第5話 魔法使いの家
魔法使いの名前は薫子さんと言った。名乗ったからには私も、と思い「秀です」と言うと「秀さん。いい名前ね。風の音みたい」と不思議なほめ方をした。
薫子さんは手を握ったまま歩きだした。
小さな子にするようなことをするんだなと思ったけど、優しく握る手が心地よかったし、私はそれに対して何も言わなかった。
一人で走ってきた道は暗がりと言うのもあって昼間と違った。もしかしたら薫子さんが独自の近道を知っていて通っているのかもしれない。
黙ったまま歩いていると、薫子さんはこちらを振り返って「大丈夫?」と話しかけてくれた。
私は疲れもあって、あまりはきはき返事ができなかった。
しばらくしてから足が再度痛み出した。
薫子さんの歩くスピードは私に合わせたペースでゆっくりだったけど、それでも痛くなってしまった。そりゃあれだけ走ればそうなるだろう。
耕された畑を横目に住宅街へ入っていく。そこまでこればなんとなく見知った風景だった。思ったよりも早い時間でマンションまで近づいている気がする。私はずいぶん遠回りをして図書館に行っていたらしい。
マンションについた頃には、五月と言うこともあって周りはもうとっぷり暗くなっていた。
薫子さんに手を引かれ、私はいつもの登る古びた階段の前を通り過ぎる。
そして3号棟まで歩いていって「こっちよ」と手でこいこいとする。
そこでようやく手が離され、私たちは3号棟の、私の住む1号棟と大して変わり映えのない汚くて古い階段を登って行った。
3階までなんとか足を動かして、はあはあ言いながら登っていくと「ここよ」と薫子さんは立ち止まる。私の家とよく似た重たそうなドアを指さした。ポケットから鍵を取り出した薫子さんは、扉にそれを差し込み、片手でドアを開いて見せた。
「どうぞ。ゆっくりしていって」
開かれたドアの向こう。ぼんやりとした明かりにたらされた家に薫子さんは慣れた動作で入っていった。私は、その背中を追って中に入る。
—―――その時、世界は一変したような気がした。
我が家と同じ作りの部屋が待っていると思っていたけれど、一目見たときそれは間違いだとわかった。
扉をあけられたとき、魔法の世界につながったんだと思ってしまった。
「わぁ……」思わず、声が出た。
まず、玄関入ってすぐの廊下は我が家と同じ白い壁が見当たらなかった。
廊下へと続く玄関の間の壁には、海の底のような色の布が張られ、星のようなものがきらきら描かれていた。なんのために貼ってあるのかはわからないけど、夜の外がそのまま部屋までつながっているみたいだった。
それだけで素敵なのに、玄関すぐ横の靴箱には小さな花瓶が置いてって、そこには枯れた花が刺さっていた。枯れた花を飾る文化はうちにはないけれど、それがなんだか、不思議と汚いとか思わない。繊細な砂糖菓子を見ているような気分になる。
その周りには紅茶色のような、小さな金具の小物が何個か置かれている。方角が書いてあるからコンパスのようなものだろうか。古そうで、壊れたら怖いから触らないでおいたけど、とても気になった。
私は目に飛び込んだものすべてが物珍しく、魔法使いの秘密道具のようなものばかりなので、圧倒されていった。
のろのろと、玄関の扉をしめて、中に入っていく。
ドアも窓も閉めきっていてあるけど明るいのは、うちにはない小さなランプが置かれているからだ。
ぽあ、という音が聞こえてきそうな優しい光が玄関先を照らしている。
薫子さんは靴を丁寧に脱ぎ、端にそろえた。うちの玄関とは違って、靴は脱ぎ散らかされてなかった。
私は口をぽかんと開けて、ぼおっとした頭のまま靴を脱いで、失礼のないようにそろえた。
廊下は両面棚で覆いつくされ、棚には宝石のような石が一定間隔で綺麗に置かれている。
私はじいっとそれを見ながら、奥へ奥へと進んでいった。泥棒が入ったら大変な家だ、と思うと緊張感が高まってきた。
薫子さんが先だってリビングの扉を開けると、そこもまたすごかった。
床には赤い、りんご飴のような色をした絨毯が敷かれてあった。模様も細やかで、アラジンと魔法のランプの空飛ぶ絨毯はきっと同じ人が作ったんだろうな、と直感的に思った。
薫子さんは同じくリビングに入ったかと思うと、私のほうを見て、赤ワイン色のソファを手で示した。
「手を洗ってあそこのソファで待っていてちょうだい。すぐお茶を入れるわ」
私はこくりと頷き、薫子さんの背を見送った。
手を洗う場所は私の家のつくりと同じならあっちのほうだろうと、リビングを出て廊下のすぐ左を伺う。
(ここも素敵…)
丁寧にそろえられたタオルとかわいい木の籠が置いてあった。タンスも木製で、綺麗なカーブが描かれた引き出しがある。
さすがに備え付けの洗面台と隣の洗濯機は普通だったけど、洗面台にはいい香りのするピンクや紫の瓶がずらっと並んでいた。私はそれらに触らないで、手を洗い、パッケージが書かれてない、水色の四角いハンドソープっぽいものを泡立てた。
タオルは白じゃなくて黒いハンドタオルがかけられていたのでそれで拭いた。
もう何が正解かはわからなかった。我が家と違いすぎる。
私はドギマギしながらソファに戻った。
私は部屋を見渡した。りんご飴のような魔法の絨毯、廊下の宝石の棚、ダークチョコレート色の家具が置かれ、これではまるでヨーロッパのお城!夢にまで見た魔法使いの城だった。
お城だからこそ、なぜ私がここに居るのかわからない。さっきまで図書館の外でおじさんに絡まれていたのに。これは夢?本当に現実?
そんなことを考えていると、リビングのドアがきいと開いた。なにやらお盆にたくさんのものを乗せた、薫子さんが現れた。
「お待たせ」
テーブルクロスが敷かれたテーブルに、お盆をそっと置く薫子さん。お盆の上はティーポットとティーカップだった。
我が家の急須よりよっぽど大きい白いポットとティーカップ。目の前の薫子さんは手慣れた手つきで白いポットを傾ける。薫子さんのカーディガンの裾と黒髪が動きに合わせてゆっくり揺れる。
「どうぞ、めしあがれ」
薫子さんが差し出したのは、小さな青い花柄のティーカップ。澄んだ琥珀色の紅茶が八分目まで入っている。いい香りがする。
家のティーパックで入れた紅茶とは違う、なんだが甘酸っぱい香りだ。その香りがなんだか、この現実味のない現実を、さらに遠くへ持っていってしまいそうだった。
(どうしてここにいるんだろう、私)
こんないい香りの紅茶があって、素敵な部屋、今まで見たことない。私が今までいた世界からは程遠くって、なんだか脳がちかちかしてしまう。
(これは本当に現実?)
(何かの魔法?)
(この目の前の人は、魔法使いか何かなのかな…)
そんなことを思いながら、私は紅茶をただ見つめた。
薫子さんは私の隣に座り、うつむいて黙る私を見て「飲んでいいのよ」とほほ笑んだ。
その言葉で私はようやく手が動き「い、いただきます」と言って、カップを持ち上げた。
作法もわからず、そのまま飲むと、家で飲むティーパックの紅茶のような味はしなかった。
その代わり渋みとフルーティーな香りがぶわっと口に広がる。味は紅茶に似ているけど、家で飲むものと全然違っていて、私は目を大きくする。
「なんか、すごい香りがします……」
「白桃の紅茶よ」
「はくとう」
「桃よ桃」
白桃の意味も分からず私は恥ずかしくなった。私は「おいしいです、この紅茶」と頭を下げる。
「そう?よかった」
薫子さんはそう言って紅茶を置いた。その後「それで」と一呼吸おいて私を見る。
「どうして、あんなところにいたの?」
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