わたしが思うに…
三月
第1話
ぱっと見たところ、白い樹脂の塊は塔になってから一度も物言わず突っ立っているらしく、風に揺れる枝が人影に見えるというように、その塔はやせ細った手足のようにぎこちなく渡された連絡路によって左右の棟に繋がっていた。左には石板に"美術研究棟"と彫られてあって、きっと美術が研究されているに相違ない。もう一方では同じような石板に"人間総合研究棟"とあったので、人間とそれ自身に関わる総合的な『何か』を研究しているらしかった。
「こんなに人が多くちゃ、走るのだって一苦労ですよ」運転手は憂鬱な朝にぴったりの世間話として、地元の交通事情について話し始めていた。
「けどここを歩いたりしても大変ですよ。だからほら、駅前にあったでしょ」
「え?」私は自分が外の、道沿いにどこまでも続いていくような人混みに気を取られていたと分かって、少し驚いた。
「レンタ・サイクルですよ。駅前に並んでたでしょう。あれ、ここが発祥だそうで。帰りにだって乗って帰れるんですよ。下りなら気分は悪くないでしょ」
「へえ、良いかもね」歩くのに比べたら、と付け加えるのは止めておいた。「気分転換には向いてるかな」
「ええ是非、そうしたらいいですよ。車道を狭めてまで道が広いんだから、一度は乗らなきゃ勿体ないってもんです」
タクシーは歩道にぴたり寄せて止まり、私は代金に感謝を忘れず伝えた後、キャンパスを北に走る大路を歩きに歩き、時に気まぐれに曲がったりしながら、そのひたすらに白い塔に辿り着いたのだった。
私は目当ての部屋に辿り着くまでに費やされた、階段三階層分・廊下20m分・ペットボトルふた口分の運動のことを思って、また一口水を呑み、空になった容器をゴミ入れに放った。そして"
「はじめまして」柔らかそうな手が伸びてきて、そう言った。「というのも僕は、研究室に刑事さんをお通ししたことは無くてですね」
「大抵、皆そうですよ」
「いえ、ところがですね。同僚にとっては珍しくもないらしいんです。例えば辞めていかれた先生方から引き継いだ部屋には、よく段ボールを持ったお客さんがぞろぞろといらっしゃるとかで――ああすみません、何か出しましょう」巳間博士はソファを勧めて、部屋の奥に消えていった。「珈琲でかまいませんか」
「いや。お構いなく」たった今、水を呑んだ所だ。
「へえ珍しい」と返事が応える。「ミルクも入れますか」
「何も未だ言っていませんが」
「はは、冗談ですよ。よくこうやって、話を聞いているか確かめたりするんです。特に自分の為に。忘れっぽいんですよ僕。まあ、ともかく座ってください」水が沸騰する音と共に巳間博士は戻ってきた。「座ってさあ、どうか」
「もちろん」私はそう返して、布地の一人掛けに静かについた。
「少し考えていたんです」巳間博士の口は塞がる暇がない。「話す内容についてです。説明する段になって答えられなかったら、何だか恥ずかしいじゃないですか」
「何時からです」
「何が?」
「考えていたのは、何時からでしたか。昨晩から?」
「そうだね。昨晩からずっと、資料を作る間も、食事の時も、排泄の合間だって……いや失礼、そんな感じに考えずくめで。緊張ですかねえ」
「そうですね。一時的な興奮状態でしょう」私は手持ち無沙汰で、両手を揉み合わせた。「しっかり寝られましたか」
「気が立ってるのは間違いないですね。コカの葉でも噛んでるみたいに。けれど身体の方は休めたから問題ありません。ほら、何でも聞いて下さいよ」
「何を話すか、考えてたんじゃないんですか?」私はそう指摘した。「安心して。私は聞き上手ですから」
「一晩で考え込んで、『桶は桶屋に』というスローガンに決めたんです。確かあなた方は他人から話を聞き出すのを得意になさってたような――違ったかな?」
「ええ。有る事無い事ね…」私は首肯した。
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