第13話 (美景Side)内定
あくる金曜日。美景は不安な気持ちを抱えたまま出勤した。
午後、昌義と渚は大家を尋ねて謝罪と家賃の交渉をすることになっている。
「真田さんがついていれば大丈夫よね……」
交渉が成立するか未知数だが、昌義は不動産屋の経験があるし、コミュニケーション能力が高いのできっと力になるだろう。
今の自分に出来ることは吉報を待つことだけ。美景は気持ちを切り替えて与えられた仕事に向き合った。
が、すぐに出鼻をくじかれる。手元にあるのはキャバクラの領収書で、提出したのは社長の勝四郎だ。
「あのハングレ、マジで何考えてんの」
にわかに苛立ちながら美景は社長室に赴いて扉を乱暴にノックする。返事は無いが構わずドアノブを捻った。
「社長! 領収書のことでお話が…………」
開口一番、強めの語気で切り出す。
が、すぐに言葉を失った。
勝四郎は社長室にいた。ただし、ソファの上で金髪ロングの女を抱きかかえ、おっぱいにしゃぶりついているというあり得ない状況で、だ。
部屋に入って状況を理解するまでに要した時間、三秒。そして――
「きゃああああ!」
破廉恥すぎる光景に悲鳴を上げた。甲高い悲鳴に驚いた勝四郎と女――アリアがびくっと肩を震わせた。
「うわ、高坂! そこで何やってるんだ!?」
「それはこっちのセリフです! 社長室でなんてことしてるんですか!」
「一服つけてただけだろ。大袈裟な。で、何の用だ? 見ての通りお楽しみ中だ。用があるなら早くしろ」
まるでタバコ休憩してましたと言わんばかりで悪びれる様子は無かった。
会社で乳繰り合うなど不適切にも程がある。文句をぶちまけたいが、まともに取り合うのもバカらしいのでさっさと用件を済ませることにした。
「この領収書、キャバクラですよね? これは経費で落ちません」
「ダメだ、落とせ」
「ダメとは何ですか、ダメとは。仕事と関係ない出費を経費にしないでください!」
苛立ちを隠そうともせず領収書を突き付ける美景に勝四郎は露骨なため息を吐いて疎んだ。
「やだ、こわ~い。そんなに怒んなくてもいいのにね」
「小山田さんは黙っててください」
「おい、アリアになんて口の利き方だ。こいつはうちの幹部だぞ」
「会社で乳首吸われてる幹部なんて聞いたことありません。それから小山田さんは早く胸をしまってください」
美景のイライラはアリア(本名、小山田)にも遠慮なく向けられる。形ばかりの役員のくせに毎月自分の給料の倍をもらっているからやってられない。
「ふふ、そんなに目吊り上げて、初心な女の子みたい。もしかしてあなたって処女?」
おまけにコンプラ意識も皆無。唐突にセクシャルな質問をされ、美景は羞恥で顔を耳まで真っ赤にして黙り込んだ。
「え、何その反応? もしかしてホントに処女なの?」
「……あなたに関係ないわ」
「え、やば! 社会人になっても処女の女がいるとかウケる~!」
アリアが処女なことを騒ぎ立てると勝四郎もニマニマといやらしい笑みを浮かべた。
「ほほーう。高坂は処女なのか。まぁ、瓶底メガネの堅物女に男は寄ってこないよな。せめてコンタクトにしたらどうだ? せっかくエロい身体してるんだから男ウケするイメチェンしたら人生楽しくなるぞ?」
「大きなお世話です!」
勝四郎の舐めるような視線に怖気が走り、逃れるように社長室から飛び出す。ドアの向こうからは下品な嘲笑が聞こえ、耐えがたい屈辱感に襲われた。
自席に戻った美景はがっくりうなだれた。
「なんで私がこんな目に……」
自分は何も間違ったことはしてない。私的な出費を注意しただけだ。それなのになぜ処女なことをバラされ、バカにされなければならないのだ。
すべては勝四郎のせいだ。晴信時代にこんな風紀の乱れはなかった。お金のルールは徹底されていたし、ハラスメントにも厳しかった。しかしそれが功を奏して風通しの良い自由な社風を作っていた。
それが今や長時間労働とハラスメントが常態化したブラック企業になり果てていた。
無力感から仕事に手がつかず、ついスマホを眺めてしまう。
ホーム画面に映っているのは昌義の写真だ。一昨年の忘年会のビンゴ大会で景品を当てて喜ぶ彼をこっそり撮影したものだ。
その彼の頬を指で撫でたり、つついたりする。指先の感触は無機質だが、つい顔がにやけてしまう。
(早く会いたいな……)
今の美景は――アリアの言葉を借りるなら――初心な女の子そのものだ。
(私をここから連れ出してくれないかな……)
ふとそんな悲劇のヒロインみたいな思考が浮かぶ。
美景が転職しなかったのは昌義が残り続けたためだけではない。情けないが退職が怖いのだ。
事務職は買い手市場で転職のハードルは高い。競争を勝ち抜くには学歴と実務経験という書類にかけるアピールポイントが必要だ。
しかし美景は社会人経験が浅く、おまけに短大卒で大卒に比べると見劣りする。
そのためブラック企業と言えど辞める勇気がないのだ。
さしずめ自分は籠の鳥。いや、壁に守られた弱虫だ。
中の環境がどれだけ悪くなろうと、飛び出す勇気はない。
「真田さん……もう一度私に勇気をくれませんか?」
ディスプレイの中の想い人は何も答えず、ただ笑っているだけだった。
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