしてしまった。


1.19


「あの子ったら『界人おじさんと結婚しちゃえば?』とか言うのよ。『ママの心の声がそうしたがってるから』って、意味分かんないわよね」


 空港に向かう車中。私が運転席に座り、遥が助手席に座っている。


「まったくどこで覚えてくるんだか? 界人にはみゆきがいるっつ――の!」


1.20


「こっちは、とっくの昔にフラれてます――。あ――虚し――たらありゃしない!」


「まぁまぁ、信人君も父親がいなくて寂しいんですよ」

「って、敬語ですか!? でた、でた!」


「そりゃ――、うちの会社の主任ですから」

「はい、はい、そうですね――」


 遥はどことなく寂しげな表情で、へらへら笑った。


1.21


 エンジン音が止まっている。無言の車内。信号が赤から青へと変わる。


「界人! 界人!」


 暗闇から一転して激しい日差しが眼球に差し込む。


「ちょっと、大丈夫? これで何回目?」

「昨日、あまり寝てなくて」

「信号待ちのたんびに居眠りされたんじゃ、命がいくつあっても足りないわよ!」


1.22


「界人、あなた疲れてるのよ。出張から戻ったら少し休暇でも取りなさい」

「それは、助かります。家族で水族館に行く約束をふいにしてしまって」


「主任も信人君と一緒にどうですか?」


「ん――、今回はパス。遠慮しとく。信人、人見知りだし」


 私には、信人が人見知りだとは到底思えなかった。


1.23


「ANCより、ご搭乗のお客様方にご案内いたします。ANC127便、ロンドン行きは、まもなく致しますと搭乗手続きを締め切らさせて頂きます。まだお済ませでないお客様は、お急ぎ出発カウンターまでお越しください」


 空港に到着した二人はアナウンスに急かされるようにカウンターの列に並んだ。


1.24


「界人、あなたのせいよ! あなたが居眠り運転なんて繰り返すから出発時刻ギリギリじゃない!」

「はる――、主任のナビが間違ってたからじゃないですか!」

「はぁ!? 全然間違ってないし――!」


 まるで痴話喧嘩のようなやり取りを交わす二人。その直後、私は完全に意識を失い足元から崩れ落ちた。


1.25


「今、何時ですか!?」


 暗闇から覚醒した私は搭乗ロビーの椅子に寝かされていた。


「もうすぐ、7時になるわよ。あなた、もういいわ。今日はこのまま帰りなさい! ロンドンには私一人で行くから!」


 不意にスマートフォンの健康計測アプリを立ち上げる。そして、とんでもない違和感に気付く。


1.26


 心拍数のグラフである。起床時のめまい、遥宅でのハプニング、運転中の睡魔、原因不明の立ちくらみが多数、8分間の意識喪失。それから、たった今、刹那のめまいが私を再び襲った。すべて、顕著に現れている。気を失っている時間が3秒以上を長点、3秒未満を短点としてモールス符号に置き換えると。


1.27


 ヒコウキノルナ。血の気の引く思いだった。この世界の外側からの神の啓示。私には遥を従わせる方法が一つしか見つからなかった。


「界人、それじゃ、私行くね」


 遥は一人で搭乗ゲートに向かって歩き出した。私は遥のところまでかけより後ろから強く抱きしめた。


「遥、結婚しよう……」


1.28


「界人、飛行機に乗るなって、どういうこと!」

「遥、会社を辞めて僕と結婚しよう。だから、ロンドン行の飛行機には乗らない」

「はっ? なんで今なの? みゆきと李依ちゃんはどうするのよ!」

「みゆきとは別れる。李依と信人と4人で暮らそう」

「そんなこと……できないよ……」


1.29


 私はとにかくこの場から離れたかった。外の世界からのメッセージに例えようのない恐怖を感じていた。突然の求婚に、感情のベクトルが定まらない遥を引きずるように空港の外へと連れ出し、行くあてもなく車を走らせた。


「嘘? 何これ? どういうこと……」


 鈍い音に二人は空を見上げる。


1.30


 そこには二人が搭乗するはずだったANC127便の変わり果てた姿があった。


「ごめん……遥……」


 私は運転席と助手席という位置関係からの謝罪では不誠実だとの思いから、助手席側に回り込もうと運転席のドアを開き、車外へと足を踏み出した。


「キキ――ッ! ド――――ン!」


「界人――――――――!!」


1.31


 私はすべてを理解した。こちら側の世界のまばたきが引き伸ばされて、あちら側の世界では視界の点滅の長短に置き換えられた半日がかりの発光式モールス符号だったということを……。同時に私は周囲の状況を確認する。運転席のドアが車からちぎり取られ、破片と一緒に中に浮かんでいる。


1.32


 自分自身はというと、ちぎり取られたドアと同じ高さ、数メートル先に留まっている。右膝から下があり得ない方向に曲がり、左腕は内側にねじれ、腹部は背骨と接するほどに凹んでいる。痛みは全く感じない。しかし、いつになっても、背中が路面に接することはなかった。


1.33


 そして、1回目の記憶もすべて同期された状態で2回目の走馬灯が始まった。あの無限とも思える予定調和がまた最初から、しかも今度は再放送である。時間は十分にある。私はこれまで自分の身に降りかかった事態について一旦整理してみることにした。


1.34


 これは、あれか、映画や小説やアニメでよく見る、死の運命からは決して逃れられないってやつ。いくら行動を変えても主人公が死ぬという結果だけは変えられない。何度も何度も無限にループを繰り返したあげくバッドエンド。そんな結末は、ごめんだ。いや、私はアニメの主人公とは違う、それなら……。


1.35


「おはよう、界人おじさん。ママ、シャワー浴びてるから、あと10分待ってだってさ」

「…………………………………………」

「あっ、今、ママの裸想像したでしょ」

「はっ!?」

「だって、界人おじさんの心の声が聞こえたよ」

「何をバカなこと言ってんだ! 大人を揶揄うんじゃない!」


1.36


「こちら側の私の声も聞こえているんだろ」


 私には確信があったわけではなかった。本来、信人はあんな稚拙な話をする奴ではないのだ。だとすると、1回目から信人にはこちら側の声も聞こえていた。そして、オリジナルの私よりも先に私と遥に飛行機事故の危機が迫っていることを知った。


1.37


 さらに、私が遥にそれを伝えても遥の性格上、容易には従わないことも同時に悟った。もしかすると、遥との車中の会話だって、後に実行するであろう遥への求婚の現実味をアシストするための伏線として信人が仕向けたものなのかもしれない。1回目から信人の手はこちらに差し伸べられていたのだ。


1.38


「つまり、こういうことでしょ。界人おじさんが死ぬという未来を変えることはできなかった。だから、僕から李依さんに、父親の死は君のせいじゃないと伝えて欲しいと……」


「話が早い、その通りさ」


「それは無理だよ。李依さんとはあまり面識がないし、僕の言葉を信じるはずもない」


1.39


「仮に李依さんの信頼を勝ち得たとしてどうだろう。他人の僕から伝えたところで、それは慰めの言葉にしかならないよ」


「ちなみに、界人おじさん、今、どういう状況なんだっけ?」


「車に跳ねられて空を飛んでいるところさ!」


「時間と場所は?」


「7時10分/東京湾アクアライン」


1.40


「心の声が聞こえるっていっても、周囲の全ての人の声が勝手になだれ込んで来るってわけじゃない。能力の対象者の意識を一時的に僕の意識の中に取り込んでいるんだ。過去の意識だって取り込める。時間と場所さえ分かれば、多分、未来でも……」


「信人、お前、まさか! やめろ――――――!!」


2.01


「世界は実は5分前に始まったのかもしれない……」


「偽の記憶を植えつけられた状態で……」


 だとすると、人の記憶にいったいどれだけの意味があるのだろうか。それでも、僕の世界は今から5分前に確かに始まった。まるで、誰かの読みかけの小説。栞が挟まれたそのページから。


2.02


 眼前が白い。背中に重力を感じ、それが天井だと初めて気付く。首を左右に動かしても色彩に変化はない。間近に視線を移す。それでも白い。


「これはシーツか? それに身に着けている衣服も」


 ようやく聴覚も活動を開始する。


「軋む音?」


 どうやら僕は、病院のベッドで目を覚ましたようだ。


2.03


 少しずつ機能を取り戻すつもりだった僕の耳につんざくような騒音が鳴り響いた。知らない女性がベッドの傍らで声を出して泣いているのである。けれど、この女性が自分にとってかけがえのない存在であることだけはすぐに理解できた。そんな彼女が僕を信人と呼ぶのだから僕は信人なのだろう。


2.04


 不意にベッドの正面に配置された鏡に映った姿が自分だと気付く。ひどく痩せ細ってはいるが、おおよそ中学生くらいだと推察できた。彼女との年齢差を考えれば。


「お母さん」


 口の周りの筋肉を使うのは初めてである。思うように動かなかったがどうやら通じたようだ。


「ママのことが分かるの?」


2.05


 僕は4年前、自宅のリビングで気を失っているところを帰宅した彼女に発見され、すぐに救急車で近くの病院に運び込まれたらしい。命に別状はなく、すぐに目を覚ますだろうとの診断で、そのまま一泊入院することになったそうだ。しかし、翌日になっても意識は戻らなかった。


2.06


 そこから先は検査、検査の毎日。病院を転々とするも原因は全く解明されず現在に至ったのだという。そして、ついに先日、主治医から最後通告を言い渡されたのだ。もう意識が戻ることはないだろう。万が一目を覚ましたとしても記憶は全て失われているだろうと。


2.07


「ママ、心配かけてごめんなさい。でも、大丈夫だから。僕、全部覚えてるから」


 僕は彼女に対する二人称を少しわざとらしく訂正した。この瞬間を逃したら一生この秘密を一人で抱えて生きていくことになると悟ったからだ。しかし、僕の母親と思われる女性がそれに気付くことはなかった。


2.08


 おのれが何者であるのか理解できない。不安、恐怖、絶望、様々な感情が僕の内側から襲いかかってくる。しかし、この女性を悲しませてはいけない、幸せになって欲しいという願いだけが魂の奥底に刻まれている。僕はこの日、彼女のイメージする彼女の信人として生きていくことを心に誓った。


2.09


 記憶が戻っている振りをするのは僕には難しいことではなかった。なぜなら、人の心の声を聞くという能力を有していたからだ。僕はこの能力をフル活用して、記憶と記憶の隙間を埋めていった。そして、高校に進学するころには、この記憶補正作業が、ほとんどすべての分野で完了していた。


2.10


 私立坂の上高校2年、高梨李依は誰よりも早く教室のドアを開ける。毎朝必ずである。当たり前のように窓際の一番後ろの席に座る。1年の時からずっと同じ席である。席替えをしてもクラス替えをしても。そして本を開き、こう願うまでが朝のルーティンである。


「誰も私に話しかけないで……」


2.11


 ページをめくる音しか聞こえなかった教室に生徒が一人、また一人と入室する。ドアの開閉、朝の挨拶、椅子と床が擦れる音、ふざけあう笑い声と怒鳴り声、様々な音が混じり合う。ホームルームの時間が近付き活気が騒音へと変わるころ、一人の男子生徒が李依のもとへ近づいてくる。


2.12


「その本面白い? いつも本読んでるよね。読書好きなの?」


「僕も、好きなんだよね――、読書。本っていいよね――、高梨さん」


「んっ? 僕? 岡本! 岡本信人! ね、高梨さん」


「えっ、私!? ありえない……」


「ひどいなぁ――。傷つくわ――。1年生からずっと同じクラスじゃん」


2.13


「何なのこの人、めんどくさい! バカなの! でも、私には関係ないわ」


 李依はこみ上げる怒りの感情を押し殺し、今度は冷静にはっきりとこう願って、タイトルも分からない手元の本に視線を戻した。


「岡本君が二度と私に話しかけてきませんように……」


2.14


 李依は登校も早いが下校も早い。いつものように、一番乗りで下駄箱に手を突っ込み上履きと靴を交換しようとしたそのときである。指の先に違和感を覚え、覗き込むとそこには、ラブレターと呼ぶには似つかわしくない体裁の無造作にちぎられたノートの切れ端が置かれていた。まるで七夕の短冊のように。


2.15


「話したいことがあります。放課後、校舎の屋上で待ってます。 岡本信人」


「会話がダメなら、手紙ならってこと? でも、結局、話したいって! やっぱりバカなの!」


 李依はこれで最後と言わんばかりに強く強くこう願った。


「岡本君が放課後、校舎の屋上に現れませんように……」


2.16


 どういうことだろう。李依は気が付くと、教室に向けて引き返していた。下校する生徒たちとすれ違う。教室を一瞥し、急に走り出す彼女。自信がなかったわけではない。ただ、どうしても確かめずにはいられなかったのである。そのまま屋上への階段を駆け上がり、鉄製の重たい扉を勢いよく開け放った。


2.17


「高梨さん、来てくれたんだ」

「えっ、嘘っ!? ありえない……」


 その場に呆然と立ち尽くす李依に信人は決定的な一言を浴びせ掛ける。


「願い事、叶わなかったね」


 その言葉で完全に戦意を喪失した李依。信人は不敵な笑みを浮かべ、淡々と一方的に語り始めた。


2.18


時間:13年前

場所:自宅


 明日は李依が待ちに待った保育園の親子遠足である。天候はというと、梅雨入り前だというのに、すっきりしない空模様が続いていた。


「明日、晴れたらいいのになぁ……」


 窓の外はどしゃ降りの雨。しかし、翌朝、見上げた空は雲ひとつない晴天だった。


2.19


時間:9年前

場所:小学校


「リレーの選手になりたいなぁ……」


 友達のすみれは足が速い。リレーの選手など一発合格で、いわゆるスポーツ万能というやつである。


「どうしたの? その怪我!?」


「自転車で転んじゃって……骨折だって」


「やった――、これで私がリレーの選手に」


2.20


「願い事がすべて叶ってしまう能力ね、それって本当なの? 偶然じゃないのかな?」


時間:1週間前

場所:高梨李依の部屋


 テスト範囲の勉強を終え、部屋の明かりを落としベッドに入る李依。


「テストで100点が取れますように……」


「それは高梨さんがまじめに勉強したからでしょ」


2.21


時間:5時間前

場所:学校の教室


「誰も私に話しかけないで……」


「窓際の一番後ろの席で、いつも本読んでたら誰も話しかけてこないって」


「何なのこの人、めんどくさい! バカなの!」

「岡本君が二度と私に話しかけてきませんように……」


「ひどいな――、でも僕には効かないんだな」


2.22


時間:5分前

場所:学校の昇降口


「会話がダメなら、手紙ならってこと?」

「岡本君が放課後、校舎の屋上に現れませんように……」


「そのくせ心配で様子を見にきてくれたんだ」


「そんな面倒なことしないで、こうお願いすればよかったんじゃない?」


「バカなの! 死ねばいいのに……」


2.23


「それはダメ――――――――!! 絶対にダメ――――――――!!」


 李依は悲鳴にも似た鋭い声で信人の言葉を遮った。それは、まるでその言葉が神様に届くことを邪魔するかのように。


「おっと、ごめん。これは少しデリカシーがなかったか。けど、わざとじゃないんだ。それは今初めて聞こえてきたから」


2.24


時間:7年前

場所:自宅


「お父さんなんて死んじゃえばいいのに……」


 本気で父親がいなくなればいいなどと考えたわけではない。ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒に生きたかった。ただ約束を守ってくれなかった父親が許せなくて、そんな心にもない思いが脳裏をよぎっただけだった。つい。


2.25


「あれ、お父さんは?」


「え、忘れちゃったの。出張でロンドンへ向かったわよ。今ごろは空の上でブレックファーストかしら。約束してた水族館に行けなくなったってお父さんと喧嘩してたじゃない」


「お父さんの嘘つき! もう知らない!」


 母親は少し揶揄うように李依の声と口調をまねてみせた。


2.26


 液晶テレビが急に報道に切り替わる。


「7時10分、羽田空港発、ロンドン行、ANC127便が東シナ海上空で爆発炎上墜落、乗員乗客の安否は不明」


「繰り返します!」


「ANC127便が東シナ海上空で爆発炎上墜落、乗員乗客の安否は不明」


「私がお父さんを殺したんだ……」


2.27


「多分、それ、君のせいじゃないよ。だって、僕は君に話しかけているし、屋上にも来られたじゃない」


「あなた何者? それってあれよね。人の心が読める的な」


「正確には心の声が聞こえるって感じかな。幼女の高梨さんの声、かわいかったなぁ――」


「いい加減にしないと、願うわよ!」


2.28


「つ――か、それ多分、そういう能力じゃないと思うよ。僕には、君の願い事が聞こえた。そして、その願い事の通りにならないように行動することで簡単に回避できた。つまり、君の力は予知能力に似た力じゃないかな。君が願ったからそうなったんじゃなくて、そうなるから君が願ってたってこと」


2.29


「お父さんが死んだのは私のせいじゃなかったってこと?」


 李依は心のうちでそう呟いた。


「その通り!」

「って、勝手に人の心の声を聞くな――!」


 反射的にツッコミを入れてしまい顔を赤らめる李依。


「何を考えても筒抜けってことね。気持ちが悪い。あなたとは仲良くなれる気がしないわ」


2.30


 信人は構わず話を進める。


「君が願ったから君のお父さんが飛行機事故に見舞われたんじゃない。君のお父さんが飛行機事故に遭う運命だったから君が願ってたってことさ」


「でも、それなら、あらかじめ私がお父さんに伝えていれば、事故は未然に防げたはず。それなら、やっぱり私のせいじゃない」


2.31


「それは、違う。あの頃、君はまだ自分の能力を正確に理解していなかった。いや、たとえ理解していたとして、当時の君に何ができた」


「そんなこと……分からないじゃない……」と言いかけて李依は話すのをやめた。なぜなら、この人には言わなくても伝わるのだから……


2.32


 もっと早く自分の能力に気付いていれば、お父さんを救えたのではないかという後悔の念は心に深く刻まれた。しかし、それ以上に、ひとつの真実だけで彼女の心は救われた。


「私がお父さんを呪い殺したわけではなかった……」


「そう、君は悪くない」

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