1.休憩室

 芦田先輩は、近頃煙草をやめたらしい。

 そのせいで、ずっと苛々している。そんなに苛々するならやめなきゃいいのに、とも思うが、アイドル似のかわいいカノジョと約束した事らしい。


 ボクは休憩時間中はいつも、缶コーヒーを飲んでボーッとしている。時間を潰す方法をそれ以外に知らない。

 強いて言うなら学校の課題——無数のデッサンという考えたくない課題——をやってもいいんだけど、ボクはそこからあえて目をそらしている。だって今じゃない。いつか、描きたい、いや描ける時が来るのを待ってるだけなんだ、ボクは。


 で、喫煙できなくなった芦田先輩は休憩時間中に暇を持て余している。結果、ボーッとコーヒーを飲んでいるボクを見て、

「木之本チャン、それいいな」

と言って、真似してブラックコーヒーを飲み始めた。とはいえ、苛々は半分程度にしか収まっていない。正直、いつ爆発するか分からない爆弾が隣に座っているのはあまり居心地はよくない。


 「2丁目のさ」

「あ、はい」


 だから、芦田先輩が何かを話し始めた時は、ボクはとにかく素直に聞くようにしている。人生に一切必要のないくだらない話が99%だとしても。余計な口を挟むと、苛々混じりに3倍になって返ってくるからだ。

 「新しくコンビニ建つ予定のさ、空き地あるじゃん。木之本チャンさ、覚えてる?」

「ああ、ありますね」

「ああいうところってさ、前に何建ってたか覚えてる?」

「……」

ボクは返答に困った。何故言い淀んだのかは、まぁ今は置いておこう。

「いや、覚えてないッス」

「だよな。木之本チャンもそうだよな」


 だよな。それで会話は終わってしまった。通常のボクだったら、はあ、とかまあ、とか言って缶コーヒーを一口飲んで、またスマホ弄りに戻るところだった。

 でも、なんというかその話題が、気になってしまった。

「あの」

「なに」

「その工事現場の前の土地、どうしたんですか」

「ん? いーや」

芦田先輩は、ふんと鼻を鳴らした。

「そういうの、あんまり覚えてないもんだよなって話。街中で工事現場とかやってると、ああ工事やってんだなって目につくだろ。音でけぇから」

「はい」

「でも、じゃあこの工事やる前は何の建物建ってたんだって、思い出せないよな」

「そう、ですね」

「だよな」


 何か、不明瞭。芦田先輩の歯切れの悪さに、ボクは妙に心がざわつくのを感じた。直感が、言っている。気になる、しかし立ち入ってはいけない、と。


 「あの前の建物、って確か」

おいだめだ。踏み込むな。ボクの直感を制して、好奇心が口から飛び出した。

「結構普通の民家、でしたよね」

芦田先輩の目が見開かれる。

「覚えてんのか」

「はぁ、まあ……季節の花の香り、好きなんで。なんか……白い洗濯物の家、って覚えてます」

「そうかよ」

芦田先輩は、すはぁーっ、と不思議なため息をついた。数秒経ってボクは、センパイが煙草を吸っていた時の名残なのだと気づいた。


 「やっぱ、普通の民家だったよな」

「はい、どうかしたんですか」

「……」


芦田先輩は、大きな手で顔を拭った。

「俺、バイトの帰りさ、いっつもあの工事現場の前を通るんだよ」

「はい」

「で、マジで人から聞いた話だったら『んなもん勘違いだろ』って一言で終わらせるンだけどさ」

「はい」


 「夜な夜な、工事現場から、女の泣き声が聞こえるんだよな」


 がちゃりと事務所のドアが開いた。

「ちょっと芦田くんに木之本くん、休憩終わったよぉ」

ベテランパートの九十九さんのダミ声が、ボクたちを現実に引き戻した。



<続>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る