【アップ】男山教会 2023年2月5日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会 2023年2月5日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=GrB_XKoY9iA&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12788572214.html

(讃美歌や聖書の内容を閲覧できます)



前奏

招詞 ヨハネの黙示録4章11節

頌 栄

たたえよ、主の民[讃21-24,こども改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問21

「悪へとかたむく罪人」

こどもさんびか

かみはそのひとりごを[改20]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 199番(1,2節)

聖書

使徒言行録15章1~5節(新P242)

詩編89編20~30節(旧P927)説 教

「選民の条件とは

~キリスト信仰と真実を問う」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 199番(3,4節)

使 徒 信条

聖餐式

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄  540番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌199番(歌詞付)54年版「わが君イエスよ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=H7HBYLT0CRU

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)


頌栄集 讃美歌539・540・541・542・543・544番 メドレー

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=6lHQPiZILD0

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2023年2月5日 礼拝説教 中心聖句


ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

使徒言行録15章1節


わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし 彼を憎む者を倒す。わたしの真実と慈しみは彼と共にあり わたしの名にとって彼の角は高く上がる。

詩編89編23,24節


はじめに

真の選民の救いは人の義(行い)によるのか、キリストの義によるのか。

「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」と、一つの重要な転機を見る。それは、あるユダヤ人改宗者にとっては、十字架の死から三日目に復活されたお方であり、神の約束の救い主、油注がれたお方、キリストであることを承認しても、ユダヤ人の教えの中にとどまる事であったことを物語る。そこで、仮にも信仰によってこの御方を受け入れたとしても、なおも、自分たちの慣習に従うことに固執した。その第一は、「モーセの慣習に従って割礼を受けること」であった。しかし、この「割礼」は、ステファノの説教で、「神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました」(使徒7章8節)と証されたように、聖書的原則に立ち帰るものではなく、慣習的な維持を求めたもの。それは、「パウロやバルナバとその人たち」の信仰の良心と確信に触れたとき、「その人たちとの間に激しい意見の対立と論争が生じた」。

「この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。このエルサレムにおける会議は、当時の最高法院とは別の「使徒会議」。この意味では、ユダヤ人たちを代表する正規の会議とは言えない。しかし、その会議の正当性は、あくまでも、キリストから召命を与えられた使徒たちの権威におけるところの証言。それは、神の備えられた恵みの事実を、信仰の良心において証しするもの。その根拠は、神の約束とキリストご自身。「一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた」「エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」(使徒8~10,13,14章)。

「ところが、ファイサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った」。それでは、果たして、「モーセの律法を守る」とは、どういうことだろうか。使徒パウロは、おそらく、この会議以前に書かれた手紙において、「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(ガラテヤ6章12,13節)と言う。この意味では、使徒会議は、降って湧いた議論をしているのではなく、福音の本質からして、十字架のつまづきを明らかにするもの(「ほかの福音」ガラテヤ1章6節「キリストの福音」ガラテヤ1章7節)。「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」。それは、キリストの福音に生きることと、当時の慣習的理解の対立の解消に向かう。しかし、それは、形式的にはある段階を踏みながら進む手続きととなる。

おわりに

詩編89編は、キリストの到来をダビデ契約において証しし、神の恵みと慈しみを賛美し、神の民の苦難を証しする。今日、キリストの血と肉にあずかる時、わたしたちの信仰は、キリストの義を認める。その信仰の真実を自己吟味としたい。



(Mynote)


二〇二三年二月五日(日曜日)。この環境が与えられて居る事を神様に感謝する。

【今年度の目標と聖句】

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせて下さるように。」(『ローマ人への手紙』第一五章一三節)

〈子供メッセージ〉

『子供と親のカテキズム問二一』

「罪を犯した人間はどうなりましたか?」

「人間は生まれながら悪へと傾く罪人になってしまいました。神様との交わりを失い、神様に背いて歩むようになり、神様の怒りを受け、滅びの死に定められました。」

カインとアベルの話を例に出して居た。アベルの供え物に目を留めたが、カインの捧げ物に神様は目を留められなかった。これにカインは激怒し、弟のアベルを殺してしまった。「土が血で嘆きを上げて居る」と神様は悲しまれた。

〈公同礼拝〉

『使徒行伝』(第一五章一〜五節)

『詩篇』(第八九篇二〇〜三〇節)

「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」(パリサイ派から信仰に入って来た人達の主張)(『使徒行伝』(第一五章五節)

異邦人とクリスチャン(救われた人々)の立場の差。これを思わされる箇所である。神様は全ての人々を、その信仰により救われようとして居るのではないのか?ならば、救われる人と救われない人との差は、自然に於いて無い(と思われる)。救われない人と言うのは、自ら自分をその様にして居るのではないか。「選民の条件」とは何なのか?人を救う者は誰なのか?キリスト信仰と真実とは何か?

「神の民としての意識」とは「神様が創られた人々が持つ意識」の事。詰り全ての民と成ろう。神様は一つの群れとして民を見て、教会に集う人達を見る。個人的な責任の問題。やたらと現代では「個人的責任」と言う。でも一つの群れとして国民が在る。十二弟子も一つのグループ(群れ)として神様は認められて居た。個人で在りつつ群れで在る。アブラハム契約により、多くの民が救われる事に成る。群れ・グループとしての信仰の在り方を、更に大事にする必要がある。

自分と信者との関係・自分と教会との関係・自分と信仰との関係…責任…責任…責任。兄弟姉妹として救われる事が大事で、そちらに感覚と意識を向ける必要もある。

「割礼を受けなければ人は救われない」とは、後世の人達がモーセの律法に従う事を第一とし、神様の教えを蔑ろ・無視して居る事に成る。人を神聖視する事の危険がここに在る。イエス様の時もそうだった。イエス様がモーセの律法を土台にする上で人々の罪を更に解放した時、人々はモーセの律法を絶対とし、イエス様の教える事を一切信じなかった(拒否した)。詰り、モーセ(人)を絶対に取り、イエス様を否定した事に成る。イエス様は神様の御子であり救い主。モーセは預言者で確かに神様に遣わされたが、位置的にはイエス様が上である。救い主と人間との差が在る。しかし当時の人々には、イエス様も人間、モーセも人間。しかしモーセは時代(過去)の人であり、その為更に神聖視され、今目の前に居るイエス様を軽んじさせる感覚を生んだ。だから「同じ人間である」としたイエス様を当時の人々は信じなかった。

「割礼」とは救いの儀式の一に成って居た。そしてそれを絶対視した。でもその割礼の事も、神様が以前(旧約の時代)に人々に教えられた事。だから人には区別が付かない。何が救いの為に必要な行動で、不要な物事なのか。人々は頑なに成って居た。

「割礼を受けないと絶対に救われない・キリストの選民に成る事が出来ない」と言った(ユダヤから来た)人達と、パウロとバルナバとの間に少なからぬ紛糾と争論が起きた。(紛糾…物事が対立してまとまらない事)。詰りパウロとバルナバは、その「割礼を受けなければ人は救われない・キリストの選民に成れない」とした人々に猛反対して居た。互いにどうでも譲れない信仰がそこに在った。

最高法院が正しく裁く事が出来れば、イエス様が十字架に付けられる事は無かった。詰り人間が自力で賄って居る以上、必ず曖昧で間違う事がある。会議が開かれるのも、大抵この最高法院となる。だから幾ら会議を大々的に真剣に開き続けても、それが人間の自力だけで為されるものなら間違った土台の上で展開される。だから人間に於ける・人間による正答しか得られない。事実(真実)が証明されなければ成らない。その真実は、飽くまで神様から来る。

パウロも、パリサイ派から信者に成った者。現代でもモーセが神様から賜った十戒を、毎週の礼拝時に読む。この習慣をどう解釈・消化すれば良いのか?信仰に必要なもの・不要なものを、どうやって仕分けたら良いか?割礼とは、唯の習慣的儀礼だけではない。「肉によってもっと崇められたい欲望」が、割礼を勧める人々の内にあった?「割礼」の問題は、この時に降って沸いた問題ではない。弱き肉が表に出て来て居る。神様に依らなければ、この問題は解決しない。

『詩篇』(第八九篇)はダビデの子、イエス・キリストの事を賛美して居る。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


「間をとること」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/02/10

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EdHTWhuZHac


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)



思記〜『幻(ゆめ)の記(き)』より


「人間は何事にも慣れる存在(もの)だ」(ドストエフスキー)と言う。善悪にも人は慣れるのである。環境に人は慣れ、流行に人は慣れる。それは心身による慣れである。そして思考による慣れである。しかしその慣れを齎して居るものは何か?神様ではないか。神様が人に与えて下さったこの感性により、思考により、命により、慣れると言う感覚が存在するのだ。何億回も言うが、人は自力で生まれたのではなく、自力で今生きて居るのではない。自律神経を自分で無から創り上げ、それを自ら動かして生きて居る者は誰も居ないだろう。自然界の物にしても、人が宇宙を無から創り上げたのでなく、今自分達を取り囲んで居るこの自然万物を全て無から創り上げたのでもない。全て神様から与えられて、人はここに存在して居るのだ。自然がそこに具わって在るのである。全ての物事が、神様に初めから用意されて人が生かされて居る。その上で、その慣れる感覚一つを採っても、一体それが誰から与えられた能力なのか?…と言う事を考えれば良い。そしてその上で神様に感謝する為、神様に喜ばれる人に少しでも近付こうと努力せねば成らない。その時点から、人の本当の信仰生活が始まる。だからこそノンクリスチャン・クリスチャンの区別無く、人は皆、自力でその信仰生活を送る為の切っ掛けを得る事が出来るのである。そしてその信仰生活を生かされる上で、イエス様が十字架に掛かり三日目に甦られた事を以て、自分の罪人としての罪が許される切っ掛けを得る事まで出来るのである。全ての人はこの事実を知り、その信仰生活を送らねば成らない。人は皆この事を以て神様の産物であり、神様の息子・娘だからだ。


「神学より大事なのは人間学だ。人間に就いて学んで行くと必ず『人間を創った神様ってすげぇなぁ』って気付くと思うんですよ」とアーサーホーランド牧師は言って居た。この点も俺がここに記して来た事とほぼ同じだ。俺の場合は神学を勉強する事も人間学(人間がする学問)だとし、この人間界でする事は全て人間学の内に含まれるとした上で、分けられる事は無いとした筈。そうなのだ。人間(自分の事)を始め、人が自然の事に就いて学んで行く時、必ず神様の存在に気付くのである。説明付かない物事に打ち当たった時、人は必ず「それ等を説明し尽す何か」を欲しがろうとする。それは安心を求める為である。しかし宇宙の果てが何億年掛かって未だ分からない様に、人の体の構造の根(こん)、命の創成・誕生・構造の根が未だ掛けて分からない様に、人には自分を含むこの自然界に就いて何も分からない生き物なのである(この事に就いては以前に何度も記して来た)。詰り人はそれだけ自力では、曖昧な生き物で在ると言う事。神学を学ぼうが何をしようが、人のその正体は変わらないのだ。だからこそ人はノンクリスチャンの目から見れば余計に「自然に就いて説明する時、神様が居られなければ何も語れない(説明出来ない)じゃないか…」と言う、初めから在った疑問に気付くのである。その事をつくづく思い知らされるのである。俺はこの事に、あの教会に行けなかった十年間で、自力で辿り着けた。無論この自力にも、神様の御力が働いて居る。人は自分で生まれて来たのではなく、神様が創成して下さったからだ。詰り、神様が与えて下さったその命の土台の上に人が成り立って居るからである。神様の御力はその人が生まれた瞬間から今まで常に働いて下さって居り、その御力が在るから人は自分で生きず、神様にそのまま生かされて居る。もう神秘であり、奇跡である。人は普段当り前の様に生きて居ると思うものだが、まさに灯台下暗し、その命は神様に生かされて居る。その事に先ず気付かねば人間が成らない。それに気付いた時点から、信仰生活が本格的に始まる。だからそれに気付くより前に、既に信仰生活は始まって居る。その人が生まれた瞬間から、その人の信仰生活は既に始まって居るのである。人には初めから、何と何とを分ける事など出来ない。何事に付けても土台が曖昧な生き物だからだ。神学がその時目の前に在れば、それは神様が用意して下さってその「神学」が目の前に在ると言う事。罪が目の前に在れば、それは神様がその人の信仰を強める為に置いて下さった切っ掛け。目の前に愛が在れば、それはその人を報いて下さる為に神様が置いて下さったもの。そしてその事には全て神様がその人に定められた時が在る。その「時」は全ての経過を伴って美しい。






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【アップ】男山教会 2023年2月5日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります 天川裕司 @tenkawayuji

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