4-3



 屋上に着くと、やはりここも黒いモヤで覆われていた。

 周辺には病院より大きな建物がないので、本来ならすぐ近くを通る大きな道路や、ずっと遠くまで続く街並みを見下ろせて、景色のいい場所のはず。

 しかし視える人間にはそれどころではないくらい、黒くて濃いモヤが屋上を埋め尽くしていた。

「うわぁ、なにこれ」

「さて、どこに潜んでやがるかな」

 二人は手分けして辺りを探索しはじめる。

 屋上は周辺をぐるりと金網に囲まれ、給水設備や電気設備のほかベンチなどもあって、本来なら景色を楽しみながら過ごす憩いの場らしい。

 モヤが濃く出ている場所を探して辿っていくと、すぐに疑わしいものを見つけた。

 屋上の出入り口にもなっている部分の、側面の壁に大きくて奇妙な、蝶のようなイラストが描かれている。一見ただのイラストのようだが、ぼんやりと光っているように見えた。

「病院のロゴ……じゃないよね?」

「んなわけねーだろ」

 すると不意に絵だと思っていた蝶がゆっくりと羽を動かし始める。

「プ、プロジェクションマッピング!?」

「だからちげーっての! こいつが犯人だ!」

 菖は呆れたように息を吐くと、すぐに担いでいた布の袋から木刀を取り出した。

「そんじゃ、さっさと……」

 木刀を構え、先端を不思議な蝶の絵に向ける。すると黒いモヤの中のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえてきた。

「え、なに? なに?」

「……相手すんな。無視しろ」

 ゆっくりと羽を動かしていただけの蝶が、突然壁の上を這い回るように旋回しながら移動し始める。そして壁から飛び立つように離れてしまった。

「しまった!」

 不気味な色合いで鮮やかに光る蝶は、黒いモヤの漂う空中で、ひらひらと楽しそうに舞う。

 キラキラと光る鱗粉を溢しながら旋回していた蝶は、不意に四葉の方に向かって飛んできた。

「うわっ!」

 思わず後ずさった拍子に尻もちをついてしまう。

「まずい、四葉!」

《ねぇ、会いたい人がいるんじゃない?》

 菖の呼び声を掻き消すように、柔らかい女性の声が耳元で囁く。

「……え?」

 よく知っている、懐かしい声。

 目の前に迫ってきたはずの不気味な蝶が、グッと近づいた途端に人の姿に変化した。それもまた、よく知っている姿に。

「お母さん……!?」



 ハッと気付くと、キラキラと眩しい世界の中にいた。

「あれ、ここは?」

 菖と一緒に病院の屋上にいたはず。体勢もさっき尻もちをついた状態のままだ。それなのに、風景がまるっきり違う。

 ほんのりと虹色を帯びた光が辺りにバラバラと散らばり、白い雲のような霧ようなものに囲まれていて、左右を見渡してもここがどこだかよく分からない。頭上を見上げるも同じような光と雲がずっと高くまで続いている。

「……なにここ」

 呆気にとられていると、遠くから声が聞こえてきた。

 女性の、それも聞き覚えのある声。

「四葉!」

 霧の中から姿を現したのは、綺麗に整った顔立ちに大きな瞳、目元や口元にほんのりと上品なシワをたたえた、在りし日の母だった。

「……お母さん?」

「四葉、会いたかった!」

 座り込んだままの四葉に、勢いよく抱きついてくる。

 ふんわりと甘く、それでいて清々しい香りにぎゅうっと包まれた。

 ──金木犀の香水。お母さんの匂いだ。

 母が生前、好んでつけていた香水の匂いに、懐かしさが込み上げて鼻の奥がツンとする。

 そういえば、菖からも時々似た香りがすることがあったなぁとぼんやり思い出したが、母がぎゅうっと抱きしめて、四葉の頭を優しく撫でてくれたので、その思考もすぐに消えてしまった。

「あなたは本当によく頑張っているわ」

「みんなのおかげだよ」

「本当に優しい子ね、四葉。さぁ、ほら」

 母はそう言うと身体を離し、四葉の横に座り込むと、自分の太ももをぽんぽんと叩いてみせる。小さい頃、母が膝枕をしてくれる時の合図がそうだった。

 四葉は懐かしくなって、誘われるまま横になり、母の太ももに頭を乗せる。

 なんだかあったかくて、心地いい。

「ふふ、疲れたでしょう? ゆっくり休みなさい」

 母の優しい声に、心がゆっくりと解けていくようだ。

 ──気持ちいい。

 色々なことが立て続けに起きていて、ここ最近はのんびりとなんてしていない気がする。

「ずぅっとここにいていいのよ」

 心地よい声と、優しく頭を撫でる手つき。

 まるで幼い頃に戻ったかのよう。

「外にいたら大変なことばかりだもの。特にあなたは、大変な目に遭いやすいものね」

 母はいつも、何かと不幸に襲われる自分を心配して、いろんなお守りを持たせてくれていた。母方の祖父の家が檀家さんだったのもあり、小さい頃は毎週のようにお寺にお参りしていたのを思い出す。

「ここにいれば、辛いことも嫌なことも起きないわ」

「……うん、そうだね」

 確かに、ずっとここにいれば大変な目に遭わなくて済むし、いいかもしれない。

 そう思いながらウトウトと、夢見心地でいる頭の隅にふっとあの綺麗なツリ目の同級生の顔が浮かんだ。

 ──ああでも、そうだ。

「……でも、僕がここにずっといたら、菖くんが困っちゃうからなぁ」

「あら、彼なら一人でも大丈夫でしょう? 四葉が気にすることじゃないわ」

 くすくすと笑いながら答える母に、違和感を覚える。

「……え?」

「それに、嫌なんでしょう? あの子のこと」

 驚いて母の顔を見上げたが、そこに浮かべた優しい笑顔はそのままだ。

「人づかいも荒くて、横暴で。あんな意地悪な子のために、四葉が身を削る必要なんてないのよ」

 母の言葉の影で、何かがパリンと小さく割れる音がした。

「だから、四葉はずっとここで、お母さんと一緒にいましょう?」

 何を言っているんだろう?

 四葉は身体を起こす。

「……ちがう」

「四葉?」

 母は、明らかに悪いことをした犯罪者ですら、一方的に悪い奴だと決めつけるような言い方なんてしない人だった。

 意地悪をされても、その人にも何か理由があったのかもしれないね、と言うような人だ。

「確かに、菖くんは俺様で意地悪だけど、優しい人だよ!」

 目の前の母の形をしたものは、最初と同じ笑顔のままでじっと四葉を見ている。

「それに、お母さんはそんなこと……友達を見捨ててもいいみたいなこと、絶対言わない!」

 四葉が叫ぶと同時に、もう一度パリンと遠くで何かが割れる音がした。

 そして何か声が、頭上の方から小さく降ってくる。

「四葉! 聞こえるか、四葉! しっかりしろ!」

「……菖くん!」

 四葉はようやく、ああそうだった、とこの空間に来る直前にやっていたことを思い出した。

 病院に巣食う蝶のような化け物を、祓うために来たのだ。

 慌てて立ち上がり、出口はないかと辺りを見回す。

 すると、母の形をしたモノがすーっと立ち上がり、笑顔を貼り付けたまま近づくと、四葉の首を両手で絞めてきた。

「どうして? どうしてお母さんの言うことが聞けないの?」

 母は絶対にこんなことしない。

 言うことを聞かないからと、暴力を振るうことなんてしない。

「お前は母さんなんかじゃない!!」

 叫ぶと同時に、四葉はその母の姿をした偽物を思い切り突き飛ばした。



「しまった!」

 不気味な色合いの巨大な蝶が壁から離れ、怪しい鱗粉を振り撒きながら舞ったかと思うと、四葉に向かって飛んでいく。

「まずい、四葉!」

 木刀を振ったが僅かに届かず、巨大な蝶は四葉の身体にぶつかるようにして消えてしまい、尻もちをついていた四葉はそのまま後ろに倒れてしまった。

 慌てて駆け寄ると、仰向けに寝そべる四葉は、スースーと寝息を立てて眠っている。

「……くそっ」

 あの蝶の姿をした化け物は、おそらく魅力的な夢を見せ、幻覚の中に捕らえてしまう夢魔の類だ。

 眠っているだけと言っても、人は生きているので、何も飲まず食わずで眠り続ければ、いつかは餓死する。そうして死んだ者の魂を喰らうのが夢魔なのだ。

「四葉! 四葉おきろ!」

 いくら揺すっても、頬を叩いても、四葉はきっちり目を閉じたまま。

 このままだと、四葉も死ぬまで眠り続けることになる。

 目を閉じたまま何の反応も示さない姿に、嫌な記憶が一瞬だけ重なって、菖は息を呑んだ。

「……いやだ」

 どくどくと心臓が早鐘を打つ。

 額にじわりと汗が滲んできた。

 ──落ち着け、大丈夫、大丈夫だ。あの時とは違う。

 菖はぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと呼吸を整える。

 何度か深呼吸をしているうちに、落ち着いてきた。

「よし……」

 ゆっくりと目を開き、現在の状況を冷静に考える。

 四葉の中には今、夢魔が入り込んでいる状態。きっと彼に都合のいい夢を魅せ、眠りに誘っているのだろう。

 ならば、追い出してしまえばいい。

 菖はゆっくり立ち上がると、横たわる四葉の腹の辺りに木刀の先を当てる。それから目を閉じて、ゆっくりと口を唱え始めた。

ケマクモカシコ伊邪那岐大神イザナギノオホカミ筑紫ツクシ日向ヒムカタチバナ小戸ヲド阿波岐原アハギハラニ……」

『澱み』などの穢れを祓う『浄化』の際につかう祝詞ことばを唱えながら、菖は木刀を通して四葉に霊気を流し込む。

 ──四葉! 聞こえるか、四葉! しっかりしろ!

 霊気と一緒に思考を流し、夢魔の世界にいる四葉に呼びかけ続けた。

 空はすでにオレンジ色に染まり始めている。

 するとしばらくして、一瞬だけ空耳のように自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 ハッと気付いた次の瞬間、四葉の身体から不気味な蝶が飛び出してくる。

《……チッ!》

「よくやった、四葉」

 菖はすかさず怪しい光を放ちながら羽ばたく蝶の胴体に木刀を突き刺した。

「とっととくたばれ! ハラタマキヨタマエ!」

 詠唱が終わると同時に、甲高い悲鳴が細長く響く。やがてそれは、胴体も羽も爆発して霧散するとともに、よく晴れたオレンジ色の空に溶けるように消えていった。

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