スパイな猫

河辺 螢

第アーォ話

 籠の蓋が開けられた時、ここまで来る道中の揺さぶりのひどさにぐったりしていて、開放感どころじゃなかった。


「部下が十日間出張に行くことになってな。飼っている猫の世話を頼まれた」

 籠の中を覘き込んできたのは見覚えのない女性だった。

「あら、かわいい」

 目を細めて笑みを向けた女性は、

「…知らない所に連れて来られて怖いわよね。大丈夫よ」

 そう言うと再び籠の蓋を閉めた。隙間から漏れる光に、時々動く影。籠にかかる力で抱きかかえられているのがわかるが、押し潰されることのない加減だ。

 俺をここまで運んできたミルトンさんは、

「まだ仕事が残っている。今日の夕食はいらん」

 そう言い残し、足音が遠のいていった。

 馬車の出発する音。

 仕事など残っていない。そもそもミルトンさんが残業しているのを見たことがない。仕事を言い訳にしてこんな時間に家を出て行くなんて、どこに行くかは大概知れている。


 籠が揺れてギシギシと音を立てていたが、籠を持つ人が立ち止まり、揺れがおさまった。床に置かれたようだ。

 蓋が開けられ、恐る恐る顔を出すと、そこにはうっすらと照明がついていた。

「おなかすいてるかしら? …ちょっと待っててね。あ、」

 振り返った女性は俺の顔をじっと見ていた。

 ま、まさか…、猫らしくない何か…。

「名前聞くの、忘れてたわ」

 独り言のようにつぶやくと、女性は部屋から出ていった。



 俺は人間だ。人間だった。数時間前までは。

 出勤すると、上司であるミルトンさんに、明日から十日間東部の町へ出張するよう言われた。ずいぶん急な話だったが、仕事だし断る理由もないので引き受けた。


 終業時間直前にミルトンさんに出張先で渡してもらいたい物があると応接室に呼び出された。

 明日の出張に備えて早く帰る気満々だった俺はちょっとむっとしたが、出張に関する事だったら仕方がない。もっと早くに言ってくれればいいのに。まあ、あのミルトンさんの事だ。忘れていたんだろう。


「帰るところ、呼び出してすまないな」

 ソファに座ると、お茶と菓子が出された。

「もらいものの菓子だが、…おっと、忘れ物だ。それを食べて待っていてくれ」

 ミルトンさんは落ち着きなく部屋を出ていった。茶菓子まで用意されていると言うことは話が長くなるのかもしれない。

 口に入れた菓子は妙にしょっぱかった。お茶を一気に飲み干すと、数秒後、急に喉が熱くなった。喉を起点に体中に熱が広がり、燃え上がるような勢いで熱が頂点に達したかと思うと、数秒ほどで燃え尽きたかのように小さく収まっていった。

 …何だったんだろう。あの妙な熱はなくなったが、まだ動悸は収まらない。


「おや…」

 頭の上で声を感じて見上げると、巨大なミルトンさんが見下ろしていた。その顔は驚きと言うよりも妙な笑みを浮かべていた。決して好意的ではない笑みを…。

 首の後ろをつかまれて持ち上げられ、抵抗はしてみたもののうまく力が入らない。宙ぶらりんになったまま突き出されたのは鏡の前。……。

 猫がいた。

 じっと鏡を見る。

 大きなミルトンさんに片手で捕まれている猫。茶色と白のしましまで、胸がネクタイのように白く、足先も靴下を履いているように白い。今まで感じたことのない腰の下の重み、動かせば長い尻尾がしなやかになびく。手を広げるとピンクの肉球。

 猫。…猫だ。

「ウニャーーーーーーーーーアアアアアアア!」

 つかむ手から逃れようと大暴れしたが、ミルトンさんは手放すことはなかった。

「迷子の猫かなぁ。うん、どこから見ても猫だ。よしよし」

「ニャアアアア! シャーーー!!」

「どこから紛れ込んだのか、可哀想だなあ。あっはっは。よし、うちに連れて帰るか」

 棒読みな台詞を口にしながら事前に準備していただろう籠に放り込まれ、籠から顔を出した俺の首に紐をくくりつけた。紐には小さな赤い石がぶら下がっていた。取ろうともがいたがどうにもできない。そこへぐいっと頭を掌で押し込まれ、乱暴に蓋が閉じられた。ひっかこうが、暴れようが籠から出られない。


「いいか」

 ミルトンさんの声が、籠のそばで響いた。

「どうあがこうが、おまえはこれから十日間、猫のままだ。おまえは出張に行っている。おまえが留守だろうと誰も心配しない。おまえが一人暮らしで女もいないことなど調べ済みだ」

 十日間…。

 急な出張、合わされた日数、終業直前の呼び出し。

 この男が俺を猫にしたんだ。さっきのお茶か菓子かに何かが入っていたに違いない。

 大して有能でもない上司だと思っていたが、さほど憎まれるようなことをした覚えもない。何だってこんな目に…

「このまま外に放り出されても、野垂れ死ぬだけだぞ。おまえを世話してくれる人を紹介してやろう。これから毎日おまえは家の中を監視しろ。家の女主人に男がいないか、金を使い込んでいないか、怪しいところがないか監視するんだ。いいな」

「ウウウウウウウウウウ」

「一日一回、報告に来い。言うことを聞けば、三食昼寝付きの優雅な毎日だ。逆らえば猫のまま追い出してやるからな。長官につまらん愚痴を言うような奴にはうってつけの仕事だろう」

 愚痴?

 まさか、先週の報告書のことか。ミルトンさんが期限を忘れてて、机から書類を掘り出して急いで仕上げた奴。あれは俺が愚痴を言ったんじゃない。長官が「またミルトンだな、困った奴だ」と言ったのを否定しなかっただけだ。それなのにフォローした人間をこんな目に遭わせるのか。

 何でこんな男の部下になったんだろう。自分の運のなさを呪うしかない。

 何てこった。何てこった。何て…

 はっ!

 気がついたら毛繕いしていた。

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