男の娘物語
放射朗
第1話 男の娘物語 1 島田
その娘を見たとき、島田は以前もこの近くで見かけたような気がした。
多分新入生なのだろうが……。
経済学部の前でうろうろしているその娘は、ピンクのティーシャツに黒革のライダーズジャケット、スリムのジーンズがよく似合っていた。
「新入生? 道に迷ったかい?」
よく晴れた空を見上げるその娘に、島田は後ろから声をかけた。
その娘は振り向くと、ちょっと首を傾げて言った。
「新入生ってどうして分かる?」
声は、ちょっとボーイッシュな感じだ。
「自慢じゃないが、俺はかわいい女の子の顔は一度見たら忘れないんだ。君の顔は今初めて見た。だから、この春から入学してきた新入生だと思われる。証明終わり」
以前見かけたのは、多分大学の下見に来てるときだったのだと考えた。
その娘はふっと薄く笑い、学生食堂の方に向かって歩き始めた。
「それがナンパの手口なんですか? 確かに新入生だって言うのは当たったけど」
「けど何?」
ゆっくり歩く彼女についていく。
「後の方は外れ。女じゃなくて男だから」
言葉とは裏腹に、その娘の笑顔は美少女としか言いようのないキュートな笑顔だった。
いや、何だって? この娘が男?
我が目を疑うとはこのことだ。
いや、それはありえんだろう。ナンパ外しに嘘を言ってるに違いない。
「初めて会った男を警戒してるのは分かるけど、俺ってそれ程悪どい人間じゃないぞ。右も左も分からない新入生相手に酷いことはしないって」
「別に、嘘言ってないから。男だって言ってるだけ」
「分かった分かった。じゃあそうしておくよ。これからどうするんだい?」
ちょうど昼飯時だ。いま学食に行ってもしばらく待たされるだろう。
島田がそれを言うと、彼女は立ち止まってちょっと困った顔をした。
「よかったら、近くの安くてうまい食堂に案内するよ」
彼女は少し迷った後、意外とすんなり、じゃあお願いと言った。
身長は160センチくらいかな、くびれた腰つきがなかなかそそる。
並んで歩く彼女をそれとなく観察してみる。
胸は、あんまりなさそう。
肩までの髪は軽くウェーブしている。パーマしてる風じゃないから天然だろうか。
指が長いな。爪には流行りのネイルアートなど何もない。ピンク色した健康的な艶やかな爪だ。
大学裏手の雑木林の道を二人で歩いていると、すれ違う男たちがみんな彼女をジロジロ見ているのが分かった。
そんな視線には慣れているのだろう。彼女はまっすぐ前を向いて歩いている。
すましてる感じではない。嫌味っぽくもないし、何かと思えば、実に自然体なのだと分かった。
「ほら、あそこの食堂。案外知られてないってのか、いつ行ってもだいたいすぐ食べられるんだよ」
「美味しくないから客が来ないんでしょ。美味しいのに客がいないなんて信じられないけど」
「それは理屈って奴だな。でも、世の中理屈で割りきれんのだよ」
半信半疑ながらも彼女は着いてきてくれた。
いまどき、自動ではない入り口の引き戸を開いて中に入る。
「ここはうどん定食がうまいんだ。出汁がいいのかな、いつも汁は全部飲んでしまう。定食は稲荷がつくぞ」
軋む木造の椅子に座りながら、狭いくすんだテーブルの向かいに彼女を座らせた。
「ところで、いい加減、名前を聞いてもいいかな」
キョロキョロと、狭い店内のすすけた壁に貼られたメニューの貼紙を眺めていた彼女が、小さなお尻を椅子の上に下ろす。
「佐川耕平」
彼女はまだ壁の張り紙、『チャーハン大盛380円』を見たままでひと言答えた。
まだ島田のことを信用できないのか、男の名前を言った。
「耕平ってのは弟の名前かな。まあいい。佐川さんって呼ぶから。俺はうどん定食大盛りにするけど、君は普通でいいよな」
「俺も大盛でいい」
自分のことを僕という、『僕女』はたまに見かけるが、『俺女』と言うのはさすがに珍しい。
たいがい、そういう女は、周囲と少し違う自分というのを印象つけたい、自己顕示欲の強い鼻につく性格の女が多いんだが、この子にはそんな雰囲気が見られない。
実に自然な感じだった。
ひょっとして本当に男かもしれない、という考えが島田の脳裏を春先のツバメのようによぎった。
ありえないことが何も起こらない人生より、たまにそういうこともある人生の方が数段おもしろいからだ。
しかしそのツバメの影は速やかに消え去る。
確かに最近、女の子みたいにかわいい男の娘という人種が見かけられるが、ほとんどは顔の造作だけの場合だ。
体型まで見れば、男か女かは見間違えようがない。
中学生くらいから女性ホルモンでも飲んでいれば違うのだろうが、普通にしていれば高校生くらいから上半身と下半身のバランスが男女ではまったく違ってくる。
だからいくら顔がかわいくても、女装した男は、悲しいかな奇妙に見えてしまうのだ。
大盛のうどん定食が二人前、狭いテーブルから今にもはみださんばかりに並べられた。
この細っこい身体で全部食べられるわけがない。
でも、そんな強がりをして見せる意味を島田は思いつかない。
食い気の強い所を見せつけて好意を持たれるのを阻止しようとでも言うんだろうか。
嬉しそうに割り箸を割る彼女は、一瞬こっちを見て笑った。いただきますと呟くように言って食べ始める。
長い髪がかぶらないように左手で抑えながら、右手の箸でうどんを掴み、するするっと口で吸い込んだ。
両手でお椀を持つと、汁をすする。
「本当、安いし美味しいね。着いてきてよかったかも」
子供のような笑顔を向けられて、この子に対して思っていたいろいろな事が吹き飛んでしまった。
そうだろう、と答えて島田も食べ始めた。
結論を言えば、島田でも満腹になるうどん定食大盛を、この華奢な女の子はすっかり食べてしまった。
ご馳走さまといって財布を出す彼女を島田は制する。
「いや、ここは俺が誘ったんだからおごるよ」
「いいの? 悪いけど、じゃあお言葉に甘えて」
レザージャケットの内ポケットに財布をしまう彼女は、軋む椅子から立ち上がった。
店を出ると、春風が吹いて彼女の髪をかきあげた。どこから飛んできたのか、桜の花びらが一枚肩に乗っかっている。
一回首を振って髪を整えた彼女が聞いてきた。
「そうだ。先輩は、名前なんて言うんですか? まだ聞いてなかったですよね」
口調が丁寧になったのはうどんが美味しかったからか。
「俺は、島田優作。工学部の三年だよ。よろしくな」
「ところで、ここから行くと南門ってどっちになります?」
「あっちだけど」
島田が右手を指すと、彼女はそっちに向かって歩き出した。
「なにか用事でも?」
「二時に待ち合わせしてるんです。高校の後輩と。自分もここを受けたいから見学したいって」
二時ならまだ三十分くらいある。
何となく彼女の後から着いていく。ここであっさりサヨナラするのもつまらない。
もう少し、この娘を見ていたかった。 少し肌寒い風が暗い木立を揺らしている。
木漏れ日降り注ぐ細い道を、モデルといってもおかしくない彼女が、伸びをしながら歩いてゆく。
ふと振り返った彼女が言った。
「島田先輩、今、暇なんですか?」
「まあね。午後は五時にバンド練習があるくらいかな」
「じゃあ、付き合ってくれますか? 後輩を案内するには、まだ俺もよくわかんないから」
口調は丁寧になったが、一人称は俺のままか。
「喜んで、お引き受けいたしましょう」
そう言う島田の目に南門の横で立っている高校生くらいの小柄な少年が見えてきた。
彼女に気づいたその少年が、大げさに手を振りながら、まるで子犬のように走り寄ってくる。
「耕平さん、今日は無理言ってすいませんでした」
素朴な感じの高校生が彼女にペコリとお辞儀した。
「いいよ、山木も頑張ってここに受かってくれれば、俺も嬉しいし」
彼女は高校生の肩をいかにも親しげに抱いた。
耕平……さん?
この娘の名前は本当に佐川耕平だったのだろうか。
では、本当に男なのか?
漫画やアニメではよくある設定だけど、現実に女にしか見えない男と言うのは、島田はこの時初めて実在する事を知ったのだった。
まったく人生っておもしろい。
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