踏破月刊罪悪/僕と。

伏潮朱遺

第1章 EVENー対等

    0


 時矢ときや君はとても優秀な生徒だ。

 うちの塾に通ってくれている、数学が得意な男子。

 もう中学3年の問題が解ける。

 物足りなさそうにしていたので試しに渡したら、いとも簡単に解いてしまった。

 数字に関しての記憶力が並みでない。

 一度聞いた数字はたいてい憶えている。

 反対に国語が少し苦手などこにでもいる、フツーの中学一年生(この4月に上がったばかり)だ。

 僕のことを好いてくれているのはわかるんだけど、ちょっと距離が近すぎると塾長から指導を受けてしまった。

 だから悪いのは僕なんだろう。

 期待させるような仕草で思わせぶりな行動を取っているんだから。

 でもそれもこれもピグマリオン効果の一種だと思ってもらいたいが、世間ではそうもいかず。

 ついに時矢君の母親が出てきて、担当を外れろとまで言ってきた。

 こちらは学校ではないので、外れろと言われれば簡単に応じることができる。

 塾側も親側も納得の上の措置だったが、気に入らないのは時矢君だ。

 僕が担当を外れた日から学校に行かなくなってしまった。

 両親が話を聞くも、部屋の前に置いた食事を手に付けるのみで会話らしい会話は成り立たない。

 不登校ならまだいい。

 引きこもりになってしまいかねない。

 さて、君が時矢君の親ならどうする?

 僕なら。






   踏破月刊罪悪/僕と。






第1章 EVEN ― 対等




     1


 これで何人目だろう。

 生活安全課、交通課、警備課、捜査一課。

 ああ、4人目か。

 とにもかくにも質が悪すぎる。

 曲りなりも俺の部下として働くんだからそれ相応のスペシャリストでないと困る。

 例えば、殉職した元部下みたいな。

 名を、通称ムダくんと言った。

 徒村アダムラ等良などよし

 名前を出したらすごく懐かしくなってきた。

 あの日。

 4月のあの日から。

 6年。

 もう、なのか、まだ、なのか。

 墓もなければ法事もない。

 あるのは命日だけ。

 4月5日。

 この日が、ムダ君がこの世からいなくなった日。

「いい加減に折れるか、一人でやって行く決意をしたらどうだ」

 県警横の掘立小屋(略して対策課の本部)に遊びに来ていた瀬勿関セナセキ先生が言う。

 比較的常識の範囲内の外出着でめかしこんではいるが、先生の本拠地である国立更生研究所での装いは、聞いてビックリ、過激なデザインの下着の上に白衣を羽織っただけ。だから俺は妖怪露出狂と呼んでいる。

 桜はちょうど満開で、掘立小屋の窓からもよく見える。

「折れるってのはいいとして、一人でやってく覚悟ってのはなんですか」早く帰れという意味の茶を出す。

「お、気が利くな。味はまあまあだが」そうやって先生は茶を一気飲みする。

 妖怪露出狂には伝わらない嫌がらせだったようだ。

 掘立小屋とは、何のことはない急ごしらえのプレハブ小屋で。街中の雑居ビルに構えていた対策課事務所が行き場をなくした折に、過去県警が使っていた古い倉庫を解放してもらった。聞くと俺が対策課を離れていたときに使用していた臨時の事務所だったらしい。

 中央に脚の長い大きなテーブル(作業用)。部屋の奥に俺のデスク。インターネットも空調も完備。

 欲を言えば、県警から離れていたほうが有難かったが。対策課を存続で来ている理由が、この県警本部の最高責任者であるから致し方ない。

 荒種アレクサ温大うんだい。愛知県警本部長。

 俺の配偶者だったりする。

「こんなに甘やかされてるのに、自覚がないのか」先生は自分で用意したパイプ椅子に脚を組んで座る。

「自覚はありますよ。ええ、ええ」

「なら文句を言わずに働け。そして結果を出して大王以外の有象無象の鼻を明かしてやれ」

 略して対策課。俺が課長をしている、所属が俺だけの部署。

 略さないと、対策略的性犯罪非可逆青少年課という。長すぎて誰の記憶にも残っていない。

 成果も誰の記憶にも残っていない。

 存続自体が空前のともし火の悲しい窓際部署だ。

「だいたいお前は理想が高すぎるんだ」先生が茶のお代わりを寄越せとばかりに茶碗を横に振る。「ムダ君みたいな優秀な人材なんかごろごろしていないに決まってるだろう。いたら私のところで雇っている」

「なんでそこで先生が出張って来るんでしょう」

「私だってムダ君の死を悼んでいいだろう。彼を喪うのは痛恨の痛手だった」

 ムダ君は生前先生のところで臨時バイトをしていたこともある。先生はなぜかやたらとムダ君を買っていた。

 俺だって。

「お前は部下がほしいのか相棒がほしいのか成果を出したいのかどれだ。手段と目的を吐き違えるな」

「カウンセリングなら結構です。先生こそ持ち場に戻られたらいかがでしょう」

 先生は俺の主治医でもある。

 何の病気かでお世話になったかはいまは伏せる。

「持ち場も何も。私だって対策課の一員だろう?」

「嘘です~。都合がいいときだけそうやって捻じ込んでくるんですから~~」

 その捻じ込みが有難いときもあるのだが、今日はちょっと遠慮してほしかった。

 命日にはいつも行くところがある。

「お伴してもいいか」先生が言う。待てど暮らせど茶が出て来ないので諦めたようだった。

「送迎してくれるんなら」

「わかった」

 先生の車(赤いスポーツカーなのでやたら目立つ)に乗って移動。

 10時。

 ムダ君が亡くなったのは、日付が翌日に変わる少し前。なのでちょっと早いけど、夜に単独で出掛けると心配する人が多すぎるので。

 桜並木の大通りを南へ、適当にパーキングに止める。

 昼間は静かな歓楽街を少し行くと、過去とある二代目店主が所有していた雑居ビルの跡地が。

「あれ?」

 おかしい。駐車場になっていたはずだが。

 塾が立っている。

「立地がいいからな。何にでも使えるだろ」先生が言う。

 どこにでもある学習塾。3階建て。どこどこ中学やどこどこ高校やどこどこ大学に何人排出しましたというカラフルなポスターが窓にべたべたと貼ってある。

 俺の視線が明らかに怪しかったのだろう。中からスタッフが出てきた。

 赤の他人から見ると俺と先生は何のつながりに見えるだろうか。

 まさか警察官と医師には見えまい。

「お子さんはいまおいくつでしょうか」感じのいい事務員らしき女性がきびきびとした口調で言う。

「え、あの」

「確か一番下がこの春中学に上がったばっかじゃなかったか?」先生が要らぬ口添えをする。「ああ、私は彼の付き添いだから」

「そうなんですか。中学コースでしたらこちらをどうぞ。是非、見学も随時行っていますので」

「ああ、どうも」

「ちなみにここはいつからやってるんだ」先生が尋ねる。

「あ、はい。今年1月からオープンさせていただきまして。この4月までに生徒さんがたくさん来て下さって。親御さんの見学も絶えないんですよ」

 自慢か。

「あの、すいません。娘とよく相談しますので。ありがとうございました」

「いえいえ、いつでもいらしてください。電話やメールでのご相談もお受けしておりますので。連絡先はそちらもパンフレットの裏に」

 なかなかの営業手腕だ(皮肉)。

 駐車場に戻ってから先生に反論した。

「なんであんな余計なこと言ったんですか。赤火あかほちゃんは」

「塾の一つや二つ通わせてやればいいだろ」先生が言う。「なにせ立地が最高じゃないか」

 赤火ちゃんは、俺の里子。5番目の子で長女。

 赤火ちゃんも、あの場所に行ったことがある。

 三代目店主と仲良くしていた。

「4番目も塾通いじゃないか。学業を学校に頼りきりじゃ駄目な世の中になって久しいぞ」

「そうなんですか?」

 まずい。子育てのことになると良いことはなんでも貪欲に取り入れようとしてしまう。

「でも先生、子育て失敗してますよね?」

「生きてさえいればいい。どんな状況になろうとな。それだけで親は嬉しいもんさ」

 先生の娘は人を刺して病院送りになったはず。

 退院できたのか、どこで暮らしているのか。俺は何も知らないし、知る権利はない。

 先生は県警本部前まで俺を送ってくれた。

「じゃあな」先生が運転用サングラスをかける。「ああ、新しい部下ができたら真っ先に挨拶に来いよ?」

「できたら、ですけどね」

「なんでそう跳ね返る。少しは大人しくなったかと思っていたんだが、見込み違いだったか」

「俺は変わってませんよ」

 変わったほうがいいのか。変わらないほうがいいのか。

「やれやれ、今日はつつかないほうが良さそうだ。悪かったな。困ったことがあれば相談しろよ」

 先生は颯爽と車で走り去った。

 事務所に戻る。

 少年課(対策課は少年課なので一番近い部署でもある)の壁渡ヘキドさんが外で待っていた。

「ああ、ども」

「あれぇ? 今日は元気ない日?」

 身長170センチ超え。ルックスも然ることながら、如何にも少年課の申し子と言わんばかりの優しげな眼差し。本部内女性人気も高いがそうゆう人に限ってとっくに既婚者で子持ち。

「なんでわかるんすか」

「顔に出やすいのわかってない?」壁渡さんがテーブルに書類の束を置いた。「いつものやつね」

「あざーっす。あ~あ、壁渡さんと一緒なら捗りそうな気がするんだけどなあ~」

「私は異動願い出してないからね。同業って辺りは好感持てるけど」

 壁渡さんが持ってきてくれているのは、管区内の少年が関わった性犯罪の詳しい資料。

「こうゆうの整理してるだけで気が滅入るよ。なんで彼らはこんな眼に遭わなきゃならなかったのかって」

「気を滅入らせてすいません。でもこうゆうのに立ち向かってるのが、我らが対策課ですから」

「我らが、て」壁渡さんがくすりと笑う。「待望の優秀な部下は引き抜けたの?」

「それ聞きます~~???」

 壁渡さんはわかっていて話題に出している。

「ああそうか」壁渡さんはカレンダーを見て思い当たったみたいだった。「ごめんごめん。デリカシーなかったね」

「この状況をデリカシーでまとめちゃうのが、壁渡さんのモテポイントですからね。別にムダ君は昔の男でもなんでもないわけで」

 しまった。墓穴を掘ってる。

「なんでそこでしまったって顔するの」壁渡さんが笑顔をくれる。「ほんと、顔に出やすいの治さないと少年少女みんながビックリしちゃうからね」

 なんでこんないい大人の生き見本みたいな人が、腐らずに濁らずに警察官のままいるんだろう。

 昔の俺もこんな人に関わってもらいたかったな。

「そろそろ戻るよ。書類溜まったらまた来るね」壁渡さんが言う。「て、溜まらないほうが私としては嬉しいんだけど」

「別に取りに伺いますよ。いつでも呼びつけてください」

「いや、君を呼びつけるのはちょっと気が引けるかな」

 壁渡さんともあろう人が気が引けている理由。

 俺が、愛知県警本部長の配偶者だから。

 要は本部長に遠慮している。

 俺のこのふわふわした立場を本部長の後ろ盾の賜物でしかないと思っている奴が多すぎる。

 だから俺は本部に入らない。

 視線なんかどうでもいい。噂話だって耐えてみせる。

 あの人が、

 本部長がそれを許さないから。

 本部長の手を煩わせて本部長がいろいろ言われるのが耐えられないのだ。

 逃げてるわけじゃない。

 逃げる場所もないのに。











     2


 俺は交代制勤務じゃないので夕方には帰宅できる。

 未成年の子どもがいる家庭としては有難いのひとこと。

「おかりなさ~い」

 買い物して帰ると、赤火ちゃんがキッチンの洗いものをしてくれていた。

 初めて会ったときは、肩に着くくらいだった癖っ毛の髪をさらに伸ばし、耳の後ろで一つに結わえている。上がったばかりの公立中学の制服はブレザー。赤いリボンが可愛い。

「いいのに。俺がやるから」

「ううん、ママパパもお仕事大変でしょ。家事はみんなで分担しようって決めたじゃん」

 それはそうなんだけど。

「赤火ちゃんだって中学に上がったんだから、学業のほうとかに力入れるためには」

「まだなったばっかだもん。宿題だってそんなに出てないし。学校で終わらせてきちゃった」

「さっすが~」

「でしょ~?」

「はいはい。で、今日は俺が片付け当番だっけ?」白光しろひ君がリビングでケータイをいじっていた。

「白光君、おかえり~?」

「一応、出掛けてたんでただいまですかね。トールさん」

 白光君は3番目の子で、三男。県内で一番偏差値が高い大学の心理学部に通う、今年度から大学2年生。まだ春休みが終わってないので、家にいたりデートしたりバイトしたり。彼なりに忙しく過ごしているようだ。

「そう、ママパパ、白兄しろにいまた彼女変えたんだよー」赤火ちゃんが口を尖らせながら言う。

「なんでそう要らんこと言うかな。てかなんで知ってるのさ、赤火」

「わかりますー」

「赤火反抗期? え、なにこれ」白光君が珍しくテンパってる。

 仲がいいのはいいことで。

 ママパパの俺は子どものプライベートにはいちいち干渉しない。

 家族は5人暮らし。

 一番上の子は訳あってここにはいない。長男。

 次男は、瀬勿関先生のところでバイトをして貯めたお金で学校に行って調理師免許を取っていまは介護施設で働いてる。いつまでも俺の脛をかじりたくないと去年から一人暮らしを始めた。

 四男は、大学受験を控える高校3年生。学校が終わると塾に詰めている。実は薬学部に行きたいと最近知った。医療系を目指してるってのが某妖怪露出狂の影響だったらどうしよう。

 それと、俺の配偶者。今日も県警本部から帰れないだろう。

 俺は身体が女のなり損ないで、心は男だった。で、男が好きってゆうちょっとめんどくさいスペックをしていた。それを瀬勿関先生がなんとかしてくれて、男の体を手に入れた。これで晴れて身体も心も男になったわけだったんだけど、如何せん、仕事上、見た目が女の方が都合が良くって。仕方なく毎日女装をしているってわけ。

 赤火ちゃんがママパパて呼ぶのはそうゆうわけで。

 赤火ちゃんたち輪湖わこきょうだいは、俺が関わったとある事件の被害者。母親が子どもを産んでは男と逃げてを繰り返してた。赤火ちゃんたちはずっと大人に振り回されて、傷ついて、誰も信用できなくなってた。んで、そこで俺が提案した。俺のとこで暮らさないかって。迷ってた子もいたけど、最終的にみんな提案を受け入れてくれて、それでそれ以来一緒に暮らしている。

 反対してたというか、びみょーな立場で静かに抵抗してたのは、むしろ俺の配偶者なだけで。あ、俺の戸籍上の性別は女のままなので、本部長と結婚はできた。ちょっとややこしい。

「赤火、今日のメニューは?」白光君が言う。

「えっとね、ママパパのお買いものは」赤火ちゃんが買い物袋をのぞく。「オムライスができそうかな~」

「やべ。ちょっちごめん」白光君が困ったような顔をしてケータイを耳に当てながら自分の部屋に入った。

「別れた女だよ」赤火ちゃんが肩をすくめながら言う。

「白光君モテすぎ」

 赤火ちゃんのメニューは、オムライス、オニオンスープ、サラダだった。

「赤火ちゃん、また腕上げた? このトマトソース美味しすぎ」

「えっへへ~。隠し味があるんだけど内緒~~」

 白光君はさっさと食べて出掛けてしまった。赤火ちゃんは、片付け当番を忘れないように釘を刺していた。俺は夜遅くならないようには伝えたけど。

 というかすでに20時ではあるんだけど。

 まずいな。さすがに夜間外出禁止は敷いたほうがいいか。

「白兄、断れないから」赤火ちゃんが食後の紅茶を飲みながら言う。

「優柔不断てこと?」

「そうとも言うけど、優しすぎるんだよ。来るもの拒まずだから、去る者がいないわけ。もし許すなら告って来た全員と付き合っちゃうと思う」

 やばいな。いまそんなことになってるのか。

 放置というか子どもらの自治に任せた結果がこれか。

「いまのうちに私、お風呂入ろうっと」赤火ちゃんが浴室へ向かった。

 そろそろ一人ずつとゆっくり話をする時期か。

 家族会議よりカウンセリングが必要かもしれない。

 21時になるので、青水あおみ君を塾に迎えに行った。車で15分の距離。

「いつもありがとうございます」青水君はちょっと疲れたような顔をしていた。

「今日は赤火ちゃん特製オムライスだよ」

「お腹あんまり減ってないんですよね。スープとかありました?」

「オニオンスープがあったよ」

「じゃあそれだけもらいます」

 青水君はそれだけ言うと、うたた寝を始めた。

 ちょっとどころかだいぶ疲れているようだった。受験勉強の根を詰め過ぎないといいんだけど。

 家に着くと、お風呂上がりの赤火ちゃんがパジャマ姿でリビングで待っていた。「青兄あおにいおかえり~」

「ただいま。スープだけちょうだい」

「なにそれ。せっかく作ったのに」

「こんな時間にそんながっつりしたもの食べられないよ」

「ごめん。青兄のこと考えてなかった」

「別に謝らなくても」

 空気悪い。どうしよう。いつもはこんな感じじゃないのに。

 青水君は、スープを飲み干すとざっと自分の食器だけ洗って(冷蔵庫の家事当番表を横目でちらと確認していた)部屋に戻った。

「なんか、みんなバラバラになってる気がする」赤火ちゃんが寂しそうに言う。「ごめんなさい、私、もう寝る。おやすみなさい」

「はい、おやすみ~。ゆっくり休んでね」

 赤火ちゃんの背中が見えなくなるまで見送った。

 さて。

 ここらで一発、みんなのギスりをなんとかするイベントでも開かないといけない。

 週末どこか行く?

 青水君、全国模試だってゆってたっけ。

 駄目だ。

 それに本部長が休みが取れないだろうから。

 ううん。困ったな。

「ただいま~」23時を過ぎてから白光君が帰ってきた。「すんません、遅くなって」

「心配した」

「ですよね。すんません」

「何してきたのかはなんとなく想像つくけど、話聞いたほうがいい?」

「今更女なんか抱けないって思いながら女と効率的に付き合う方法ってなんかありますか」

 白光君は無感情にそう言って、リビングの自分の椅子に座った。

 リビングには6人分の椅子。

 手前側のお誕生日席に白光君の席がある。

 俺の席はそのすぐキッチン側の隣。

「え、なんて?」

「いいです。変なこと言ったんで」

「違う違う。内容は聞き取れてるって。効率的に?」

「もういいですって。トールさんにする話じゃなかったですって」

 白光君は、過去、兄弟を養うために男女問わず身体を売っていたことがある。

 そのときの傷を考えたら、女性と“まともな”お付き合いをするのに抵抗があるんだろう。

「好きな人でもできた?」

「それが、できないんですよ。こいつ、こうやったら喜ぶな、金取れるな。こいつ、こうやったら怒るな、金取れるように誘導しようって。そんなんばっか考えてて。ヤんなっちゃいますよね、自分に」

「俺もそんな感じだったって話したことあったっけ」

「親に虐待されてたってやつすか」

「うん、だからおんなじこと考えてたよ。俺なんかが人を好きになれるんだろうかって。でもさ、なんかずっと俺のこと狙ってた物好きがいたわけ。20年だよ。20年ずっと待ってた。もう、どうでもよくなったよね」

「トールさんは人を引き付ける魅力ってのが半端ないすからね」

「白光君に言われると調子にのっちゃうな」

 こちこちと秒針がリビングに響く。

「断ったらいいんですかね」白光君が思いついたように言う。

「断れる?」

「それができたらこうはなってないっすよね」

「断り方練習する? 俺で」

「え、そんなの」

「案外シミュレーションになるかもよ」

「え、でも」

「うるさいんだけど」青水君が部屋から出てきていた。「そろそろ寝るから静かにしてくれる?」

「ごめんごめん。おやすみ~」

「おやすみなさい」

 青水君はおやすみを言うのが本題だったんだろうと思う。だんだんわかってきた。うるさいと静かにしろは照れ隠しだ。

「青君が薬剤師になったら、俺のこれ治してもらう薬開発してもらおうかな」

「薬じゃ治らないかもね。特効薬は、全部がどうでもよくなるくらいの恋をすることかな」

「だから、そうゆうのができないってゆってるんすけど」白光君が笑っていた。「話してちょと楽になりました。ありがとうございます。明日からちょっとずつ、お断りメール入れてみます」

 白光君はその場しのぎの言い訳や嘘はつかない。やると言ったら必ずやる子なので見守ることにする。

「大学は? 来週だっけ」

「履修登録は済んだので、はい。来週からです」

「話もまとまったところで白光君にプレゼントです」俺は自分の後ろを指差した。「今日の片付け当番さん、お願いします」

「ごめんなさい、そうでした。やります」

 片付け終わった白光君がシャワーに行ったので、二男の黒土くろど君におやすみメールだけした。すぐに返ってきた。

 本部長には。

 寝る前でいいか。

 とかやってると忘れる。









     3


 4月末。

 ゴールデンウィーク前半にどこか行こう計画は、参加できる人だけで水族館に行った。

 参加者は、俺、赤火ちゃん、黒土君。

 青水君は塾。

 白光君は「行楽施設に行くと必ず知り合いがいるからごめん」と丁重に謝られた。

 本部長は仕事。

 人でごった返してたけど久しぶりに黒土君にも会えて嬉しかった。

 5月。

 ゴールデンウィーク後半は特に何もせずに終わった。みんなの予定が会わなかったのが大きい。赤火ちゃんが悲しそうにしてたので、一緒に買い物に行ったりした。

 5月下旬。

 赤火ちゃんの様子がおかしいのに気づいた。

 髪型にこだわり出したり、化粧をすると言ってきたり、私服も新しいのがほしいとねだってきた。

 それともっと大きな変化。

「ママパパ、あのね、ここ通いたい」

 赤火ちゃんが持ってきたのは、なんと塾のパンフレット。しかも雑居ビルの跡地にあったあの曰くつきの。

「えっと? ここ行ったの?」

 かつて、祝多イワタ出張サービスという店の事務所があった場所。

「場所は知ってたよ。でもそうじゃなくって。その、あの」

「赤火、学力上げたいんじゃなくて、そこに好きな子でもいるんじゃない?」

 白光君がぽつりとつぶやいた言葉に向かって、赤火ちゃんが顔を真っ赤にして体当たりした。

「もー。なんで? なんで白兄そんなこと言うの~!!!」

 ぽかぽかと攻撃力の低そうな拳を白光君の肩に浴びせる。

「赤火わかりやすすぎ。そんなのとっくにトールさんだって」

「え? あ、うん。わかってたよ。うん、わかってた。うんうん」

「え、ウソでしょ? なんで誰も気づいてないわけ?」白光君が驚愕の表情を向ける。

 夕食の後のゆっくりとした時間は、突如として嵐が吹き荒れた。

「えっと? 整理すると?」

 かつて対策課のあった事務所の雑居ビルの跡地に半年前にできたばっかの学習塾に、赤火ちゃんの好きな子がいて。赤火ちゃんはその塾に通いたいと希望している?

「いいよ。見学一緒に行こうか?」

「いいの?」赤火ちゃんは意外そうに言う。「お金かかるし、その」

「不純な動機もあるし?」

「白兄は黙ってて!!」

「不純な動機でもなんでも、やりたいことができたのはいいんでない? お金は別に気にしなくていいよ。てゆうかお金の心配禁止って、一緒に暮らそうってなったときに言ったじゃん。だから大丈夫だよ」

「ママパパありがと~~」

 見学に行こうと言ったのは、うちの赤火ちゃんが想いを寄せる男子の顔を拝んでやろうという魂胆から。

 俺だってただじゃ起きない。

 早速週末に見学に行くことになった。

 しかし、その週末の一日前。赤火ちゃんの意中の男子が学校に来なかった。

 もちろん、土曜日に見学したときも塾にその男子の姿はなかった。

 そのことで、赤火ちゃんは心配になってしまって、塾の申し込みは一旦保留になった。

「風邪とかじゃないの?」

「ううん、その前もちょこちょこ休んでて。昨日来なかったときは連絡もなかったから、先生からお家に確認したくらいで」

 子どもが病欠するのに親が連絡しないのはおかしい。

 虐待?

 その後、6月になっても男子は登校しなかった。

 7月。

 夏休み直前。

 家が近いとかで、赤火ちゃんが男子の家に学校からの通知を運んだりしているらしい。

「行ってもお母さんも誰も出て来ないの。だからいつもポストに入れてるの」

「次の日行くとポストは空?」

「残ってるときもあるし、ないときもあるよ。大丈夫かな、所河ショカ君」

 所河ショカ時矢ときや

 それが例の男子の名前だ。

「あ、その名前。捜索願出てなかったかな」

 藁にもすがる思いで相談した壁渡さんがデータベースを検索する。

 ほんとだ。

 とりあえず住所をメモって。て、ホントにうちの近所だった。

「じゃあ不登校じゃなくて、行方不明ってことですか」

「そうみたいだね。未成年だったから私も記憶にあったけど、もう取り下げられてるね」

「事件にはなってない?」

「そう。つまり、どこにいるのか親はわかってるんだ」

「一緒に行きません?」

「さすがに私の部署は動けないよ」

 と来れば。

 うちの五軒隣のマンション。7階建て。

 703号室。

 オートロック。

 ピンポンを押す。

 返事なし。

 ポストをのぞいたら、昨日赤火ちゃんが届けたと思しき紙の束が(ナイロン袋に入って)あった。

 管理人がいないタイプのマンション。

 防犯カメラはあるけど、これを見ても何も映ってない気がする。

 再度ピンポン。

「もう、なに?」ヒステリックな女性の声がスピーカから響いた。

 11時。

「突然失礼します。警察です」

「だからもう取り下げたでしょ。帰ってください」

「ちょっとお話」

「帰ってください」

 切れた。

 駄目そうなのでポストに手紙を入れることにした。

 捜索願のことではなくて不登校のことで話があると書いた。

 名刺も付けた。

 よし、投函。

 13時。

 まさかの母親から連絡があった。

「警察は不登校のことも相談に乗ってくれるんですか」

「現状をお聞かせ願えますか」

 来訪が許された。

 14時。

 703号室。

「どうぞ」母親はひどくやつれていた。

 部屋内はさっき急ピッチで物だけどかして適当に掃除機をかけた感が満載で。細かいところにホコリが残っていた。3LDKの間取り。キッチンは最近使った形跡なし。洗いものだけが山盛りになっている。

 リビングのソファに座った。

 母親は斜め向かいに座った。髪型はなんとか後ろで結わえてまとめ、服は普段着だが、化粧気がほとんどない。化粧をして見せる相手がいないのか。

胡子栗エビスリです」警察手帳を見せた。

所河ショカです」母親が言う。

「失礼ですが、旦那様は」

「しばらく帰ってきておりません」

「息子さんがいなくなったことは」

「知らないでしょうね。なにせ、家に帰って来ないんですから」

「連絡は?」

「しても何もしてくれないので」

 別居なのか離婚寸前なのか。

「失礼ですが、以前から?」

「夫のことより時矢のことを聞いてください」母親が言う。

「あ、はい。すみません。時矢君はいつから」

「盗られたんです。あの塾に。取り返してください。時矢は、こんなことする子じゃありません」

 そう言って、母親がケータイを見せた。

 写真には、裸の男の子が裸の成人男性に抱きついている姿が映っていた。

 微笑ましい状況ではなく、これは。

 対策課の出番だ。














     4


 母さんはわかってくれない。

 なんで俺が家出したのか。

 なんで俺が学校に行かなくなったのか。

 母さんは話を聞いてくれない。

 先生はこんなにも俺のことを考えてくれるのに。

 だから父さんにも逃げられるんだ。

「おはよう」先生が笑顔をくれる。「よく眠れた?」

「うん、家よりずっと」

 先生は俺の塾の数学の先生。

 誰よりも俺のことを考えてくれる。

 家を飛び出して塾の前で立ってたら、鍵を渡して俺を匿ってくれた。

 塾が終わってから、先生は急いで帰ってきてくれた。

 ご飯も作ってくれて、お風呂も使わせてくれた。

「ねえ、俺迷惑じゃない?」

 今日で一週間。

 俺は学校にも行ってないし、家にも帰っていない。

「迷惑って思ったらどうするって思った?」

「家に連絡するとか、警察に連れてくとか」

「先に言っとくけど、君が自主的に僕のところに来たって主張しても、もう俺は君を誘拐したことになってる。家に言ったら警察呼ばれるし、警察に連れてったらその場で逮捕だ」

「なんで?」

「それが未成年てことだよ」

 え、ウソ。

「それでも置いてくれてるのはなんで」

「君が困ってるからだよ」

 自分が捕まるかもしれない危険がありながら、俺をここに置いてくれるのは。

 わからない。

 わかんない。

「俺、そんなに困ってた?」

「うん、困ってるから助けただけ」

 こんなに俺のことを考えてくれる先生に何か恩返しがしたい。

 そう言ったら、服を脱ぐように言われた。

 言われた通りにしたら、先生も服を脱いだ。

 そのまま俺を抱き締めてくれた。

 あったかい。

 シャッター音がしたけどどうでもいいか。

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