本を読む男

@phaimu

本を読む男

 月明かりが窓から差し込んで部屋の中を照らしていた。平積みに積まれた本の山がいたるところにある部屋の中でろうそくの光で本を読んでいる男が一人座っていた。前かがみになり、胡坐をかいた上に本を載せていた。この男はつい先日電気を止められて仕方がなくろうそくの光で本を読んでいるのだ。読んでいる本も図書館から借りている本だ。夏目漱石の明暗を読んでいた。目的もなくページをめくり字を追っていくことは男の心を何よりも癒した。字を追っているときだけ、空想にふけるときだけ、現実の苦しみから逃れることができたのだ。

 電気を払えなくなったのは金がなくなったからだ。勤めていた会社をやめてしまった。彼自身の素行に問題があったわけでも、会社に不満があったわけでもない。でも、ただただ発作的にやめてしまった。退職を伝えた時の課長の顔を今でも覚えている。驚いたような、困惑したような顔。今まで自分に興味がなかったくせになぜそのような顔をするのかと男は思ったのだった。次の就職先は決まっているのか? そう聞かれて男は、はいと答えた。やり取りを長引かせたくなかった。ただやめたかったのだ、発作だった。多くを望んでいた覚えはなかった。ただ、人並みの暮らし、というやつをしたかった。それでも、仕事をするのは男にとって億劫だった。なんで働いているのか実感がなかった。しかし、毎日何時間も眺めるパソコンのスクリーンの中に自分の人生がないことは分かった。理由はわからない。でも、あの二次元の超微細なドット絵の中に自分の人生なんてないだろ? とそう思ったのだ。超微細なドットが幾重にも広がって、まるで写真や本物の風景のように見せるけど、それはただ単に電気の信号に過ぎないはずだ。そんなものの中にこれからの自分の人生とか、自分が本当に欲しいものとか、そういうものがあるはずがない。たとえあるとしても、それは錯覚だろう。ドットが写真や風景を描写しているように。

 退職届を出した後、男は眠り続けた。体が休息を欲していた。何時間眠ったかわからない。寝て起きて、食料をむさぼり、また睡魔が襲ってきて、寝た。そんな日々が一週間ほど続いた。やがて、男は家からはいずり出て、図書館で本を読んでいた。今まで仕事に明け暮れていた時間は男の自由な時間になり、その時間をもてあそばないために、男はひたすらに本を読んでいたのだ。時間を忘れさせてくれる本、ひたすらに退屈で理解できない本、いろいろな本があった。でも、そのどれもが酷い現実から目を背けさせてくれたように思った。

 ある日突然クレジットカードが使えなくなった。そこで、男は初めて自分の貯金が尽きたことを知った。しかし、不思議と絶望はなかった。ただ、金がなくなっただけ。それはひどく些細なことで気にすることではないように思えたからだ。それからも、本を読み続けた。目的も理由もなかった。強いて言えば本を読むことが男の生きる喜びだった。

 冬の寒いある日。男は息を引き取った。その両手は本を抱え、めくろうとしている最中だった。死因は餓死であったが、その顔に苦悶の表情はなく、何か満足げな笑みを浮かべていたのであった。

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