139:考えないようにする

 私が初めてパスティア・アグネジェ劇場で『太陽タファンソラル』を観たのはいつだっただろうか?


 太陽と月のことは、それまで壮烈で静謐な天布の光……それだけだと思っていた。


 もちろん、信仰上、太陽と月が特別なものだということは頭で理解していたつもりだった。


 だけど、天に輝く星は、ただそこにあって、光っていて、私たちの住むこの大地のことなんて、遥か遠くの山の稜線を眺めるくらい、無関心で、寒々しくて、何も思惟に上っていないのだろうな、と考えていた。


 星はただ何も考えずに輝いて、私たち人間が生まれては死んでいくのをじっと見守るだけだ。



***



 出会いはいつだっただろうか?


 いや、自問する必要はない。あれは、カビール六歳の祝祭の日だった。


 その日、私は初めて両親に連れられて公宮へ向かった。


 内心怖かった。それまではずっと家の中で過ごしてきたから。


 いつもは青々としているだけだった庭園には、数えきれないほどの人の声、顔、足、草を踏み鳴らす音、笑い合う声、食器の触れる音々……それらが溢れていた。


 あの時の私にはその光景が異様に映っていた。


 初めて足を踏み入れた公宮は煌びやかで、夢の世界にやって来たような感覚に陥った。


 幼い私には、眩暈がするような場所だった。


 公宮の大広間に集まった無数の来賓。カビールの肩を軽く抱き、目の前に立たせたイスマル大公が挨拶を述べた。


 何を言っているのか分からなかったが、それが祝いの言葉だったと知るのは後のことだった。


 私のフェガタト家は下位貴族イエジェ・テガーラだ。


 上位貴族イエジェ・メアーラの政治に巻き込まれてきた両親の姿を子供心に見つめてきていた。大人たちは怖いものなのだ、とその時代の私の心にすり込まれたのだと思う。


 だから、大広間で挨拶をして回る両親について行くだけだった私は、お酒を飲んでもいないのに酩酊したようになってしまったのだった。


「外の空気を吸ってきなさい」


 両親がそう言って私を庭園へ送り出した。


 子供が一人で自由に動き回れるというのは貴族イエジェの中でも私のような下位貴族イエジェ・テガーラに与えられた特権だと思う。



 公宮の庭園は豊かな自然と人工物が共存する不可思議な場所だ。


 神話に登場する生き物たちを象った白い石像が並んでいたり、庭園を歩き回った足腰を休める石造りの四阿あずまやが木々の陰に隠れていたり、綺麗に剪定された木とその間をくねくねと曲がりくねる小径が縦横無尽に走っていたりと、“冒険”にはもってこいの場所だった。


 庭園も深く入っていくと、来賓の人影は少なくなっていく。


 静かな庭園を好奇心に任せて進んでいくうちに、この広大な自然が私だけのものになった気がする。


 そんな私の幼心は、木々の間を縫って聞こえてきた笑い声にドキリと跳ね上がった。


 石造の影からそっと向こうを覗き込んだ。


 絨毯草の敷き詰められた広場があった。


 そこで小さな男の子と女の子が二人、眩しいくらいの笑顔を振り撒いていた。


 美しい二人だった。


 きっと私と同じくらいの歳だ……そう感じた。


 彼らを遠巻きに見守る黒服が一人いて、私はそこで上位貴族イエジェ・メアーラだと直感した。


 上位貴族イエジェ・メアーラは、ある程度の年齢になると侍従ノワージャがつけられる。


 声をかけるべきか迷った。


 両親を悩ませる人種(──というようにあの頃の私は上位貴族イエジェ・メアーラを理解していたように思う)なのだ……気安く声をかけてはいけない、そんな呪いにも似た感覚が私の足を地面に根づかせた。


 そんな私の視線の先で、男の子の方がおもむろに法杖フェグノートを抜き出した。


 風を生み出す魔法──私はフェガタト家の人間として魔法の教育を叩き込まれていたから、法杖フェグノートの表面の模様を見てすぐに分かった。


「わっ!」


 男の子が驚いた声を上げて尻餅をついた。


 渦巻いた風が辺りの木々を揺らしたのだ。


「カビール様!」


 黒服の侍従ノワージャが素早く駆け寄る。


 カビール──ルルーシュ家の第一大公公子。


 両親が事あるごとにその名前を話の種にしていたのを耳にしていた。


 パスティアの未来を背負う存在……それが私でもできる風の魔法に失敗して尻餅をついたのが、すごく身近な感じがして、なんだかおかしかった。


 石造の影で吹き出して笑うと、見つかってしまった。


「なんだ、お前! 今、笑っただろ!」


 口元を押さえて謝った。


「そんなに怒鳴ったらあの子がかわいそうでしょ」


「なんだよ、ジャザラ! あいつ、オレの失敗を笑いやがったんだぞ!」


「だからって、怒鳴ることはないでしょ。きっとまた大公さまに叱られるわよ」


 侍従ノワージャが私の顔をまじまじと見つめていた。


「フェガタト家の──ラナ様ではございませんか?」


 私はハッとして背筋を正した。家の名前を挙げられるということは、家を代表するということ──そうやって口酸っぱく言われてきたから。


「わ、わたくし、フェガタト家の、だ、第一子……ラナにございます……!」


 すると、カビールはスッと表情を変えて、胸元に手を当てた。


「我が名はルルーシュ・カビール。大公第一公子である。フェガタト家といえば、魔法の専門家と名高い家……ぜひ魔法技術のご教授を願いたい」


 彼の雰囲気がパッと切り替わって、私はそれだけで圧倒されてしまった。


 ジャザラがニコリと笑っていた。


「こっちに来て。お話しましょう」


 それが二人との出会いだった。



***



 カビールとジャザラは、私とは階級が違う。


 上位貴族イエジェ・メアーラはルルーシュ家の威光を受け継ぐ資格を持った絶対的な存在だ。


 それでも、二人は私を普通の友人として見てくれた。


 おかげで、私は公宮に出入りできる数少ない下位貴族イエジェ・テガーラの一人となった。


 両親は私を褒め称えてくれた。


 きっと、家が安泰であることを思って胸を撫で下ろしたのだと思う。


 私たち下位貴族イエジェ・テガーラ上位貴族イエジェ・メアーラのひと声で容易に傾いてしまうこともあるから。


 私たち三人はいつも一緒だった。


「ねえ、ラナ」


 ジャザラはいつも人懐っこく私に声をかけてくれる。


 親交を深めてから少しして、彼女にも侍従ノワージャがつけられた。ライラという名前だ。


 ライラに対してもまるで友人のように接するのを見て、本当に民衆の上に立つ人々の振る舞いの清冽さに私は心が洗われる思いだった。


「今度、魔法学の試験があるの。イルディルの変位量の計算について教えてほしいの」


 ジャザラはしっかりしているのに、甘えてくるところがある。そこが私の心をくすぐる。



***



「オレはな、この国を率いるための力をつけたいんだ」


 私たち三人は集まるたびに未来の夢を語った。


 カビールが思い描くのは次なるイスマル大公。


 パスティア大公学と呼ばれる、大公となるべき者が修める学問の道を、カビールはひた走っていた。


「だからよ、ジャザラにはこの国の骨となってほしいんだ」


「私はあなたのためにパスティア法を学んでいるわけじゃないのよ」


 ため息交じりに言うジャザラはまんざらでもなさそうだった。


 彼女は法の番人として歴史を紡いできたホロヴィッツ家の子だ。カビールに言われなくとも、その道を進んだだろう。


「なら、ラナは魔法技術でこの国を整えてもらわなきゃね。下位貴族イエジェ・テガーラのあなたにしかできないことよ」


 ジャザラの期待を込めた笑顔。


「もともと魔法しかできなかったから」


「おい、ラナ、そんな後ろ向きなこと言うな!」


 カビールが私を叱りつける。いつもの私たちだ。


「カビール、急に大きな声出さないで」


「いいだろ、別に! こんな話してたら、こんなところで悠長にしてられなくなっちまったんだよ!」


 そう言ってカビールは走り出す。きっと公宮の教育係に講義をせがみに行ったのだ。


 残されたジャザラと私は顔を見合わせて苦笑いした。


 きっと、ああやって未来の話をしていた頃が幸せだったのだ。


 無邪気で、輝いていて、遠くを見据えていた。


 私たちは希望に満ちていた。



***



 私たちは貴族街アグネジェ唯一の学院、パスティア学院に通っていた。


 学院内は上位貴族イエジェ・メアーラ下位貴族イエジェ・テガーラに分けられていたが、時に合同で講義を受けることもある。


 そんな時、下位貴族イエジェ・テガーラたちは憧れの眼差しで上位貴族イエジェ・メアーラを見つめるのだ。


「ねえ、カビール様ってどんな方なの?」

「カビール様は何を専攻すると思う?」

「公宮に入ったことあるんでしょう? どんなところ?」

「いつもカビール様とジャザラ様と何の話をしているの?」


 私たちの関係性を知っている同級生たちが矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。


 いつ興味が尽きるのだろうと疑問に思いながら、当たり障りのない答えを返しても、みんな歓声を上げる。


 カビールとジャザラに対して幻想を抱いているのだろう。


 カビールもジャザラも私たちと同じ人間だ。


 私にはそれが嬉しかった。だけど、そのことをみんなに知られるのがどこか悔しくて、みんなの期待に応えるようなことばかり話していたと思う。


 だから、カビールやジャザラの幻想を生み出した犯人は私といっても過言ではない。


「見て!」


 私たちの教室から学院の回廊を歩く上位貴族イエジェ・メアーラの姿が見える。


 窓際に生徒が貼りつく。


 回廊を歩くカビールとジャザラが並んで笑い合っている。


 窓際からため息が次々と漏れる。


「お似合いよねぇ……」

「麗しい……」

「さすが、未来の大公と大公妃」


 その言葉が私の胸の間隙を縫って突き刺さってきた。



***



 少し考えれば分かったはずだった。


 ジャザラは上位貴族イエジェ・メアーラ……ルルーシュ家の血を残す資格を持っている。


 ずっと一緒だった。


 目が合うたび二人がさりげなく微笑んでいたこと、気づいていた。


 気づかない振りをして、自分の心のやり場を探す日々だった。


 下位貴族イエジェ・テガーラ上位貴族イエジェ・メアーラは根本的に違う生き物だ。


 決して触れ合うことのできない太陽と月のような……。


 夜が来て、天布に月が浮かぶたび、それを見上げる私の胸はきゅっと絞め上げられた。


 私は月。


 二人は太陽。


 同じ空に浮かぶことなどないのだ。


 想いを抱いてはならない──そう心に刻むごとに、そのことばかりを考えてしまう。


 考えないようにするのは、苦しい。


 この想いは、大地に腰を下ろして天布を巡るのをやめることなどない。


 私は月だ。


 明るい空で輝く二人を思い描くことしかできない。


 でも、私は月ではない。


 月は超然と、悠然と、冷然と天布を巡る。


 月のように何も考えることなく昇り続けられたら、どれだけ気が楽だっただろうか。


 出会いが違っていれば、この苦しみを味わうこともなかったのだろうか。


 あの庭園を吹き抜ける風に乗せて薫る草木。


 無邪気な笑い声。


 あの場所に辿り着いたのは、間違いだったのだろうか。


「お似合いの二人だね」


 私もそう言わなければ心の汚い人間だと思われそうで、自分事のように祝いの言葉を口にした。


 気づけば、あの日、公宮の大広間で何度も聞いた祝辞の言葉のようなものを、私も紡いでいた。


 大人になったのだ。


 私も、カビールも、ジャザラも。


 好き──その言葉を感情ごと心の奥底に押し込めた。


 この想いに気づかれてはならない、と思ったから。


 ただ一緒の時間を過ごせる、それだけで嬉しかった。幸せだった。


 この狂おしい日々を手放したくなかったし、同じくらい手放したかった。


 だから、胸が張り裂けそうで、苦しかった。



***



 カビールとジャザラから婚姻の儀を結ぶつもりだと告げられた時、私はどんな顔をしていただろう。


 動揺を隠すように、鏡が光を返すかの如く、祝辞を送った。


 長い間押し込めていたはずの胸の奥の想いの欠片たちが震えて、熱くなって、冷たくなった。


 そんな感情を抱えること自体、おこがましくて、未熟な自分に嫌気が差した。



 二人の婚姻の儀についての話題が大々的にパスティア・タファンを駆け巡った。


 街は祝福に満ちていた。


 私の胸の奥にどす黒いものが蠢く。


 私は醜い。


 そして、過去に囚われていた。


 二人と出会うことがなければ……いつしか、その妄想が私の胸中を、瞼の裏を、喉の奥を塗り潰していった。


 いつしか私の頭の中を占めるようになったのは、かつて中央書庫で読んだ書物に記されていた一編の魔法論文だった。


 天布逆転魔法──。


 過去を書き換えるという、空想を書き連ねたような語句の数々。


 これを実現させたい。


 心の底からそう思った。


 それが、この苦しみを終わらせる唯一の、そして、最後の方法だと信じるしかなかった。


 私はフェガタト家──魔法を生業としてきた家の第一子、ラナだ。



 夜空に浮かぶ月を見上げる。


 いつか、天布を駆け上がるその光の尾を掴もう。


 きっと、それが私を救うだろう。


 月よ、その時ばかりは素知らぬ顔などせずに、太陽に追いつけないことを思って涙を流してもいいのだ。

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