Vol.1:出会いと挑戦(〜2015年6月)
【始まりは突然、が現実に。】
「橋本、俳句やってみないか。」
高校1年生の10月のある日、その声が人生を変えた。
少し、中学からの部活の話。
本名は橋本と言います。茜﨑はペンネームです。
中学の頃に入っていた生物部と卓球部を辞めて地歴研究部に入っていたものの、心血注いでいた部活はなかった。
いや、母校・立教池袋高等学校はキリスト教の学校なので、礼拝とその奉仕及びその練習を行うアコライト・ギルド(立教学院諸聖徒礼拝堂祭壇奉仕者会)としての活動は全力でやっていた。しかし、活動日は他の部活が一律で休みの水曜日と礼拝がある日曜日の週2回。部活と言うには物足りないかもしれない。
近くの教会でボランティア活動も行っていたので、週間スケジュール的には木曜日以外何かしら予定が入っていたのだが、「充実」には程遠い生活を送っていたと思う。
同時期、勉強に対してもみるみるやる気を失い、成績がガクッと落ちたことも事実だ。
脱線が過ぎてしまったので、本題に戻ろうと思う。
成績で見れば国語の偏差値39のド理系だった僕が、その中でも詩歌が一番理解不能で苦手だった僕が、
俳句!?
声をかけてくれたキャプテン・丸山は中学からずっと仲の良い友人で、一緒に科博に行ったり釣り堀で魚釣りをしたりと、学校以外でもよく遊んでいた。
何やらお互いの句をディベートで競わせる、俳句甲子園なるものがあるらしい。しかし、それには5人1チームでの参加が条件であり、部員が足りないとのこと。
僕のおしゃべりな点を買ってくれたのか、その大会を目指すメンバーとして誘ってくれたのだ。
まあ、それなら。君がそう言うなら。
それが、俳句を始めたきっかけ。
この時は、俳句に興味など1ミリもなかった。
今思えば、半ば退屈しのぎにでも新しいことをやってみたかったのだと思う。
初めて句会で出した句は、当然0点。
確か、「秋分の終わり知らせる彼岸花」みたいな思っきし季重なりの句だった気がする。それもまた、自信満々で出していたんだから恥ずかしい。
点数がたくさん入っている句を見ても、何がいいのか全く分からない。言葉の距離ってなんやねん状態。
でも、その先にある面白さの片鱗を信じて、続けることにした。
何より、キャプテンの期待にも応えたかったから。
そんな日々が続くうちに、俳句に少しずつ惹かれていったんだと思う。次第に俳句の面白さの何たるかが分かってきて句会でも点が取れるようになったり、帰りの油そば屋で俳句について部員たちと(主に一方的に、だった気がする)話したりするようになっていた。
俳句に、ハマった。
それが高1。10年前の記憶。
【僕、ですか】
「Aチームは、この5人で行く。」
高校2年生になる時、チーム分けがあった。
高2部員7人、高1部員1人、助っ人2人。
助っ人の2人を除く8人で、Aチームの席をかけて話し合いが行われた。
(今でこそ母校は指導体制の整ったものになっているが、当時頼れるのは僅かなOBのみで、そのほとんどを現役生のみで決めていた。)
高3は居ないので、実質最上級生だ。チャンスはある。とはいえ。
高2部員の中で、僕は一番最後に入部した。
「まずは俺。」
同期は高1の夏前から文芸部に入っていた部員がほとんどで、それ以降に入ったのは僕を含めて2人しかいない。
俳句甲子園に出ていたのはキャプテンの丸山のみ。
「あと、関矢」
他にも3人、短歌甲子園に出ていたとのこと。
正直、俳句の実力も文才も彼らが上なのは明らかだった。(中でも1人、本当の天才がいた。今でもそう思う。)
「と、池田。この2人は経験的にも実力的に欲しい。」
(その天才が、彼。)
だから、残された席は1つしかない。
「それから、橋本。」
??????????
僕ですか。他を差し置いて僕ですか。(17音)
「やっぱり橋本は喋りができるし、最近句会の成績も上がってきてるし。俳句甲子園っていう大会を考えるなら戦力になると思うんだけど、みんなどう思う?」
驚いたのは、反対意見が出なかったこと。
正直、まだ部に馴染めているとは言い難かった。決して、同級生の友人が多かったわけでもない。
あの時の僕は、「チーム戦」で挑むにはノイズになり兼ねない存在だったと思う。トガってたし。
それでも、丸山は僕を選んだ。
そして、部員全員が、丸山の意見を尊重した。
(時は2024年7月、丸山と飲みに行った時にその真意を聞いた。
ディベート要員として、チームに選んでくれて嬉しかったと僕は言った。
しかし、そうじゃない、と丸山は返した。
「俺は橋本だから選んだ。」
嬉しかった。
そして、泣いた。酒のせいにして。
当時は周囲を納得させるためにも、理由付けが必要だったのだろう。
あの時、頑張っててよかった。)
となると、残りは1席。
「最後は、チームを纏めるためにも平がいいと思ってる。松村には申し訳ないけど、どうしよう。」
平(たいら)は、当時の僕の数少ない友達だった。誰からも愛される、絵に描いたような善人が彼だ。確か、夏の少し前くらいから入部したと聞いた気がする。
かく言う松村も、温厚で柔和でチームの緩衝材としては申し分ない。それに、前述した短歌甲子園に関矢・池田と共に参加したメンバーだ。
僕はてっきりこの2人がAチームに行くものだと思っていたから、驚きだ。
松村がなんと言ったかは覚えていない。でも、Aチームとして出たかったのは間違いないと思う。
それでも、彼は丸山の意図を汲んで了承した。
大人すぎる。僕が同じ立場だったらまず間違いなくAに入れろと我儘言ってただろうし、悔しさで発狂していたかもしれない。
「改めて、俺、関矢、池田、橋本、平。Aチームは、この5人で行く。地方予選まで頑張ろう。」
総じて、こんな感じだったと思う。
何せ10年弱前の記憶。脚色が入っているであろう点はご容赦を。
【地方予選】
2015年6月。羽田空港。
兼題は「朧」「母の日」「若葉」、そして決勝戦が「遠足」。
トーナメント形式のため、3つのうち1つは使わない兼題が出てくる。僕らは東京第1会場、即ち羽田空港の吹き抜けで俳句を知らない人たちにも見られる大舞台で戦うこととなった。
第1試合。兼題は「朧」。
対戦校は埼玉県立所沢高校のみなさんだった。
中でも、今でも強烈に脳裏に焼き付いている句がある。
朧朧朧鉄工所朧
それがこちら。確か、中堅戦で出てきた句だった気がする。
面食らった。
これは俳句なのか。
どう解釈すればいいのか。
どこを指摘すればいいのか。
部では一度たりともこんな句には出会ってこなかった。
頭が真っ白になって、ただ勢い任せにディベートしてしまったのを今でも覚えている。
当時は30秒ルールもないため、自身がマイクを置くまではターンが続く。他のメンバーだって話したいこともあっただろうに、「何か言わなきゃ」が先行して、いたずらに時間を使ったと思う。
大将戦までもつれ込んだものの、結果1-2で立教Aは敗退した。
第2試合の兼題は「母の日」。
対戦校は立教池袋B。要するに、同士討ちだ。
この時点で「若葉」の句は使わないこととなった。個人的に、自分の句に自信がなかったのでホッとしたのを覚えている。
結果だけ言えば、0-3で完勝。
丸山の目に狂いはなかった。それだけに、落とした初戦が悔やまれた。
僕らの命運は、Bチームに託された。
第3試合。兼題は「若葉」。
結果、2-1で所沢高校が勝利。
我々立教池袋は2チームとも同じ相手に敗れ、地方敗退が決まった。
その後のことはよく覚えていない。
最優秀句は「僕のうそ若葉にばれてしまつたか」。
立教Bが負けた句。
当時の自分は納得いっていなかった。この句の魅力が分からなかった。それも当然、限られた世界の中でしか句を見てこなかったのだから。その物差しから外れたものを良しとできない見聞の浅さ故だが、まあ今ならどうとでも言える。
でも、覚えているのはそれだけだ。
写真を撮ったことも、審査員の先生方に何を仰っていただいたのかも、その後どうやって帰ったのかも、何もかも、覚えていない。
2015年6月。羽田空港。
僕らは惨敗を喫した。
次回、「Vol.2:17音の青春(〜2016年3月)」。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!
文中で語りきれなかった句を供養する「句養」も是非ご覧ください! 茜﨑楓歌
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