第14話 ネゴシエーション(1)
美景が上機嫌で仕事をしているその頃、昌義と渚は彼女の住まいのある立川まで来ていた。
灼熱の日差しと蝉の大合唱に晒されながら歩き続けて辿り着いたのは少々年季の入った木造アパートだ。
「ここが私のアパートです。また帰ってくる日が来るとは……」
青ざめていた渚の顔がさらに青くなる。昨夜電話を受けてからずっとこの調子だ。
「一〇一号室が大家さんの部屋です」
生返事をしながら昌義は建物を見上げていた。
外壁は所々虫食いみたいに塗装が剥げている。階段や二階廊下の鉄骨もあちこちが錆びていた。
(もっと良いところ借りれば良かったのに)
ツツジ・システムの給料なら築浅の綺麗な物件も借りられただろうに、と思う昌義。そしておもむろに建物の窓側に歩みを進める。
「何してるんですか?」
「建物を見てるんだよ。土屋さんの部屋は何号室?」
「二〇二です」
アパートの戸数は六戸。一部屋は大家で残り五部屋が賃貸。そのうち一〇二号室と二〇二号室、つまり大家の隣と真上の部屋の窓には雨戸がかけられていた。
「さて、大家さんの部屋に行こうか」
「気を付けてください。いきなり飛び出してくるかも」
「猛犬じゃないんだから――ぶふぉ!?」
「真田さん!?」
呆れながら大家の部屋のドアベルを鳴らした〇・一秒後にドアが勢いよく開き、昌義の顔面を強打した。
「誰だい? さっきから人の家の前でぺらぺらと」
中から現れたのは七十歳くらいの老婆だ。
「って、なんだい、土屋さんじゃないか。逃げずに来るとは見上げた根性だ。さ、とっとと家賃払っておくれ」
大家は渚の顔を見るや、「ふんっ」と鼻を鳴らして家賃を迫った。
「す、すみません……。今は手持ちが……」
「それはもう聞き飽きたよ」
「ぴぃ!?」
大家の不機嫌なしゃがれ声に渚は飛び上がった。
大家は昌義より小柄で五十歳近く年老いた女性なのに侮れない気迫を感じさせる。
(偏屈そうな婆さん。こりゃ手強そうだ)
渚が大家を恐れる理由がようやく理解できた。
「さ、真田さん……へるぷ……」
渚は今にも泣き出しそうな顔で助けを求めてきた。
やはり彼女人一人で交渉するのは無理だった。
「なんだい、このとっぽい兄ちゃんは。土屋さんの彼氏かい?」
「か、彼氏じゃないです!」
「土屋さんの友人の真田です。今日は家賃のことで大家さんと話し合いをするというので付き添いました」
昌義は礼儀正しく自己紹介をしたが、大家はいかがわしいものでも見るように顔を顰めた。
「で、お友達がなんの用だい?」
大家は部屋に上げようともせず用向きを尋ねた。顔には「金を置いて早く帰れ」と書いてあるのでお望み通り用件を切り出した。
「滞納している家賃ですが、土屋さんの仕事が見つかるまで待ってもらえませんか?」
「チェスト!!」
「いてっ!?」
突然太ももをハエ叩きで引っ叩かれた。老婆の腕力なので痛みは少ないが驚いた。
「なんだいなんだい! 家賃溜め込んだ詫びを入れに来たと思ったら払いませんとは何事だい!? 本当に図々しい小娘だね!」
「落ち着いてください。誰も払わないとは言ってません。土屋さんは今失業中で、払いたくても払えないんです。仕事が見つかったら滞納した分は分割で支払うので、またここに住まわせてもらえませんか?」
「調子の良いこと言うねぇ。じゃあ明日から働けるかい?」
「さすがに明日からは……。でも、土屋さんもこのままじゃダメだと思ってますし、動き出そうとはしてるんです。どうか信じてあげてください」
「半年無職の小娘の何を信じろってのさ!?」
まさに取り付く島もない。大家はすっかり渚のことを嫌って歩み寄る気配がなかった。
「まぁ、あんたが家賃を肩代わりしてくれるなら考えてやろうじゃないか」
「え、俺が?」
「そうだよ。まずは滞納した家賃をまとめて払っておくれ。それから今後の家賃を土屋さんが払えなかったら代わりにお前さんが支払うんだ。それならまた住まわせてやってもいい」
要するに保証人だ。渚の力になってやりたいが、さすがにそれは引き受けられない。なぜなら……
「俺も無職なんで家賃の肩代わりはできません」
「はぁ!? あんたも無職なのかい!?」
大家はあんぐり口を開けて驚いた。勢いで入れ歯が飛び出しそうになる。
そう、何を隠そう昌義も無職だ。だから他人の保証人になんかなっている場合じゃない。
「あんた、無職のくせにこの子を信じろだなんてよく言えたね!?」
「うぐ……」
痛いところを突かれてしまった。職無しの自分が渚の就職に太鼓判を押しても説得力が無い。
「まったく、話にならないよ。土屋さん、あんたにはやっぱり出てってもらうしかないね」
「そんな……」
「でも家賃はきっちり払ってもらうよ。例え裁判してでもね」
「裁……判……」
剣呑な単語に気圧され、渚の顔が青ざめる。
「裁判がイヤなら金を稼いで持ってきな。若いんだから金を作る方法くらいいくらでもあるだろ?」
勝利を確信した大家は醜い笑顔を浮かべた。
訴訟をちらつかせて脅し、金を持ってくるよう迫る卑劣さは見るに堪えない。
その時、昌義のシャツの脇腹辺りを渚がぎゅっと握りしめた。その手は小刻みに震えていた。
(交渉決裂だな)
この大家はどうあっても譲歩するつもりはない。ならば反撃開始だ!
「良いですよ。裁判しましょう」
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