1)キスの対価と新世界の契約
1-1
「いってきまーす」
翌朝、熱も無事に下がり、しっかり朝ごはんも食べた四葉は、元気よく家を出る。
しかし、油断はならない。
不幸に愛された『幸運の四葉のクローバー』とはほど遠い黛 四葉にとって、もっとも警戒すべき時間は登下校である。
というのも、朝学校へ向かうたびに必ず一回は何かしら不運に遭遇するからだ。
例えば、散歩中の犬に突然飛び掛かられたり、空飛ぶ鳥にフンを落とされたり、よそ見運転の車が突っ込んできたり。軽いケガであれば自分で治療できるよう、通学鞄に応急処置のセットを常に入れているくらいである。
もちろん下校時も同様のことが起きやすく、一緒に登下校をしてくれる友人はいない。
──昨日は、鳴崎くんに会ったのがそれだったな。
困っている人を見ると、つい手を貸してしまう。
過去にも倒れている人を介抱したら、殴った犯人だと決めつけられたり、財布を盗もうとしただろうと因縁をつけられたりしたことがある。昨日のようにキスを強要されたのは初めてだったが。
お人好しも直さなければと思うけど、やっぱり困っている人は気になるし、自分なんかが手を貸すことで事態が好転するなら、正直悪い気はしない。
そんなことを考えながら歩いていたら、学校に着いてしまった。
「……あれ?」
正門に掲げられた学校名を見る。『都立清宮高等学校』とあるので、間違っていない。
──何も起きなかった?
そして何も起きずに、学校に辿り着いてしまった。
「おー、黛。今日は無事みたいだなぁ」
正門前で挨拶と見守りに立っている体育教師が、にこやかに笑う。
この先生は、自分がしょっちゅう血まみれで登校してくるのを、急いで保健室に運んでくれたりしている先生だ。
「は、はい。おはよう、ございま、す?」
──いや、そんなまさか。
四葉はぶんぶん頭を横にふる。
しかしまだ、気は抜けない。教室にたどり着くまでに、何か起きるかもしれない。階段を上がっている最中に、他の生徒とぶつかって転がり落ちたこともあるのだ。
改めて気を引き締め、昇降口で上履きに履き替える。そして教室のある三階へ向かって階段を登った。しかし、
──あれ? ……あれ?
緊張とは裏腹に、さして何も起きることもなく、所属する二年四組の教室に着いてしまった。
辿り着いてしばらく中に入れなかったが、ここにいては邪魔になると思い直し、自席に向かう。
「お。おはよー、四葉。今日は何があったー?」
すでに登校していた隣の席のクラスメイトが、挨拶がわりと言わんばかりに訊いてきた。いつもなら今日はこんなことがあったんだ、と話している相手なのだが、四葉はただただボー然とした顔で着席しながら答える。
「……なにも、なかった」
「は?」
「ほ、本当に、何もなくて……」
これまでそんなことは一度だってなかった。
小学生の頃から、軽くて擦り傷、やばい時は救急車で運ばれて登校できなかったこともある。それが何も起きないだなんて。
「おー、よかったじゃん」
「ど、どうしよう。明日、世界が終わったりしない?」
「……普通は何もないもんなんだよ」
クラスメイトはそういうが、四葉にとっての普通は何かしら不幸な目に遭うことだ。
もしかしたら、学校にいる間にとんでもない事件、もしくは事故が起きるのでは?
そんなことを考えながら、身構えて過ごしたのだが、結局何事もなく、昼休みになった。
──な、何も起きない……!
一人机に突っ伏して、四葉はただただ驚愕する。
「おう、どうした四葉」
「あ……いや、平和すぎて、ビックリしちゃって」
かつてこれまで、こんなに平和な午前中があっただろうか。
今までであれば、午前中に一回は何かしら起きるものだ。それがここまでないとなると、このまま何もないか、逆にすごいことが待ち構えているの二択しかない。
「そんなことより、飯くおーぜ」
「あ、うん」
昼食はいつも、クラスでよく話すメンツで近くの机を寄せ合って食べている。
四葉は毎朝父の作ってくれるお弁当を持ち込んでいるが、他の生徒はだいたい購買で買えるパンやおにぎりが多い。
母が数年前に亡くなっており、今は父と姉の三葉、自分の三人で家事を分担しているのだが、お弁当は父が自分の分を作るから、と毎朝せっせと用意してくれる。蓋を開けると、卵焼きに冷凍食品の唐揚げやウインナー、ほうれん草の胡麻和えなどが丁寧に並んでいた。
「──……いただきます」
優しい家族に囲まれているおかげか、様々な不幸に遭遇してもどうして自分ばっかり、と落ち込むことはほとんどない。ただそのせいでケガや入院が多く、家族に心配をかけるのだけが、心苦しい。
「しかし、そんだけ何も起きないってことは、その不幸体質がついに治ったんじゃね?」
「うーん、そうなのかなぁ……?」
「例えば昨日、いつもと違うことがあった、とか」
「昨日はぁ……」
言われて四葉は、昨日のことを思い出す。
いつもと違うことといえば、昨日の放課後、校内でも人気の有名人・鳴崎 菖に会って、なぜかキスをされたことくらい。
──……キス。
頭の中に鮮明に、あの瞬間のことが蘇る。
分厚い舌まで入れられて、まるで唾液を擦りとるように執拗に絡めてきて……。
思い出した途端に、顔から火が出そうになった。
「……顔赤いぞ、どうした?」
「な、な、なんでもない!」
「ゆでだこみてー。ははーん? さては何かあったな?」
「いや、その……」
クラスメイト二人に問い詰められて、どう言い訳をしようか、と考えていると、突然女子の甲高い歓声が響いた。
「なんだ?」
声のしたほうを見ると、教室の後ろの出入り口に人だかりができている。そのほとんどが女子生徒で、キャーキャー騒ぐ人で壁が出来ていた。
何があったのかと見守っていると、その向こうから聞き覚えのある声がする。
「黛 四葉に用があるんだが」
するとざわざわと騒がしい人垣がゆっくりと割れ、その向こうから見覚えのある人物が現れた。
長身で整った顔立ちに、猫のようにどこか色気のあるツリ目が印象的で、女子生徒たちから『氷の王子様』と密かに呼ばれる、鳴崎 菖である。その後ろには、普段から菖とよく一緒にいるという、
「あぁ、いた。ちょっと、顔を貸してくれないか」
持っていた箸が、カランと音を立てて机の上に落ちる。
言った本人は勿論のこと、彼を囲んでいた女子生徒や、教室内で各々昼食をとっていたクラスメイト達も、一斉に自分のほうを見ていた。
どうやらこれに、拒否権はないらしい。
「……は、はい」
四葉はお弁当の蓋を戻して静かに立ち上がると、先に教室を出て歩く菖と陽葵の後ろをついていった。
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