エッセイ ~そろそろ宿題に手を付けよう、答えは出なくとも手を動かそう~

樹智花

エッセイ ~そろそろ宿題に手を付けよう、答えは出なくとも手を動かそう~

※これは佐賀ミステリファンクラブ特別号「竹本健治特集」に筆者が寄稿した評論的エッセイの全文です。



 「宿題を取りに行く」という本格ミステリについての小論がある。


 これはミステリ評論家の巽昌章が『幻影城の時代 完全版』(講談社BOX)に寄稿したもので、雑誌「幻影城」を起点に、「幼稚さ」と「成熟」という言葉をキーワードとして、戦前の探偵小説から「幻影城」、新本格ミステリ以降に至るまでを単一直線上につなげた名評論である。

そのなかで巽は、戦前の探偵小説から「幻影城」、新本格ミステリ以降に至るまでの時代を経て、「幼稚さ」を本来的に含むような本格ミステリを愛好する人々に対し「宿題」を提起している。その「宿題」の内容とは、本文を引用すると「現代推理小説は成熟したのか、そもそも成熟とは何か、そして、なぜいわゆる新本格以降成熟という観念は大声で語られなくなったのか」というものである。


 この「宿題」が提起された背景には、リアリズム・本格ミステリの旗手だった佐野洋が、戦前の探偵小説の「幼稚さ」を批判し、探偵小説の再評価を否定した、という出来事があり、「宿題を取りに行く」の論考はその点に基づいている。


 この批判の矢面に立った、戦前の探偵小説の「若さ」や「稚気」、言い換えれば「幼稚さ」を引き継いだ「幻影城」の作家たちの世代や、時代が下って「幻影城」の作家たちに影響を受け、新本格ミステリ・ムーヴメントを率いた作家たちの世代、そして新本格ミステリ黎明期の作家に影響を受けた現代本格ミステリ作家たちの世代にも該当してしまう批判である。しかし、新本格ミステリ以降の時代には、「成熟とは何か」について言及されること自体がまれになってしまった。


 新本格ミステリ・ムーヴメントの初期には、その文学性を疑問視する批判が確かにあったし、いまだに新本格ミステリ以降の本格ミステリに対しても、そのような批判や感想が述べられることがある。ただ、その「幼稚さ」のみを指摘する声はあっても、「では逆に『成熟』とは一体何なのか」について述べる人はごく少ない印象を受ける。


 巽は「宿題」の提起の結末で、「戦前の探偵小説と彼らと同時代の文学者の比較による文体論」と「探偵を特権化することなく、あらためて推理小説の構造を考えること」が「佐野の発言に対する反論」、すなわち「宿題を片付ける」ことではないか、と結ぶ。


 付け加えると、「探偵の特権化」とは単に「探偵のキャラクター性を重視する」ということではなく、「名探偵を作品の中心に据えることだけで、作品が本格ミステリとして成立してしまうこと」を指しており、「推理小説の構造」とは、「中心的思いつきが作中の擬似現実に定着していく仕組みを意味するらしい」としている。


 本稿の筆者は巽ほど見識が広いわけでもなく、また文体論を展開できるような学識や幅広い読書量があるわけでもない。

そこで、巽が提起した論点についてまとめつつ、「幼稚さ」と「成熟」を本稿でもキーワードとして扱い、現代に至るまでの本格ミステリにまつわる「宿題」について、明確な答えは出せなくとも筆者なりに試行錯誤をして考えていきたい。



 現代に至るまでの本格ミステリの「成熟」について考える前に、巽が述べるところの「幼稚さ」とは何を意味しているのかをまず考えてみよう。


 巽があげる「幼稚さ」のひとつとして、佐野の目から見れば、戦前の探偵小説が小説的技巧において拙かったことがあげられる。小説的技巧は時代を経るにつれ応用と止揚による蓄積と積み重ねを繰り返し、発展しているように見える。一種の進歩史観かもしれないが、技巧の蓄積と積み重ねに関してはフィクションであればどれにも当てはまるのではないか。本稿では文体論を扱わないため、これ以上の言及は避ける。


 またふたつ目に、佐野の考える「幼稚さ」とは、「物語が現実に対し地に足ついていないこと」と言い換えられるだろう。つまり、現実世界と作中世界のあいだに、大きな乖離や違和感があるということだ。具体的な例をあげると、「名探偵なんて現実ではあり得ないよね」「こんな動機で人を殺さないよね」「舞台設定がまず不自然だよね」といった類のものである。


 本格ミステリを「原則的に無数の解釈を許す物語という形式において、謎から真相に至る部分の解釈をひとつに定めようとする形式の物語」とみれば、実は佐野が書いていたようなリアリズム・本格ミステリも、「幼稚さ」を持つ本格ミステリも、その観点からは同一のものである。

ただ、「幼稚さ」を持つ本格ミステリにおいては、不自然なHOW(トリック)やWHY(動機)などを成立させるために現実世界と物語世界の乖離が大きくなっており、二重の「不自然さ」を孕んでいる。その二重の「不自然さ」を無邪気に信奉・称揚する態度こそが、「幼稚さ」と捉えられたのではないだろうか。


 本格ミステリという形式を取る以上、どこかで「不自然さ」が現れることを免れ得ないが、戦前の探偵小説作家が「不自然な物語」に対して無垢な信頼を寄せる態度は、本格ミステリを可能な限り「自然な物語」に還元しようとした佐野の態度と方向性が違ったのではないか。


 ここでまた別に考えたいのは、「探偵の特権化」と「推理小説の構造」についてである。具体例をあげて考えると、都筑道夫が『黄色い部屋はいかに改装されたか』という本格ミステリの今後のあり方について書いた評論エッセイのなかで唱えたことのひとつに、「名探偵の復活」というものがある。都筑は「シリーズ化可能な名探偵」あるいは「名探偵」の存在そのものを再び取り上げたのである。その後、都筑は佐野と「シリーズ名探偵」、あるいは単に「名探偵」という存在の是非を問う「名探偵論争」を繰り広げたが、本格ミステリの形式上、「名探偵」には「唯一の解釈」を定める際に絶対的な説得力を担保する「装置」としての役割があり、「シリーズ名探偵」、あるいは「名探偵」そのものの「不自然さ」を嫌う佐野は、その「装置」としての「名探偵」のあり方も「不自然」であると意識的、無意識的に感じていたのではないか。


 「名探偵」が「唯一の解釈」を定めるために絶対的な説得力を担保する「装置」であることは、巽が述べるところの「探偵の特権化」に等しい。そして、佐野に対して反論すること、すなわち「本格ミステリの『成熟』について考えること」は、作品内に「名探偵」自体が存在するか否かに関わらず、その「探偵の特権化」を除いた形で本格ミステリについて考えることも含むのである。


 また巽は、「宿題を取りに行く」のなかで、「推理小説の構造」に関しては明確な言語化を行っているわけではないが、「中心的思いつきが作中の擬似現実に定着していく仕組みを意味するらしい」と自分なりの定式化を述べている。


 最初に奇抜なHOWやWHYの発想があり、それを物語として形式化するために作中の現実を作り上げていく一連の流れ、とでも要約すればよいだろうか。


 巽が『論理の蜘蛛の巣の中で』のなかで述べているように、本格ミステリとは「面白いことを思いついたからつい書いちゃった」という気軽なものでも(思想性・テーマ性がなくとも)、その思いつきをうまく形にできれば、現在でも作品として評価され得るジャンルである。佐野の考える本格ミステリの「成熟」とは、思いつきを「自然な物語」に落とし込む作業としてイメージされていた。一方で、本格ミステリの読者が求めるものは奇抜で意外性のあるトリックや動機であったことは日本のミステリ受容史をみれば確かなことで、ここに佐野が求めるような本格ミステリと、「幼稚さ」を持つ本格ミステリのあいだに読者を介して対立が生まれてしまうのである。


 当時「成熟」していると思われていた本格ミステリの系譜がさらに「成熟」したかについて考えることも必要であろうが、それについては一旦置いておくとして、これまで書いたことを踏まえて「幼稚さ」を持つ本格ミステリが本当に「成熟」したのかについて考えることが、「宿題」の提起に答える道筋であろう。


 最初の問いに立ち返ってみると、「現代推理小説は成熟したのか、そもそも成熟とは何か、そして、なぜいわゆる新本格以降成熟という観念は大声で語られなくなったのか」というものだった。現代本格ミステリは、戦前の探偵小説から「幻影城」、新本格ミステリを経て「成熟」したと言えるのか。佐野への反論は、そこを考えることで可能になるはずだった。

引用した問いにあるように、まず「そもそも成熟とは何か」について考えてみたい。


 例えば、現代において前例のないHOWやWHYを生み出すこと、過去のHOW、WHYの斬新な応用あるいは止揚を行うこと、重厚な人物描写と斬新なHOWやWHYを融和させること、これらは「幼稚さ」を持つ本格ミステリの「成熟」といえるのだろうか?


 また、「後期クイーン的問題」の発見と、それに対して作品のなかで解答を出すことは「成熟」と呼べるのだろうか?


 現代的な社会性や思想性、テーマ性を深めつつHOWやWHYにもこだわった本格ミステリが書かれることを、「成熟」したと呼べるのだろうか?

 確かにこれらのことはある面において「成熟」と呼べるのかもしれない。一方で、「幼稚さ」を持つ本格ミステリについて、これらのことは「宿題」が提起する「成熟」という意味において表層的な部分なのではないか、と考える。


 次に筆者の「成熟したか」についての観点を述べると、現代本格ミステリは「成熟」したという立場を取る。それは「幼稚さ」を持つ本格ミステリにおいて、「成熟」とは前述の項目を成立させるための大前提となる「論理」(ロジック)の「自然さ」が発展してきた結果である、ということが理由だ。ときに鋭い整合性で、ときに飛躍によるアクロバティックさで「不自然な物語」の屋台骨となり物語全体を支え、大きな説得力を持たねばならない「論理」が「自然さ」を保ちながら、時代を経て「成熟」していったのである。


 どんなに奇抜で意外性のあるHOWやWHYでも、その土台となる「論理」に説得力を付与しないと本格ミステリとして成立しない。そして、HOWやWHYの奇抜さや斬新さ、応用や止揚が蓄積し積み重ねられていくうちに、より複雑なものとなり、比例してそれらを成立させるための「論理」もソリッドさや説得力、飛躍をさらに増した「自然さ」を持つために発展、すなわち「成熟」してきたのではなかったか。


 「探偵の特権化」について、HOWやWHYを成立させる「自然な論理」を提示する作中内の人物がいれば、その人物が名探偵であろうがなかろうが「不自然な物語」は成立するのである。「唯一の解釈」の説得力を絶対的に担保するための「装置」としての名探偵は、その意味でいてもいなくてもよいのだ。


 北村薫は、「本格ミステリのような理知の物語は古びない」という趣旨の発言をしているが、その「古びない理知」、要するに「自然な論理」の骨子を蓄積し、積み重ねて発展させてきたからこそ、現代本格ミステリは「成熟」したといえるのではないか。


 そして、新本格ミステリ・ムーヴメント黎明期の作家の多くはエラリー・クイーンの作品から影響を受けており、それ以降の書き手の多くも新本格ミステリ黎明期の作家たちの影響を免れず、クイーン式の「論理」が作品の大前提として存在する。


 「後期クイーン的問題」を含むそのクイーン式の「論理」が大前提としてあり、クイーン由来の「論理」のキレには言及されることは多くとも、「論理」自体は作品固有のものであり全体的な発展の把握がしにくい。「成熟」が語られなくなった背景には、「論理」の「自然さ」がいかに「成熟」してきたかについて、その蓄積や積み重ね、複雑さゆえに全貌が見えず透明化した結果であり、それにより言及が少なくなったのではないか。作品単体、あるいは影響関係がある作品との比較は語られやすいが、全体としてどのように戦前の探偵小説から「幻影城」、新本格ミステリ以降に至るまで発展してきたかについては、語ることが難しい。


 また、「中心的思いつきが作中の擬似現実に定着していく仕組みを意味するらしい」という「推理小説の構造」については、それを成立させるための手段として「自然な論理」は必要不可欠である。「幼稚さ」を持つ本格ミステリが「不自然な物語」の形式化である以上、「自然な論理」がなければただの不条理文学と化してしまうのである。


 ここだけ切り取れば、本格ミステリに対し「自然な物語」を希求した佐野が書くような本格ミステリにも当てはまるだろう。ただ、「幼稚さ」を持つ本格ミステリが「不自然さ」を志向する以上、「自然な論理」はより必要とされるのである。繰り返すように、奇抜なHOWやWHYを過去から発展させて描こうとすれば、「論理」の説得力はより「自然」でなければ納得感を生まない。


 巽は論の最後に、「幼稚さ」を持つものもそうでないものもひっくるめて、具体的な作品を勘案しながらアイディア勝負の作品がどのように書かれたか検討する必要性を述べている。本稿はここまで抽象的な論に終始しており、またもうひとつの検討事項である文体論にはまったく触れていない。


 巽の「宿題」の提起に答えるためには幅広い読書量と学識が必要になり、「これだ」といった答えを個人で出すのは容易ではないだろう。


 また、本稿の視座には、本来あったはずの黄金期前後の海外ミステリから戦前の探偵小説、「幻影城」への影響関係も抜けている。

それをいうのは逃げかもしれないが、本稿は、そろそろ「宿題」に誰かが手を付けなければならないと考えた筆者が、明確な答えを出すことはできなくとも、とりあえず「宿題」を部分に分けて考え、手を動かして解答を得ようとする試行錯誤にも意味があるのではないか、と感じたことが執筆動機になっている。


 戦前の探偵小説から雑誌「幻影城」を経由して新本格ミステリが生まれ、現代の本格ミステリの興隆があるが、竹本健治を生んだ「幻影城」に関する議論からふと思いついたエッセイを書いてみた次第である。


 「宿題」によって提起されたものに答えるのはとても難しいことであり、本稿の考えも幅広く小説を読み、文体論に触れることで、まったく別のものに変化するかもしれない。論を覆すようなことをいっているかもしれないが、本当に戦前の探偵小説の「論理」から現代の本格ミステリの「論理」は発展しているのか、次に行うべきは、例えば白井智之『エレファントヘッド』と大阪圭吉「とむらい機関車」の論理構造を比較検討して、それを確かめることであろう。比較検討にしても「宿題」にしても、明確な答えを得るのは至難の業であろうが、自分なりの答えについて、自信を持っていえる日が来るように研鑽したい。

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エッセイ ~そろそろ宿題に手を付けよう、答えは出なくとも手を動かそう~ 樹智花 @itsuki_tomoka

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