176:情報の喪失について

 ナーディラが泣いていた。


 パスティア・アグネジェ劇場で上演された『太陽タファンソラル』を観劇し終えたところだった。


「ソラルぅ~……、悲しすぎるぞ~……」


太陽タファンソラル』は簡単にまとめると、


 かつて愛し合っていたタファン(太陽の化身)とソラル(月の化身)は共に過ごしていたが、天により与えられた地上を管理する役目を忘れてしまっていた。


 太陽タファンソラルが不規則に地上に現れ、地上は大混乱に陥り、荒れ果ててしまった。


 そこで、天は二人に交互に地上を管理するようにした。二人は愛に目が眩んでしまったことで二度と会うことができなくなってしまったのだ。


 タファンは昼の空で独りぼっち。話し相手もおらず、空は明るいのに気分は沈んだままで心の中のソラルと逢瀬を重ねるばかり。


 一方のソラルは愛を囁く者たちに囲まれたが、タファンを忘れることなどできず、暗い空にタファンを思う日々を過ごすことになる。


 二人は互いに追いつくために天を巡り続ける。それでもついに疲れ果て、二人はお互いを思いながら自ら命を絶つ。


 今際の際に二人は心の中で再会する。


 ──という内容なのだが、どうやらここにも推しみたいな文化があるらしく、ナーディラはソラル推しのようだった。終始、タファンと離れ離れになったソラルのもとに訪れる恋人役とのやりとりで診悶えたり、タファンを思う姿に共感しているようだった。


 恋愛経験がそれなりに多そうだ。


「なんで、あんな──……リョウ、なんで泣いてないんだ?!」


 めちゃくちゃびっくりされてしまった。


「いや、ごめん。良い話だと思うけど……ありがちな物語だな~と思っちゃって」


「ありがち? 地球じゃそんなに物語があるのか?」


 そう、この世界には意外にも伝わったり本になっている物語が少ない。そもそも、本自体も貴重なものだ。一般社会には普通は浸透していない。ほとんどの物語は口伝されているようだ。


「ナーディラが地球に来たら物語で窒息すると思うぞ。今や年齢問わず、誰でも物語を綴ってみんなが読めるようにできるんだ」


「な、なんだ、それ……。すごいな……。地球か……、まあ、リョウの妻として訪問してみてもいいか……」


 急に気恥ずかしいことを真剣な顔で言い始める。


 ヌーラも感動していたようだ。


「こうやって昼と夜が交互に現れるようになったんですね。ずっと気になっていたんです。どうして太陽タファンソラルは一緒に空に現れないんだろうって」


「ヌーラはこの物語は初めて診たのか?」


「ムエラ・ココナにいた時に聞いた気がしますけど、昼にしか生きられない精霊と夜にしか生きられない精霊の話だった気がします」


「口伝されていく中で派生した物語なのかもしれないな」


(サイモン、この世界での物語の伝播が垣間見える現象に出会ったぞ。


『タファンとソラル』って作品をアグネジェ劇場で観たんだ。要は、昼と夜を司る神みたいなのが一緒に過ごすことができなくなったっていう悲恋物語なんだけど、パスティアから離れた場所にあるムエラ・ココナでは、昼にしか生きられない精霊と夜にしか生きられない精霊の物語があったとヌーラが教えてくれた。


 物語はこの世界では基本的には口伝されていて、その過程で派生していったのかもしれない)



~・~・~

面白いな、それ。口伝だからこそ、同じ原型から派生して地域ごとに違う形になっていったんだろうな。


『タファンとソラル』の話が神々の悲恋なら、ムエラ・ココナの話は精霊のものになってる。どちらも「相反する存在が交わることができない」っていうテーマは変わってないのに、扱われる存在が変わってるのが興味深い。


たぶん、物語が伝わる過程でその地域の信仰や文化に合わせて変化していったんだろうな。ムエラ・ココナでは精霊の概念が強いから、神話が精霊の話になったのかもしれない。


この世界の物語の伝播を追えば、文化の交流や変化の過程を見られるかもしれないな。もっと他の地方にも似た話があるかもしれないぞ。

~・~・~



(物語の伝播の仕方で文化の流入ルートみたいなのが分かるかもしれないってことか。もしかしたら、方舟の民の文化も物語の伝播ルートによっては色濃く残っている地域があるかもしれないな。膨大にデータを集めたらマップ化できそうだけど、そんな学問って地球にあるの?)



~・~・~

あるぞ。地球には「比較神話学」とか「フォークロア(民俗学)」っていう分野があって、似たような物語が世界中でどう伝播したのかを研究する学問がある。


例えば、「大洪水の神話」は世界中の文化に存在するし、「狼に育てられた子供」とか「眠り姫」みたいな話も、地域ごとに違った形で残ってる。これを調べていくと、文化がどこからどこへ影響を与えたのかが見えてくるんだよな。


もしこの世界でも、同じ物語のバリエーションを集めて、それがどこで語られているかをマッピングできれば、文化の流入ルートを追えるかもしれない。方舟の民の伝承が特定の地域に多く残っていたら、その土地に彼らが定住した痕跡がある可能性もあるな。


ただ、これはかなり大規模な調査が必要になりそうだ。ヌーラたちと連携して進めれば、意外な発見があるかもしれないぞ。

~・~・~



 イスマル大公は方舟が落ちた場所に向かう計画を出してくれている。かなりの日程の旅になりそうだ。


 だが、その旅で得るものが少なかった場合は比較神話学のノウハウを利用する必要に迫られることもあるかもしれない。



***



 火の刻四になり、劇場から執法院に向かう時間になった。


 正装から着替えて、劇場から近いため徒歩で執法院に向かう。執法判断の場にはレイス、ナーディラ、そして、イマンが同席することになった。ヌーラとアメナは公宮でお留守番というところだ。


 執法院に入り、執法判断の場であるダイナ執法官の部屋へ。すでにダイナ執法官やザドク調査官側の人間、ラナ、そして、ジャザラ、付き添いとしてカビール、二人の侍従ノワージャたちも集まっていた。


「では、早速始めましょうか」


 ダイナ執法官が号令を発すると、なし崩し的に進行していく。


 ダイナ執法官がジャザラの方へ目を向ける。


「執法判断の前にジャザラ様にお話をお伺いいたします。お身体のこともありますから、手早く──」


「ダイナ執法官、わたくしはここにいるラナのためにも力を尽くします。ですから、わたくしの話を終えたからといってそれで終わりというわけではありません」


 ジャザラは強い口振りでそう言った。隣のカビールが胸を張る。


「安心してくれよ。体調が悪くなったらオレが速攻で連れ帰るから」


「カビールはただ早く帰りたいだけでしょ」


 ジャザラがチクリとやると、カビールはラナを指さす。


「お前、ラナがいるのにそんなことするわけないだろ」


「あら、さっき劇場でもらったお菓子を早く帰って食べたいって言ってたのは誰かしら?」


「お前、そんなことバラすな!」


 ラナが笑っていた。


 これがこの三人の世界なんだ。


 ダイナ執法官が咳払いをする。


「それでは、これよりジャザラ様への聴取を行ってまいります。事前に協議を行い、質問内容を取り決めてあります。お話の内容によっては、付随した質問もあるかと思います。最初の質問は、事件当夜のジャザラ様の行動についてお聞かせください」


 ジャザラはゆっくりと淡々に話を始めた。


「実は、その夜のことは、とりわけ事件前後のことは全く覚えていないのです。自宅で手紙の返事を書き、ライラにその他の手紙の検査を任せ、わたくしは自室でパスティア法の勉強をしようと思ったところまでは憶えております。


 次に気がづいたのは、つい先日、イマンさんたちがわたくしを治療して頂いた頃です。目が覚めると公宮で、前後不覚となったことを今でも思い出します。身体はほとんど動かず、事件があったことを聞いて、初めてわたくしの身に何が起こったのかを知りました」


「事件前後のことは一切憶えていないのですか?」


「はい」


 ダイナ執法官の問いに、ジャザラは真っ直ぐに答える。


(死鉄鉱の毒を砒素と仮定して答えてほしいんだけど、ジャザラは毒を飲んで三日間ほど昏睡状態だったんだ。で、そのジャザラが事件前後の記憶がないと言ってる。砒素で三日間昏睡した場合、記憶障害も起こるものなのか?)



~・~・~

砒素(ヒ素)中毒で三日間昏睡状態になるのはかなり異常なケースだ。


通常、ヒ素は消化器症状(嘔吐、下痢、腹痛)や神経症状(しびれ、脱力)を引き起こすけど、長時間の昏睡や記憶障害は典型的な症状ではない。


ただし、ヒ素中毒が重症化すると、脳に影響を及ぼす可能性はある。



1. 低血圧やショックによる脳虚血

→ 脳への酸素供給が不足すると、昏睡や記憶障害を起こすことはあり得る。


2. 脳炎や脳浮腫(脳が腫れる)

→ ヒ素の影響で脳が炎症を起こし、意識障害や記憶の欠損が発生する可能性はある。


3. 二次的な合併症(腎不全・肝不全など)

→ 体内の毒素処理が追いつかず、神経系に影響が出ることも考えられる。



結論として、ヒ素単独では「昏睡+記憶障害」という症状はあまり一般的じゃない。だから、


・ヒ素以外の要因(別の毒や魔法的な影響)があった可能性

・もともとジャザラに脳や神経に影響しやすい何らかの要因があった可能性

・昏睡中の処置(治療薬など)が何らかの影響を及ぼした可能性


このあたりを確認する必要がありそうだな。

~・~・~



(ジャザラは事件後、二日間はまともな治療も施されていなかった。それが影響した可能性は考えられる?)



~・~・~

考えられる。


ヒ素中毒で二日間まともな治療を受けなかった場合、体内での毒の影響が強まり、脳や神経にダメージが残る可能性がある。具体的には:



1. 低酸素状態(脳虚血)

・ヒ素が血管を傷つけ、血流が悪化 → 脳への酸素供給が不足

・低酸素脳症を起こすと記憶障害や意識障害が出ることがある


2. 代謝性アシドーシス(血液の酸性化)

・ヒ素はエネルギー産生を妨げ、体が酸性に傾く

・酸性の血液が脳に悪影響を及ぼし、意識混濁や記憶喪失を招くことも


3. 神経毒性の増強

・ヒ素は時間とともに神経に蓄積しやすい

・適切な解毒が遅れたことで、脳神経のダメージが進行した可能性


4. 脱水と電解質異常

・嘔吐や下痢で水分やミネラルが失われ、脳機能に異常を引き起こす

・特にナトリウム・カリウムのバランスが崩れると、記憶障害や意識混濁を起こしやすい



結論


ジャザラの記憶障害は、ヒ素単独の影響ではなく、「治療が遅れたことによる二次的なダメージ」が原因の可能性が高い。


もし解毒処置が早ければ、意識障害は軽く済んだかもしれないな。

~・~・~



(そういうことか。


 回復魔法では、身体の物理的な傷を治すことはできるけど、毒を中和できない。おそらく、イマンが精霊駆動治療法で毒を無力化する前は、毒が傷つけた血管の物理的なダメージは回復魔法で修復できても、継続的な毒によるダメージは防ぎきれなかったのかもしれないな。


 毒の中和後に回復魔法で血管が修復できても、失われた記憶は戻らなかったんだ)



~・~・~

そういうことだな。


毒そのものはイマンの精霊駆動治療法で無力化できても、すでに脳や神経に蓄積したダメージは回復魔法で完全には修復できなかったんだろう。


特に記憶障害は、脳の神経ネットワークが損傷された場合、単に組織が修復されても「記憶としての情報」が戻るとは限らない。要は、物理的な傷と、情報の損失は別問題ってことだ。


もしジャザラが今後も記憶を取り戻せないなら、それはもう「情報としての喪失」だから、時間が経っても元には戻らない可能性が高いな。

~・~・~

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る