3.帰還
「どっちも嫌だ!」
リリルは弾丸のように駆け出した。一直線に段差を登り魔女のふところへ飛び込んで、右手に握られたババアの《心》へ喰らいつく。
だがその直前、魔女の体が煙のように消えた。目標を見失ったリリルは前へつんのめって転びかける。
「強欲者め」
背後から聞こえる魔女の声。反射的に振り返ったリリルの顔から血の気が引く。魔女が高々と杖をかかげ、リリルの脳天へ振り下ろさんとしている。その刹那、
「ばああああああ!」
ルキウスが魔女の背中へ突っ込んだ。不意打ちは見事に命中。魔女はうめきながら前へ吹っ飛び、リリルを巻き込んで玉座のそばへ倒れ込んだ。
その手から赤い宝玉が転がり落ちる。
《心》!
とっさにリリルは《心》をつかんだ。自分の上に覆いかぶさる魔女の体を蹴っ飛ばし、大急ぎでルキウスに駆け寄る。
「逃げよう!」
「どうぞ」
「アンタも!」
「レディ・ファースト」
リリルの前に庇い立つルキウス。ようやく体を起こした魔女が憎々しげに吐き捨てる。
「畜生! 貴様は己が最も醜いと思うものになれ!」
「わあ」
魔女が杖の先から稲妻を放ち、ルキウスの額を貫いた。すさまじい閃光と爆風とが炸裂し、リリルはなすすべなく吹き飛ばされる。床を転がり、柱に激突してようやく止まる。もうもうと立ち込める黒煙の中から、相棒の絶叫が聞こえてくる。
「走りなさい! 僕の献身を無駄にしたら、もう一生許しませんよ!」
ルキウス。ああ、愛しいルキウス!
リリルは立った。走った。跳んだ。風となって城から駆け出し、零れた涙も置き去りにして、山の急斜面を転がりおりた。
そのとき、リリルの背後で凄まじい轟音が弾け出た。走りながら振り返れば、城が内側から破裂して、星の数ほどの鏡の欠片をまき散らしている。さながら光の洪水。みとれるほどに美しいが、あの一つ一つがリリルに襲い掛かる凶器なのだ。
「うわあああっ」
鋭く尖った破片がリリル目掛けて降り注いでくる。全身をずたずたに切り裂かれるのも時間の問題……と覚悟したその時、白銀に輝く大蛇のようなものがリリルの周りに渦巻いて、たちまち広がり、一つに繋がり、巨大な盾と化して降り注ぐ刃を弾き返した。
あの少女たちだ。山を覆う鏡の破片に住んでいたあの子らが、我が身を盾としてリリルを庇ってくれたのだ。
「逃げて、親切なひと! 貴女は帰らなきゃ」
「ありがとうっ」
リリルは走った。非現実的なまでの速さで。
あれほど登るのに苦労した山をほんの数分で駆け下り、不毛の荒野を一息に越え、田畑の散らばる平原にまで来たところでリリルは恐るべき声を聞いた。
「貴様などに《心》は渡さぬ!」
魔女だ。後ろを見れば、両腕を鴉の翼に変化させた魔女が、土気色の空を切り裂きながらすさまじい勢いで追ってきている。リリルは負けじと雄叫びをあげた。
「うるせえ! ババアは私が助けるんだ!」
「そのババアへ憎まれ口ばかり叩いてたくせに!」
「それは……」
「死ねだのクソだの口汚く罵っておいて、今さら《心》を引き留めようとは虫がよかろう!」
「違っ……本当の気持ちは……」
「本心で愛していれば、どんなに傷つけても構わないとでも?」
「違う!」
「何が違うか分からんがね!」
魔女が叫ぶと、その口から雷光がほとばしった。幾股にも枝分かれした光の鞭が大地をカチ割り天を舐め、草木も動物も焼き尽くしながら閃光と轟音とを狂い咲かせる。リリルは逃げた。必死に逃げた。矢継ぎ早に撃ちおろされる稲妻の魔手を、右へ、左へ、転げるように避け続けた。
「おのれ……おのれ! 余にだって、甘えられるババアがいれば!」
「えっ」
リリルは目を見開いた。
走りながら、振り返る。
そのとき、横手から飛んできた石くれが、魔女の頭に命中した。悲鳴をあげて墜落する魔女。そこを狙って数限りない小石が四方八方から投げ込まれた。
「魔女だ!」
「よくも埋めてくれたな」
「殺してやる!」
あれは作物人間たちだ。自由を得た彼らが、怨みを晴らすべく魔女に石を投げ始めたのだ。石がまた一つ魔女に当たった。また一つ。また一つ。魔女の顔面のあちこちから、鮮血が噴き出しはじめた。
リリルは足を止めた。
「やめて!」
リリルは再び走りだした。飛び交う石の雨の中へと。
いくつもの石がリリルの体に食い込む。リリルは歯を食いしばって痛みに耐えて、魔女のそばに駆け寄った。膝をつき、手を伸ばす。地へはいつくばっている魔女の体を、胸の中へ、包み込むように抱きしめる。
投石が止んだ。
リリルは――魔女を抱き起した。自分の服の裾を破り取り、魔女の顔面の血を拭い、傷口へ布をあてて止血を試みる。魔女は呆然となすがままになりながら、微かに唇を震わせた。
「なぜだ」
「血が出てた」
「いつものことだ」
「それがどうした」
魔女は黙った。
そのまま長い時間が過ぎた。作物人間たちは投石に飽きて散っていった。風が埃を吹き払い、雨が心と体を清め、熱い陽射しが苦痛を癒した。頃合いを見て、リリルは慎重に傷から手を離した。血は止まっていた。
「お前は」
魔女は呻いた。リリルの胸に、泣き濡れた顔をうずめたまま。
「確かに姫だったのだ、誰もがそうであるように。だがヒトはリヴァーシアの王にはなれぬ。なれたと主張する者もいるが……余は信用していない」
「分かるように言ってよ」
「いつまでも居座るような場所じゃないのさ、ここは」
魔女はリリルの腕をすりぬけ、おのれの足で立ちあがった。リリルも彼女の正面に向かい合う。こうして見れば明白だ。なぜ今まで気づかなかったんだろう。城の周りにいた鏡の少女たちも、そしてこの漆黒の魔女も、リリルに瓜二つではないか。
リリルはカバンを探り、その奥底に残った最後の持ち物を取りだした。ババアがくれたお弁当、干し肉とキュウリのサンドイッチ。
「これ、あげるよ」
「よいのか?」
「いいよ。次からは自分で作る」
リリルははにかむ。目を細めて応える魔女の丸みを帯びた唇に、リリルはそっと、自分の唇を押し当てた。生まれて初めてのキスは心地よく濡れ、火のように熱く、わずかに血の味がした。
「さよなら。いつか必ずまた会える」
*
リリルは目を覚ました。
そこは見慣れた家の中。リリルは床に膝をつき、ベッドにもたれかかるようにして眠りこけていたのだ。リリルは弾かれたように立ち上がった。ベッドにはババアが横たわり……安らかな寝息を立てている。顔色もいい。
助かったのだ、ババアは。
リリルは安堵の溜息をついた。
家の中は全て旅立った時のままだった。長いこと冒険してきたはずなのに、こっちではほんの一晩しか経っていないらしい。あれは本当の出来事だったのか? 魔女、鏡の城、リヴァーシア……
「ぜんぶ妄想だったのかなあ」
「そうであったらどれほどよいか」
突然低音の男声で耳をくすぐるように囁かれ、「ひゃあっ!」とリリルは悲鳴を上げた。振り向こうとして足がもつれて転びかけたリリルの腰を、筋肉質の腕が抱き留める。男だ。見たこともない長身の男が、いつのまにかリリルの家にいる。
「誰!?」
「そこが問題でしてね」
……聞き覚えのある物言い。
「ルキウスゥ!?」
「はあ。ショックですよ。世界一醜い生き物に変身させられてしまいました。角もないし、毛も薄いし」
「マジか」
「というと?」
「いや……カッコいいよ。たぶんね」
ルキウスはニッコリ微笑み、うやうやしくリリルの前にひざまずく。
「それなら僕は満足ですがね」
そしてリリルの手を取って、そっと薬指へ口づけをした。
THE END.
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