砂の嵐

A子舐め舐め夢芝居

砂の嵐

 お隣が犬を飼い始めたらしい。ここらは郊外の住宅地で一軒家ばかりだからペットを飼う家庭は多い。中には三匹の犬と二匹の猫を飼っている家もある。その家のおばさん―山田さんはこの辺りのペット事情にくわしい。散歩でよく会うからなのだろう。お隣の噂も山田さんから聞いたと母は言った。

「利根川さん、出かけることも増えたし元気になったみたいでよかったね」

母は野菜を切りながら話した。耳にはビーズのイヤリングが揺れていた。私はテーブルで学校の宿題をしながら母のおしゃべりに付き合っていた。

小さかったころ、お隣の奥さんは流産してもう子どもを産めないらしいと聞いた。そして「なんで子どもいないのとか言ったりしたらダメだよ」と釘をさされた。そのときの母は私の不始末に怒っているわけではなかったのに妙に圧のある言い方をしてきたから、幼心に触れてはいけないものなのだと感じた。

「やっぱり夫婦二人じゃさみしかったんだろうねえ」

 じゃあ母さんもさみしさを紛らわすために私を産んだの?

 私はもう中学生だから相手の言葉尻を捕らえることができた。けれど、もう中学生だから思いついたことを見境なく口にしない分別もついていた。どこからともなくわきでた言葉を頭の中のくずかごにほうりこむこと。それが大人に近づくということだ。

 何年か前の夜、自分には生きる価値がないと唐突に理解して涙が止まらなくなった。自分がいなくなっても世界は何も変わらない。誰も困らない。存在を否定する思考がぐるぐるとめぐって喉がしめつけられていった。一方で頭の片隅には今自分は大人になるための精神的プロセスをたどっていると冷ややかに観察する意識もあった。

 私のベッドは高床式で寝転ぶとすぐ横に窓がある。ベッドの支柱には母のつくったビーズ織りがくくりつけられている。窓の外はお隣の家の壁で、ちょっと首を下に向けると一階部分の曇りガラスから中の灯りが漏れているのが見えた。たまに水音が聞こえてくるのでトイレなのだろう。お隣のおじさんはすぐに声を出す人で、座るときや立ち上がるときに掛け声をつぶやいたり、トイレをしながら口ずさんでいることもあった。

 その夜も暗闇で目を閉じてくずかごにほうりこまれた言葉があふれ出てきたものを反芻していると、お隣から何か固くて丸いものが大量に転がるような音が聞こえてきた。しばらく廊下をころころと進んでいく一直線な音がしていたが、やがて不規則なこつんこつんという音が混じるようになった。転がっているものの一部が階段を落ち始めたようだった。その音にさらに不協和音をかぶせるように隣の家の階段をなにか四つん這いのものが駆けまわりはじめた。私は窓に背中を向けて反芻に集中した。

 知らないあいだに眠っていたようで、起きたときには朝だった。下の階からテレビの音が聞こえてきた。上体を起こすと何かキツイ感じの臭いが鼻をついた。窓から、というより隣家から漂っているようだった。窓を閉めようと手をかけたとき、これはケモノの臭いだと分かった。以前、教室に狸か狐がまぎれこんだときにしばらく消えずに残っていた臭いと同じだった。胃がぎゅっと縮んで私はトイレに駆け込んだ。

「犬の臭いでしょ。しょうがないよ」

が母の回答だった。

「他の家の犬はあんな臭いしないよ」吐いたことは言えなかった。

「あんたいつまで食べてんの。さっさとしなさい。いつもグズグズして。こっちの迷惑も考えてよ」

「…昨日の夜も―」

「喋ってないでさっさと食べなさい。ああ、もう仕事行かなきゃ。残りのお皿は各自で片付けておいて。洗うだけじゃなくてちゃんと拭いて棚に戻すところまでやってよ。置きぱなっしのお皿をしまうのいつも私なんだから」

 母が出かけていきガチャンとドアが閉まる音が聞こえてきた。父は果物の皿にラップをかけて冷蔵庫にいれた。残った果物が最終的にどうなっているのか私は見たことがない。

 家を出て自転車を押しながらお隣を見てみた。ほんのりケモノの臭いがする以外はいつもと変わらなかった。足を止めていると、玄関ドアのすりガラスの向こうに人影が現れて玄関に近づいてきたので私はあわてて自転車に乗ってその場を去った。


 裏庭のブラックベリーを摘みに出た。道を挟んだ向こうに小さな公園があり、砂場で子どもたちが山を作っていた。ベンチにはチワワを連れた老夫婦が座っていて、ハナミズキの葉が赤に衣替えを始めつつあり、遠くの畦道をトラクターがごとごとと進んでいった。お隣の庭には大量の白い四角の布が干されていた。水が滴るくらいビショビショの状態で先端から垂れている水は少し茶色にそまっているように見えた。奇妙な光景に動けずにいると布の合間から人間の両足が見えた。桃色のふっくらとした指が妙に目に焼き付いた。

カラカラと引き戸の開く音がしてお隣のおばさんが出てきた。おばさんは「こんにちは」とまったりとした笑顔で言うと、ホースから水を出してじょうろに注ぎ花壇の花に水をやりはじめた。さっき見えた足の持ち主はどこにもおらず、大量の布以外はいつもと変わらない光景だった。それが妙に気持ち悪かった。

「見間違いじゃないの。あんたいっつもボーっとしてるから」

母は私の話を一蹴した。

「布は犬のトイレシートかなんかじゃない?山田さんも洗い替えしてるって。毎回買い直すより安くつくって言ってるけど汚いよね。おしっこついてるんだよ?私は絶対無理だわ」

「二、三十枚はあったよ。そんなに使うものなの?」

「そんなに気になるならその場で聞けばよかったじゃない」

「でも―」

「それより来週の講習はいつもより遠いんでしょ。帰り夜遅くなるんなら駅についたらちゃんと連絡してよ。あんたいつも連絡忘れるんだから。こっちは晩ご飯の支度とか洗濯ものとかあるから帰る時間が分からないと困るのよ」

「…わかった」

 日曜日、母はビーズのネックレス作りに没頭し、父はいつも通り自分の部屋に引きこもっていた。私は母に頼まれて買い出しに行った。百円ショップでメモにある品物を探していると商品棚の端の前でお隣のおじさんが腕組みして仁王立ちになっていた。おじさんの目の前には水回りの掃除用品が並んでいたが、おじさんの目線は商品棚より少し上のところに固定されていた。チェック柄のシャツをズボンにいれた格好でおじさんは小さくうなっていた。特になにをしているわけでもないのに妙な威圧感があって、私以外の通行人もちらりと目をやっていた。おじさんはこちらに気が付いていないようだったので私はその場から離れて買い物をつづけた。

 買い物袋に百円ショップで購入したものをつめてスーパーに向かった。スーパーでは二、三年前に流行っていたポップソングが流れており、小さい子どもが通路のあいだを抜けて駆けまわっていた。子どもはうるさくて嫌いだ。将来子どもがほしいと言う同級生たちには全く共感できない。きっと彼女たちにとって子どもを持つことは人形遊びの延長くらいの認識なのだろう。母と同じだ。それで自分の人形が思い通りに動かなかったらヒステリーを起こすのだ。私はリカちゃん人形の何が楽しいのか結局分からなかった。

なすときゅうりをカゴにいれて乳製品コーナーに向かっていると、また隣のおじさんがいた。百円ショップにいたときとまったく同じ姿勢で即席食品の棚の前に立っていた。少し面食らったが百円ショップとスーパーは道をはさんだ向かい同士だった。買い物の道筋がかぶることはありえなくはなかった。奥さんと一緒に買い出しに来ているのかと思ったが奥さんは見当たらなかった。商品を見ているわけでもなさそうだし何しているんだろう。

私がレジに並んだときも買い物袋に買ったものをつめるあいだもおじさんはカップ麵の入った段ボールの前に立ちはだかっていた。

自転車で隣町に移動してドラッグストアに入った。母には歯ブラシを買うように言われていたがポケットティッシュも切れていたことを思い出して商品棚を移動した。一番奥の壁一面に飲料の棚が広がっておりその前の通路を歩いていった。化粧品の棚、シャンプー・リンスの棚、歯科衛生の棚、お菓子の棚。

隣のおじさんが立っていた。

とっさに棚の裏に隠れた。動悸が脈打つたびに嫌な痛みが走った。さっきと何も様子の変わらないおじさんの姿に何かよくないことが迫っているような焦燥感をおぼえた。この偶然が何を意味するのか分からなかった。なぜおじさんがナプキンや紙おむつの棚の前にいるのかも。けれどこのまま隠れていても仕方がない。私は周りの買い物客を見回して息を整えると一歩踏み出した。

おじさんは目の前に立っていた。仁王立ちで通路をふさぎ、いないいないばあをしているかのように両手で顔をおおっていた。面食らっているとおじさんの両手が砂のようにさらさらと流れ落ち始めた。両手の裏から現れる顔を見てはいけないと直感的に思い、私はごめんなさいと謝ってその場から走ってにげた。家に帰ってドアを開けた瞬間、隣の犬の臭いが鼻をついて猛烈な吐き気におそわれた。私は咄嗟に外にでて道端の排水溝の蓋に吐いた。胃酸で喉がひりついたが両親に見つかる前に後始末するべくホースで水をまいた。蛇口をしめるときに顔をあげると部屋の中から父がこちらを覗いていた。すぐ目の前にいるのになぜか輪郭がぼんやりとして表情が分からなかった。色のついた点が集まってできたような父の姿は美術の教科書で見たスーラの点描画を思い起こさせた。目が合ったように感じた瞬間、父は鎧戸をおろした。


 翌朝、友人の祥子に買い物のときのことを話してみた。私たちはため池を囲っているフェンスに沿って自転車をこいでいた。空も池も鉛色に光っていて下水のじんめりとした臭いが漂っていた。

「なにそれ、気持ちわる」

「いやホントびっくりした」

 祥子の当たり障りのない受け答えに私は安心した。母に同じ話をしたときはちゃんとあいさつしろとくどくど怒られるだけだった。

「他にもいろいろあって。夜中に変な声聞こえるし、庭に変な布ほしてるし。母さんは犬のトイレじゃないかって言ってるけど―」

「利根川さんって犬飼ってんの?」

「らしいよ」

「どんな犬?見たことある?」

「ない。静かだよ。吠え声も聞いたことない」

「いいじゃん。なんだろう?マルチーズとか?」

「たしかに犬小屋もないし小型犬を室内飼いしてるのかも」

言われるまでどんな犬か考えたこともなかったことに気が付いた。無意識のうちにお隣のことを考えないようにしていたのかもしれない。

「利根川さんって―」

「私はトイプードル飼いたい。あのモコモコかわいくない?枕にしたい」

「そういう枕買いなよ…」

「トイプードルもあんまり吠えないらしい。頭がいいからしつけやすいんだって。うちインコいるから飼えないって言われたけどしつければいいと思わん?そもそも鳥かごから出さなきゃいいだけだし」

「たしかにね」祥子は少なくとも私より犬に詳しいらしい。臭いの強い犬について知っているのではないかと思って聞いてみることにした。「隣の犬は臭いが―」

「最近ホームセンターできたじゃん?あそこペットショップも入ってるんだよ。このまえ見たけど超かわいいトイプードルいてさ。子犬で近づいたら尻尾振ってこっち見てきてめちゃくちゃかわいかったんだよ。すごく欲しかったんだけど三十万とかしてさすがにこれは無理って思ったわ」

「子犬は高いよね。それより、臭いの強い犬って―」

「美優の家は最近ダックスフント飼い始めたんだって。名前がダックスフントのダックって言っていてダックはアヒルじゃんってツッコんだら気付かなかったって。気付くでしょ、ふつう。ダックちゃんはメスらしいんだけどすごく吠えるんだって。ダックスフントってけっこううるさくてしつけが必要なんだよ」

「そうなんだ。ところでさ―」

「このまえ家の裏の畦道で三匹の犬の散歩してる人見たんだけど、全部ちがう種類の中型犬でさあ。仲良く並んで歩いててかわいかったなあ」

「それ山田さんかも」

「知り合い?」

「近所の人。母さんが仲良くてたまに犬と遊ばせてもらえる」

「ええ、そうなんだ。いいなあ。山田さん、トイプードルは飼ってないの?」

「ペットショップじゃないんだから」

 私たちは笑いながら信号の前で止まった。後ろには海鮮系の小さな居酒屋があり、壁にはめこまれた濁った水槽の中で魚が銀色の鱗を煌めかせながら行ったり来たりしていた。

 家に帰ってテーブルの上に鞄を置いた瞬間、何かがばらばらと落ちていく音が響いた。床をみると小さな光る何かが散らばっていた。しゃがみこんで見ると色とりどりのビーズだった。母が作っていたネックレスの上に荷物を置いたせいでワイヤーから抜けてしまったらしい。私は一つずつビーズを拾っていったが、ビーズは指先に触れた途端に反発でもしているかのように転がっていき、床下収納の蓋の隙間に落ちていった。拾えるものを全て拾ってテーブルに山をつくると母が空になった洗濯カゴを抱えて二階から降りてきた。

「ごめん、ネックレスの上に鞄置いちゃって…」

「ビーズ拾ってくれたんだ。ありがとう」

母はビーズの山には見向きもせずに洗濯カゴを戻しに洗面所に行った。なぜいつものように怒って嫌味を言わないのか私には分からなかった。母は洗面所から出てくるとまな板と包丁を取り出して夕飯の準備をはじめた。その一挙手一投足が知らない人間のもののように見えた。居ても立っても居られなくなり私はその場から逃げて自分の部屋にあがった。


 隣の犬の臭いは日に日に強くなっていた。玄関に続く廊下には腐った土を思わせる饐えた臭いがこもっていて通るたびに吐き気におそわれた。トイレで吐いて口をゆすいでから、靴箱の上に置いてあった消臭スプレーを辺りに吹きかけているとリビングから父が出てきた。父は臭いが気にならないようだった。

「臭くない?」

 父は恐らく首を横に振ってから自分の部屋にはいって襖を閉めた。しばらくすると野球のテレビ中継の音が響いてきた。母は野球をする人間も観る人間も嫌いだと言っていた。私も野球部は嫌いだ。彼らは大して取り柄もないくせに根拠のない自信を振りかざして他人を馬鹿にする。世の中に野球を好きな人間が多いというだけで野球部に属している自分たちには他人に対して優位性があると勘違いしているのだ。

 私は自転車の鍵をとって家を出た。電車で三十分ほど移動して講習の会場につくとなるべく後ろの目立たなさそうな席についた。机と椅子は学校で使っているものとほとんど変わらなかったが、学校と違って教室が一回り大きく席の数も五十ほどあった。現れた講師が高校受験の大変さや勉強の心得、成長がどうたらと延々と話している間、進学で全てが変わるという期待に私は胸をふくらませた。いい高校に行けば自分の無価値さを忘れて生きる意味を考えずにすむようになるにちがいない。まるで思考回路のちがう同級生に苛立つことも他人の話をどうでもいいと決めつけて耐えがたく感じることもなくなる。

 講習は十五分ほど延長された。会場の最寄り駅についたときには二十三時を過ぎていた。母に連絡しようと携帯を取り出すと電源が切れていた。家についたときには日付が変わっていた。

「なんで連絡するだけのことができないのよ!終わったら連絡してって言ったよね!?人の話きいてなかったの?なんで言われたことができないの!?難しいことじゃない。ただ一言おくるだけじゃない!」

「電源が―」

「ここまで心配させておいてごめんなさいの一言も言えないの!?警察に連絡するか父さんと相談してたのよ!」

「携帯の電源が切れて―」

「だから何!?充電していなかったのが悪いんじゃない!!公衆電話とか他の連絡手段だってあったでしょ!?違う!?私なにか間違ったこと言ってる!?親だから心配するに決まってるでしょ!迷惑をかけたことを自覚しなさい!」

 母は自分が嘘をついていることに気が付いていない。心配して怒っているのではなく自分の言いつけを守らなかったのが気に食わなくて怒鳴り散らしている。それなのに自分は子ども想いの母親だと思い込んでいるのだからどうしようもない。

「連絡もできないなら塾なんてやめろ」

父は腕組みをして言い放った。興味がないくせにこういうときだけ絶好の機会とばかりに父親面して優位に立とうとする狡い人間だ。お互いに関心がないのだから黙って金だけ出しておけばいいのに。

「ごめんなさい。次から気を付けます」

 私は自分の部屋に戻って扉を閉めた。母はまだ怒鳴り足りないらしく何やら大声で話していた。誰も部屋に入れないように私は扉の前にイスと机を置いた。こういうときはいつも部屋に鍵がついていればよかったのにと思う。犬の臭いにぐらぐらと眩暈がして私はビニール袋に何度も吐いた。

 唐突に目がさめたとき辺りは暗闇だった。携帯で時刻を確認すると深夜三時過ぎだった。隣室からは母と父のいびきが響いてきており壁が震えているかのようだった。どちらのいびきも首が絞められているときの断末魔のような音で息苦しそうだった。その音で眠気がどこかに消えてしまい私は目を閉じて何度も寝返りをうった。そのうちいびきに混じって別の音が聞こえてきた。それは隣の家で何かがぺたぺたと床を歩き回る音だった。隣の犬だろう。足音は階段を登って二階の廊下を何度か往復してから私の部屋の前にやってきた。犬は部屋のドアをかりかりとひっかいてからハッハッと息をはいた。ドアの前に座って私が開けるのを待っているにちがいない。けれども私は自分の部屋には何者も入れるつもりはない。

 目覚めて身を起こすと布団の上に小さな虫の死骸が散らばっていた。反射的に腕の表面を払い落とすと虫たちがさらに布団の上に落ちた。ざわざわと寒気がして上半身を抱えるように体育座りして足を眺めていると、私の身体を構成している虫たちがばらばらに身をよじって私から逃げていくのが見えた。何もできずにただ眺めていると右足の小指と薬指がなくなってしまった。


 家に帰りたくなくて畦道を散歩することにした。野焼きの焦げた臭いが風に乗ってきた。人の手が入っていない区画ではコスモスが揺れていてどこからともなくキジバトの鳴き声が響いてきた。向こうから山田さんが三匹の犬を連れて歩いてきた。

「あら佳乃ちゃん、こんにちは」

「こんにちは」

「最近どう?元気?」

「おかげさまで」

「もう中学二年生だったっけ?この前までこんなに小さかったのに早いねえ」山田さんは自分の腰より拳一つぶん低い位置に手をやった。

「マーちゃんたちも大きくなりましたね」マーちゃんは真ん中にいる犬のことだった。

「そうかな。毎日見てると分からないんだよねえ。でもマーちゃん、口臭きついなって思ってお医者さんに連れて行ったら歯周病って言われちゃってね。週に一回は歯磨きするようにしてるの」

「そうなんですね。利根川さんの犬も臭いがきつくて。もしかしたら何かの病気なのかも…」

「あれ?利根川さんって犬飼ってるの?」

「え…?」

 一瞬会話が途切れて沈黙が流れた。私はその場をどう取り繕うか頭を巡らしたが山田さんのほうが対応が早かった。

「そっか。知らなかったなあ。散歩でも会ったことなかったから。どんな犬?」

「…いえ……私も見たことはなくて…」

「今度会ったときに聞いてみようかな。じゃあまたね」

 山田さんは犬たちを連れて去っていった。私は家に向かいながら母に利根川さんのことを聞くかどうか考えたが全部知らないふりをすることにした。畦道はそのまま雑木林に続いており私はうっそうとした木々の合間を歩いていった。木は風に吹かれるままに枯れた葉とどんぐりを落とし、私は歩くたびに虫を落としていった。夕方五時を知らせるチャイムが鳴り響いた。音が割れて一つ一つの音節が地平線に吸い込まれていった。

 チャイムの残響が散り失せたころ木と木の間にぼんやりとした人影が立っているのが見えた。足元にはもやのような黒い塊がうずくまっていた。隣のおばさんと犬らしい。私の足はそちらに進んでいった。

「犬を飼い始めたんです」

「母から聞きました」

「夫婦二人の生活に少々つかれまして」

「山田さんは知らないみたいです」

「でも何も変わらなかった」

「そんなことはないでしょう」

「何も変わらなかったんです」

「私は吐くようになりました」

「望んでいたものは何も手に入らなかった」

「足の指もなくなっちゃいました」

「ほしかったのは犬じゃなかったみたい」

「私は部屋の鍵がほしいです」

「それで犬を作り変えたんです。でもやっぱり何も変わりませんでした」

「そんなの嘘だ」

 利根川さんは木の後ろからこちらに歩いてきた。落ち葉が踏まれて粉々に砕けていった。木漏れ日の落ちている場所に犬の足が現れた。土に汚れた桃色のふっくらとした指が夕焼けに染まっていた。


 隣から変な音が聞こえて以来、私は枕元の柵にお守りをくくりつけていた。母も上にあがってきて廊下の電気も消されて家の中は真っ暗になった。しばらくすると、お隣の方から音が聞こえた。おじさんがトイレに入ったようだった。ドアの開閉の音のあと少しして水音が流れた。その水音に混じっておじさんの声が聞こえた。最初は水音で何を言っているのか聞き取れなかったが、水の音がやむと内容が分かった。

 作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしか―。

おじさんはただ呟いているのじゃなく一語一語を確かめるようにはっきりと口に出していた。小学生のときにやらされた発声練習のようだったが、そのときと違うのはおじさんがただ一人、誰かに強制されるわけでもなく話していることだった。

作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしかない。作り直すしかない。

 君もそう思うだろ?

 心臓が跳ね上がる思いがした。ずっと前から窓には背を向けていて隣家のほうを見てすらいなかったのに、トイレの中で突っ立って窓越しにこちらを見上げるおじさんの姿が脳裏をよぎった。ベッドの支柱にくくりつけられているビーズ織りがほどけてビーズが床にばらばらと落ちていった。耳元で低い羽音がうなり指先からどんどん小さな虫が飛び立っていった。すぐに視界を無数の虫が覆っていった。

 たまらずにベッドから飛び出して部屋を出た。廊下の明かりをつけて母と父が寝ている部屋のドアを見たが開ける気にはならなかった。話を聞いてくれる人に助けを求めたかった。携帯は部屋にあるがもう部屋には戻りたくない。どうするか決められず五分くらい固まっていた。それからとりあえず電話のある一階に行くことにした。階段の明かりをつけて下りていくと、テレビの画面が光っているのが見えた。それなのに物音はなにも聞こえてこない。恐る恐る中にはいると母と父がソファに腰掛けてじっとテレビを見つめていた。

「…え……」

 テレビでは砂嵐が流れていた。砂嵐は食べ物を運ぶアリのようにもぞもぞと動き像を結んでいった。若い男女が2,3メートルはありそうな巨大な粘土の塊を彫っている白黒の映像が流れはじめた。何の特徴もないまっしろな部屋で男女は鑿と金槌で一心不乱に粘土を彫っていた。その男女はアルバムで見た若いころの母と父にそっくりだった。ひどく混乱するなかで私の口はどこからともなくわきでた言葉を発していた。

「母さんはなんのために私を産んだの?」

 母の目が機械のようにテレビから私にうつりテレビにもどった。母の全身は色とりどりのビーズになってこぼれておちていき、隣の父はどんどん点描画になり点同士が離れていった。母はビーズになっていく腕をゆっくりあげて画面を指差した。画面の中の若い女は私のほうを向くと粘土を指差して、ここからあなたを彫り出すのよ、と言った。それからまた鑿を突き刺して粘土を彫りはじめた。金槌が振り下ろされるたびに飛沫のように白い塊が飛び散って地面にべちゃりと打ち付けられた。けれど彫り出されている粘土は全く人間の形に見えなかった。テレビの前の母は口を閉ざしたまま少しうつむいてゆっくりと首を横に振り最後の一粒が床に落ちた。私は空いたソファに座って虫たちが散らばっていくままにした。テレビは再び砂嵐になって画面から飛び出し部屋に吹き荒れ始めた。ビーズも点も虫も旋風の中でどんどん分解されてすりつぶされていった。

やがて風が吹きやんで羽や手足といった虫の残骸が人の形に集まっていき私になった。部屋中のもの全てがあってほしい形に作り直された。よかった。本当によかった。

 私は部屋を出て階段をあがり、自分の部屋に戻ると扉を閉ざして鍵をしめた。

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