『黄金林檎の落つる頃』附録

清瀬 六朗

第1話 謎のトカラ人

 『黄金林檎りんごの落つる頃』で、ロクサネがバクトリアからしんのあいだに住んでいると言っている「トカラ人」は謎の多い存在です。

 この物語ではその存在を大きくふくらませ、バクトリアの東は、秦までぜんぶトカラ人の国ということにしました。


 中国の唐の時代に、中央アジアのオアシス国家に「トカラ語」(またはその関連言語;「トカラ語B方言」、「亀茲きじ語」などという)を使う人びとが残っていたことが知られています。

 しかし、このトカラ語の話者たちは、その後、最終的に大モンゴル帝国樹立にいたる動乱の時代なかで行方不明になってしまいます。

 だから、現在から見ると、せいぜい「謎の民族」で、そんなに大きな存在とは考えられないのですが。


 しかし、「トカラ人」または「トハラ人」と呼ばれる集団は、かなり古い歴史を持っていたようです。

 地中海世界に古くから知られた遊牧集団としてはスキタイ(スキュタイ)がありますが、それと並んで「トカロイ」という集団の名も記されています。「-oiオイ」は古典ギリシャ語の複数語尾なので、「トカラ人たち」のことなのだろうと想像できます。


 北インドや中央アジアからヨーロッパにかけて、「インド‐ヨーロッパ語族」と呼ばれる巨大な言語集団が広がっています。

 英語もドイツ語も、フランス語もスペイン語も現代ギリシャ語も、ロシア語もリトアニア語もウクライナ語も、インドのヒンディー語もベンガル語も、イランのペルシャ語も、すべてこのインド‐ヨーロッパ語族に属する言語です。

 また、古典ギリシャ語やラテン語もインド‐ヨーロッパ語族に属します。


 トカラ人のことば「トカラ語」も、イランやインドと同系統のインド‐ヨーロッパ語族のことばでした。

 しかし、インド‐ヨーロッパ語族の言語のなかでも、トカラ語(「B方言」も含む)は、イランやインドなどの「アジアのインド‐ヨーロッパ語」とは違い、古典ギリシャ語や西ヨーロッパの言語に近い特徴を持っています。


 「キ」とか「ケ」とかは、日本人は普通に発音しますけど、発音しにくいということで、「チ」とか「チェ」とかに変化してしまう言語があります(現代中国語が、ということはその基礎になった北京方面の漢民族のことばが、それと同じ種類の変化を起こしています)。

 アジアのインド‐ヨーロッパ語では早い時期にこの変化が進行し、「チ」・「チェ」からさらに「サ行」の音にまで変化するところまで行きました。

 一方で、古典ギリシャ語やラテン語などヨーロッパの言語では「キ」や「ケ」のままです。

 ところが、トカラ語では「アジアのインド‐ヨーロッパ語」なのに「キ」や「ケ」のままなのです。

 これがなぜなのかという謎もあります。


 西に進んでヨーロッパに到達したグループの一部が東に戻って来て、それがトカラ人になったのか?

 西と東に同じ言語を話すグループが広がったあとに、その「まんなか」にあたる部分で「チ」・「チェ」への変化を起こしたので、東へ行きすぎていたトカラ語ではその変化が起こらなかったのか?

 それとも「チ」・「チェ」への変化はどこの言語でも起こりがちな変化なので、インドやイランのことばでたまたまその変化が起こり、トカラ語ではたまたま起こらなかっただけなのか?

 もし「ヨーロッパに向かったグループの一部が東に戻って来た」のならトカラ人はヨーロッパ人的な風貌の人たちかも知れないということになりますが、そうなのかどうかもよくわかりません。


 また、このバクトリアのあたりは、漢文資料では、「大夏たいか」王朝やだい月氏げっしという遊牧民が活動した地域とされています。

 「大夏」はトカラ人の国ではないかとされています。大月氏(「おおつき氏」ではない。「月氏げっし」という遊牧集団が「大月氏」と「小月氏」に分かれたその一方)は後に匈奴きょうど帝国に敗北しますが、それまではけっこう大勢力だったはずです。この大月氏(また、その基礎になった「月氏」というグループ)はトカラ系ではないのか?

 一時期は漢をしのぐ大遊牧帝国を樹立する匈奴(普通はトルコ系またはモンゴル系とされます)は、わりとヨーロッパ的な風貌を持っていたとも言われるけれど(そういう顔立ちを描いた遺物が出土している)、トカラ系ではないのか?

 いんの時代から「五胡ごこ十六国じゅうろっこく」の時代まで中国の西方で活躍する「きょう」は普通はチベット系とされますが、これもトカラ系ではないのか?

 わかってないのなら、このあたり一帯の住民をぜんぶトカラ人ということにしてしまおう。

 そんなことを考えて、ここでは「秦とバクトリアのあいだにはトカラ人の国が広がっている」ということにしました。


 一方で、唐の時代に「トカラ語」を話していた人びとと、紀元前のトカラ人とがはたして同じ集団なのか、という問題もありますが。


 なお、アレクサンドロス3世がロクサネと結婚するのが紀元前三二八年、秦の始皇帝の中国統一が紀元前二二一年、匈奴で大帝国を築く冒頓ぼくとつ単于ぜんうが即位するのが紀元前二〇九年です。

 東アジアで「秦・漢帝国 対 匈奴帝国」という対立が軸となる時代は、アレクサンドロス東征の百年後からということになります。

 アレクサンドロスの時代は、秦が「連衡れんこう策」の張儀ちょうぎを登用して国力を拡張し始めた時代にあたります。また、秦の東方では、せい田斉でんせい)が強力になり、その斉で孟子もうしが活躍した時代でもあります。


 アレクサンドロスが短期間で大帝国をうち立てられたのは、イラン(ペルシャ)のアカイメネス王朝がエジプトから中央アジアまでを先に統一していたからです。

 一方で、中国では、まだ文化圏ごとに成立した大国が、後に「中華」と呼ばれる範囲へと統合していく過程で、「先に存在した統一」は(しゅう王朝による「封建」という形式での間接支配を除けば)まだなかったので、状況が違いますが。

 でも、アレクサンドロスの帝国が崩壊したあとで、地中海・ヨーロッパ・西アジアにはローマ帝国が成立し、秦の始皇帝の統一が崩壊した後も「中華」帝国では漢‐しん王莽おうもう)‐後漢と帝国が持続する、匈奴も紀元前後まで大帝国として持続することを考えると、この紀元前4世紀~紀元前3世紀という時代は「ユーラシアの各地で、その後も存続する世界的帝国が生まれていく時代」だったんだな、ということを感じます。


 さて。

 照井てるいみそらや浜島はましま盈子えいこ古藤ことう美里みりはこういうことを世界史(いまは「世界史探究」っていうんですか?)で勉強しないといけないので、たいへんです!

 とくに大学受験に世界史があったりすると、たいへんです!

 「祈・入試突破」と書いたメッセージ付き林檎を贈りたくなるくらいにたいへんです!

 がんばってね!

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