第四幕一場 安藤刑事は不安だった
深沢署の刑事安藤裕貴は、駒沢公園の広場のベンチに座りぼんやりと付近を眺めていた。二十八才の年齢の割には童顔で髪型はよくいるセンター分け。新人のサラリーマンが営業で失敗して落ち込んでサボっているようにしか見えない。
手持ち無沙汰の時間、安藤は隣で缶コーヒーを飲んでいる鑑識課の岡田に聞いた。
「なんで今頃突然、警視庁のエリート警部補が現場に来るんですかね?」
隣の岡田は二歳下だが高卒なので警察では先輩になる。
「俺も何も聞いてませんよ。でも今さら現場に来てもやることないと思うんだけどな」
同じく心当たりはない様子だった。小柄でいつも眠そうな顔をしているが仕事は真面目で、高校時代は相撲部で鳴らしたそうで岡田は筋肉質な体格をしている。素朴で鈍感なところがあるが、人懐っこく安藤にも少しも先輩ぶるところがない。一緒に現場に出ることも多く、安藤が前の会社の退職金で焼き肉を奢ってあげて以来やたらと慕ってくれていた。
安藤は不安になった。
(なにかヘマでもしたのだろうか? )
昨晩発生した桜新町でのひったくり事件の犯人を探して、安藤は聞き込みと調書の作成で徹夜していた。午前6時にようやく仮眠を取れると思った矢先、駒沢公園で刺殺体発見の通報があり現場に急行した。それからは遺体付近の証拠維持と鑑識の協力、検視官の補助、午後からは深沢署で捜査本部の準備に追われて心身ともに疲れ切っていた。
そして会議が終わりようやく一息つけると思った先ほど午後3時。『至急再び現場に直行せよ』と刑事課長から詳しい説明のない指令を突然受けた。
(やっぱり刑事は向いてないのかもなぁ。もう今さら転職なんかできないし、事務仕事へ異動希望を出すのもカッコ悪いし)
公園で走る高校生を見ながら、そんな事を安藤は思い始めていた。東京西部の団地で生まれ育ち、勉強もスポーツもまぁまぁの出来で高校までごく平均的な生活を送り、特にやりたいこともなかったのと英語が一番得意だったことから中クラスの私大に入学、文学部英文科を卒業し、上手くいかない就職活動の中で唯一内定の出た不動産会社に営業職で入った。が、厳しいノルマとあまりにブラックな勤務内容についていけず一年持たずに退職。その反動で、一生安泰で給料の良い公務員になろうと調べて既卒枠で警察官を選んだ。
警察学校卒業後、世田谷区にある深沢署に配属となった。最初の生活安全課勤務時に、ブラック企業で人の顔色を伺うことに長けた経験が生きて、地域での人付き合いをそつなくこなし、上司の評価がとても良くなった。「警察官憧れの部署なので一度は経験したほうが将来良いのかも」との理由で志望書に書いてしまっていたのが目に止まり、三年目で推薦され刑事課異動となった。交番勤務から抜擢で刑事となったので安藤も期待に応えようと最初は頑張ったが、体育会体質と無限超過勤務の連続に、安藤の少ない燃料は燃え尽き、すでに心身共に疲れ始めていた。
そんなダレた安藤の様子を感じ取ったのか、岡田も気軽に愚痴り始めた。
「ふざけた話ですよ。キャリアだかなんだか知らないけども、気まぐれや、やってる感だけで捜査現場に来られても迷惑な話。こっちは日々の雑務で手いっぱいなんだって」
缶コーヒーを手に全身からやってられないムードを醸しだしていた。
「確かにね」
安藤も同じ気持ちだった。
所轄署にとって殺人事件は大仕事だが、本庁の刑事が合流すると捜査の本線は捜査一課が軸になる。その後は書類の作成や連絡係など使い走りのような仕事が多くなる。昨晩のひったくり事件の捜査も平行するので本当に時間が足りなくなる。
(そんなときに迷惑な話だ)
「でも安藤さん、俺さっきからここに居るんだけど、それらしい警視庁の黒パトは見当たらないですね」
「課長は、もう着いている頃だから、すぐ行って丁重に現場をご案内しろと言うから慌てたのに、急いだ意味なかったですね」
「だな」
平日の昼下がりの駒沢公園の入り口には犬の散歩中のご婦人や、裸足で競歩する元気な老人はいても、警視庁の刑事らしき姿は見えなかった。ただ、さっきから二人の目の前に雑誌の撮影中と思われる長身のモデルとマネージャーがチラシを持ってうろうろしていた。ここ、駒沢公園は都心からも近く、普段から良く雑誌のスチールやロケなどが行われている。
「モデルは気楽でいいな。ポーズ取るだけで金貰えるんだから」
安藤は遠い目をしてつぶやいた。
「なんか腹立ちますね。ちゃんと許可取ってるのか、ちょっと脅かしてやりましょうか?」
二人はモデルの方に向かって歩き始めた。すると逆に金髪のモデルが安藤達に歩み寄ってきた。近くで見るとその人は明らかに自分たちとは別世界の眩しいオーラを身にまとい、身長一七八センチの安藤と変わらない位背が高かった。
(顔もスタイルも良いなぁさすがはモデル。有名人なのかなぁ)
そんなぼんやりした感想を安藤が思っていると、突然向こうから、「あのぉ、もしかして深沢署の刑事さんですか?」と声を掛けてきた。
「えっ、そうですけど」
「お出迎えご苦労様です。わたくし警視庁から参りました捜査一課の源馬警部補であります」
安藤と岡田は一体何を言っているのかすぐには理解出来なかった。
この長身金髪モデルと思われていたのは、もちろん我らが源馬剣翔。いつもと瓦に鷹揚にゆったりとした動作で二人に軽く礼をした。
「えっ、岡田さん今何て言いましたこの人」
まだ状況を把握できない安藤に確認した。
「たしか、警視庁とか捜査一課とか言ってましたが」
鑑識岡田もなんだか分からない。
「疑ってるんですか? 嫌だなぁ、れっきとした警視庁の刑事ですよ」
そういうと源馬は警察証を安藤と岡田に見せた。
「これ、ホンモノですよ。安藤さん」
警察事情通の岡田も、本庁刑事で金髪そして多分女性というと全く心当たりはなかった。
「ということはこの方が正真正銘、例の警視庁キャリア様。でも、どうして、何で……」
先ほどまでのいろんな思いが頭の中でぐちゃぐちゃになって安藤は混乱した。
「やはり雲の上の方は我々とは何から何まで違いますね」
なんだかわからない事を岡田もいい出した。
そんな凸凹コンビの想定内リアクションをしばらく源馬は見守っていたが、「まぁ、これから先は同じデカ同士よろしく頼みますよ」と明るく微笑んだ。
(なんだ、この華のある微笑みは、何もかもが自分とは違いすぎるだろ、これがキャリアというものなのか? いや違う気がする。だってこの人年齢何歳だ? 東大とか早稲田出ているのか? なんでこんなエレガントな服と身のこなし)
違和感だらけの源馬との出会いは、安藤に不思議な恍惚と底しれない不安感をもたらした。
ぼんやりしていると突然岡田が、「警部補、質問よろしいでしょうか? どうして金髪で男性の服を着ていらっしゃるんでしょうか? 何かの潜入捜査ですか」とバカで素朴な質問をしてしまった。
途端、源馬の目元に閃光が走った。
「それを、私に答えさせると、あなたの未来が無くなりますが、それでもよろしいかな?」と言って一瞬だが真顔で岡田に凄んだ。
それだけで気の小さい安藤は咄嗟に萎縮した。
「いえ、いいです。今の質問は気のせいです。はい、彼も二度と聞きません。忘れて下さい。現場はこちらです警部補殿」
慌てて安藤は取り繕って、早速源馬を案内することにした。
規制線テープを潜って歩きながら頭を何とか整理しようと考え始めた。巡査の安藤からすると警部補は三階級も上、しかも本庁刑事でキャリア採用となるとこの先さらに雲の上の人になっていくのは間違いない。そんな人が、わざわざ自分たちを検証の終わった現場へ呼び出すからには何か深い意図があるに違いない。さらにそれは警察組織の深い事情が絡んでるかもしれないのだ。見た目に騙されず、この方への言動に気をつけねばみすみす人生棒に振る事になる
「あのーそれとこちらの方も警察官ですか?」
その間に鈍感な岡田はまた懲りずに質問を重ねた。目線の先には規制線を越えて現場に入ろうとするもう一人の女性がいた。
「彼女は私のお付きです」
「はぁ、お付きですか……どういう意味でしょうか?」
岡田が聞いた。
「岡田さん、そう余計なことを聞くもんじゃないよ!」
すかさず全力で制した。警察官の先輩ではあるが、ここはなんとしても止めねば彼の人生も取り返しがつかなくなる。さっきの源馬の冷徹な目が安藤刑事には忘れられない。
「岡田さん、俺達の運命は羽毛のように軽い、口を謹んだ方がいい」
小声で安藤はつぶやいた。岡田も理解したと見えて唾を大きく飲み込んでうなづいた。
「はっ、お付き様ですね、いらっしゃいませ!」
深くお辞儀すると岡田は何だか分からない接客姿勢となった。
殺人現場では事件発生からまだ時間が立ってないだけに、まだ数人鑑識課員が作業を続けていた。
「ここで事件があったんですね。殺人現場なんて初めて来たよ。おじゃましまーす」
天真爛漫な源馬はルブタンのブーツでずんずんと殺人現場に入って行った。
「あの警部補殿、ちょっとそこから先はまだゲソ痕が取れてませんので、これをはいていただけませんか?」
そういうと安藤は、靴の外から履くビニール袋を渡した。
「おっと失礼した。あの、ところでゲソコンってなんですか? ミスサイゴンに出てきますか?」
「えっ、ちょっと何の話ですか?」
安藤は源馬の質問の意味をとらえかねていた。
「ゲソコンというのは、多分容疑者の足跡という意味ですわ」
昼の刑事ドラマで覚えた知識で赤城がアシストした。雨の後でぬかるんだ地面にくっきりと源馬の靴底跡がクッキリと残っていた。
「あぁ足跡(げそこん)、そっちね。ふーん」
なんだか分かったような返事をしながら、源馬は遠い目をしてゆっくりと現場全体を見回した。
今だとばかり、安藤は本来最初にすべきはずだった質問をさり気なくしてみた。
「源馬警部補がこちらにいらっしゃったのは、捜査本部から何かご指示があったんでしょうか?」
「うーん、どう言おうかな」
目線は遠くを見たまま源馬は考えるような表情をした。
「えーまず、ここで何が起こったか説明してもらえますか?」
「えっ、どういうことですか?」
安藤には質問の意味が分からなかった。
「確かここでギャングの何とか組の人が殺されたんですよね? そんでライバルの空組の関係者が疑われているとかまでは、聞いたように思うんですが……」
「まさか、良く知らないでここにいらっしゃったんですか」
安藤は呆れた。しかも、空組とか既にだいぶ間違っている。
源馬は補足した。
「ちょっとだけあやふやなので教えてほしいだけです」
こちらを振り返った照れ隠しの笑顔が安藤を直撃した。
(なんだ、この不必要な眩しさは)
「あやふやで現場、逆にそれで現場見たいって動機がすごいっす」
岡田は素朴に感心した。
源馬の底知れない天然力と、それゆえの眩しさに触れて安藤は心の中で何かが弾けた。
『お客様のわがままを何でも飲み込んでこそ営業』というブラック企業時代に培ったやけっぱちの接客精神がよみがえってきた。
「源馬警部補、では改めてご説明いたします。こちらへどうぞ」
ぴしっと四十五度のお辞儀で、現場へ源馬を誘った。
殺害現場では遺体があった場所にお馴染みの白い輪郭ラインが引かれており、そしてこれもお馴染み足跡や凶器が発見された現場などには細かく番号が振られていた。
安藤は持参した初動捜査まとめを源馬に手渡し事件発生状況を時系列に沿って最初から説明し始めた。
「まず今朝五時三十分に、毎日早朝の散歩を日課にしている駒沢在住の七十代無職の老人が、広場で血だらけになった男性を発見しました。最初は捨てられた服か、人形のように思ったと証言しています。発見時からすでに呼吸はしておらず、顔は白くなっていたと話していました」
「で、その死体はヤクザだったってことでしょ」源馬は無表情に言った。
自分の説明のどこかがお気に召さなかったのではないか? と安藤は気になったが、まずは相手を全肯定する営業鉄則を貫くことにした。
「えぇ、おっしゃる通りです。通報から五分後に到着した機動捜査隊の調べで、遺体の所持品から渋谷、世田谷、目黒に勢力を持つ御影組の若頭・伊丹重奏であることがすぐに判明しました」
的確に答えたはずだ、と安藤は源馬の顔色を伺った。
「若頭? はいはい、それ実質トップね? 高卒? 中卒? 身長、成績どれくらい?」
源馬はまだ表情を変えず、矢継ぎ早に質問してきた。
「あのー、申し訳ございませんが警部補殿。学歴や成績などは事件と関係なさそうだった為、まだ分かっておりませんので、後で分かり次第追加報告と言うことでもよろしいでしょうか?」
予想外の質問に安藤は戸惑ったが、何とかうまい返しが出来たのではないか、また顔色を伺う。
「あ、そうだね。現場を前についつい前のめりになってしまっていた。どうぞ、続けて!」
口元を和らげて屈託のない源馬の様子を見て安堵した。
「では、次に遺体状況と凶器の所見です」
「えっ、何ページですか?」
源馬は書類をアッチコッチめくり始めた。
「岡田さん教えて差し上げて」
安藤が指示すると、鑑識岡田が源馬の資料めくりを手伝い該当箇所を指差した。
「司法解剖の結果、死因は鋭利刃物で腹部を刺されたことによる失血死で、傷跡から刃渡り二十センチくらいのナイフか包丁のようなものとまで分かっています。この写真見てください」
岡田は検視時の遺体傷口付近の写真を指した。
「ちょっと見せて、うわっ結構な刺し傷だね」
源馬は傷口写真に顔をしかめた。
「これじゃ出血多かったろうね、一体誰が刺したんでしょうね?」
真面目な顔で岡田を覗き込んだ。
「えっ、警部補面白い事いいますね。まるで近所の老人みたいな質問しますね」
岡田が思わずつぶやいた。冗談だととったようだ。
しかし、源馬は、「老人の質問で悪かったな」と機嫌を損ねている。
「いやいや警部補のことではありませんので……」
あわてて安藤が間に入った。
「えーっ誰が刺したかご質問のようですが、刺した人物が分かれば事件は解決なので、今はもちろん分かっておりません」
「なるほど、それはまぁそうだね」
また源馬の不思議な反応。安藤は焦った。
この人の質問意図、質問の正解、ツボはどこなんだ? もっと事件の核心に近い情報を出せということなのか、と安藤は考えた。
「ただですね、警部補はもうお分かりと思いますが、この刺し傷特徴的な点があります」
そう言って反応を見る安藤。
「分かってないけど、どんな特徴があるのか教えて」と、ニコリ微笑む源馬。
「ここの傷跡上部の刺創、少し波立っているようになっています。ここから類推するに、犯人が指した時に手が震えていたか、もしくは凶器の刃の部分の全体もしくは一部分がギザギザになったいたと思われます。その場合はこうギザギザ刃を上にしてミゾオチ付近をグッと強く深く押し込むように刺したという事になります」
ここまで言って安藤は自分の説明が伝わったか様子を伺った。
「ほう、なんで?」と源馬は小さく言った。
「警部補殿、つまり犯人は強く動揺していたか、波打つ刃物で傷口に対してやや上から突いたのではないか? 凶器の持ち方にもよりますが上からの方が腕の力だけではなく、腕の重さも使いやすいので力が刃に伝わりやすく深く刺さるというわけですよ」
その時、初めて源馬の目が輝いたような気がした。
「ヘー、ちょっとやってみようか」
源馬は安藤に向けて刃物を刺す手つきをした。
「手だけでやるとこういう感じだね? 分かんないなぁ誰か刃物持ってきて」
「それは今無理ですので、えーっご自宅のキッチンとかで白菜とかでやってみてはいかがでしょうか」
「なるほどね、分かったやってみるよ。それで犯人は動揺しながらも力が上手く伝わる刺し方をしているということだね」
急に核心に切り込んできた。
「はっ、つまりこれは刃物の使い方に慣れた人物の犯行と言えるということなんです」
ここがポイントだと安藤は捜査本部での結論を述べた。
「それを根拠に捜査本部では、金銭問題で対立する暴力団魚崎組の犯行に間違いないと見て、現在事務所のガサ入れの準備をしています」
言い終わると安藤は源馬警部補の狙いが分かってきた気がした。
現場にわざわざ来た上で、初動から関わっている俺達巡査から直接捜査方針を聞くことで、その根拠を実感したかった。机上の議論ではない現場の大切さを分かってくれているのが源馬警部補なのだ。
安藤はようやく正解にたどり着いたと安堵した。
「あっその犯人の話知ってる。さっき警視庁で聞いたのと一緒だ。他の話はないの?」
返ってきた源馬の感想は軽くあっさりとしたものだった。
安藤は急に不安と苛立ちを感じた。
「確かに一緒のはずです。警部補はそれを実地で確かめにいらっしゃったんではないんですか?」
源馬はその質問を聞くと、髪を後ろに撫でつけながら言った。
「違うね、金銭問題で揉めて殺人、暴力団だから殺人だなんて、全然美しくないし感動もないじゃないか」
この源馬の答えの意味が分からず、一瞬間をおいて安藤は聞き返した。
「あのぉ、捜査に美しいとか感動とか関係あるんでしょうか?」
その時、源馬は見たことないくらいの剣幕を見せた。
「おおアリだよ! すべての殺人事件には美しさと感動が不可欠だ。それが死者に対する礼儀だろ」
突然大きな声を出した源馬に現場の鑑識や通りがかりの犬の散歩のおばあさんまで足を止めて注目した。
横で聞いていた鑑識岡田が、「あのぉ、安藤さん私この方の言っている意味が全く分からないんですが」と安藤に小声で助けを求めた。
「俺だって見失いつつある。キャリア様の考えていることだ、きっと我々には伺えしれない深い哲学的な意味でもあるんだろう、ここは受け流すべきところだ」
ブラック営業経験者の安藤の戒めに岡田は黙った。
(スズメバチもクマも大概の面倒事は、こちらが何もしなければ過ぎ去る)
出典不明の教訓を思い出した安藤は、無心に徹することを自分に誓った。
二人の警察官が死んだような目になっている事を、注目と誤解した源馬はまだ話を続ける。
「私は歌劇団にいるあいだに、すべての悲劇の背景には愛と憎しみがあることを学びました。特に人を殺すという勘定に合わない行動の背景には、必ず愛憎劇が絡んでいる。皆さんの話を聞いて私は確信しました。この事件の捜査一からやり直す必要があると睨んでおります」
無心に徹したいが、今の話はヤバい。これはかなりややこしいことになりそうだと安藤は感じた。
警察は組織だ。捜査本部で警視や警部が承認した捜査方針に基づき、法的に妥当な捜査をすることが刑事の役割だ。それを担当外、たとえキャリアと言えども警部補が覆して再捜査するなど出来るわけない。いや、あってはならない。
源馬と極力目を合わせないようにして安藤は疑問をはさんだ。
「でもでもですね、警部補殿。もう本件は本庁の服部係長指揮のもと、対立する暴力団魚崎組の徹底ガサ入れで捜査は進んでいますが」
それを聞いて源馬は笑い出した。
「そんなことだから日本の警察は未解決事件と冤罪を連発するんだな」
「それは、そちらの本庁の問題では……」
鑑識岡田が蚊の様な声で反論したがもちろん源馬は気にしない。
「人の心を揺るがすもの、それは愛以外にはないというのが私の持論だよ。だからこそ夢の世界の乙女塚を退団した、第二の人生は殺人事件に関わった人々の救われぬ心の闇に光をあてたいと警察官を志したわけだ」
「さすがです……私たち平凡な警察官には伺い知れない世界があるんですね」
安藤は波打つ心にそっと蓋をして、波風を避ける土下座営業に徹した。
「いずれ、君たちにもわかる日がくるよ」
言い終わると満足げに源馬は目を閉じた。
「ありがとうございます」
話を終わらせたくて安藤はひとまず感謝の言葉を伝えた。
しかし、そんな意図は源馬には関係ない。
「そうね、私の経験上、まず今回の筋書きを考えた場合、例え組同士の抗争であっても、金銭うんぬんをめぐる話ではないということですよ。しょせんがお金で済む話。脅しや喧嘩はしても盛り上がりにかけるし、すぐに容疑がかかってしまう。あまりに凡庸で山場のない脚本だ。その上、事前の読みと真実が一緒なんて、あまりに観客をバカにしている」
「その、観客って誰のことですか?」
「まぁ、分かる人間には言わなくても分かるし、分からなければ一生知らなくていい。そういうことですよ」
安藤と岡田の体を固めて戸惑っていた、それを興味と都合よくとった源馬はさらに付け足した。
「まずは筋書きの見立てで、背景に二つの組の対立軸とするウエストサイドストーリーのシャーク団とジェット団に模しているところまでは、凡庸ですがありとしましょう」
「凡庸?」
「あり……ですか、えっ何が……」
やり過ごすつもりが引き込まれてしまった安藤。
「続けますよ、私がこの現場に来て最初に気になったのは、現場に残されたこの大量のフットステップです。これについて説明してくれたまえ」
源馬は事件現場の地面に置かれた鑑識マーキングを指さした。
「それは、ゲソコンのことを言ってらっしゃるのですね」
「いかにも」
安藤は鑑識岡田に説明するように促した。
「この広場は水はけが悪く、事件前日にふった雨のおかげで今も地面がぬかるんでます、なのでご覧のように大量のゲソコンが残っています。この場所は公園のイベント帰りの客など普段から人通りが多く、複数が重なっていたり雨で流されていたり、時間の前後や識別が難しくなっています。鑑識の懸命の調査により、その中に被害者の足のサイズと一致するゲソコンは見つかっていますが、大多数はまだ同定できておりません」
岡田は今までの調べを説明した。
「じゃあ、この地面に点々とついている穴は何? 鑑識さんのマークついてみたいだけど、自然についたものではないよね」
源馬は広場に残る小さな1センチくらいの穴を指さした。
意外に細かいところ見てるなぁと、安藤は思ったが、もちろんこれらの跡も鑑識の調べた後だった。
安藤が初動捜査資料を調べた。
「昨日の夕方にここで、老人たちのゲートボール大会がありました。お年寄りは杖を持った人も多く、それであっちこっちに穴跡がついていると鑑識では見込んでおります。第一発見者の方もその老人会の人で、後片付けの確認に来て遺体を発見したそうです……」
「もういいストップ!」
説明途中で食い気味に源馬はいった。
「そこだよ、この事件(ものがたり)の鍵は! ステップ、そうステップだ、ワンステップ、ツーステップ、クイック、クイック」
人差し指を広場に向けると、ゲソコンを見ながら動かした。
「警部補どうされましたか」
意味不明な動作に安藤はまた不安になった。
「なんとなく、なんとなく、見えてきたんだ」
源馬の目が輝いていた。
「何が、です?」
「真実だよ! もうここは十分、捜査が手遅れになる前に、さぁ早く捜査本部に行きましょう。キミたち案内して」
そういうと源馬は、戸惑う安藤と岡田をさらうようにアルファードの後部座席へ押し込んだ。
「加賀待たせたな、では予定通り出発だ」
一同が向かったのは安藤の所属する深沢署だった。
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